2014-10-25

月街のアリス



先日、Twitterの読書用アカウントにこの画像が流れてきた。
「まるの・るうにい」という名の画家による、パステル画だそうだ。



見覚えのある画風で、すぐにピンときた。本棚から稲垣足穂の『彗星問答』を取り出し、装画のクレジットを確認すると予想通り、そこには「まりの・るうにい」とあった。リンク先を確認すると、恵比寿のギャラリーで個展を開くという。それも、約40年ぶりとのこと。また、ギャラリーの個展にしては例外的なことに、作品は販売しないとも。

あらためて検索してみるともうひとつ、気になるものを見つけた。会場となるギャラリーの隣では別に、写真展をやっているという。沢渡朔、「少女アリス」という単語にハッとさせられた。「あの」伝説的な写真集、『少女アリス』になにか動きがあるのかとこれまたリンク先を辿ると、どうやら初版で使用されなかった写真を元に、新たな『少女アリス』が刊行されることを知ったのだった。


このふたつの個展を知ったのはある早朝だったのだけど、すぐさま月明かりに照らされたタルホの小説世界と、やはり日の光ではない明かりに満たされたアリスの世界を思い浮かべた。絵画と写真、タルホとキャロル、少年と少女、模型と人形、鉱物と植物、ヒコーキとボートといった数々の「対」と、両者に通底する論理・夢想・イノセンスといった共通項もまた、即座に思われた。

これはおもしろいに違いないと会場へ行くタイミングをはかっていたのだけど、先日、その機会が訪れた。両個展の感想は、Twitterに短いものを、Facebookに少し長いものをあげていたのだけど、当然のことながら不十分なスケッチにすぎない。後者を元に、加筆した。


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沢渡朔「少女アリス」展(Fmにて)



沢渡朔「少女アリス」展を観てきました。会場はFm(エフマイナー)という新しいギャラリー。

アリスはもちろんルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』から。今回のギャラリー展示は、沢渡氏の同名写真集の復刊ならぬ「新刊」にあわせて開催されたものです。

「旧作とはすべて写真を差し替えた写真集」というのも、めずらしいですね。この沢渡氏の『少女アリス』は伝説的な写真集で、写真史だけでなく広く文化史的(文学・少女論・サブカル等々)にも有名な作品です。わたしは学生時代に、たぶん澁澤龍彦か高橋康也の文章で知ったのでしょう、その名は覚えていました。


簡素な会場に、おそらく正方形の写真が―あれは40枚くらいだったでしょうか―展示されていました。ひとめ見てだれもが「かわいい」「きれい」「お人形さんみたい」「天使のよう」と口にするであろう、絵に描いたような美少女がアリス役をつとめているのですが、その彼女が写真の中で見せている屈託のなさと、写真群全体を覆い尽くす得体のしれない憂愁や蔭りとのアンバランスさもあって、どこか見る者に不安や畏れを感じさせるものとして、この写真たちは眼前に迫ってくるのでした。

会場には刊行予定の見本版が置いてあって、その帯に「ダーク・アリス」なる言葉がありました。たしかに、「ダーク」と呼びたくなるような昏さ(くらさ)、陰鬱さ、妖しさ、沈んだ色調、スタイリッシュなセンスが横溢しています。

そんな「ダーク・アリス」を、以前に見たことがありました。いずれも映画で、ルイ・マルの『ブラック・ムーン』(1975)と、ヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』(1988)です。でも、このアリスは1973年の発表。彼らに先駆けて、こうした「ダーク・アリス」が造形されていたことにまずは驚かされました。

もっとも、写真の分野では先人がいたのかもしれません。とくに、後期ヴィクトリア朝に流行した妖精写真や心霊写真など、それこそ英国の、それもキャロルが生きた時代相にこそ本源は求められるのでしょう。

翻って、この「少女アリス」はまさに往時の『不思議の国のアリス』を、またその精髄を見事に捉えているのだと言えます。それと同時に、写真である限り、これは1973年に写されたものたちのドキュメントでもあります。こうした時代の遠近が壊されることもまた、不安や畏れの底流をなしていたのかもしれません。


でも、わたしたち鑑賞者の不安をいちばんかきたてるのは、アリスのヌード写真に他なりません。おそらく児童ポルノがらみの議論も出てくる(か、もう出ている)でしょう。ただ、この「アリス」はそんな低俗な目線を遥か彼方に吹き飛ばすような「表現」だということは、上述した通りの完成度が雄弁に物語っています。

そして、こう思ったのです。わたしたちが感じる「不安」は、少女のヌードという現代社会の規範からの逸脱を意識したがゆえの後ろめたさに起因するのではなく、もっと精妙で曖昧で壊れやすいものへの原初的な「おそれ」の感情なのではないか、と。古来より、こどもと老人は成人よりも「死」に近い存在でした。また、当然そこには性の意識も働いていることでしょう。性もまた、死との連関が強いフェイズです。

まだ性的存在ではないこどもが、そのようなものとしてふるまうかのように見えてしまう。性の境界線を撹乱することが、そこに死の相貌を与える。

おそらく、この写真集に満ちている英国的憂愁は、かの地の幽霊譚のエコーを伴いつつ幽冥境の淡いを描く、死神の残り香なのでしょう。峻厳な死が少女の笑顔と裸に反撃を喰らい、誤って天使や妖精を招いてしまったところに漏れた溜息のような…。

「そもそも、美とは不安や畏れをともなうものではなかったか?」

そんなことを思いながら、美しくも蔭りのあるイメージの数々を眺めていたのでした。

とくに印象的だったのが、2メートルをかるく超える大男と少女の写真で、「夢」のような非現実感(いや、現実喪失感、でしょうか?)に打たれました。こうした大男には「フランケンシュタインの怪物」を連想せざるを得ないわけですが、もっとそれ以前に、この組み合わせには何か「魔」的で「魔法」のような雰囲気を強烈に醸す「なにか」があるのだろう、と思ったのでした。
(これが大女と少年だったら、このような詩情は生まれないでしょう)




ちなみにこの子、LED ZEPPELIN『聖なる館』ジャケットの少女でもあるそうです。同作の少年は弟だとか。70年代に活躍した、英国のプロフェッショナルな子供モデルだったそうです。
(ソースはこのブログ 大元は海外のこの記事




まりの・るうにい「月街星物園」展(LIBRAIRIE6にて)



まりの・るうにい「月街星物園」展を観てきました。
会場はLIBRAIRIE6という画廊。同時にシス書店という古本屋兼アンティーク・ショップでもあります。
上述した通り、「少女アリス」展の隣、廊下の奥にあります。とても品のいいところでした。


稲垣足穂の著作を、なにかひとつでも読んだことがおありでしょうか。

大正昭和のモダニズムを、コズミックでシュールレアリスティックなコント(短篇)で切り取ってみせた、日本文学史の特異点的存在。宮沢賢治と同時代人で、その透明で奇妙なお伽噺めいた小説世界には、お互いに通底する「なにか」があるにもかかわらず、賢治とは比較にならないほどマイナーな作家。

大きさと小ささ、遠さと近さ、広さと狭さが同時に共存するという逆説的で神話的な時空を書いたこのふたりの作品には、宇宙を思わせる根源的なノスタルジーがあります。

賢治が「自然・農村・人間(動物)」を書いたとするなら、タルホは「人工・都市・モノ」を書いた、と言っていいでしょう。前者は湿り気をおびた柔らかさがあるのに対して、後者には乾いた硬質さが認められますし、東北の森と貿易都市という、対極的な生活環境の違いもまた、つとに語られています。それでもなお、両者はとても似ている。だからこそ、ぜんぜん違う。

ただ、ダダイズム演劇の書割じみた強烈なデフォルメ、哲学や科学や仏教思想を縦横無尽に横断する博識、飛躍と脱線と諧謔に満ちた論理展開といったケレンの強いタルホの方がマイナーに甘んじてしまったのは、けだし当然と言うべきでしょう。


そんなタルホの作品世界にぴったりの装画を手掛けていたのが、まりの・るうにい氏だったわけです。
画集でも見たことがなく、そもそもタルホの本以外では絵を見たこともなく、だいたいその本自体が古書店でたまに見かける程度とあって、今回、ようやく「出会う」ことができたのでした。
(ちなみに、「千夜千冊」で有名な松岡正剛氏の奥さまなのだとか。今回、経歴を調べていて初めて知りました。松岡氏のタルホ『一千一秒物語』論はこちら

月、土星、彗星、天文台、電信柱、ガス燈(街灯)、路面電車、ビルヂングが淡く揺れる、モダニズム独特の「未来の郷愁」とでも呼ぶべき感傷と、形而上学的な覚醒感のある絵の数々。

見たことがないけど懐かしい、むかしから知っていたような気がする光景。なにかに似ている、似ていないというのではなくて、記憶のエッセンスとでも呼ぶべきものが凝縮された世界。ニセモノめいたものをこれみよがしにつきつけておきながら、用が済めばそれまでとばかりにパチンと消えてしまう物語。まさにタルホの世界そのものでした。
(それと、ジョルジョ・デ・キリコの「引用」にとどまらない類似性も感じました)

色画用紙にやわらかく重ねられたパステルがなんとも優しい感触を伝えてきて、そこがまたお伽噺のようでもあるタルホのコント・ファンタスティックに似つかわしいのでした。奇想が奇想に見えない、むしろそれが当然であるかのような確信に満ちた絵は、こどもが描く絵に近いのかもしれません。(「近い」というか、「同じ」でしょう)

これほど作品世界を忠実に、それこそヴァリアントと呼べるほどの再現度で表したものは、めずらしいかもしれません。それだけタルホの「文法」の拘束力が強いのでしょうし、また、まりの氏のタルホへの理解・愛着・敬意が深いということなのでしょう。




どの絵も気に入ったのですが、残念ながらポストカードにはなっていなかった『ある夜の出来事』がとくに気に入りました。あれはタルホの名篇『星を売る店』の一場面を描いた作品だったと思います。ショーウィンドウが怪しく光るあの店にはきっと、色とりどりに輝くコンペイ糖(星)が売られているに違いない…。


それにしても、なんと月の多いこと!
日の光よりも月の影を、青空よりも星空を望んでしまう、わたしのような月光派にはたまらない世界です。
(余談ですが、本邦の異能音楽家集団MOONRIDERSはタルホ作品からバンド名を採っています)

話はやや逸れますが、タルホとやはり同時代人だった小説家、石川淳の『鷹』には、月明かりにかざすと文字が動き出す「明日語」で書かれた新聞が登場します。月とタバコ、革命と少女、運動のエネルギーを象徴的に描いた傑作なのですが、「月」を軸にタルホと交錯するし、シュルレアリスティックなところも同様だから、まりの氏に『鷹』の世界も描いてほしいなと思いました。もっとも、これは叶わぬ夢に終わるでしょうけど。


ところでこのギャラリー、古書やアンティーク的な小物(ルーペ、ナイフ、切手、サンゴ礁など)、またはアート作家による版画やオブジェも売っていて、とくに作家のものは黒い小棚の抽斗に宝物のようにひっそりと収められているものですから、なんだかとても感激してしまいました。

そうそう、ギャラリーではこんなビデオがしずかに上映されていました。



ちなみに、作曲は小林亜星です。ここにも「星」が!

このCM、まりのさんが手がけたのだとか。当然のことながら、これまた実にタルホ的ですね。
(ただ、タルホの月光世界に、はたしてこのモデルさんのような女性が出てきますかどうか…)

会場では、このCMのフィルムを使った、ちょっとしたオブジェが販売されていました。光にかざすと、とても鮮やかにこのCMの一場面が見えるのです。(欲しかったけど、高かったので断念)

こうした「小さきもの」「壊れそうなもの」への愛着が感じられるため、洒落てる場所につきものの作為めいた嫌ったらしさがなく、居心地よく作品を観ることができました。女性の店主もとても感じのいい方でした。いつかまた行きたいと思います。
(注・わたしはめったにこうゆうアート系の店を褒めません)



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ふたつの個展の感想は、ざっとこんなところだろうか。

いずれも月のリズムに支配された、静謐な個展だった。はっきりと相互作用を感じたわけではないけど、上述したような多くの「対」を超えてなお、同じトーンでささやきかけてくるような趣きがあったように思う。アリスのロンドンとタルホの月街が相互浸透するかに見えて、ギリギリのところで退けあう。タルホの世界に少女アリスはいないし、アリスの世界にタルホ贔屓のオブジェはいらない。それでも両者は月の眷属である、というような…。

だからこそ、あの月街をアリスが歩いたらどうなるか、また星物園のオブジェたちがロンドンに繰り出したらどうなるのか、そこではどんな古今東西の月光派が肩を貸してくれるだろうか…と、そんなことが気になるのだった。雨のなか帰路についたとき、アタマのなかには月が浮かんでいたかもしれない。







ところで恵比寿、やっぱり小洒落てる。未だにちょっと、苦手な街…。