2011-04-30

MR.BIG at Tokyo Dome City Hall on 26th Apr

  

先日、「Live From The Living Room」と銘打たれたMR.BIGのツアー最終公演を観てきた。


わたしにとってMR.BIGはとても大切なバンドだ。

意識的に音楽を聴くようになって初めて聴いた海外のバンド群のひとつであるのみならず、
生まれて初めて観たライブというのが、彼らの1996年のツアーだったのだ。

彼らのライブを観るのは、そのツアー初日を観た1996年4月8日(月)以来、じつに15年ぶりである。
解散ツアー、再結成ツアーともに参加可能だったのだけど、諸事情でパスしたためそれらは観ていない。

いまでも15年前の光景をいくつも覚えてはいるものの、今回初めて観るような気分で会場に向かった。


それでは以下に、26日のライブレポをお届けする。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


会場に入ると、リヴィングルーム(エリックの、らしい)を模したステージに目を引きつけられた。

左右のアンプと中央のドラムセットの間にソファと小さいテーブルがそれぞれ据えられていて、
テーブルには花やキャンドル台が控えめに飾られていた。ソファにはデッドベアのぬいぐるみも。

アンプの近くにはレコードも飾ってあって、下手にはジミ・ヘンドリックスの2ndが、
上手にはTHIN LIZZYの、たぶん『Black Rose』が、それぞれディスプレイされていた。

ステージ後方の「壁」にもポスターが4枚くらい額装でかけてあって、CREAM最終作のそれにニヤっとした。
ビリーにとって、ベーシストの「神」がティム・ボガートであるのは有名な話だから、彼のチョイスだろう。

2階後方のスタンド席だったので、ステージの細部まで見えなかったのが、残念である。


27日の国際フォーラム公演が震災の影響で急遽26日の東京ドームシティホール(旧JCBホール)になり、
振替座席の案内などで少々手間取っていたためか、定刻をすぎても座席を探している方々が見受けられた。
(当の案内員が座席を間違えるほどで、1階から3階を行ったり来たりさせられた方もいたらしい)

そのためか開演は多少おくれた。
その間に、ステージ上の「2階」に招待されたファンの方々が入ってきて会場がどよめく。

上手、下手で合わせて30人くらいだっただろうか。けっこう高くて(推定約1.6m)バンドを見下ろすかたちになる。
そのステージ上客席(?)の下はスクリーンというか電光掲示板になっているのだと、開演後に気づくことになる。


定刻を10分ほど過ぎると客電が消えてフランク・シナトラが流れ出し、曲が終わりに近づくとメンバー登場。

上下をタイトな黒でまとめた長身のビリー、ツアーTシャツにハーフパンツのパット
ほぼ普段着、といったいでたちのエリックポール、の順にゾロゾロとやってきた。


ポールはエレアコ、パットはワンバスのドラムセット、というセミ・アコースティック仕様で、
新作の冒頭を飾る"Undertow""American Beaty"がつづけてプレイされ、ライブは始まった。


サウンドバランスのよさ、音それ自体のよさもさることながら、
のっけから職人集団としての彼らの力量が別格中の別格であることに感嘆してしまった。

アコースティック化というのは、曲の骨格やプレイヤーの技術なりセンスなりが剥き出しになるという点において、
アーティスト/バンドにとって「両刃の剣」となることが多く、そう軽々しくやってはいけないパフォーマンスと言える。

ただギターをアコギにしただけならさして価値はないし、ミスがあっても隠せないので日頃の鍛錬が問われるし、
分厚いサウンドでごまかしていた曲があればその本来の貧弱さを露呈することになるし、
コーラスワークはその前後の息遣いまで伝わる。

曲、演奏、コーラス、アレンジ、そのすべてが明瞭になるがゆえ、コケたら大ケガするわけだ。

逆に言えば、曲の出来がよく、技術とセンスがあり、コーラスも完璧であるなら、憂うことは何一つなくなる。
そればかりか、アーティスト/バンドの凄さ、曲のよさにあらためて称賛の声があがり、さらに評価は高まる。


MR.BIGの場合、言うまでもなくすべてが完璧だった。

元々、アコースティックが上手いことは知っていた。1996年には、シンガポールで録音されたライブ盤も出ている。
ラジオでもアコースティック・セットを披露しているし、各メンバーはソロでもアコースティックに取り組んでいる。
それに、アメリカのバンドはたいていカントリーやフォークの素養があるので、さほどハズすことはないのである。

とはいえ、1曲目のリフからして、あまりにも只事ではなかった。
「アコギにしただけ」ゆえに、ポールのコード・カッティング/ミュートの正確さが鮮烈すぎるほど鮮やかで、
あんなにすべての弦の音が明瞭に聴こえたのは初めてかもしれない、と言いたくなるような素晴らしさだった。

かつて、ポールはエディ・ヴァン・ヘイレンについて「彼はチューニングの時点で格が違う」と言っていたが、
それは彼自身にも当て嵌まるのではないか、と思った。それだけ素晴らしい音だったし、機械のように正確だった。
驚異的に音がいいのは、エンジニアの働き以上にポールの耳と手の「格が違う」からだと確信したのだ。


それはつづく2ndからの"Daddy,Brother,Lover,Little Boy"と、
"Green-Tinted Sixties Mind"という、MR.BIGで人気を二分すると言っていい代表的な二曲で、確信から「そんなの当たり前だな」という思いに至った。
いや、思いに至った、というのではなく、それを知っていたのにしばし忘れていたことに気づいた、と言うべきか。

彼らは、そもそも結成当初から「別格」だったのだ。技術も、センスも。

解散前のゴタゴタや、再結成時のほんわかしたムードや、彼らの温かい人柄ゆえに忘れていたのかもしれない。
彼らが、叩きつけるようなパワーとエモーションを、極めてスリリングな、鋭いアンサンブルで提示することを。


特筆すべきは、やはりビリー・シーンのベース・サウンドだろう。アコースティックでも「アルバムのまま」なのだ。
そのサウンド、プレイスタイルともに聴いただけでそれとわかるほどの個性の持ち主であるビリーのベースだが、
深みと広がりのあるあの音で、曲の基盤を作りながらも、要所要所ではフィルインして遊びまくるからこそ、
アコースティック化してもなお強力なうねりが生じてドライヴし、オーディエンスを熱狂させることができる。


"Daddy~"では、アルバム通りにドリルを使ったソロもフィーチュアされていたし、
"Green-Tinted~"もアルバム通りのイントロで始まっていた。(むかしは省略していた)

いずれもまったく違和感がなかったのは、安定したボトムと正確無比なギターがあってこそのことだ。
そこに、一切の衰えがないエリックのヴォーカルがのるのだから何をかいわんや、であろう。


4thから"Take Cover"が、新作から"I Get The Feelings"がプレイされると、
ポールはギターをエレキにかえて、やはり新作から"Once Upon A Time"が披露された。

ただ、オリジナルよりは若干ライトなサウンドになっていた。ドラムだけではなく、ギターも。
それでも曲のよさが殺がれることなどなく、終盤のユニゾンも音に厚みがあって迫力があった。


2ndの"Road To Ruin"ではもちろん「オーオーオーオー」の大合唱がおこり、
新作の"I Won't Get In My Way"ではオリジナル通りのパットの叩きっぷりに惚れ惚れした。

あまり語られることのないドラマーだけど、パットは技術・センス・個性において傑出したドラマーだと思っている。
彼のキック・ドラムは代名詞的な特徴があるし、小技から大技まで多彩なドラミングを聴かせてくれる。

ポールのギター、ビリーのベースに埋もれることなく自らの持ち味を出しているということ自体が、
すでにしてパットの能力の高さを証明している、と言ったほうが早いかもしれない。何でも叩けるひとなのだ。


しかし、これだけのプレイヤーがいてもなお「バンドの顔」として彼ら楽器隊と拮抗し得る、
エリック・マーティンというヴォーカリストが持っている歌声の魅力には、本当に敵わないと心底思った。

個人的に思い入れの大きい2ndからの"Just Take My Heart"では、
様々な記憶が次々に呼び起こされていてもたってもいられず、だらだらと泣いてしまった。


感動に包まれた会場を、今度は1stからのグルーヴィな"Merciless"が違った色に塗り替える。
"Road To Ruin"のときも感じたのだけど、ビリーのベースの「黒人っぽさ」がより前面に出る曲だ。

ほとんどのひとが誤解しているようだけど、
MR.BIGの楽曲は基本的に60~70年代的な「歌をメインにすえた」シンプルなつくりのものであり、
80年代HM/HR的な煌びやかな(やや大味な、とも言える)ものは、あくまで付加要素にすぎない。
もっとも、ポールとビリーの派手な掛け合いによるエンターテイメント感や、
パットのツーバスによるボトムの増強などで80年代のHM/HR感満載なのは間違いないのだけど。

この曲の場合は、モータウン・ソウル的な洒脱さを巧みにハードロック化している。
この辺、音楽的素養の深いビリーや、ソウルにも傾倒しているエリックの面目躍如といったところだ。
そして、これらの要素を「ポップ」かつ「ハード」にしているのが、ポールのギターなのである。


ここで、そのポールのソロ・タイムとなった。

「速すぎてスピード感がなくなるほど」の正確極まりないフィンガリングとピッキングの嵐を見舞い、
ステージを右へ左へ、ソファに靴のままあがってドリルで演奏したり、と終始驚異的な弾きまくりである。

ところで、ポールのギターは「感情表現に乏しい」とよく批判される。
それは彼の特質が「ポップ」という表層的なものに集約されていることに一因があると常々思っていたのだけど、
さすがにこれをこの枠で論じ切るのはムリがあるので、代わりに一言添えておくと、
確かにさほどエモーションを掻き立てられるようなソロは少ないかもしれないが、バラードなどの枠内で、
コンパクトなソロをメロディアスに弾くのをポールは得意にしているのだと、強調しておくとしよう。


ソロが終わってポールが一礼をすると、メンバーが戻ってきて新作の"Still Ain't Enough For Me"につなげた。
これまた弦楽器隊の応酬が見ごたえのあるもので、ヴォーカルの力強さも相まってお気に入りの曲である。


メンバー全員がフロントに並んで、より本格的なアコースティック・セットになった。

キャット・スティーヴンス"Wild World"が感動的に、
4thの"Where Do I Fit In?"がリラックスした感じで、
それぞれプレイされると、「この曲をやるのは、バンドの歴史上2回目だ」というエリックのMCで、
なんと1stからの"Anything For You"が披露されることに。「ライブでやらない名曲」として有名だったのだ。

元々、これ以上はないというくらい感動的な曲だったのが、アコースティック化でよりシンプルになり、
曲に込められた切ない思いに胸がいっぱいになり、これで思い残すことはない…というほど感動したためか、
これにつづいた2ndの"Voodoo Kiss"はボサーッと聞き流してしまった。

が、しかし、ビリーが「アメリカは、60年代から70年代にかけての危機を乗り越えた。…音楽によって」と言い、
CROSBY,STILLS,NASH & YOUNGの超名盤Deja Vu (1970)冒頭を飾る"Carry On"に目が覚めた。

これはもう「目が覚めた」どころか、「度肝を抜かれた」と言ったほうがいいかもしれない。
これまであえて書かずにきたが、随所で素晴らしいコーラスワークを聴かせてくれていた彼らは、
実にアメリカの優秀なバンドらしい「綜合的なミュージシャン集団」であり、全員シンガーとしても優秀だ。

それにしたって、コーラスに関しては並ぶものなき最高峰のCSN&Yを、あれほど見事にカバーしてみせるとは…。
(この曲はYことニール・ヤング抜きで録音されていて、ビリーもCROSBY,STILLS & NASHと紹介していた)

中間部の「Caaaaaaarryyyyy Ooooon」を完璧なアカペラでキメると場内は拍手喝采、
わたしは感動で身動きできず。いやはや、なんと素晴らしいコーラスワークだろう。
後半部はエリック抜きで、ふたたびエレクトリックのセットに戻ってのトリオ編成でプレイされたのが興味深かった。


"Around The World"が始まるとエリックはステージ上の下手二階席に現れ、ファンに囲まれて歌い出す。
いったんステージに降りてきて、次は上手二階席に上がって歌う、というサービスっぷりであった。

ステージ上ではポールとビリーが鬼のようなバトルを繰り広げ、
その上ではエリックが上機嫌で手を振っている、というMR.BIGならではの空間演出である。


"As Far As I Can See"を挟んで、ストリングス隊(8人)が呼ばれてドラム後ろにあったイスに一列に並んで座ると、"Stranger In My Life""All The Way Up"という、オリジナルにストリングスがない曲が演奏された。

てっきり"Nothing But Love"をやるものとばかり思っていたので少し肩すかしをくらうかたちになってしまったけど、
これはこれで案外よいものだ、と思いながら、ストリングスアレンジが施された新ヴァージョンに聴き入っていた。
(最初はストリングスの音が小さすぎて聴こえなかったが、徐々に改善された)


MR.BIGの代表曲、"To Be With You"がより劇的なアレンジで、感動させてくれた。
歌詞の内容は「フラれた娘に言い寄る男の一人称」だというのに、なんとあたたかく優しい曲なのだろう。
きっといいヤツに違いない、というのが、中学生のころから歌詞に敏感だったわたしの変わらぬ主張である。


日本の現状に関するシリアスなMCにつづいて、
チャリティ用のシングルになった(完売済み)新曲"The World Is On The Way"がしっとりとプレイされた。

この日のオーディエンスは終始静かで、メンバーも戸惑い気味なほどだったけど、
この時がいちばん静かになっていたのではないか、というくらい微動だにせず聴き入っていた。
震災に関しては、日本人である限り何らかの思いを各人が持っているだろうから、当然ではあったかもしれない。


ストリングス隊が去って、3rdの"Price You Gotta Pay"が会場をいま一度活気づける。
ビリーのハーモニカ&エリックの「二人羽織り」ベース、というお約束のシーンも健在だった。


そのままビリーのソロになると、これがベースだろうかと疑いたくなるほどの多彩なフレーズを紡いでいく。
クラシカルなパートから、ハーモニクスを多用したコード弾き、ベンディングやフィードバック、
指盤を縦横無尽に駆け抜けるフィンガリング、そして彼の代名詞とも言える自由奔放なタッピングと、
ビリー・シーンというベーシストが、他と隔絶した孤峰であることを否が応でも納得させられるソロだった。


「あの」タッピングから、MR.BIGと言えばこの曲という"Addictted To That Rush"へ雪崩れ込む。

ソロでは"Daddy~"のフレーズを弾いてみせたポール、さすがに芸達者かつユーモアのある男である。
(今回のライブでは、とくにハードな曲のソロでオリジナルと違ったフレーズを弾くことが多かった)

ちょっと静かすぎるオーディエンスとの掛け合いもそこそこに、全楽器が暴れエリックもシャウトする大団円へ。

これで本編は終了。
すでに開演から2時間半近く経過しているというのに、元気な四人のアメリカ人はすぐに戻ってきた。
まったく、どうゆう体力をしているのだろうか、このひとたちは。


アンコールは、定番の"30 Days In The Hole"でスタート。HUMBLE PIEのカバーだ。
結成時の彼らが範としたバンドのひとつである。R&Bに根差した、ブラック・フィーリング溢れる曲。
それでいて「ロック」していて、なおかつ「歌」を最大限に活かせる、という音楽性。

彼らはそれを、80年代後半という「現代」にマッチさせたかたちにアップデートして、デビューしたのだった。

そして、彼らが2010年に示してみせたのは、ロックの現在形というよりは不変にして普遍の「基本形」であり、
その「基本形」とは、異なる個性がぶつかり合うことで生じるマジックのような、関係の結び目としての音楽である、
ということに尽きるだろう。それは奇跡と言ったほうがいいかもしれない。それでこその「バンド」だと思う。


さて、おおらかな曲で大いに和むと、あとはもうアレしか残っていない。

エリックがビリーにマイクを差しむけると「ワウアウアウアウーッ!」の鳴き声。
クレイジーにもほどがあるユニゾンから"Colorado Bulldog"へ突入、どこもかしこもやんやの大喝采である。

もう何回聴いているのだかわからないが、何度聴いても笑ってしまうほど凄まじいユニゾンフレーズだ。
いまとなってはこれを弾ける人間などいくらでもいるのだろうが、これを考えだすことなどできないだろう。
また、こうして最高の音を聴かせられるような技術の高みにいるものは、ほとんど存在しないだろう。
それも、笑い転げるようなしぐさをしながら、こどもだってあんなに楽しそうにはできないかも、というくらい、
楽しそうに演奏し歌うことなど、いったいMR.BIG以外のどのバンドができるというのだろう…。
(エリックなんぞ、デッドベアを抱いての歌唱である。あれが似合う50歳は他にいない。)


ステージの上も下も、フロアも階段席もその奥も、だれもが幸せそうに笑っていたように感じた。

最後の最後にポールが「ガンバッテ!トウホク!ガンバッテ!ニッポン!!」と言い、深々と一礼。


この楽しさと、そしてあの凄さを、会場に足を運ぶファンしか知らないという手はない。

MR.BIGには、彼らが「別格中の別格」であることを伝えるべく大型フェスへの殴り込みを仕掛けてほしい。
彼らが「歌モノでオンナコドモ向けの存在」だと言うような輩にこそ、目にモノ見せてやってほしい。

楽曲、演奏、パフォーマンス、サウンド、すべてが完璧だった。

被災した仙台のためにも、早い再来日が待たれるところである。



SETLIST
01. Undertow
02. American Beaty
03. Daddy,Brother,Lover,Little Boy (The Electric Drill Song)
04. Green-Tinted Sixties Mind
05. Take Cover
06. I Get The Feelings
07. Once Upon A Time
08. Road To Ruin
09. I Won't Get In My Way
10. Just Take My Heart
11. Merciless
12. Paul Gilbert Guitar Solo
13. Still Ain't Enough For Me
14. Wild World (Cat Stevens cover)
15. Where Do I Fit In?
16. Anything For You
17. Voodoo Kiss
18. Carry On (CROSBY,STILLS,NASH & YOUNG cover)
19. Around The World
20. As Far As I Can See
21. Stranger In My Life
22. All The Way Up
23. To Be With You
24. The World Is On The Way
25. Price You Gotta Pay
26. Billy Sheehan Bass Solo
27. Addictted To That Rush
Encore
28. 30 Days In The Hole (HUMBLE PIE cover)
29. Colorado Bulldog



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2011-04-23

CATHEDRAL at Shibuya Club Quattro on 20th Apr

  

去る水曜日、CATHEDRALは日本最終公演を行った。


今回のツアーでライブ活動を終了し、来年の新作発表をもって解散するというアナウンスがあったのは、
あれはゲイリー・ムーア逝去の前だった覚えがあるから、1月末ごろだっただろうか。

CATHEDRALは長らくオンタイムで追ってきた大切なバンドだったので、とてもショックだった。
ライヴも、10年前のOn Air East(現在は大幅に改装されてO-East)公演でしか観ていない。
2006年のLOUD PARKは、仕事とその準備で行けなかった。そんなもの放っとけばよかった。


CATHEDRALは奇妙なバンドだ。

BLACK SABBATH直系のメタリックなリフ、70年代ブリティッシュ・ロック/プログレ的なアレンジ、
UKハードコアのささくれたギター・サウンド、そしてときにディスコ風のダンサブルなグルーヴ、
これらが違和感なく統合され、その上にリー・ドリアンのへったくそなヴォーカルがのってなお、
いやむしろ、リーのヴォーカルがあってこそ特異な音楽性/世界観を完成する、というバンドなのだ。


その歴史を振り返ってみたくもなるが、それはわたしの力に余る。
以下にライヴレポをお届けして、彼らへ感謝を捧げることにしたい。

なお、MCはわたしの聞きとりが怪しいので割愛させていただく。



* * * * * * * * * * * * * * *



18時半ごろに会場に入ると、すでにフロアや上段の7割ほどが大勢のひとで埋まっていた。
これはうれしい驚きだった。この4日前にチケットを買ったらまだ400番台で、入りを心配していたのだ。

地震や原発問題などから来日公演の延期・キャンセルが相次ぎ、そのためこの公演も心配だった。
チケットを買ってからキャンセル・払い戻し、というのは気が滅入るし面倒だから、確信が持てるまで待った。
たぶん、同じような思いのひとが多かったのだろう。当日券で来たひとも相当数いたのではないだろうか。

開演がアナウンスされるころにはほぼ満員となっていて、
これならもっと大きい会場でやってもよかったのでは、と思わざるを得ない。


場内が暗転し、SEに新作から玄妙なインスト"The Guessing Game"が流れてくる。

曲が終わりに近づいて、メンバーがゾロゾロと登場。
レオ・スミーはすでに脱退していて、初期ベーシストのスコット・カールソンが再加入している。

レオは最新作でもムーグやオート・ハープなど様々な楽器を演奏していて活躍していたのに、
インタビューで「今のところまだメンバー」といったことを言われていたのが意外で、
それでもこうして現実に脱退となると、逆に「やっぱり…」と納得させられてしまった。


優美とさえ形容できたレオがいなくなって、ステージ上には近寄りがたいルックスのメンバーがズラリ。

サポート・キーボード・プレイヤーはスキンヘッドに眼鏡のおじさんで、知人のM.Kさん(米人)そっくりだった。
スコットは長髪長身の「いかにもロック・ベーシスト」な風貌。少しクレイグ・ゴールディ(DIO)に似てる気がした。
ブライアンは少し太り、白髪も増えた気がしたが、相変わらず怪しいオッサン感バリバリである。
ギター坊主と化して随分になるギャズは、ANGEL WITCHのTシャツを着用。NWOBHM魂、ここにあり。
そして、藤色のぴったりした長袖を着たリー・ドリアンが登場。少し、腹が出たもよう。


ブライアンの強烈なシンバル・ヒッティングで新作から"Funeral Of Dreams"が始まると、
CATHEDRAL独特の、縦に激しく上下するノリのリフにフロアが早くも大きく反応する。

しかしこれまた一筋縄にいかない曲で、
リーの語りのようなパートとメロトロン・パートが交差する静かなパートが合間合間に挟みこまれ、
その度に場内は不思議な雰囲気に包まれ、ステージを見入り、またリフで上下、ソロ、メロトロン、またリフ、
という風に次から次へとパートが移り変わっていくのが、どこか胡散臭い手品を思わせてとても好きだ。
場末のサーカスに突如現れた香具師が、グロテスクなのにユーモラスなショウを見せて、また去っていくような…。


次は2ndからヘヴィな"Enter The Worms"がつづいた。
サウンドはとても良好で、ギャズの、仄かにハードコア感があるサバス的なギター・サウンドが素晴らしい。
ブライアンのドラミングも巧みなスティック捌きで、当たり前だがとても巧い。そして心地よい。
ラウドなドラムとヘヴィなギターを縫い合わせるような、スコットのベースもとても達者だった。

とはいっても、主役はリー・ドリアンに決まっている。
猫背のままステージを徘徊したり、オジーのような垂直蛙跳びを決めたり、
マイク・コードで首を絞めたり猿ぐつわをしたり、顔を揺らして頬をブルブルさせたり、と大忙しである。
もちろん、ギター・ソロではヘンテコなポーズで手をギャズに向けてヒラヒラさせるパフォーマンスも健在。


前作の"North Berwick Witch Trials"と、
2ndから"Midnight Mountain"というアッパーな曲の連打で大変な騒ぎに。

前者はNWOBHM的なメロディアスなリフが映える、彼らにしてはかなりストレートなメタル・ナンバー。
歌メロもかなりキャッチーである。まあ、世間がこれを「歌」と認めるかどうか、危ういところだが。

後者は言うまでもなく、代表曲であり名曲。
リーといっしょに「あう、いえーっ!」の雄叫びをあげ、あとは歌って踊ってヘッドバンギングしてクラップして、
というただひたすらに楽しい曲に誰もが笑顔だったのではないだろうか?

そして後半は「うわぁ~お!」を合図に、さらに上下動のあるパートに突入。
10年前、フロアで大暴れした記憶が甦ってきた。いまは大人しくその場で楽しむに止まる。隔世の感あり。


初期のEP収録曲であるレアな"Cosmic Funeral"のタイトルがコールされ、驚き混じりの歓声が上がる。
ここに来たひとの多くはダイハードなCATHEDRALのファンなのだと思い至り、ふたたびうれしくなる。

前半ドロッドロ、後半は徐々に盛り上がる、という展開の曲で、ある種プログレ的な曲と言えようか。
最初期からその傾向はあったにしても、そのブリティッシュ・ロック/プログレの素養を十全に活かすには、
それなりの期間と様々な楽曲による試行錯誤があったのだと、改めて思い至る。

新作の咀嚼力が尋常ならざるものだったので忘れていたが、はじめからそんなに巧かったわけではないのだ。
この"Cosmic Funeral"も試行錯誤のひとつで、この頃から「メタルから70年代へ」より深く向かい始めたのだった。


つづく1995年発表の3rdのタイトル・トラック"Carnival Bizzarre"は、その傾向を代表する曲かもしれない。

ツイン・ギターの五人組編成が終わり、ベースとドラムのリズム隊も変わって、四人組としての再出発。
ゲストに大御所トニー・アイオミを迎えての原点回帰(ただ、当時のサバスは大袈裟に言うと「落ち目」だった)。
一番変わったのは、レオとブライアンの加入でブリティッシュ・ロック的なサウンドが得られたこと、だろう。

NWOBHM的な陰湿でくぐもった地下音楽感は保ちつつ、その重心をメタルからそれ以前のものへとシフトさせ、
時代錯誤な曲作りの中に見事活路を見出したのだった。(ただし完成はされてなく、以後その実験はつづく)

ギター・ソロは大幅に変えられていたように思ったのだけど、聴き込みが足りなかったからだろうか。
「こんなに素晴らしいソロだったっけ?」というのが偽らざる感想で、ただただ聴き惚れていた。

蒼古たる森に分け入り、見上げた梢のわずかな隙間からそれと認められる星辰を目にしたかのような、
精神がここではないどこかに強制的に接続されてしまう、とても詩的で美しいソロだった。名演だと思う。


同じく3rdから"Night Of The Seagulls"が、最初期の「牛歩戦術」とまで言われた遅さではないにしろ、
オリジナルよりもテンポを落として(と、感じたのだけど、わたしだけだろうか)プレイされた。

とてもヘヴィで、人間の暗部を寓意化・楽曲化したような印象があるものの、
同路線のもっと完成度の高い曲はあるだろう、とも思った。3rdの曲をつづけることに意義があったのかもしれない。


さらに、1stから「これぞ牛歩戦術」の"Ebony Tears"がプレイされる。
これでも1stでは聴きやすいほうの曲なのだから、いやはやまったく恐ろしい牛である。

リーも「ええ~ぼねぃ~、てぇぃあぁ~~ず」と、完膚なきまでにへったくそなヴォーカルを聴かせる。
顔を指で撫でて涙を演出しても、リーがやると素人感全開ゆえの味があるから、ますますもっておもしろい。

上手いヴォーカルだったらいいのかというとそうではない、というのがCATHEDRALのCATHEDRALたる所以で、
「自分たちにしかできない自分たちの音楽」をずっとやってきたこと、だからこそ生き残っているのだということ、
それを、こんなに屈折したかたちで認識させてくれるのだから、個性的としか言いようがないではないか。


ブルータルな牛がようやく歩みを止めると、ふたたびアッパーな曲がつづいて騒乱状態に。

新作の"Casket Chasers"もまた、CATHEDRAL史上もっともストレートなメタル・ナンバーのひとつ。
サビではフィストを振りかざして「Take Your Time♪」合唱と「Cas!ket!Chasers!」シャウトがキマる。

前作の"Corpsecycle"は「問題作」と言われたほどのキャッチーさを誇る曲で、もはやポップスとさえ言えよう(?)
それでもリーのきったないヴォーカルと、ギャズのザクザクしたリフのため「やっぱりCATHEDRAL」なのだ。


とうとう、終わりが来てしまった。

2ndの"Ride"が終幕を飾る。
彼ら独特の、としか形容する気がおこらない縦ノリのキャッチーなナンバーに、フロアが波打っている。

ズンダズンダズンダズンダ、と絶妙なグルーヴで前進するリフ、
リーのヘンテコなヴォーカル、ともに最高である。

サビの「Rise from the ashes of stagnation!」は全員で大合唱だったが、
つづく「Crystal warriors of damnation!」は前方のオーディエンスにマイクを渡して歌わせる、という太っ腹ぶり(?)

ギター・ハーモニーが美しい曲だけど、そこはさすがに再現できないのでシングル・ギターで違うフレーズを、
それでもこの曲にぴったりと合ったソロを挟みこんでくるギャズ、やはり素晴らしいセンスの持ち主だ。


大歓声に包まれ、ステージを後にする面々。ブライアン、満面の笑みであった。


アンコールでは、キーボードのおっちゃん(名前失念。デイヴさんだったと思う)が出てきてソロを弾きだし、
メンバーが合流して3rdの"Vampire Sun"が始まった。「かもん!」「おぉる、らぁいっ!」な縦ノリソングである。

案外あっさりと終わり、ふたたび引っ込んでいくひとたち。
もちろんこれで終われるわけがない。

というか、ステージ袖から盛んに煽っている人物は、ローディーかと思いきやリー総帥そのひとではないか。
「なにやってんねん」的な温かい笑い声とともに、それに応じるオーディンス一同。


そうこうしていると、すぐにまた出てきた。
他のメンバーがタオルで汗を拭いたりデジカメでオーディエンスを撮影したりドリンクを飲んだりしながら登場。


今度こそ本当に最後となる曲がコールされる。
3rdの"Hopkins (The Wicthfinder General)"だ。

冒頭のギターからして最高なのだが、実にキャッチーでノリのいい曲だ。
ズンズン進んでいく魔女狩り将軍の不穏な行進に引かれていくわたしたちは、
さながらハーメルンの笛吹きに連れ去られていくこどもたちにも擬せられよう。


CATHEDRALのライブが、こうして終わった。

やってほしかった曲は他にいくらでもあるが、いまは来てくれたことを感謝したい。

これが「最期」とは思えないほど、楽しい時間だった。
もう観られないのは残念でならないが、彼らの判断を支持し、最終作を楽しみに待つことにしよう。



SETLIST

SE: The Guessing Game
01. Funeral Of Dreams
02. Enter The Worms 
03. North Berwick Witch Trials
04. Midnight Mountain
05. Cosmic Funeral
06. Carnival Bizzarre
07. Night Of The Seagulls
08. Ebony Tears
09. Casket Chasers
10. Corpsecycle
11. Ride
Encore
12. Vampire Sun
Encore 2
13. Hopkins (The Wicthfinder General)



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2011-04-06

帰省日記・断章

  

まだ地元に住んでいたころ、よく行っていた店もとうとうあとふたつを残してなくなってしまった。帰るたびに、失われたものが自分のこころのどこらへんに配置されていたのか、気づかされる。寂しさや虚しさを感じたことはなく、むしろ、甦った記憶の色彩はより豊かに、こころは少しだけ温かさを感じる。意識が当時の自分に接続されるからだろうか。ならば、現在もまたいつかわたしのこころを温める「当時」となるのだろうか。


すべてが失われてしまう前にできるだけ写真に収めておこう、そのためにカメラを買おう、と口にしたまま二年経った。その間にひとつふたつと失われていく風景は、逆に記憶を呼び寄せてくれてはいる。しかし、それもいずれ消えてしまう。わたしとともに。わたしが何も残さなければ。では、そのわたしに残すことができるだろうか。わからない。


自転車で走り回るのがあまりに好きなためか、運転免許は取らずに終わった学生時代にも、失われたものや失われつつあるものは気にかかっていた。カメラはあったし、いくつか撮りもしたけど、意識はまったく違っていた。ともに自転車で町を走り回る友人がいて、お互いが交わす会話が記憶の再生装置であり、貯蔵庫であり、記憶そのものだったからだ。


わたしたちは、お互いがお互いの図書館でもある。本はやがて傷み、印刷は脂で汚れ、文字の判別が難しくなる。いや、それなら図書館ではなく一冊の本であったか。しかし、各人によって違う自分が読み込まれるのだから、やはり図書館で差し支えはない。ただ、その図書館にある一冊の本を読んでくれるひとが、果たして何人いるだろう。


タロット・カードを「砂漠の民の図書館」と呼んだ/読んだのは誰だっただろう。


かつては友人と自転車で走り回ったこの町を、ひとりきりで走り回ることに違和感がなくなって久しい。それでも、「何か」面白いものを見つけたり、知らなかった道や見過ごしてした道や新しい道に気づいたり、忘れていた何事かを思い出したりすると、語りかけずにはいられない。「こっち行ってみっか」「こんなんあったんか!」「さっきんとこ、もっぺん行ってみよ」「おもろいとこやな~」「どこやったっけ、何か似てんのあったな」


あまりに走り慣れてしまった、必ず走らざるを得ない道においては、アタマは何も感じず考えようともしない。しかし、少しでも非日常の方へ、見慣れぬ路地へ、一目見てこころを「何か」がかすめた道へ向かうと、まるでそれが常態であるかのように忙しく世界を感受し、動き出す。それがいささか腹立たしい。


むかし毎日通った道を行くと、向こう側から当時の自分がやって来る気がしてならない。もしくはそれを幻視する。もしくは幻視したいが故にそれを捏造する。もしくはそう語りたいがために自分を風景に投影しようとする。だが、かつての自分をイメージすることは簡単ではないどころか、集中力を求められるひどく骨の折れる作業だ。そのとき、かつての自分は他人である。それも、決まって不機嫌な顔をした。


不機嫌そうなむかしの自分があちらからやって来ると思いきや、気がつくと並走していた。と、思う間もなく軽々とわたしを抜き去って、蛇行する道に消えていく。わたしは目の前に拡がっている女子高生たちを追い抜こうとするも、次々と刺客のように襲いかかってくる車に遮られて、とてもではないが追いつけない。わたしはむかしの自分を断念する。


必ずと言っていいほど、生家を確認しにそちらの方へ向かってしまう。あらゆる思い出の地がなくなっていくというのに、不思議とあの借家はなくならない。そして、未だにわたしはあの家こそが自分の家だと、どこかで思っている。ささやかな喜びに満たされたあの狭い空間こそが、わたしが帰り、眠りに着くべきところだと、未だに思っているのだ。


風呂場には西日があたるところに窓があった。だから、夏になるとまだ明るいうちに風呂に入ることになって、それがとても好きだった。プールにいるような気分だったのかもしれない。


わたしがこどものとき、父がこどもだったころの話をよく尋ねていた。父の祖父はその地方で有名な立志伝中の人物で、資産家だった。ゆえに、終戦後もなお裕福な暮らしをしており、当時、田舎では珍しかった二階建ての邸宅に住んでいたという。女中も何人かいたそうだ。しかし、その時代も終わりを告げ、父が四年生のころ、こちらに逃げてきたらしい。そのような話をしていた父の年に近づきつつある、という事実を理解はできても実感はできない。しかし、あらゆるものが失われていくことにこれほど寄り添ってくれる記憶もない。誰もが失っていく時間が、風景が、記憶が、モノがあるのだし、その最たるものが、ひとだろう。それも、大切なひとだ。


生きていてなお、失われたように思わされることもある。祖母は、もううちには帰ってこれない。自分の名前も言えなくなってしまったそうだ。かろうじて、父の顔だけは認知できる。それ自体、奇跡のようなことなのだが。


祖母の父は牧師で、出自を辿ると九州の武家らしいのだが、もうわからない。戦前に田舎で牧師をする、父が牧師である、牧師の娘と結婚する、とは、どういったことだったのだろう。牧師に嫁いだ祖母の母は、花を育てるのが好きだったと聞く。わたしの生家の前がまだ畑だったころに撮られた写真を見ると、とても優しい顔をしていた。あの写真は、いまどこにあるのだろう。


祖父の部屋には古いアルバムがある。そこに写っている祖父は黒髪で、白髪の祖父しか見たことのないわたしには奇異に感じる。そして、「本家の一族」と思しき集合写真に言い難い恐怖を感じる。そこに写っている20人近い人物のうち、ほぼ全員を知らないからだ。名前のない、おそらくはもう生きていないたくさんのひとたち。忘れ去られること、誰も判別できないこと、関係がある(あった)のに断絶していること。それはこれまで、ないことはなかった、というほど当たり前に繰り返されてきたことで、この先もおそらく変わりはしない。たとえビデオや写真のファイルから名前がわかり、それがどこのだれでいつからいつまで生きたのかわかったとしても。ただし、わたしが感じたような恐怖は微塵も感じられないだろう。ディスプレイされる画像と、写真という物体の違いだけではない。生きた時代の決定的な差異、家族の歴史という文脈の差異などがあるのだから。ただ、わたしが感じた恐怖はもう少し「わけがわからない」ものである気がしてならないのだが。


ねこを飼っていた、という話もよく聞いた。肥溜に落ちてしまったねこにロープを垂らしてみたら、見事につかまって無事に脱出できた、という話。その死に際で姿を消し、行方がわからなくなった、という話。その夜、父の夢にねこが出てきて畑を示唆し、翌朝向かいの畑に行くとそこで死んでいた、という後日談。


わが家のマリーはねこのような柴犬だった。動きの一つ一つがねこ的だった。そのマリーはうちで死んだ。最期の一ヶ月は、体の痛みに毎日鳴いていた。四月初頭に帰省していたわたしは、安楽死を考えたほどだった。誕生日は迎えられまいと思った。その誕生日まで一週間を切ったころ、いつものように散歩に行こうとした父が死んでいるマリーに気づいた。小屋のなかで体を丸めて寝ているいつもの姿のまま、眠りについていた。寝息と、呼吸による体の小さな上下動がなかったが、それ以前にすぐにわかったという。安らかな姿を、久しぶりに見たからだそうだ。それだけ、最期は苦しそうだった。もはや「ねこ的な」ところはなかった。報せを受けてホッとしたが、送られてきた写真を見て言葉を失った。もうマリーがいないとは、考えられなかった。まだうちで、ねこのように引っくり返っては腹をすかせている姿しか思い浮かばなかった。そして思った。帰省していたころ、少しもマリーを見ようとしなかったことを。見るだけではなく、声を聞くのも辛かったから、うちにもいなかったことを。傍にいようとしたこともあるが、マリーは痛みでそれどころではなくウロウロするか小屋に戻るかだった。切なそうな声をあげながら。わたしは、マリーを見限っていたのだろうか。


マリーの前はマックだった。マックは雪のなか、首輪をはずしてどこかに消えてしまったのだった。雪が溶けてからも探した。方々に連絡しても、それらしき犬は見つからなかった。体が弱くて、何度も手術した犬だった。蚊にやられて、顔がかさぶただらけになったり腹が真っ黒になったりした犬だった。すぐに寝っ転がって甘えてくる犬でもあった。それから一ヶ月以上経って、高校の帰りにマックにそっくりの犬を連れたひととすれ違った。すぐに止まり、犬を振り返った。その犬もわたしを見た。飼い主が綱を引っ張って先を促し、犬はそれに従った。このときなぜ追わなかったのか、なぜ飼い主に話しかけなかったのか、なぜ「マック」と声をかけなかったのか、まったくわからない。それはその日、帰宅してから、いや、その場を去ったその瞬間から、理解できなかった。自分が取り返しのつかないことをしていると、おそらく思っていた。わたしは、あのときマックを見捨てたのだろうか。見なかったことにしたかったのだろうか。その後、数日間は同じ場所にいられるよう、必死で下校時間を調整した。二度と見なかった。うちでも当然、話をした。顔がキレイになってた、と言うと、蚊がいないところなんだ、と応えが返ってきた。あれはマックに違いない、ということになっていた。それから二週間経ったか経たないか、という時期に、突然マリーはやってきた。やってきた、というより、帰ったらいたのだ。祖母は「マックが帰ってきたよ!」と興奮気味に言っていたが、明らかに違う犬だった。祖父が「本家」の誰かから貰ってきた犬だった。叱られて育てられていたのか、あたまを撫でようとすると首をすくめて目を閉じた。名前を考えることになった。色々と考えたあげく、わたしはライチという名前を思いついたが、母がすでにマリーと呼んでいたのでマリーになった。それは、ちょうどマリーが1歳の誕生日を迎えたころだった。前に飼われていた家で、どう呼ばれていたのかは知らない。マックは「モモ」だった。それがどうしてマックになったのか、わたしももう覚えていない。


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