2011-11-27

鈴木清順『野獣の青春』(1963) 『花と怒涛』(1964)

     




金曜夜にシネマヴェーラ鈴木清順師の映画を二本見てきたのだけど、
あまりの強烈さに当てられて、いまだにフラフラしている始末である。
この際、何がしかのものを書くことでアタマを冷やすことにしよう。


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『野獣の青春』(1963)


開巻すぐに表示されるタイトルからして映画ファンはニヤリとさせられる。

小津安二郎監督作品のタイトルバックは「麻の布」でつとに有名だが、
それをパロディ化している(それどころか、からかっている?)のだ。
小津映画の、詩的な印象を与えるタイトル表示に一役買っていた麻の布が、
本作では「野獣の青春」なる異様なタイトルを表示させられているあたりに、
すでにして本作のスタイリッシュかつサディスティックな志向が窺える。

オープニング・クレジットが「緑色」という(おそらく)空前絶後の色で映し出される。
その背後ではモノクロの街が息づいており、自然とドラマの始まりにまで接続される。

クレジットが終わるとそこは連れ込み宿の一室で、刑事らしき人物が死体の検分をしている。
遺書の内容から男女の心中事件と結論されるが、男の職業は刑事だった。顔を顰める刑事たち。
セピア色の静止画は薬とコップをのせた小さなテーブルを映す。一輪の椿だけが紅く、目を射る。

一転してカラ―になると、若者のバカ笑いと騒々しいジャズで一挙に画面に勢いが生まれ、
主役である宍戸錠が登場、チンピラに殴りかかり靴に付いた血を倒れた男のシャツで拭い、
パチンコ屋でも同様に一方的に男を殴りつけ、ナイトクラブではボーイをどやしつける。


さて、清順映画の特異性がその本領を発揮するのはここからだ。


ナイトクラブのシーンで、アングルが切り換わると同時に「音」が消える。
何事かと戸惑っていると、マジックミラー越しに何やら語りあう人相の悪い者どもがいる。
どうやら半地下の事務所となっているらしく、画面奥のクラブでは無言劇がつづいている。

ジョーが男たちに連行されると突然スッと照明が消え、左にパンしたキャメラが紫の羽根を映す。
それはダンサー、と言うか裸の踊り子で、以後、その踊り子をバックにやり取りが展開される…。


なんともケレンに満ちたシークェンスだが、奇を衒うことが観客を楽しませることと了解する、
というかそう執拗に「思い込んでいる」清順師らしい、見る者の度肝を抜く奇抜な演出である。

驚くべきことに、オープニングからここまででだいたい5分くらいであろう。本作は92分。
現在、90分以内で映画を作れる監督はあまりいないが、90分くらいの長さが丁度いい。
(音楽も同様に、45分以内の作品を作れるものが減っていることに思い当たる。)


鈴木清順という監督が極めて奇妙な映画を撮ることは、すでに世界的に認知されている。

大胆な色遣い、奇妙なセット、映画的なストーリーの「省略」、どぎつい登場人物など、
「清順印」と言えばとかく「ヘンな」と形容されるケレンに収斂されてしまうのが常だ。

そこをさらに深く見ていくと逆に、これほど映画的な技術を駆使した監督もそうはいない、
と感嘆してしまうような「異端にして正統、だけど結局は異端」という不思議な映画作家、
それが世界中のシネフィルを熱狂させ、そのフィルモグラフィー制覇を欲望させてしまう、
鈴木清順という日活の制作システムのなかで活かされることのついになかった男の概要だ。


いま数えてみたのだけど、清順師の映画をわたしはどうやら21本見ているようだ。
これは少ない。映画だけでも49本あるというのに、半分も見ていないではないか。

スクリーン上で見たものはさらに少ない。これでは師を語る資格などないのだが、続ける。

『野獣の青春』はすでに5回ほどDVDで見ているのだが、それでは映画館で見る1回にも満たぬ。
スクリーン上に映し出された清順映画を見て、つくづく映画は映画館で見るものだと反省した。


映像の圧倒的なスピード感と運動感、矢継ぎ早に繰り出されるセリフとアクションでもって、
絡まりあったプロットの糸が次第にほどけていき、ギャング映画の常套のひとつといっていい型、
つまりハメット『血の収穫』的なそれ(黒澤の『用心棒』と言えばわかるだろう)へと向かいつつ、
それとは別の、仄暗い情念が暴力的かつドライに展開されていくこの無国籍アクション映画は、
いわゆる「ハードボイルド映画」の枠組みを保ちながらもその異形性のため定型から逸脱している。


小林昭二(「仮面ライダー」のおやっさん、である)演じる野本組のボスは登場からして異様だ。
きれいに撫でつけた髪に眼鏡、ウィスキーのグラスを傾けつつペルシャ猫を抱いている姿。
そんな優男風の(女性的な)人物が、ジョーが部屋に入ってきた瞬間にナイフを投げつける。
また、彼がサディスティックな性癖を持った人物であることも順を追ってわかってくる。

川地民夫演じるその野本(小林)の弟、ヒデもこの上なく印象的だ。出番自体は少ないというのに。
兄以上に「女っぽい」喋り方をする(ある登場人物に言わせると)「オカマみたいな」謎めいた若者。
やはり彼もサディスティックなのだが、基本的に内気で「現代的な」青年である。
(この「現代的」はとても重層的な使い方となっているので、解説は割愛。)

江角英明演じる「酒と女には手を出さないガン・マニア」三波も、
コメディ・リリーフのようでいてそうとも言い切れない余韻を残してしまう。

金子信夫演じる「専務」もよくわからない男だ。キレ者のようで実際はアル中らしい。
左腕のない組員、ヤク中のコールガールなど、他にもアクの強い脇役ばかり登場する。


登場人物だけではない。セットから小道具から何から何まで、語り尽くしたくなってしまう。

前述のナイトクラブの事務所。映画館のスクリーンの裏側にある「三光組」の事務所。
ジョーが移り住んだマンションの部屋。航空機のプラモデルがぶら下がった部屋。
赤白半々に塗り分けられた電話。青一色の壁に囲まれた玄関。黄色い砂嵐吹き荒れる戸外。


ダメだ、キリがない。やめておこう。

それに、これはミステリ映画でもあるから、筋書きをなぞるのは憚られる。
ぜひ見てもらいたいが、強烈な暴力描写もあるので多少の覚悟はされたい。


それにしても、妙なタイトルだ。ただ、この「青春」を「純粋さ」と採ると、どうか。
そう、ジョーは「野獣」の如き暴力的な存在ではあるが、ある種の純粋さは保っていた。

その純粋さが失われ、瓦解した内面を晒すかのように茫然とした表情のジョーを映すと、
モノクロのなか毒々しいまでに紅く着色された椿が滲むショットとなって、本作は終わる。

「野獣」の「青春」が、まさに潰えたのだった。この映画は「悲劇」だったのである。



『花と怒涛』(1964)


大海原を何艘もの帆船がゆく映像をバックに、真っ赤な文字でタイトルが表示される。

川の堤防らしき道をゆく花嫁行列と、夕闇のなか大空をゆっくりと横切っていく雲を映し出し、
クレジットが終わると手拭いで顔を隠した小林旭が行列に斬り込んで、花嫁がその名を叫ぶ。

あまりに早い「それから一年」の文字に苦笑するも、「浅草」の文字の向こうに見える塔、
言うまでもなくモダン東京の象徴としてその名も高き「浅草十二階」こと「凌雲閣」に、
それがミニチュアのセットとはいえハッとさせられつつも、これで時代設定が判然とする。

凌雲閣は関東大震災で崩れ去った。ゆえに、本作の舞台は大正年間と考えていいだろう。

その、画面奥の凌雲閣を望む飲み屋街を、こちらに向かって歩いてくる者がいる。
まだまだ庶民は和装が中心の時代にあって、際立った洋装に身を包んだ男である。

鍔広の帽子、裏地が深紅のインバネス(丈の短いマントと心得よ)、白マフラー、
白手袋、白いシャツの袖には金のカフスボタン、という超ド派手ないでたち。
しかも、右の頬には刃物によってついたと思しき傷跡が。手にした杖も怪しい。

それもそのはず、杖は仕込み杖で、その直線的な刀身は日本刀というより西洋刀のようだ。


この異装の男を演じるのが川地民夫。今回は非常に男性的な、冷徹な刺客役である。

刺客に追われる悲劇の男女が、主役である小林旭松原智恵子
旭ことキクは許嫁のおしげを親分から奪い、浅草に身を隠しているのだった。

キクは土方を、おしげは小料理屋の給仕をして糊口を凌いでいるなか、
幾度となく不気味な姿を現しては消えていく、眼光鋭いキレ者の刺客。

その三者の絡みに玉川伊佐夫扮する「鬼刑事」(ただし、おしげにベタ惚れの)、
久保菜穂子扮する「満州で馬賊相手に酌をした」という芸者、万龍が加わり、
それを縦軸にしつつ、その一方でキクが属する組と対立する組の抗争、
および土方連中とのコミカルなやり取りを横軸に、映画は展開していく。

土方連では野呂圭介が目立った。骨壷をカラカラと揺すって「達者か?」と言うのには吹いた。
建築界の大御所、滝沢修も印象的。ああゆう薩長系の人間が良くも悪くも戦前日本を築いたのだ。


『野獣の青春』ほど完成度は高くないものの、この映画も語るべきところは非常に多い。
多少シークェンスにぎこちなさのある箇所も、清順映画の水準からしたら「ふつう」だ。
それよりも、随所に設けられた映画的仕掛けに興奮させられっぱなしなのであった。


木村威夫による美術の「奇妙さ」もさることながら、最大の見せ場は飲み屋のセットだ。
あの、絶妙な角度で調理場と席を分ける仕切り、その空間を最大限に活かした演出の粋。

とくに、刺客である川地が夜中にふらりと飲み屋に立ち寄ったときの息詰まるやり取りは、
セットを活かしきった演出と完璧な画面構成によって、映画にしか為し得ない興奮をもたらす。

階段上の旭と、裏口に面した川地の「不可視の対峙」を同時に映し出したショット、
そこに至るまでの映画的なリズムのなんと素晴らしいことか!と感動した次第である。


終盤、舞台はやすやすと非現実に飛翔するのだが、そこを受け入れられさえすれば、
あなたも鈴木清順を「師」と仰ぐような映画狂になってしまう、かもしれない。



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それにしても、アクション俳優としての宍戸錠と小林旭は間違いなく一流である。
日活にはジムのような施設があったらしいが、あれだけ動ける俳優はいまは少ない。

また、日活独特の「乾いた」世界観がスタイリッシュでたいへん心地よい。
任侠ものも、東映の重く湿ったそれとは打って変わって展開が小気味よい。
(その重さゆえ、終盤に情念が炸裂するのが東映ものの良さなのだが。)


『ツィゴイネルワイゼン』(1980)以降の「芸術路線」清順映画とは違って、
日活時代(とくに中期以降)のそれは「これぞアクション映画!」なのである。
(芸術路線も好きだけど、この時代、とくに60年代ものには敵わない。)


アクション・コメディの傑作『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』(1963)、
野川由美子『肉体の門』(1964)『春婦傳』(1965)『河内カルメン』(1966)、
小林旭『関東無宿』(1963)と高橋英樹『刺青一代』(1965)の任侠もの、
旧制高校を舞台とした青春映画(なのか?)『けんかえれじい』(1966)、
渡哲也の無国籍アクション映画の傑作(怪作?)『東京流れ者』(1966)、
そして師を「謹慎」に追いやった呪われた映画『殺しの烙印』(1967)、
せめてこれくらいは見てほしいものだが、ムリを言ってはいけないか。



師はすでに88歳と高齢である。先日のトークショーにも車椅子で現れたようだが、元気でいるようだ。

それゆえ、新作を夢見ずにはいられない。映画化されなかった台本がいくつも公表されている。
オリヴェイラは90代に10本撮ったではないか。(そろそろ103歳だが、たぶん撮影中だろう。)


宍戸錠もまだまだ元気なようだし、師自身もまだ撮る気でいるようだ。

日活時代中期以降のような、高密度でいて簡単に見ることのできる、
「これぞ清順印」というアクション映画を是が非でも見たいものだ。


シネマヴェーラの「鈴木清順 再起動! - SEIJUN SUZUKI RISES AGAIN!」はもうしばらくつづく。
あと8本くらいは見たいな、と思いタイミングをはかっているところだ。

この2年ほど、映画や映画館から足が遠のきがちだったのだけど、さすがに目が覚めた。
目が潰れても見るべきものは見ておかねばならない。それも、可能な限り映画館で。
そう自分に言い聞かせつつ、これで終わりにするとしよう。


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2 件のコメント:

  1. いつもながら、「映画館へ行きたい」と思わせてくれますねぇ(笑)

    たしか・・・『野獣の青春』は観た記憶があります。
    こちらでは映画のRevivalがないため、もっぱらDVDですが。
    映画館で観ると、また違うものが見えてくるのでしょうね。
    こちらにもそういった趣向の映画館ができればいいのに・・・。

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  2. >kanaさん

    わたし自身、毎日「映画館へ行きたい」と思ってますからね(笑)

    東京は恵まれています。名画座がたくさんありますから。
    もっと行きたいところだけど、なんだかんだでスルーしがち…。
    こうして書くことを通して反省したはいいものの、
    それを次の行動につなげねば・・・とまた反省してます(苦笑)

    ビデオやDVDとは情報量が圧倒的に違う、ということは、
    音楽はライブで、美術作品は美術展で、というのと同じですね。

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