2014-03-09

THOUSAND EYES at 'Wailing of Nightfall II' on 22nd Feb



前回、THOUSAND EYSのブログ冒頭で、わたしはこう書いた。
先日(2月22日)行われた「Tokyo Dark Fest: Wailing Of Nightfall II」のトリを飾った千眼のライブは、あまりにも強烈だった。あれを観て何も書かないなどという選択肢はありえない。(中略)その強靭なライブ・パフォーマンスと、わたしが目にした「ある光景」について、ここに書き留めておきたいと思った。
今回は、2月22日のライブを辿りながらあらためて千眼の音楽性やメンバー構成に言及しつつ、そのパフォーマンスが如何なるものであったのか、書いてみようと思う。そして、あの場においてわたしにしか見出し得なかったであろう「ある光景」について、回想と述懐を行きつ戻りつしながら、ここに書き留めてみることにする。
(前回を未読の方はこちら


その前に、前回ブログと今回では千眼のメンバーが違うことに触れておかなければならない。デビュー作の録音~レコ発ライブ~ツアーの間、ドラマーをつとめていたJuhkiが脱退し、新たにFu-minが加入(10月2日)。新体制となって最初のライブが、わたしが初めて千眼を観た11月の「Japanese Assault Fest 13」だったのだ。現在のメンバーは以下の通り。


(l to r) Toru (g), Akira (b), Dougen (vo), Kouta (g), Fu-min (dr)


この日のライブは他にGYZE、Ethereal Sin、BELLFASTも出演していたのだが、今回は千眼に焦点を絞りたいので割愛する。いずれのバンドも初見だったが、異なる個性を際立たせた素晴らしいパフォーマンスを繰り広げていたことをお伝えするに止めよう。

また、この日はBURRN!誌の取材も入っていた。前田岳彦氏による同日のライブレポートも近いうちに同誌で読むことができるはずだ。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


メンバーの登場から冒頭まで、記憶を辿りそれを言葉に換え文章として練り上げる徒労をここに放棄しよう。百聞は一見に如かず。早速、このライブ映像を見てもらいたい。




画質、音質ともに良好なものとはとても言い難い、記録用に撮影されただけであろう映像にすぎないというのに、ここから伝わってくる会場の熱気、バンドが発散するエネルギーたるや相当なものがある。

衝撃のデビュー作となった『Bloody Empire』のタイトル・トラックであり、かつ一撃必殺のオープニング・チューンでもある"Bloody Empire"はその役目を十二分に果たし、THOUSAND EYESがそんじょそこらのバンドとは一線を画するアクティヴでエナジェティックなライブバンドであることを、その場にいた者すべてに否が応でも認めさせたのだった。

11月のライブは(わたしがいた場所も悪かったのかもしれないが)音が潰れたダンゴ状態でインパクトを欠いたオープニングとなってしまっていたのが、映像にあるようにこのときは申し分のない完璧なスタートダッシュで、溜飲が下がる以上に度肝を抜かれるかたちとなった。出音の良さもさることながら、千眼のメンバーが躍動するその姿、ふてぶてしい面構えの迫力はまさしく「非日常」を体現するロックバンドのそれであり、このような徹底的に圧倒される経験こそがロックバンドのライブではなかったかと、あらためて思わずにいられなかった。

しかし、この映像では現場の騒乱を伝えるにあまりにも役不足だ。実際、この日のライブではモッシュピットが途絶えた曲はほとんどなかったはずだ。(この角度では確認できないが。)全曲演奏されたアルバム収録曲の大半がファスト・チューンであることは元より、バンドの圧倒的な熱量にオーディエンス側が引っ張られ、その後は相互作用によるエネルギーの循環と増幅もあって場内は終始「良好な騒乱状態」となっており、ステージの上と下とを分たずだれもが笑顔でライブを楽しんでいたのである。


つづく"God Of Blind"は力強いコーラスワークが活きる曲で、CHILDREN OF BODOMSOILWORKが2003年前後に完成させたメロディック・デス・メタルの洗練型の嫡流にあたる曲と言えるだろう。それまで「クサメロ(クサいメロディ)」と言われていた北欧の土着的旋律を現在形(当時)に昇華することで、メタルにおける同時代的な正統性を、異端でしかなかった北欧のメロディック・デス・メタル勢が提唱したのだ。

80年代には異端だったスラッシュ・メタル勢が、気がつくと「現在のメタルシーンにあってはむしろ正統派」となっていたように、あの時、またも過激な異端は正統派へと繰り込まれたのだった。以後の流れは前回、概略を書いた通りだが、メロディック・デス・メタルというサブジャンルは2010年代も半ばを迎えた今となっては、正統派メタルの一形式と呼んでいいのかもしれない。実際、わたしは千眼を聴いていて「メロディック・デス・メタル」を聴いているという意識に囚われることはなく、単に「この上なくかっこいいメタル」として聴いている。それも、「現在における正統派メタルとはこれのことではないのか」と、思いながら。

千眼における「同時代性」の多くは、間違いなくDougenのヴォーカリゼイションに由来する。メタルコアやスクリーモ勢ほどハイピッチでもなく、かといってデス声と呼べるほど「濃い」声でもない(もっとも、デス声にはそれなりに幅があるので一概には言えないが)、歌唱法自体はスラッシュ・メタル的な「オールドスクール」のシャウトスタイルなのだが、声や歌い方の頻繁な切り替えや、表現力豊かな「歌うスクリーム」は、オールドスクール勢にはないものとして聴こえてくる。

Dougenの美点は歌だけではない。コードを腕や肩に巻き、気合いの入ったパフォーマンスを見せつける厳ついアピアランスが実によく、MCも変に見下したり上目づかいだったりすることのない、自然体の「メタルあんちゃん」なMCで、聞いていて恥ずかしくなることがない。(日本のバンドにとって、MCは鬼門中の鬼門だとわたしは常々思っている。)

この気合い。メタルバンドにとり、気合いは必須事項である。


Toruが書いた"Divided World"は突撃型デスラッシュ・チューンの最たるもので、ここでわたしは新ドラマーのFu-minの異常な力量にようやく気づいて感嘆させられたのだった。

ブラスト・ビートのショットが「重い」のだ。トリガーで整えられた音でないことは、観ていればすぐにわかる。この手の音楽では、ライブの場合は主にブラスト時のスネアが軽くなることが多い。にもかかわらず、Fu-minのドラミングは常にラウドかつタイトで、その上、金モノの使い方には繊細ささえ見受けられたのだった。これほどのドラマーは、(音をどうにでもできるスタジオはさておき、ライブの場においては)そうそういるものではない。
(YouTubeにドラム視点動画がアップされているので、確認されたし。)

彼が国内最高峰のメタル・ドラマーとしてその名を馳せるのは、もはや時間の問題だろう。


聞くところによると、"Cardinal Sin""Shades Of Black"の原曲は10年近く前にまで遡るらしい。容赦ないリフ攻勢と暴虐的なブラストが吹き荒れたかと思えば、サビでパワフルなコーラスと哀愁漂うギターハーモニーが交差する前者と、北欧のオリジネイターたちの初期作を想起させるギターパートのもっとも多い後者は、言われてみれば確かに他の曲よりもオールドスクールな感触がある。(とくに後者。)

とはいえ、原曲ができた当時とはあらゆる点において格段の進歩を遂げたことは間違いないだろう。その上、千眼には大ベテランのAkiraがいる。要所要所でDougenのバックアップとしてヴォーカルをとっていたが、YOUTHQUAKE時代もそうであったような強烈な存在感でもってステージを締めていた。

千眼においては「影」にまわるベースプレイがほとんどだが、ここぞというところで素晴らしいフレージングを入れてくるあたり、流石と言うほかない。千眼のベーシストが「そこらの若手」だったら、ここまでの「質」に到達することはなかっただろうと思わせるに充分すぎる存在だ。

彼がステージにいるだけで緊張感が増す、その独特な存在感…。


ここで新曲の登場となった。直前に少しだけYouTubeで公開された"Bleeding Insanity"である。おそらくまだ完成形に至ってはいないのだろうが、現時点ですでにライブ映えする曲となっていた。
(これもまた、ドラム視点動画がアップされている。)

とくに、ギターソロもハーモニーも音がはっきりと聴こえてきたため、KoutaとToruの力量に括目する仕儀となった。曲の一部にして見せ場でもある(とくにメタルでは)千眼のギターソロはそれ自体の完成度がどの曲においても高く、リッチー・ブラックモアの名言を借りるなら「ハミングできるような」キャッチーさがある。それでいて、何度聴いても飽きない。この新曲もまた、そのような曲として提示されることとなるに違いない。

技術、サウンド、フレージングと三拍子揃っているこのギターチームには、さらなる飛躍を期待しよう。


激しく疾走する同系統の曲で方向性を固めていたアルバムのなかにあって、とりわけそのイントロにおいて異彩を放っている"Sign"は、わたしがとくに気に入っている1曲でもある。どことなく儚さの漂うギターに導かれ、Dougenの獣じみた蛮声がなにか曰くありげな物語として響く。なかなか類例を思い浮かべることのできない、ありそうでなかった曲調ではないだろうか。

千眼におけるKoutaの曲作り及びアレンジ能力は、抜群の冴えを見せている。わたしは彼の全仕事を押さえているわけでもなく、むしろ他の活動については疎いくらいなのだが、それでも彼が本領を発揮し出したのはこの二三年のことではないだろうかと思っている。というのも、彼の前バンドであるSUM RIZEを2011年に観ていることが大きい。(確か、サポートでToruとJuhkiがバンドにいたはずだ。)

ライブ後、ほどなくして空中分解してしまったようだが(ヴォーカルのJunは音楽業界から足を洗ったもよう)、あの時点ですでに「デスラッシュ・スタイルのリフ構成」「テクニカルでメロディアスなソロとハーモニー」という、彼の得意な方法論に手ごたえを得ていたと思うのだ。

ただ、決定的に違うのがヴォーカルで、日本語詞だったこともあって全体的に「スラッシーな正統派メタル」といった趣きが優っていた。(ANTHEMのリフがデスラッシュ化した、とでも言うと少しは印象が伝わるだろうか。)いま聴き返すと、攻撃性を解放し切れなかった分、対比としての叙情性も千眼と比べると弱さを感じる。

逆に言うと、Koutaは短い間にその美点をすべて完成形に導くことに成功したのだ。それだけDougenの存在が大きかったのだろうし、また、大ベテランのAkiraにバンド加入を打診するほどの意気込みや自信があったことも窺える。

ライブを観てもひとりひとりの個性が立っていて、絶妙なバランスが取れていた。わたしなどはライブを観ながら、「FINAL FANTASY」シリーズでお馴染みのジョブシステムに因んで、「侍・ナイト・モンク・戦士・バーサーカーによるやたら戦闘力の高いパーティー」などと思ったりしていたのだが、実際、彼らのライブアクトとしての戦闘力は極めて高く、世界レベルである。
(どのジョブがだれに該当するかは、すぐにわかるだろうから割愛。)


すんでのところでアルバム収録が見送られることになりそうだったという"Dead Night, Moonlight"はしかし、DougenがMCで「人気曲」と言っていたように千眼の代表曲のひとつであり、聴く度に様々な思いが込み上げてくる名曲だ。

ここまで、具体的なライブ・パフォーマンスについては左程触れずにきたが、先述したように会場は終始盛り上がっていて、MCでも「楽しくて仕方ない」といったことが度々口にされていた。バンドはステージ上でテクニカルな演奏を繰り広げながらもアクティヴに動き回り、それでいて一糸乱れぬアンサンブルでもって強力な楽曲のポテンシャルをさらに上のレベルに引き上げていた。

都市型フェスの定着以降だったろうか、主に若いバンドのステージ上の「運動量」が格段に上がってきている。跳びはね、走り回り、楽器をぶん回し、ときに回し蹴りも決め、体全体を「くの字」に折り曲げて激しいヘッドバンギングに興じ、盛大にオーディエンスを煽る。こうしたパフォーマンスとオーディエンス側のモッシュ、クラウドサーフ、ウォール・オブ・デス、ツーステップなどはお互いに影響を与え合いながら、スタンディング型のライブにおいて「いつもの光景」として根づいていった。

しかし、ここにはいくつかの問題点がある。そうしたライブ独特の「運動」が目的化することで、本来は主であるべき音楽が「騒ぐためのBGM」と化す傾向、バンド自体がそうした騒乱状態を求めて音楽性を「ライブ仕様」に安易にシフトしてしまう傾向、ステージアクションが楽曲の表現としてではなくほとんど機械的な(激しいからこう動く、と定式化でもされたかのような)「振りつけ」のようになってしまう傾向などがそれだ。音楽がないがしろにされつつある、と言ってしまっていいだろう。

千眼のステージングは確かに激しくそしてアクティヴで、そこだけ取り出したら上記した「若手」たちと同様のパフォーマンスを思い浮かべるかもしれないが、両者はまったく違う。千眼にとり、あのような激しいアクションは楽曲(の構成や世界観)に起因するのであって、盛り上げるための手段でもなければバンドを大きく見せる目的のためでもない。「若手」たちに(嫌というほど)見受けられる過剰な自意識や作為的な所作はなく、そのステージングはいたって自然なのである。

そして、この場合の「自然」とは楽曲それ自体を意味する。楽曲が激しく慟哭しているから、動きもそのようになるのだ。オーディエンスがバンドと共有するのは「ライブでひとつになるオレたち」などという自意識ではなく、お互いが愛しやまない楽曲であり、その楽曲が騒乱状態という自然をもたらす。目的としての騒乱ではなく、音楽を愛した結果としての騒乱であるからこそ、あの場はこの上なく楽しい場となっていたのだ。

メタルのおける典型的なワンシーンだが、ライブは典型を遥かに凌駕していた。


本編ラストを飾ったのは、アルバム同様に"Black Sun"だった。Koutaと同じく、マイケル・シェンカーに多大な影響を受けているマイケル・アモット率いるARCH ENEMYを想起せずにいられないナンバーだ。

とくにサビとエンディングのギターがいかにも「シェンカー=アモット節」なのだが、前回ブログでも言及したように、影響元としてのシェンカーを母胎とした上で、その叙情性を現代的なエクストリーム・メタルに接合した結果としての類似性であって、アモットはあまり意識していないだろう。(指摘は受けたと思われるが。)

Koutaの主眼は「Dougenのヴォーカル、叙情的なギター、ファストなメタル」であって、先行するメロディック・デス・メタル・バンドと相似形をなすのは、「影響元と発想の近似性」からくる論理的な帰結として当然の事態である。そのなかで最大限の個性を出すべく「質」を高めていったのが千眼であり、アルバムを聴きライブを観る限り、彼らはオリジネイターたちに並ぶ存在となり得るどころか、場合によっては上回りさえもするだろう。

この日の圧倒的なパフォーマンスをもってすれば、どんなバンドの前座についてもそのバンドを脅かすに充分だ。曲に込められた熱量と、それを発散させていくエネルギーは比類ないものだった。(昨年観たCARCASSを思い出したことをつけ加えておこう。)大団円を華々しく迎え、バンドはステージを一端引き下がっていった。


アンコールでは、メンバーがこの日から発売となった新しいTシャツに着替えて登場。Dougenが感謝の意を伝えるMCをした後は、正統派メタル寄りのキャッチーさが魅力的な"Eternal Flame"でふたたび場内を沸かせた。これで残すはあと1曲、"Last Rebellion"だけである。

メンバーもお気に入りの曲であるようで、それは度々この曲のサビである「This is my! Last Rebellion!!!」をツイートしていることからも容易に察することができるのだが、ここにもうひとり、この曲を愛してやまない人物がいる。Koutaが「たったひとりの親友」と呼ぶひとであり、わたしの数少ない友人でもあるひとだ。(拙ブログにも何回か登場している。)

彼にはいくつか「通り名」がある。Koutaはむかしからの呼び方で「エース」と呼んでいるし、以前はMySpace、ここ二三年はTwitterで、その時々におけるハンドルネームでSNSユーザーに知られてもいるし、BURRN!誌に三回寄稿しているため、本名で知られてもいる。ゆえに、その名をここに出しても何の不都合もないのだが、あえてKさんとイニシャルで呼ぶことにしよう。(ちなみに、ふだんは本名で呼んでいる。)


Kさんはふしぎなひとで、意識しているのかいないのか、それとなくひととひとを繋いでしまう。現に、わたしは彼を通じてHEAD PHONES PRESIDENTのメンバーとの面識を得、Rouse Gardenを知り、その他たくさんの友人知人に恵まれた。先述したSUM RIZEのライブもKさんにくっついていくかたちで観に行ったのだったし、"Cardinal Sin"と"Shades Of Black"がむかしからある曲なのだと教えてくれたのもKさんだった。

そもそもKoutaさんを(ここからはわたしの回想録でもあるので、「さん」づけに切り替える)知ったのは、Kさんのマイスペ時代のブログが最初だった。いまは失われたマイスペブログを、記憶だけを頼りに振り返ると、あれは2010年秋のLIGHTNINGライブにKさんが赴き、久しぶりに学生時代の旧友と再会した、という内容のブログだったはずである。そこで書かれていたことはライブの内容以上に、旧友との思い出や間に流れた歳月のことが過半を占めていて、Kさんは自分の過去をそれまで一切語ってこなかっただけに、余計に驚かされたのだった。そのKさんの旧友が、Koutaさんだった。

ともにSLAYERのコピーバンドをやっていたこと、当時よく聴いていたバンドのこと、馬鹿げた飲みを繰り広げていたこと、KさんはバンドをやめたがKoutaさんはバンドや同人で音楽をつづけ、最近(当時)ではDRAGON GUARDIANのアーサーさんとも仲がいいらしいこと、などが書かれていた。(また、このブログが書かれた後日、KさんがB!誌の前田さんにLIGHTNINGのCDを渡していたところにわたしが居合わせたこともある。)

それまでも連絡は取り合っていたのだろうが、これを機に交流が頻繁になっていったというのが、傍から眺めていたわたしの印象である。Twitterでもふたりはよく絡んでいて、Koutaさんの過去に在籍していたバンドを知悉していたり、むかしのデモを複数所持していたりすることをKさんがたまに暴露ツイートするたびに珍妙なやりとりをしているから、知っているひとも多いかもしれない。(なお、その内容は99%くだらないと断言する。)


千眼のSNSアカウントの「お手伝い」をしてもいるKさんは、当然のようにこの2月22日も関係者・スタッフとしてライブに来ていた。場内はかなりの熱気に包まれていたにもかかわらず、マフラーもコートも脱がないままでいたのは、そうした関係者としての意識がファンとして振る舞うことを許さなかったからだろうか。(ただし、その「いちファン」はもっとも厳しいファンでもあるのだが。)

わたしたちはKoutaさんが陣取る上手側の前方へと移動したのだが、ライブ開始と同時に巻き起こったモッシュピットに分断され、わたしは後ろに避難することができたものの、Kさんは上手前方に押しやられて、わたしの方からはかろうじてその頭部を確認できる程度にしか見えなくなっていた。とはいえ、それはライブにはよくあることであり、わたしも大して気にせずライブを楽しんでいた。アンコール待ちの間、前方に移動して合流することができたのにしなかったのは、ひとりライブの余韻を味わっていたかったからだ。

そのとき、ふと脳裏をかすめたのは、Kさんが"Last Rebellion"を絶賛するツイートを度々していたことだった。SUM RIZEリリース後も、その楽曲についてツイートすることの多かったKさんであるが、千眼についてはより明確なかたちで称賛を送っていただけに、アンコール用に残されたこの曲をどう観るのだろう、と気になったのだ。それとなく彼を探してみると、前方でもみくちゃになっていただろうに、いまだにコートもマフラーもつけたまま、遠方から駆けつけた友人と談笑していた。


さて、これでようやくわたしが書きたかった「ある光景」に辿りつける。それは時間にするとほんの数秒の出来事ですぎないのだが、些細なことではあっても、これはわたしにしか書き得ないものである。では、つづけよう。


最後の最後に叩きつけられた"Last Rebellion"を前に、疲れ切ってほとんど肩で息をしていた前方のオーディエンスは、残った力を振り絞ってモッシュに興じてはサビで声を張り上げていた。ファストなヴァース、ブリッジの部分では肉体のぶつかりあいがフロアに混沌を生み、サビのタイトルコールになるとその混沌の波が引いてすべての意識がステージへと向かう。その後、ビートの疾走と同時にフロアはふたたび元の坩堝へと戻る。

あれは二番のサビに入ったときだった。オーディエンスのうねりが引いて、視界が開けるとKさんの姿が見えた。それまで上手側にいたのが少し中央に出てきたので目に止まったのだが、ちょうど「This is my! Last Rebellion!!!」のパートでKさんが拳を振り上げているところが見えたのだ。

その光景を目にしたとき、わたしは微笑ましさのような思いを抱いた覚えがあるのだが、振り返ってみるとこれほど感動的な光景はまたとないのではないかと思わずにいられなかった。

かつて同じ時間を共有していたふたりがいま、ステージの上と下にいる。ステージに立つ男は多くのファンに囲まれ、快心の出来であった"Last Rebellion"のタイトルコールを全身に浴びている。一方、ステージの下にいる男は、関係者としての意識からかいちファンとして振る舞うことを自制していたというのに、日頃からもっとも称賛していたこの曲ではやはり、旧友ではなくいちファンとして、その拳を振り上げるに至っている。

これは、友情にとってありうべき最上の姿のひとつではないかと、わたしは思う。それと同時に、芸術作品にとってこれほど完璧な称賛もないのではないか、とも思うのだ。長きにわたって多くを共有してきた旧友の評価ほど厳しいものはないだろう。だからこそ、あの光景は微笑ましくも美しかった。いま、こうして書きながら思い出して、また感動しているほどだ。

もちろん、Kさんは他の曲でも拳を振り上げ声を荒げて歌っていたかもしれないし、コートなどを着たままだったのは単に脱ぐのが面倒だったためかもしれない。それでも、わたしの目に映った限りにおいて、つまりわたしの文脈においては、以上のような「美しい」ものとして、あの光景が目に焼きついたのだった。


KoutaさんはKさんがB!誌に初めて寄稿したとき、こんなツイートをしてエールを送っている。引用しよう。
友人が「夢の舞台」に足を踏み入れていく姿を目の当たりにしながら、何だか夢のような日だなぁ~と感激しているなぅ。それがそいつにとって夢だったかは知らんが、俺にとっては夢だったし、そいつはいつかそこへ行くべきだと思っていたし、なるべくしてそうなったんだろうなとも思える。
学生時代は馬鹿なことばかりしていたというふたりが、ひとりはステージ上のミュージシャンとなり、もうひとりはそのステージを見守るライターとなった。それはふたりそれぞれの夢でもあったが、同時にお互いがお互いの夢をも夢見ていたのだった。そして、この夢はより大きなものに向かって、この先もつづいていくのである。


わたしはふたりを横から眺めていたにすぎないのだが、こればかりはわたしにしか語りようのないことであり、このブログについては義務感のようなものを感じていた。なかなか時間が取れず、また持ち前の怠惰と無能が拍車をかけて、完成が遅れただけでなく思うように書けなかったことにも忸怩たる思いがありはするのだが、ひとまずはこれをもって「ふたりのK」に対するわたしなりの敬意と感謝としたい。


ライブ終了の記念写真。なお、写真はすべてここから頂戴した。



SET LIST
01. Bloody Empire
02. God Of Blind
03. Divided World
04. Cardinal Sin
05. Shades Of Black
06. Bleeding Insanity (new song)
07. Sign
08. Dead Night, Moonlight
09. Black Sun
Encore
10. Eternal Flame
11. Last Rebellion














オマケ。ステージに振ってきたさとつ(END ALL)。



2014-03-01

THOUSAND EYES / Bloody Empire (2013)



以下のブログは、昨年5月~6月に書かれたものを大幅に書きなおしたものだ。

昨年3月にデビューを飾ったTHOUSAND EYES(以下千眼)の『Bloody Empire』は、メロディック・デス・メタルという幅の狭い定型的なスタイルを踏襲しつつも、それを内側から喰い破るかの如き勢いと熱量が内包された会心の傑作だった。

わたしとしては、その魅力の一端を伝えるべく一文をものしてみたのだが、「これぐらいのことは、わたしなどがわざわざ口を挟むまでもなくだれもがわかっていることではないのか?」との思いが強く、忸怩たる思いを引き摺ったまま放置していた。一度、昨年11月のライブがブログ再掲の好機として浮上したものの、肝心のサウンドバランスが悪くて(パフォーマンス自体は優れていたが)消化不良となってしまい、またしてものペンディングとなってしまった。

だが、先日(2月22日)行われた「Tokyo Dark Fest: Wailing Of Nightfall II」のトリを飾った千眼のライブは、あまりにも強烈だった。あれを観て何も書かないなどという選択肢はありえない。デビュー作のリリースから約一年も経ってはいるけど、作品の内実と同時に、その強靭なライブ・パフォーマンスと、わたしが目にした「ある光景」について、ここに書き留めておきたいと思った。そこでまずは、昨年書いたこのブログを再掲することにする。(後半は、ライブレポとしてまたアップするつもりだ。)



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


数多くのサブジャンルを擁するハードロック/ヘヴィメタルの一角に、「メロディック・デス・メタル」というサブジャンルがある。その系譜学的な来歴を語る煩雑は控えて、ここでは「デス声やギターリフなどに体現されている攻撃性と、ギターが奏でるメロディの叙情性、その対比の妙が楽曲にインパクトとドラマティシズムをもたらす類のメタル」と、簡単に定義しておこう。

メタルの一群のなかでは比較的人気も認知度も高い方で、このサブジャンルがなかったら「メタルコア」以降の音楽もなかったであろうことを考えると、サブジャンル史的にも重要な位置づけができるものと言っていい。

しかし、すべての「サブジャンル」が必然的に孕んでしまう問題を、メロディック・デス・メタルというサブジャンルもまた抱えている。類型化の進行や、方法論的洗練のため希薄になるインパクト、個別に作風を深化させることで高くなってしまう敷居、異ジャンルとの混淆によるジャンル的特性の減退など、「継続する/させること」がどうしても直面せざるを得ない問題群がそれだ。(「継続」がなくなること、それはサブジャンルの消滅を意味するのだから、これは当然のことである。)


90年代半ばから、北欧を震源として各地各ジャンルにまでその影響力を波及させたこのサブジャンルも、2000年代に入りその成立から10年を過ぎるころにはもう、「発生~伝播~類型化・洗練・深化・混淆~原点回帰(以下略)」のサイクルが一通り終わっていた。その手の音を求める者にとっては「安心して求めることができる安定したサブジャンル」として、また、そうした音に飽き足らなくなった者にとっては「かつてのような輝きを見出しにくくなったサブジャンル」として、多くのメタル系リスナーに認知されるようになっていた。


今回、ここに紹介するTHOUSAND EYES(以下千眼)は、日本のメロディック・デス・メタル・バンドだ。言うまでもなく、国内にもこの手のバンドはたくさんいて、音楽性が近接しているものを含めると、その全貌はもはや伺い知ることすらできない。もちろん、海外にはそれこそ星の数ほどいるはずだ。そして、彼らは皆、上記した問題群と戦うか、戦わずして敗れている。そんな中にあって、千眼はそのデビュー作『Bloody Empire』をリリースした時点で、すでにトップクラスの仲間入りを果たしてしまったのである。


Bloody Empire

1. Bloody Empire
2. Last Rebellion
3. God Of Blind
4. Shades Of Black
5. Dead Night, Moonlight
6. Sign
7. Divided World
8. Cardinal Sin
9. Eternal Flame
10. Black Sun


実に単純な話なのだが、上記したサブジャンルが抱える問題群をクリアする最良の方法は、「これまでにないくらい良質なものを提供すること」に他ならない。作品の鮮烈さとは結局のところ、その質(クオリティとしての品質と、キャラクターとしての特質、その綜体としての「質」)以外の何ものでもないのだ。千眼はこの正面突破に成功した、稀有な例と言っていいだろう。その上、本作は自らが所属するサブジャンルを解体・再構築する可能性をも秘めた傑作なのだが、まずはそのメンバーを紹介することにしよう。


(l to r) Toru (g), Akira (b), Dougen (vo), Kouta (g), Juhki (dr)

LIGHTNINGのKouta、AFTERZEROのDougenを中心に、大先輩であるYOUTHQUAKE・VOLCANOのAkira、TEARS OF TRAGEDYのToru、KNIGHTS OF ROUNDのJuhkiという、知る人ぞ知る巧者たちが集結してTHOUSAND EYESは結成された。(来歴については、オフィシャルのバイオグラフィを参照してほしい。)純然たる新人ではないが、かと言って単なる寄せ集めでもない。このメンバー構成は、バンドとしての個性に結実するだけの化学反応を引き起こしているからだ。


「メロディック・デス・メタル」と一口に言っても、実際はそれなりに表現の幅がある。基本形は上記したような「攻撃性と叙情性の対比」なのだが、デス声・リフ・リズム・ギターなどに個性が認められる場合、その表現域は(この枠内において)一挙に拡がる。トップクラスのバンドには、花形のヴォーカリストやギタリストやドラマーが必ずいて、そのいずれかが個性豊かなソングライターを兼ねていることを想起すれば十分だろう。

千眼におけるその主要ソングライターは、リーダーでありギタリストであるKoutaだ。ツイートでは大きな影響を受けたアーティストとしてJUDAS PRIEST、MEGADETH、EMERSON, LAKE & PALMER、マイケル・シェンカー、アル・ピトレリなどの名前をよくあげている。DEATHもまた、千眼のバンド名が採られた曲"1,000 Eyes"のバンドとしてその一角を占めているが、デス・メタルよりはスラッシュ・メタルを嗜好しているようだ。また、作曲のパートナーであるDougenも、PANTERAの名前を筆頭に置きながらも70年代~80年代のビッグネームを影響元として挙げている。ふたりとも、自らを「オールドスクール」と言って憚らない。

この「オールドスクール」なる言葉は、いくらかの留保が必要であると同時に、千眼の音楽性を紐解く鍵ともなっている。一口に言うと、彼らは原初のメロディック・デス・メタル・バンドのソングライターたちと影響元は同じで、それが原初のバンド群を教科書としているフォロワー・バンド群との大きな違いとなっている。

もちろん、彼らとてオリジネイターたちからその骨法を学びもしただろうし、また、同時代的な要素に(音楽的好みが「オールドスクール」だからこそ逆説的に)敏感でもあるだろうが、その表現の矛先はあくまでも「攻撃性と叙情性の対比」であって、それをメタルとして音にしたら(世間で言われるところの)メロディック・デス・メタルになった、というのが実情に近いのだと思う。


千眼のこの音楽性は、目的ではなく、結果としてのメロディック・デス・メタルなのだ。音楽制作において、この意識の差は大きい。目的化されたものは何であれ、ともするとその視野を狭めがちだ。それこそが作業を効率化するのだということは容易に理解できるが、芸術は作業ではない。とくに、その霊感は予め期待されたところに生じるものではない。豊かな源泉と、そこから必要なものだけを抽出する直感、理想状態にむけて煮詰めるための手法の選択などが、結果としてひとつの作品に結実するのであって、それが先行する何かと似ているか否かは、こうした制作姿勢をとる者にとっては副次的な要素にすぎない。

ただ、こうしたことを主張する、実際はそうではないバンドは多い。それはそうだ。自らを「オリジナリティのない、ただのフォロワーです」と言うわけがないからだ。でも、音源を聴けば、ライブを観れば、自ずとその判断はつくものだろう。(「正しい」聴き方、観かたがあるというよりは、経験的な知識が判断を容易にするというだけのことで、もちろん、そうした経験知こそが判断の誤りを助長しもするのだが、それはまた別の話だ。)その際、決定的となるのがクオリティ(品質)とキャラクター(特質)であり、千眼においてそれは突出している。


ではここで、楽曲を概観してみよう。収録曲はほぼすべてが疾走チューンであり、それでいて各楽曲がその個性を主張し得るだけの差別化が図られている。当然と言えば当然なのだが、このハードルは思いのほか高く、「多様な楽曲が収められた傑作」と「同系統の楽曲ばかりが収められた傑作」のうち、どちらが希少であるかは言うまでもない。(後者の最高峰がSLAYERの3rdであることもまた、言うまでもないことだ。)

千眼の場合、キャッチーなリフ作りや叙情的なメロディの品質(クオリティ)の高さと、ヴォーカルやツインギターの個性という特質(キャラクター)が絶妙に絡み合い、ただでさえ高い質をさらに上の次元へと、つまりはオリジネイターたちと同等のレベルの高さへと導いている。しかも、メロディック・デス・メタルに留まらない可能性すら感じさせる。


Koutaが主張するように、千眼の武器はDougenのヴォーカルだ。デス声ではなく、フィル・アンセルモ(ex-PANTERA)やビョーン・ストリッド(SOILWORK)のようなスクリーム系の歌唱法をとるDougenのヴォーカルはリズミックな歌い回しが殊の外素晴らしく、歯切れのいい発音と相まって歌声自体がひとつのパーカッシヴな楽器と言えそうなほどなのだ。

そもそも、メタルというジャンルはヴォーカルを楽器のひとつとして定位している節のある音楽なので、音程の正確さもさることながら、リズム感の有無は死活問題と呼べるほどの重要事項なのだ。リフの上に歌をのせる、というのはわれわれ素人が思っている以上に奇妙な行為であって、職人的な熟練と才能溢れる閃きなしには成立し得ない、一種のマジックなのだ。

その上、Dougenはリズム感がいいだけのスクリーマーではない。スクリームでありなおかつ「歌」でもあるという離れ業は、優れた表現力をもったヴォーカリストにおいてのみ見られる現象で、上記のフィル、ビョーンのように世界広しと言えど一握りしか存在しない。逸材中の逸材と断言していいだろう。


ここに、KoutaとToruのツインギターが重なる。現在、技術的に巧いギタリストは素人を含めて、それこそ何万人もいる。故に、技術云々についての言及は左程意味がない。また、ギタープレイだけを楽曲から抜き出して云々することもまた、意味がない。楽曲という文脈のなかでどのような機能をギターが果たしているのか、考えるべきはそこだろう。

ブルータルなリフ、流麗なソロ、美しいハーモニーを縦横に行き来する千眼のギターは聴きどころが多い。メタルは徹底して構築された(クラシック音楽のような)建築的構造物なので、千眼のように緻密を極めたギタープレイはなおのこと映える。しかも、その緻密さは計算されたものにつきまとうありきたりさへと陥ることなしに、激情を迸らせるための理路として機能しているのだ。

それにしても、本作で聴くことのできるギタープレイの充実度は相当なものだ。これはDougenについても言えることだが、音楽的嗜好がオールドスクールだからといって、その発露もそうなるわけではない。(ギターソロ自体がオールドスクールととる考え方もできるが、時代に左右されないメタルにおける基本単位として捉えてもいいと思う。が、これもまた別の話だ。)KoutaとToru両人の「オールドスクール」なソロに古臭さは一切なく、むしろメタルにおけるギターソロの現在形の提示として聴くことができるほどだ。

さらに、千眼の面白いところとして、サビになるとツインギターがリフではなくハーモニーを奏で、Dougenのヴォーカルがリフのようなヘヴィパートとしての働きを為すところがあげられる。それを可能としているのが、上記したようなDougenの巧みなヴォーカリゼイションと、ギターチームの緻密なプレイであることは繰り返すまでもないだろう。


わたしが「メロディック・デス・メタルに留まらない可能性」を見るのは、まさにこの点に拠る。先駆者のなかでまっ先に思い浮かべるのが2000年~2003年ごろのSOILWORKCHILDREN OF BODOMで、当時、彼らの作品を聴いて「メロディック・デス・メタルは新しいステージに進んだ」と思った。また、同時期のIN FLAMESの試行錯誤やARCH ENEMYの「アメリカ対策」的なグルーヴ重視もまた、思い出さずにいられない。

彼ら北欧勢は、典型的なスタイルからそれぞれのやり方で離れたり揺り戻したりしながらメロディック・デス・メタルの枠を押し広げたのだったが、千眼はまったく違うやり方でそれを成し遂げそうな気がするのだ。それだけ、このヴォーカルとギターにわたしは魅力を感じている。哀しみに彩られたメロディと叫びには、それをエネルギーに転化するだけの勢いと熱量が充満している。


こうしたヴォーカルとギターの個性のぶつかり合いを、ベースとドラムのリズム隊が支える。いや、支えるどころか、すべてを一体化して大きなうねりと変換すべく、その手腕を存分に振るっていると言うべきだろう。ベースのAkiraがその経験や知識を活かして千眼に大きなインプットをもたらしたことは想像に難くないし、ドラムのJuhkiがKORとは違ったプレイで躍動していることも見逃せない。

この一糸乱れぬアンサンブルは、バンドとしてひとつにまとまっているからこそ起こり得るマジックなのであって、その「まとまり」とはすなわち、楽曲に他ならない。その各楽曲がどのように輝き、かつわれわれの胸を掻き毟るのかは、各自が実際に音源を聴いて確かめてほしい。


このアルバムを聴いて、何も感じないひとがメタル好きのなかにいるとは思えない。行き詰りやすい音楽性だが、すべての歯車がカチッとはまったときのインパクトは絶大である。ひとりでも多くのひとに聴いてもらいたいし、バンドが頻繁にライブを行えるような環境が整うことを切に願う。


実際の音源の威力は、このクロスフェードの比ではない。必ず音源を直に当たること!


THOUSAND EYES: Official HP / Facebook / Twitter