2011-04-06

帰省日記・断章

  

まだ地元に住んでいたころ、よく行っていた店もとうとうあとふたつを残してなくなってしまった。帰るたびに、失われたものが自分のこころのどこらへんに配置されていたのか、気づかされる。寂しさや虚しさを感じたことはなく、むしろ、甦った記憶の色彩はより豊かに、こころは少しだけ温かさを感じる。意識が当時の自分に接続されるからだろうか。ならば、現在もまたいつかわたしのこころを温める「当時」となるのだろうか。


すべてが失われてしまう前にできるだけ写真に収めておこう、そのためにカメラを買おう、と口にしたまま二年経った。その間にひとつふたつと失われていく風景は、逆に記憶を呼び寄せてくれてはいる。しかし、それもいずれ消えてしまう。わたしとともに。わたしが何も残さなければ。では、そのわたしに残すことができるだろうか。わからない。


自転車で走り回るのがあまりに好きなためか、運転免許は取らずに終わった学生時代にも、失われたものや失われつつあるものは気にかかっていた。カメラはあったし、いくつか撮りもしたけど、意識はまったく違っていた。ともに自転車で町を走り回る友人がいて、お互いが交わす会話が記憶の再生装置であり、貯蔵庫であり、記憶そのものだったからだ。


わたしたちは、お互いがお互いの図書館でもある。本はやがて傷み、印刷は脂で汚れ、文字の判別が難しくなる。いや、それなら図書館ではなく一冊の本であったか。しかし、各人によって違う自分が読み込まれるのだから、やはり図書館で差し支えはない。ただ、その図書館にある一冊の本を読んでくれるひとが、果たして何人いるだろう。


タロット・カードを「砂漠の民の図書館」と呼んだ/読んだのは誰だっただろう。


かつては友人と自転車で走り回ったこの町を、ひとりきりで走り回ることに違和感がなくなって久しい。それでも、「何か」面白いものを見つけたり、知らなかった道や見過ごしてした道や新しい道に気づいたり、忘れていた何事かを思い出したりすると、語りかけずにはいられない。「こっち行ってみっか」「こんなんあったんか!」「さっきんとこ、もっぺん行ってみよ」「おもろいとこやな~」「どこやったっけ、何か似てんのあったな」


あまりに走り慣れてしまった、必ず走らざるを得ない道においては、アタマは何も感じず考えようともしない。しかし、少しでも非日常の方へ、見慣れぬ路地へ、一目見てこころを「何か」がかすめた道へ向かうと、まるでそれが常態であるかのように忙しく世界を感受し、動き出す。それがいささか腹立たしい。


むかし毎日通った道を行くと、向こう側から当時の自分がやって来る気がしてならない。もしくはそれを幻視する。もしくは幻視したいが故にそれを捏造する。もしくはそう語りたいがために自分を風景に投影しようとする。だが、かつての自分をイメージすることは簡単ではないどころか、集中力を求められるひどく骨の折れる作業だ。そのとき、かつての自分は他人である。それも、決まって不機嫌な顔をした。


不機嫌そうなむかしの自分があちらからやって来ると思いきや、気がつくと並走していた。と、思う間もなく軽々とわたしを抜き去って、蛇行する道に消えていく。わたしは目の前に拡がっている女子高生たちを追い抜こうとするも、次々と刺客のように襲いかかってくる車に遮られて、とてもではないが追いつけない。わたしはむかしの自分を断念する。


必ずと言っていいほど、生家を確認しにそちらの方へ向かってしまう。あらゆる思い出の地がなくなっていくというのに、不思議とあの借家はなくならない。そして、未だにわたしはあの家こそが自分の家だと、どこかで思っている。ささやかな喜びに満たされたあの狭い空間こそが、わたしが帰り、眠りに着くべきところだと、未だに思っているのだ。


風呂場には西日があたるところに窓があった。だから、夏になるとまだ明るいうちに風呂に入ることになって、それがとても好きだった。プールにいるような気分だったのかもしれない。


わたしがこどものとき、父がこどもだったころの話をよく尋ねていた。父の祖父はその地方で有名な立志伝中の人物で、資産家だった。ゆえに、終戦後もなお裕福な暮らしをしており、当時、田舎では珍しかった二階建ての邸宅に住んでいたという。女中も何人かいたそうだ。しかし、その時代も終わりを告げ、父が四年生のころ、こちらに逃げてきたらしい。そのような話をしていた父の年に近づきつつある、という事実を理解はできても実感はできない。しかし、あらゆるものが失われていくことにこれほど寄り添ってくれる記憶もない。誰もが失っていく時間が、風景が、記憶が、モノがあるのだし、その最たるものが、ひとだろう。それも、大切なひとだ。


生きていてなお、失われたように思わされることもある。祖母は、もううちには帰ってこれない。自分の名前も言えなくなってしまったそうだ。かろうじて、父の顔だけは認知できる。それ自体、奇跡のようなことなのだが。


祖母の父は牧師で、出自を辿ると九州の武家らしいのだが、もうわからない。戦前に田舎で牧師をする、父が牧師である、牧師の娘と結婚する、とは、どういったことだったのだろう。牧師に嫁いだ祖母の母は、花を育てるのが好きだったと聞く。わたしの生家の前がまだ畑だったころに撮られた写真を見ると、とても優しい顔をしていた。あの写真は、いまどこにあるのだろう。


祖父の部屋には古いアルバムがある。そこに写っている祖父は黒髪で、白髪の祖父しか見たことのないわたしには奇異に感じる。そして、「本家の一族」と思しき集合写真に言い難い恐怖を感じる。そこに写っている20人近い人物のうち、ほぼ全員を知らないからだ。名前のない、おそらくはもう生きていないたくさんのひとたち。忘れ去られること、誰も判別できないこと、関係がある(あった)のに断絶していること。それはこれまで、ないことはなかった、というほど当たり前に繰り返されてきたことで、この先もおそらく変わりはしない。たとえビデオや写真のファイルから名前がわかり、それがどこのだれでいつからいつまで生きたのかわかったとしても。ただし、わたしが感じたような恐怖は微塵も感じられないだろう。ディスプレイされる画像と、写真という物体の違いだけではない。生きた時代の決定的な差異、家族の歴史という文脈の差異などがあるのだから。ただ、わたしが感じた恐怖はもう少し「わけがわからない」ものである気がしてならないのだが。


ねこを飼っていた、という話もよく聞いた。肥溜に落ちてしまったねこにロープを垂らしてみたら、見事につかまって無事に脱出できた、という話。その死に際で姿を消し、行方がわからなくなった、という話。その夜、父の夢にねこが出てきて畑を示唆し、翌朝向かいの畑に行くとそこで死んでいた、という後日談。


わが家のマリーはねこのような柴犬だった。動きの一つ一つがねこ的だった。そのマリーはうちで死んだ。最期の一ヶ月は、体の痛みに毎日鳴いていた。四月初頭に帰省していたわたしは、安楽死を考えたほどだった。誕生日は迎えられまいと思った。その誕生日まで一週間を切ったころ、いつものように散歩に行こうとした父が死んでいるマリーに気づいた。小屋のなかで体を丸めて寝ているいつもの姿のまま、眠りについていた。寝息と、呼吸による体の小さな上下動がなかったが、それ以前にすぐにわかったという。安らかな姿を、久しぶりに見たからだそうだ。それだけ、最期は苦しそうだった。もはや「ねこ的な」ところはなかった。報せを受けてホッとしたが、送られてきた写真を見て言葉を失った。もうマリーがいないとは、考えられなかった。まだうちで、ねこのように引っくり返っては腹をすかせている姿しか思い浮かばなかった。そして思った。帰省していたころ、少しもマリーを見ようとしなかったことを。見るだけではなく、声を聞くのも辛かったから、うちにもいなかったことを。傍にいようとしたこともあるが、マリーは痛みでそれどころではなくウロウロするか小屋に戻るかだった。切なそうな声をあげながら。わたしは、マリーを見限っていたのだろうか。


マリーの前はマックだった。マックは雪のなか、首輪をはずしてどこかに消えてしまったのだった。雪が溶けてからも探した。方々に連絡しても、それらしき犬は見つからなかった。体が弱くて、何度も手術した犬だった。蚊にやられて、顔がかさぶただらけになったり腹が真っ黒になったりした犬だった。すぐに寝っ転がって甘えてくる犬でもあった。それから一ヶ月以上経って、高校の帰りにマックにそっくりの犬を連れたひととすれ違った。すぐに止まり、犬を振り返った。その犬もわたしを見た。飼い主が綱を引っ張って先を促し、犬はそれに従った。このときなぜ追わなかったのか、なぜ飼い主に話しかけなかったのか、なぜ「マック」と声をかけなかったのか、まったくわからない。それはその日、帰宅してから、いや、その場を去ったその瞬間から、理解できなかった。自分が取り返しのつかないことをしていると、おそらく思っていた。わたしは、あのときマックを見捨てたのだろうか。見なかったことにしたかったのだろうか。その後、数日間は同じ場所にいられるよう、必死で下校時間を調整した。二度と見なかった。うちでも当然、話をした。顔がキレイになってた、と言うと、蚊がいないところなんだ、と応えが返ってきた。あれはマックに違いない、ということになっていた。それから二週間経ったか経たないか、という時期に、突然マリーはやってきた。やってきた、というより、帰ったらいたのだ。祖母は「マックが帰ってきたよ!」と興奮気味に言っていたが、明らかに違う犬だった。祖父が「本家」の誰かから貰ってきた犬だった。叱られて育てられていたのか、あたまを撫でようとすると首をすくめて目を閉じた。名前を考えることになった。色々と考えたあげく、わたしはライチという名前を思いついたが、母がすでにマリーと呼んでいたのでマリーになった。それは、ちょうどマリーが1歳の誕生日を迎えたころだった。前に飼われていた家で、どう呼ばれていたのかは知らない。マックは「モモ」だった。それがどうしてマックになったのか、わたしももう覚えていない。


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2 件のコメント:

  1. 読んでて映像が見えました。
    私、Moonさんの顔も声も知らないのに。

    あくまで私の空想の世界が広がっただけなのですが
    【見える】って素晴らしいです。

    続きをリクエスト!!

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  2. > kanaさん

    前半は帰りの新幹線で書きました。
    後半は帰宅してから書いてると、勝手に脱線していったのです。
    文章というものは、そもそも「そうゆうもの」なんですが。

    去年、マイスペで書いた「レコードによせて」と同じで、
    帰省すると思うことばかりなので、また帰省したら書くでしょう。
    もしくは、何かが不意に甦ってきたら、書かざるを得ないでしょう。

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