2014-03-01

THOUSAND EYES / Bloody Empire (2013)



以下のブログは、昨年5月~6月に書かれたものを大幅に書きなおしたものだ。

昨年3月にデビューを飾ったTHOUSAND EYES(以下千眼)の『Bloody Empire』は、メロディック・デス・メタルという幅の狭い定型的なスタイルを踏襲しつつも、それを内側から喰い破るかの如き勢いと熱量が内包された会心の傑作だった。

わたしとしては、その魅力の一端を伝えるべく一文をものしてみたのだが、「これぐらいのことは、わたしなどがわざわざ口を挟むまでもなくだれもがわかっていることではないのか?」との思いが強く、忸怩たる思いを引き摺ったまま放置していた。一度、昨年11月のライブがブログ再掲の好機として浮上したものの、肝心のサウンドバランスが悪くて(パフォーマンス自体は優れていたが)消化不良となってしまい、またしてものペンディングとなってしまった。

だが、先日(2月22日)行われた「Tokyo Dark Fest: Wailing Of Nightfall II」のトリを飾った千眼のライブは、あまりにも強烈だった。あれを観て何も書かないなどという選択肢はありえない。デビュー作のリリースから約一年も経ってはいるけど、作品の内実と同時に、その強靭なライブ・パフォーマンスと、わたしが目にした「ある光景」について、ここに書き留めておきたいと思った。そこでまずは、昨年書いたこのブログを再掲することにする。(後半は、ライブレポとしてまたアップするつもりだ。)



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数多くのサブジャンルを擁するハードロック/ヘヴィメタルの一角に、「メロディック・デス・メタル」というサブジャンルがある。その系譜学的な来歴を語る煩雑は控えて、ここでは「デス声やギターリフなどに体現されている攻撃性と、ギターが奏でるメロディの叙情性、その対比の妙が楽曲にインパクトとドラマティシズムをもたらす類のメタル」と、簡単に定義しておこう。

メタルの一群のなかでは比較的人気も認知度も高い方で、このサブジャンルがなかったら「メタルコア」以降の音楽もなかったであろうことを考えると、サブジャンル史的にも重要な位置づけができるものと言っていい。

しかし、すべての「サブジャンル」が必然的に孕んでしまう問題を、メロディック・デス・メタルというサブジャンルもまた抱えている。類型化の進行や、方法論的洗練のため希薄になるインパクト、個別に作風を深化させることで高くなってしまう敷居、異ジャンルとの混淆によるジャンル的特性の減退など、「継続する/させること」がどうしても直面せざるを得ない問題群がそれだ。(「継続」がなくなること、それはサブジャンルの消滅を意味するのだから、これは当然のことである。)


90年代半ばから、北欧を震源として各地各ジャンルにまでその影響力を波及させたこのサブジャンルも、2000年代に入りその成立から10年を過ぎるころにはもう、「発生~伝播~類型化・洗練・深化・混淆~原点回帰(以下略)」のサイクルが一通り終わっていた。その手の音を求める者にとっては「安心して求めることができる安定したサブジャンル」として、また、そうした音に飽き足らなくなった者にとっては「かつてのような輝きを見出しにくくなったサブジャンル」として、多くのメタル系リスナーに認知されるようになっていた。


今回、ここに紹介するTHOUSAND EYES(以下千眼)は、日本のメロディック・デス・メタル・バンドだ。言うまでもなく、国内にもこの手のバンドはたくさんいて、音楽性が近接しているものを含めると、その全貌はもはや伺い知ることすらできない。もちろん、海外にはそれこそ星の数ほどいるはずだ。そして、彼らは皆、上記した問題群と戦うか、戦わずして敗れている。そんな中にあって、千眼はそのデビュー作『Bloody Empire』をリリースした時点で、すでにトップクラスの仲間入りを果たしてしまったのである。


Bloody Empire

1. Bloody Empire
2. Last Rebellion
3. God Of Blind
4. Shades Of Black
5. Dead Night, Moonlight
6. Sign
7. Divided World
8. Cardinal Sin
9. Eternal Flame
10. Black Sun


実に単純な話なのだが、上記したサブジャンルが抱える問題群をクリアする最良の方法は、「これまでにないくらい良質なものを提供すること」に他ならない。作品の鮮烈さとは結局のところ、その質(クオリティとしての品質と、キャラクターとしての特質、その綜体としての「質」)以外の何ものでもないのだ。千眼はこの正面突破に成功した、稀有な例と言っていいだろう。その上、本作は自らが所属するサブジャンルを解体・再構築する可能性をも秘めた傑作なのだが、まずはそのメンバーを紹介することにしよう。


(l to r) Toru (g), Akira (b), Dougen (vo), Kouta (g), Juhki (dr)

LIGHTNINGのKouta、AFTERZEROのDougenを中心に、大先輩であるYOUTHQUAKE・VOLCANOのAkira、TEARS OF TRAGEDYのToru、KNIGHTS OF ROUNDのJuhkiという、知る人ぞ知る巧者たちが集結してTHOUSAND EYESは結成された。(来歴については、オフィシャルのバイオグラフィを参照してほしい。)純然たる新人ではないが、かと言って単なる寄せ集めでもない。このメンバー構成は、バンドとしての個性に結実するだけの化学反応を引き起こしているからだ。


「メロディック・デス・メタル」と一口に言っても、実際はそれなりに表現の幅がある。基本形は上記したような「攻撃性と叙情性の対比」なのだが、デス声・リフ・リズム・ギターなどに個性が認められる場合、その表現域は(この枠内において)一挙に拡がる。トップクラスのバンドには、花形のヴォーカリストやギタリストやドラマーが必ずいて、そのいずれかが個性豊かなソングライターを兼ねていることを想起すれば十分だろう。

千眼におけるその主要ソングライターは、リーダーでありギタリストであるKoutaだ。ツイートでは大きな影響を受けたアーティストとしてJUDAS PRIEST、MEGADETH、EMERSON, LAKE & PALMER、マイケル・シェンカー、アル・ピトレリなどの名前をよくあげている。DEATHもまた、千眼のバンド名が採られた曲"1,000 Eyes"のバンドとしてその一角を占めているが、デス・メタルよりはスラッシュ・メタルを嗜好しているようだ。また、作曲のパートナーであるDougenも、PANTERAの名前を筆頭に置きながらも70年代~80年代のビッグネームを影響元として挙げている。ふたりとも、自らを「オールドスクール」と言って憚らない。

この「オールドスクール」なる言葉は、いくらかの留保が必要であると同時に、千眼の音楽性を紐解く鍵ともなっている。一口に言うと、彼らは原初のメロディック・デス・メタル・バンドのソングライターたちと影響元は同じで、それが原初のバンド群を教科書としているフォロワー・バンド群との大きな違いとなっている。

もちろん、彼らとてオリジネイターたちからその骨法を学びもしただろうし、また、同時代的な要素に(音楽的好みが「オールドスクール」だからこそ逆説的に)敏感でもあるだろうが、その表現の矛先はあくまでも「攻撃性と叙情性の対比」であって、それをメタルとして音にしたら(世間で言われるところの)メロディック・デス・メタルになった、というのが実情に近いのだと思う。


千眼のこの音楽性は、目的ではなく、結果としてのメロディック・デス・メタルなのだ。音楽制作において、この意識の差は大きい。目的化されたものは何であれ、ともするとその視野を狭めがちだ。それこそが作業を効率化するのだということは容易に理解できるが、芸術は作業ではない。とくに、その霊感は予め期待されたところに生じるものではない。豊かな源泉と、そこから必要なものだけを抽出する直感、理想状態にむけて煮詰めるための手法の選択などが、結果としてひとつの作品に結実するのであって、それが先行する何かと似ているか否かは、こうした制作姿勢をとる者にとっては副次的な要素にすぎない。

ただ、こうしたことを主張する、実際はそうではないバンドは多い。それはそうだ。自らを「オリジナリティのない、ただのフォロワーです」と言うわけがないからだ。でも、音源を聴けば、ライブを観れば、自ずとその判断はつくものだろう。(「正しい」聴き方、観かたがあるというよりは、経験的な知識が判断を容易にするというだけのことで、もちろん、そうした経験知こそが判断の誤りを助長しもするのだが、それはまた別の話だ。)その際、決定的となるのがクオリティ(品質)とキャラクター(特質)であり、千眼においてそれは突出している。


ではここで、楽曲を概観してみよう。収録曲はほぼすべてが疾走チューンであり、それでいて各楽曲がその個性を主張し得るだけの差別化が図られている。当然と言えば当然なのだが、このハードルは思いのほか高く、「多様な楽曲が収められた傑作」と「同系統の楽曲ばかりが収められた傑作」のうち、どちらが希少であるかは言うまでもない。(後者の最高峰がSLAYERの3rdであることもまた、言うまでもないことだ。)

千眼の場合、キャッチーなリフ作りや叙情的なメロディの品質(クオリティ)の高さと、ヴォーカルやツインギターの個性という特質(キャラクター)が絶妙に絡み合い、ただでさえ高い質をさらに上の次元へと、つまりはオリジネイターたちと同等のレベルの高さへと導いている。しかも、メロディック・デス・メタルに留まらない可能性すら感じさせる。


Koutaが主張するように、千眼の武器はDougenのヴォーカルだ。デス声ではなく、フィル・アンセルモ(ex-PANTERA)やビョーン・ストリッド(SOILWORK)のようなスクリーム系の歌唱法をとるDougenのヴォーカルはリズミックな歌い回しが殊の外素晴らしく、歯切れのいい発音と相まって歌声自体がひとつのパーカッシヴな楽器と言えそうなほどなのだ。

そもそも、メタルというジャンルはヴォーカルを楽器のひとつとして定位している節のある音楽なので、音程の正確さもさることながら、リズム感の有無は死活問題と呼べるほどの重要事項なのだ。リフの上に歌をのせる、というのはわれわれ素人が思っている以上に奇妙な行為であって、職人的な熟練と才能溢れる閃きなしには成立し得ない、一種のマジックなのだ。

その上、Dougenはリズム感がいいだけのスクリーマーではない。スクリームでありなおかつ「歌」でもあるという離れ業は、優れた表現力をもったヴォーカリストにおいてのみ見られる現象で、上記のフィル、ビョーンのように世界広しと言えど一握りしか存在しない。逸材中の逸材と断言していいだろう。


ここに、KoutaとToruのツインギターが重なる。現在、技術的に巧いギタリストは素人を含めて、それこそ何万人もいる。故に、技術云々についての言及は左程意味がない。また、ギタープレイだけを楽曲から抜き出して云々することもまた、意味がない。楽曲という文脈のなかでどのような機能をギターが果たしているのか、考えるべきはそこだろう。

ブルータルなリフ、流麗なソロ、美しいハーモニーを縦横に行き来する千眼のギターは聴きどころが多い。メタルは徹底して構築された(クラシック音楽のような)建築的構造物なので、千眼のように緻密を極めたギタープレイはなおのこと映える。しかも、その緻密さは計算されたものにつきまとうありきたりさへと陥ることなしに、激情を迸らせるための理路として機能しているのだ。

それにしても、本作で聴くことのできるギタープレイの充実度は相当なものだ。これはDougenについても言えることだが、音楽的嗜好がオールドスクールだからといって、その発露もそうなるわけではない。(ギターソロ自体がオールドスクールととる考え方もできるが、時代に左右されないメタルにおける基本単位として捉えてもいいと思う。が、これもまた別の話だ。)KoutaとToru両人の「オールドスクール」なソロに古臭さは一切なく、むしろメタルにおけるギターソロの現在形の提示として聴くことができるほどだ。

さらに、千眼の面白いところとして、サビになるとツインギターがリフではなくハーモニーを奏で、Dougenのヴォーカルがリフのようなヘヴィパートとしての働きを為すところがあげられる。それを可能としているのが、上記したようなDougenの巧みなヴォーカリゼイションと、ギターチームの緻密なプレイであることは繰り返すまでもないだろう。


わたしが「メロディック・デス・メタルに留まらない可能性」を見るのは、まさにこの点に拠る。先駆者のなかでまっ先に思い浮かべるのが2000年~2003年ごろのSOILWORKCHILDREN OF BODOMで、当時、彼らの作品を聴いて「メロディック・デス・メタルは新しいステージに進んだ」と思った。また、同時期のIN FLAMESの試行錯誤やARCH ENEMYの「アメリカ対策」的なグルーヴ重視もまた、思い出さずにいられない。

彼ら北欧勢は、典型的なスタイルからそれぞれのやり方で離れたり揺り戻したりしながらメロディック・デス・メタルの枠を押し広げたのだったが、千眼はまったく違うやり方でそれを成し遂げそうな気がするのだ。それだけ、このヴォーカルとギターにわたしは魅力を感じている。哀しみに彩られたメロディと叫びには、それをエネルギーに転化するだけの勢いと熱量が充満している。


こうしたヴォーカルとギターの個性のぶつかり合いを、ベースとドラムのリズム隊が支える。いや、支えるどころか、すべてを一体化して大きなうねりと変換すべく、その手腕を存分に振るっていると言うべきだろう。ベースのAkiraがその経験や知識を活かして千眼に大きなインプットをもたらしたことは想像に難くないし、ドラムのJuhkiがKORとは違ったプレイで躍動していることも見逃せない。

この一糸乱れぬアンサンブルは、バンドとしてひとつにまとまっているからこそ起こり得るマジックなのであって、その「まとまり」とはすなわち、楽曲に他ならない。その各楽曲がどのように輝き、かつわれわれの胸を掻き毟るのかは、各自が実際に音源を聴いて確かめてほしい。


このアルバムを聴いて、何も感じないひとがメタル好きのなかにいるとは思えない。行き詰りやすい音楽性だが、すべての歯車がカチッとはまったときのインパクトは絶大である。ひとりでも多くのひとに聴いてもらいたいし、バンドが頻繁にライブを行えるような環境が整うことを切に願う。


実際の音源の威力は、このクロスフェードの比ではない。必ず音源を直に当たること!


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