台湾のエクストリーム・メタル・バンド、CHTHONICの新作『武徳 Bú-Tik』がとにかく素晴らしい。
ひとりでも多くのひとに聴いてもらいたいので、以下にご紹介する。
Bú-Tik
1. Arising Armament (Intro)
2. Supreme Pain For The Tyrant
3. Sail Into The Sunset's Fire
4. Next Republic
5. Rage Of My Sword
6. Between Silence And Death
7. Resurrection Pyre
8. Set Fire To The Island
9. Defenders Of Bú-Tik Palace
10. Undying Rearmament (Outro)
「台湾のシンフォニック・ブラック・メタル・バンド」という触れ込みでCHTHONICを知ったのは、
HEAD PHONES PRESIDENTが出演した2007年2月の「indenpendence-D」が最初だっただろうか。
HEAD PHONES PRESIDENTが出演した2007年2月の「indenpendence-D」が最初だっただろうか。
(そのときは観に行けなかったのだけど、BURRN!誌でインタビューを読んで気になった覚えがある。なお、初来日は2000年のフジロックだったはず。2002年に渋谷サイクロン、2004年には原宿アストロホールで来日公演を行っている。)
当時はノルウェーのブラック・メタル・ミュージシャンのようなコープス・ペイントをした彼らが、言い方は悪いけど「色モノ」のようにしか感じられず、音楽的にも興味を惹かれなかった(ブラック・メタルはほんの一握りのバンドしか聴かない)ので、当時ちょうど日本盤がリリースされたばかりの4th『Seediq Bale』も聴くことはなかったのだった。
しかし、2009年の5th『Mirror Of Retribution』でその楽曲の質の高さに驚き、2011年の6th『Takasago Army』では飛躍的なステップ・アップを見せ、同年7月の来日公演(6th発表直後だった)で初めてライブを観てさらにいい印象を持つに至った。すでにして「ブラック・メタル」の面影はなく、もっとも現代的でレベルの高いエクストリーム・メタル・バンドのひとつとなっていた。
そして本作において、CHTHONICはわたしにとって決定的に重要なバンドとなったのである。
そして本作において、CHTHONICはわたしにとって決定的に重要なバンドとなったのである。
前作『高砂軍』が、実在した「高砂軍」をモチーフにした大河ドラマのような長篇小説だったとするならば、本作『武徳』は、20世紀台湾史からいくつかのモチーフを点描した連作短編集と言えるだろう。それも、読み進めていくうちに実は長篇小説と左程変わらないような構造をもった連作形式であり、それどころか、その手法は時間と場所を行き来するために為されたもので、そのドラマティシズムは長篇におけるそれに勝るとも劣らないものだと気づかされる類のものだ。
イントロとアウトロを配し、その間に8曲=8篇の「短篇」がある。
この8曲に通底するテーマが「正義のための戦い」であり、それぞれの曲において「蒋経国暗殺未遂事件」「泰源監獄脱獄事件」「鄭南榕焼身自殺事件」「火燒島監獄暴動」といった具体的な事件や、海賊、清代の反乱、独立のための戦いとその痛み、などが各楽曲のモチーフとなっている。そして、最終曲においてそれら各時代各事件の「戦い」が、あるフィクショナルな人物の目を通して描かれていたことが判明する。連作短編でありつつ長篇的な作品でもあるのは、そのためだ。
『武徳』というタイトルは、戦前日本の大日本武徳会に由来する。武徳会は最終的に戦争翼賛的な団体となってしまい、それ故に戦後、GHQによって解体させられたのだが、もともとは日本古来の様々な武術を「武道」として近代化させたことに大きな功績のある団体だ。
(もっとも有名なのが、「柔術」から「柔道」への改称だろう。)
その武徳会は、日本各地に「武徳殿」なる施設を建設した。現実的な機能としては道場ないし体育館のようなものなのだが、そこに「徳の涵養」という国家儒教的な要素が付与されているため、そこは同時に「神聖な場所」でもあった。
(柔道や剣道など、武道における厳格な礼儀作法を想起されたし。)
そして、その「武徳殿」は日本の(事実上)植民地となっていた地域にも、つまり台湾にも建設された。台湾においても同様に「神聖な場所」であるという。「正義のための戦い」をテーマとするに当たって、そんな神聖にして「戦い」の象徴でもある武徳殿をその中心に定めたようだ。
ただ、かつて日本に支配されていた台湾が、そうした時代の遺物である武徳殿に感じる「神聖さ」がどのようなものなのか、想像することは難しい。われわれ日本人が、キリスト教各宗派の教会や、イスラム教のモスクなどに「神聖さ」を感じたにしても、そこに歴史的な屈折はない。
もしかしたら、CHTHONICはある種の皮肉を込めた上で「武徳殿」を持ち出したのかもしれないと、初めは思っていた。しかし、インタビューを読む限りではそのようなことはないようだ。ということは、台湾の武徳殿には、生活上の実感として何らかの「神聖さ」を未だに放っているに違いない。
話を音楽的な内容にうつそう。
メタルという音楽は、(ロックというジャンルのなかでもとくに)テーマ的に「近代社会の暗部」との親和性が高い。「性と暴力」が多くの楽曲で取り上げられているのは、理の必然なのだ。(その論理/理論は割愛するが、要するに「《はみ出し者》は《社会からはみ出たもの》を扱うのが上手い」ということだ。)
CHTHONICの『武徳』のように、「正義のための戦い」に材を採るバンド/作品は枚挙にいとまがない。それどころか、これを取り扱ったことのないメタル・バンドの方が少ないだろう。にもかかわらず/それとは関係なく、この作品をして孤高の傑作としているのは他でもない「音楽的な質の高さ」だ。その質の高さ/深さをバックアップしつつ、相互浸透的に霊肉一元化しているのが上記のテーマ/モチーフなのである。
彼らの音楽における最大の持ち味として、「東洋的な旋律」が挙げられる。
それは激しいメタル・リフとヴォーカルに、二胡(その他の民族楽器)やキーボードがオリエンタルなメロディで絡む、という手法によって大きな効果をあげている。二胡の響きはそれ自体とても煽情的かつ優雅なもので、舞を舞うようなたおやかさのなかに哀しみや痛みを感じさせることができる。こうした「東洋の音」を巧みに取り入れるアレンジ・センスこそが、CHTHONICをして世界的な個性派たらしめていたのだった。
そこに、ジェシーのギターも加わった。彼もまた、「東洋的な旋律」を奏でるようになったのだ。そうした旋律がモチーフとなっている事件や題材の哀しみを際立たせ、その激情を伝えてくる。しかも、リフやサウンドの増強も図られている。このリフがまたどれも強力で、数も多ければ質も高い。よくぞここまでフックのあるリフが書けるものだと驚嘆するほどだ。さらに言うと、ファストな曲ばかりで占められているのに楽曲ごとの個性が立っており、すべての楽曲においてギターに「見せ場」がある。(表示タイムを書いて「ここ!」といくつも指摘したくなってしまう。)ジェシーはいま、世界でも有数のメタル・ギタリストに成長したと言っていいと思う。
フレディが楽曲の基礎とメインとなる東洋的旋律を作り、それに合わせてジェシーがリフとソロを構築する、という同時進行の共同体制が確立されたのは前作の『高砂軍』からなのだそうだが、それにしてはあまりにも早い完成形の提示であった。(もちろん、それは喜ばしいことだ。)この勢いのまま、世界でも屈指のソングライター・チームとなって名曲を書き継いでくれるだろう。
もちろん、CHTHONICはこのふたりだけではない。ドリス、ダニ、CJの活躍も作を重ねるたびに大きくなっている。(オーケストレーションの完成度の高さはCJの手腕に拠る。)ファストな曲のボトムを支えるリズム隊の充実度があってこそ、上記の「東洋的な旋律」は屈強なリフの上で乱舞できるのだ。2011年の時点でさえ、ドリスとダニがミュージシャンとしてここまで大きく成長するとは、失礼ながらわたしは思っていなかった。うれしい驚きであり、また深い感銘を受けた。
本作が例えようもなく感動的なのは、彼らが定めたテーマ/モチーフと音楽的な手法が、もっとも奥深いところからその表層に至るまで持続的に共振しているためだ。それらは不可分の両輪であり、片方だけで走行することはできない。その疾走は激しくも哀しく、獣と化した人間の無謀な暴走にも思えてくる。その倫理的な切実さに胸を打たれない者はいないだろう。
各楽曲の詳細や特質については、B!誌の前田岳彦氏によるライナーノーツに譲る。
とても充実した内容で、いまさらわたしがつけ加えることはなにひとつない。
ただ、ジャケットのアートワークについては付言しておきたい。
ジャケの女性は「弱い者(女性やこどもや老人)も武器を手に取り正義/平和のために戦おう」というコンセプトの具現化なのだそうだが、わたしはもっと違った寓意としてこれを受けとめた。
体が半‐機械化されたその姿はサイボーグそのもので、古今東西のあらゆるサイボーグ物語がそうであったように、ひとでもなく機械でもないそのグロテスクな存在は、必然的に哀しみを帯びる。
左腕が銃火器となったこの異形の、しかし美しい女性は、CHTHONICそのものではないか?
昂然とした表情/銃火器/刀はその音楽の戦闘性を、滑らかできめ細かい肌をもった美しい女性はその優美な東洋的旋律を、それぞれ象徴しているかのようだ。ただし、その黒髪は漂白され、人種的アイデンティティを剥奪されている。「台湾」という国とも地域とも言いかねる特殊な歴史的経緯をもった彼らの母国がそうであるように。(16世紀に台湾島を発見したポルトガル人が、この島を「フォルモサ(美麗島)」と呼んだことも付け加えるべきかもしれない。)
このジャケを「異形‐CHTHONIC‐台湾」と読み解くのは、わたしの牽強付会だろうか?
(もっとも有名なのが、「柔術」から「柔道」への改称だろう。)
その武徳会は、日本各地に「武徳殿」なる施設を建設した。現実的な機能としては道場ないし体育館のようなものなのだが、そこに「徳の涵養」という国家儒教的な要素が付与されているため、そこは同時に「神聖な場所」でもあった。
(柔道や剣道など、武道における厳格な礼儀作法を想起されたし。)
そして、その「武徳殿」は日本の(事実上)植民地となっていた地域にも、つまり台湾にも建設された。台湾においても同様に「神聖な場所」であるという。「正義のための戦い」をテーマとするに当たって、そんな神聖にして「戦い」の象徴でもある武徳殿をその中心に定めたようだ。
ただ、かつて日本に支配されていた台湾が、そうした時代の遺物である武徳殿に感じる「神聖さ」がどのようなものなのか、想像することは難しい。われわれ日本人が、キリスト教各宗派の教会や、イスラム教のモスクなどに「神聖さ」を感じたにしても、そこに歴史的な屈折はない。
もしかしたら、CHTHONICはある種の皮肉を込めた上で「武徳殿」を持ち出したのかもしれないと、初めは思っていた。しかし、インタビューを読む限りではそのようなことはないようだ。ということは、台湾の武徳殿には、生活上の実感として何らかの「神聖さ」を未だに放っているに違いない。
話を音楽的な内容にうつそう。
メタルという音楽は、(ロックというジャンルのなかでもとくに)テーマ的に「近代社会の暗部」との親和性が高い。「性と暴力」が多くの楽曲で取り上げられているのは、理の必然なのだ。(その論理/理論は割愛するが、要するに「《はみ出し者》は《社会からはみ出たもの》を扱うのが上手い」ということだ。)
CHTHONICの『武徳』のように、「正義のための戦い」に材を採るバンド/作品は枚挙にいとまがない。それどころか、これを取り扱ったことのないメタル・バンドの方が少ないだろう。にもかかわらず/それとは関係なく、この作品をして孤高の傑作としているのは他でもない「音楽的な質の高さ」だ。その質の高さ/深さをバックアップしつつ、相互浸透的に霊肉一元化しているのが上記のテーマ/モチーフなのである。
彼らの音楽における最大の持ち味として、「東洋的な旋律」が挙げられる。
それは激しいメタル・リフとヴォーカルに、二胡(その他の民族楽器)やキーボードがオリエンタルなメロディで絡む、という手法によって大きな効果をあげている。二胡の響きはそれ自体とても煽情的かつ優雅なもので、舞を舞うようなたおやかさのなかに哀しみや痛みを感じさせることができる。こうした「東洋の音」を巧みに取り入れるアレンジ・センスこそが、CHTHONICをして世界的な個性派たらしめていたのだった。
そこに、ジェシーのギターも加わった。彼もまた、「東洋的な旋律」を奏でるようになったのだ。そうした旋律がモチーフとなっている事件や題材の哀しみを際立たせ、その激情を伝えてくる。しかも、リフやサウンドの増強も図られている。このリフがまたどれも強力で、数も多ければ質も高い。よくぞここまでフックのあるリフが書けるものだと驚嘆するほどだ。さらに言うと、ファストな曲ばかりで占められているのに楽曲ごとの個性が立っており、すべての楽曲においてギターに「見せ場」がある。(表示タイムを書いて「ここ!」といくつも指摘したくなってしまう。)ジェシーはいま、世界でも有数のメタル・ギタリストに成長したと言っていいと思う。
フレディが楽曲の基礎とメインとなる東洋的旋律を作り、それに合わせてジェシーがリフとソロを構築する、という同時進行の共同体制が確立されたのは前作の『高砂軍』からなのだそうだが、それにしてはあまりにも早い完成形の提示であった。(もちろん、それは喜ばしいことだ。)この勢いのまま、世界でも屈指のソングライター・チームとなって名曲を書き継いでくれるだろう。
もちろん、CHTHONICはこのふたりだけではない。ドリス、ダニ、CJの活躍も作を重ねるたびに大きくなっている。(オーケストレーションの完成度の高さはCJの手腕に拠る。)ファストな曲のボトムを支えるリズム隊の充実度があってこそ、上記の「東洋的な旋律」は屈強なリフの上で乱舞できるのだ。2011年の時点でさえ、ドリスとダニがミュージシャンとしてここまで大きく成長するとは、失礼ながらわたしは思っていなかった。うれしい驚きであり、また深い感銘を受けた。
本作が例えようもなく感動的なのは、彼らが定めたテーマ/モチーフと音楽的な手法が、もっとも奥深いところからその表層に至るまで持続的に共振しているためだ。それらは不可分の両輪であり、片方だけで走行することはできない。その疾走は激しくも哀しく、獣と化した人間の無謀な暴走にも思えてくる。その倫理的な切実さに胸を打たれない者はいないだろう。
各楽曲の詳細や特質については、B!誌の前田岳彦氏によるライナーノーツに譲る。
とても充実した内容で、いまさらわたしがつけ加えることはなにひとつない。
ただ、ジャケットのアートワークについては付言しておきたい。
ジャケの女性は「弱い者(女性やこどもや老人)も武器を手に取り正義/平和のために戦おう」というコンセプトの具現化なのだそうだが、わたしはもっと違った寓意としてこれを受けとめた。
体が半‐機械化されたその姿はサイボーグそのもので、古今東西のあらゆるサイボーグ物語がそうであったように、ひとでもなく機械でもないそのグロテスクな存在は、必然的に哀しみを帯びる。
左腕が銃火器となったこの異形の、しかし美しい女性は、CHTHONICそのものではないか?
昂然とした表情/銃火器/刀はその音楽の戦闘性を、滑らかできめ細かい肌をもった美しい女性はその優美な東洋的旋律を、それぞれ象徴しているかのようだ。ただし、その黒髪は漂白され、人種的アイデンティティを剥奪されている。「台湾」という国とも地域とも言いかねる特殊な歴史的経緯をもった彼らの母国がそうであるように。(16世紀に台湾島を発見したポルトガル人が、この島を「フォルモサ(美麗島)」と呼んだことも付け加えるべきかもしれない。)
このジャケを「異形‐CHTHONIC‐台湾」と読み解くのは、わたしの牽強付会だろうか?
いずれにせよ、本作は近年稀にみる傑作メタル・アルバムだ。
ひとりでも多くのひとに聴いてもらいたい。
オフィシャルがアップしているMVを貼っておこう。アルバム収録と同じ順にした。
イントロ~リフの炸裂でつかみは完璧。一部の隙もない。メイキングはこちら。
TURISASのような雄々しい曲。ライブ映えすること間違いなし。メイキングはこちら。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
蛇足ながら、台湾の複雑な歴史を知るための書籍と映画をご紹介したい。
台湾は複雑だ。世代や本省人/外省人/原住民といった帰属意識など、様々なヴァリエーションがあることをじっくりと実感するには時間のかかる読み物が、とくに小説が最適だろう。二冊だけ紹介しておく。それだけだと重いので、ライトなものもついでに。
・朱天心『古都』・・・中短篇集。川端康成『古都』とリンク。京都好きはぜひ。(amazon)
台湾は複雑だ。世代や本省人/外省人/原住民といった帰属意識など、様々なヴァリエーションがあることをじっくりと実感するには時間のかかる読み物が、とくに小説が最適だろう。二冊だけ紹介しておく。それだけだと重いので、ライトなものもついでに。
・朱天心『古都』・・・中短篇集。川端康成『古都』とリンク。京都好きはぜひ。(amazon)
・龍應台『台湾海峡一九四九』・・・ノンフィクションだが、小説としても読める。重量級。(amazon)
・片倉佳史『台湾に生きている「日本」』・・・新書。ルポタージュ。軽く読める。(amazon)
台湾映画はなにはさておきエドワード・ヤンとホウ・シャオシェンである。
DVD化されているものだけ紹介しておこう。(レンタル可能な店はかなり限られるけど…。)
・エドワード・ヤン『エドワード・ヤンの恋愛時代』(1994)・・・早い話が「トレンディ・ドラマ」。演出完璧。
・エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)・・・群像劇。あまりに自然な「日本」の登場。
・ホウ・シャオシェン『冬冬の夏休み』(1984)・・・少年の夏休み。ラストショットの童謡に絶対泣く。
・ホウ・シャオシェン『悲情城市』(1989)・・・二二八事件を扱った歴史大作。
未見ながら、CHTHONICの4thと同じ題材の『セデック・バレ』という映画が今年の春に公開された。いまは名前だけでも覚えておいて、いつか見よう。
日本人なら必ず、これら台湾の作品に(必ずと言っていいほど!)登場する「日本」の異貌に不意打ちされることだろう。そこには少なからぬ痛みと喜びが、そして妙なむず痒さがあるはずだ。できるだけ、その作品群に触れてもらいたい。
わたしとしては、いつか台湾に行ってみたいと思っている。
・片倉佳史『台湾に生きている「日本」』・・・新書。ルポタージュ。軽く読める。(amazon)
台湾映画はなにはさておきエドワード・ヤンとホウ・シャオシェンである。
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未見ながら、CHTHONICの4thと同じ題材の『セデック・バレ』という映画が今年の春に公開された。いまは名前だけでも覚えておいて、いつか見よう。
日本人なら必ず、これら台湾の作品に(必ずと言っていいほど!)登場する「日本」の異貌に不意打ちされることだろう。そこには少なからぬ痛みと喜びが、そして妙なむず痒さがあるはずだ。できるだけ、その作品群に触れてもらいたい。
わたしとしては、いつか台湾に行ってみたいと思っている。