国立新美術館にて開催されている「貴婦人と一角獣」展を観てきた。
期待に違わぬ、いやそれどころかそれを上回る素晴らしいものだった。
おそらく、この連作すべてが今世紀中に再来日することはないと思われる。
東京ないし大阪で見逃した方は、ぜひともパリのクリュニー中世美術館へ赴くがよろしい。
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わたしが、作者不詳のこの「貴婦人と一角獣」タピスリー連作を知ったのは、学生時代だった。大学図書館で画集を眺めていたら出てきたのだ。そのときの印象は、いかにもルネサンス前の中世欧州らしい、牧歌的な作品というものでしかなかった。
このタピスリー連作と真に出会ったのは、堀田善衛の『美(うるわ)しきもの見し人は』(1969)を読んだときと言える。古今東西の「美しきもの」を、「なるべく努力をしない、勉強をしない」ように「できるだけ、自分の自然を保って」語ったこの名著は、それまで専門的な美術研究書や美学関連の思想書ばかり読んでいたわたしにとって、目から鱗の一冊となったのだった。
その12章「美(うるわ)し、フランス LA DOUCE FRANCE」で、この「貴婦人と一角獣」タピスリー連作が、中部フランスの静かで優しい景観を表象するものとして紹介されているのだ。
(なお、タピスリー/tapisserieは仏語。一般に使われるタペストリー/tapestryは英語である。)
一角獣の優しげな表情がとりわけ微笑ましいこのタピスリーについて、(ボッティチェリの「妖」といった印象とは違うと断りつつ)「幾分の謎がのこるという心持に見る者を誘う」と堀田は書いている。わたしは一角獣やそのまわりの動植物のかわいらしさに魅せられていたため、この「謎」という言葉には不意をつかれた覚えがある。
そして、実際にタピスリーをこの目で見た今となっては、まさしく「謎」という言葉こそがこの「La Dame à la Licorne」連作にもっとも相応しいのだと思えてならない。
ところで、一角獣といえば「角のある馬」と思われているだろうが、実はもう少し複雑で、「頭部と胴は馬、後ろ脚はカモシカ、尻尾はライオン、髭はヤギ」という構成が一般的だ。(細かい異同や時代・地域による差もあって、例えば翼を生やしている場合もあるらしい。)色も白と相場は決まっているものの、茶色や黄褐色で描かれていた時期もけっこう長く、他の幻獣と同様にその受容ならびにイメージの変遷は、なかなかに手強い。
(もっとも簡潔な解説として、澁澤龍彦の「一角獣について」を挙げておこう。『記憶の遠近法』所収。)
一角獣(ユニコーン)に限らず、ペガサス、グリフォン、ドラゴン、スフィンクス、セイレーン、ケンタウロス、キマイラ、ケルベロスといった幻獣たちは、様々な動物の部分から成る合成獣としての禍々しさとはまた別に、どこかしらひとを惹きつけてやまない魅力を持っている。そのなかでも、わたしは幼少のころから一角獣への思い入れが妙に強かった。今回、この美術展を観ながら、そんなはるか昔のことをも思い出していたのだけど、それは置いておこう。以下に、連作を順番に語っていくことにする。
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Le Toucher (Touch / 触覚)
連作は「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」と五感の距離順に、すなわち対象をそれと認知・感覚するに必要な距離が短い順に並べられている。それなら味覚がいちばん先になりそうだが、どうやらこの「触覚」が最初期に制作されたものと目されているため、これが「連作その一」だ。
(なお、聴覚と視覚の順も微妙なところだけど、ここは認識における視覚の優位のためだろう。)
他の作品との大きな異同は獅子の顔と貴婦人の髪型、そして貴婦人自らが旗を持っている点だ。この作品が最初のものとされている理由のひとつとして、その三点が挙げられる。裏を返すと、それ以外は多くの点において共通項があり、印象も近いものがあるということだ。
赤地に千花模様(ミル・フルール / Mille Fleur)のなか、円形の庭園が島のように浮かんでいて、そこの中央に貴婦人が、傍らに獅子と一角獣がいる。ル・ヴィスト家の紋章入り四角旗や楯が目をひく。四本の果樹と、様々な動植物が庭園を取り囲んでいる。といったことが大きな共通項だ。(もちろん、細かな異同が多々あって、そのことがこの連作をより魅力的にしている。)
この「触覚」で、貴婦人は一角獣の角に優しく触れている。掴んでいるのではない。掌をなかば広げたまま、親指と人差し指をそっと添えるような具合で、小指はどうやら角に触れているようだが、中指と薬指は角から離れたままに見える。一角獣は貴婦人(もしくは旗)を見つめ、貴婦人はあらぬ方向を向いている。人間のような顔をした獅子が「こちら」を見ている…。(その顔はかなり不気味だ。)
一目見て驚かされたのが、貴婦人のリアリスティックな描写だ。顔には皺も描かれていて、この婦人が決して若くはないことを容易に知らしめている。女君主とでも言おうか、威風堂々とした趣きがあって、その表情には狷介さもあらわれている。頂点に立つ者の孤独も感じさせる。しかし、だからこそ一角獣にそえられた左手が、重要性を帯びてくるのだ。
褪色の進んだ赤と違い(その「枯れた」色がまたいいのだが)、深みのある青が印象に強かった。庭園の草花ひとつひとつが、現実的な描写だけでなく現代的な意味における「デザイン」としても優れていて、いたく感心させられたのだった。
しかし、その「感心」は連作を見るにつれて、どこか「当惑」にも似た思いに変わっていくのだった。
Le Goût (Taste / 味覚)
「連作その二」は「味覚」だ。横長で他の連作よりも大きい。ここから侍女も登場する。
でも、大枠では同じだ。庭園、貴婦人、獅子と一角獣、紋章、動植物…。
貴婦人がオウムにえさを与えていて、猿がなにかの実を食べている。だから「味覚」とされる。
獅子と一角獣のデザインが、随分と違うことに気づかされる。獅子は横を向き、一角獣は「こちら」を(いや、少し正面からは逸れたところを)見ている。獅子は「触覚」とは打って変わって実物の獅子の顔に近づいているし、一角獣はほぼ「美しい白馬」と言って差し支えない。その表情からは、優しさよりも逞しさが窺える。
また、旗を支える両者のポーズはシンメトリーになっているため、図像的に緊密な構成となっている。ペットの犬(明らかに他の犬と種類が違う)と侍女もやはり、その視線と姿勢においてシンメトリーを形成しているのが興味深い。
若い貴婦人は堂々としていて、凛々しさがある。(20代後半だろうか。)「触覚」の貴婦人ほどの威圧するような貫録とは違った、しなやかさを感じさせる。侍女とペットは、そんなご主人に見惚れているように見えてくるほどだ。その装身具を見るにつけ、両者ともに貴婦人の寵愛を受けていることが察せられる。見惚れるのも当然だろう。
そう言えば、「触覚」の貴婦人と面立ちが似ているかもしれない。親子?親戚?それとも、同じ座を占めたがゆえの責務が、彼女たちの同質性を強めているのだろうか。
(庭園の内と外で、ウサギたちがひそひそ話を始めた…。)
L'Odorat (Smell / 嗅覚)
縦長ではなく、横が短い。そのため、庭園がやや窮屈に見える。
貴婦人は花輪を編んでいて、猿が花の匂いを嗅いでいる。これが「嗅覚」だ。
獅子の楯の紋章だけ「逆」になっているのが不可解である。その獅子は、顔がまた人間的になった。ただ、「触覚」の獅子のような不気味な印象はなく、まるで若い小姓のような美しさがある。ほとんど少年と言っていいくらいの…。一方の一角獣もまた、顔が人間的なものになっている。ただ、うっとりと細められた目と山羊髯のためか、好々爺にも見えてくる。
貴婦人は髪の毛をほとんど隠している。顔を見ると若い。20歳くらいだろうか。直立のようでいてほんの少しだけS字型のポーズになっているためか、少し東洋風に見えてくる。(例えば、アジャンター石窟寺院の菩薩像。)花に向けた目を、少し細めている。花輪作りに夢中になっているようだ。
逆に、その貴婦人を見る侍女の目ははっきりと見開かれており、ぶしつけなほど直截に貴婦人へと視線を向けている。表情は硬く、直立姿勢のまま、どこか若い貴婦人への「抵抗」を感じさせるほどに…。
この「嗅覚」もシンメトリーが多く、とくに庭園外の小動物たちがほぼ対照的に配置されているため、図像の安定感も高い。これでひとつの結界を形成しているかのようだ。庭園を守るための、小さきものたちから成る布陣。しかし、不穏分子は庭園内にこそいるのではないか…?
(ウサギたちは、どうもお互いに情報交換をしているようだ…。)
L'Ouïe (Hearing / 聴覚)
これまた縦長ではなく、横が短い作品。庭園の窮屈さをオルガンの存在感が打ち消している。
そのオルガンを貴婦人が弾いていて、獅子と一角獣が耳を傾けている。ゆえに「聴覚」。
「嗅覚」では庭園外に結界を作っていた小動物たちが、ここでは園内に潜り込んで布陣をしいている。しかし、すでにして脅威はなく、侍女は日々の疲れでやつれているようにさえ見える。「お嬢さま、まだお続けになるのですか?」とでも言わんばかりの顔をして、ふいごの取っ手を握っている。
そのお嬢さま、すなわち貴婦人はとても若く、まだ10代といったところ。とても凝った髪型をこしらえている。かたちのいい丸い額は、「嗅覚」の貴婦人とそっくりだ。姉妹なのだろう。ただし、この「お嬢さま」はどこかしら夢見がちな姉と違い、なにやら野心的な顔つきをしている。オルガンを弾くにあたり、なにか算段でもあるのだろうか?(やつれた侍女の疲れは、そこに端を発しているのではないか?)
獅子はふたたび、やや不気味な顔になっている。この秘密は口外できないとかたく口をつぐんだ、若き廷臣にも見える。一角獣はここでまた「白馬」となっているのだが、なぜか後ろ脚がオルガン(獅子と一角獣の飾りつき!)の陰に隠れている。その表情には、驚きすら窺えはしないか?(これはさしずめ、初めて秘密を悟った老宰相といったところか。)
そもそも、この獅子と一角獣はおかしいところだらけだ。支える旗のかたちが獅子と一角獣とで逆になっている上に、体の向きが貴婦人の方を向いていない。ほとんど背を向けているほどだ。これはどうしたことだろう。(慌てでもして間違えたとでも?)これが臣下の所業であろうか。それとも、何らかの突発的な感情のあらわれなのか?だとしたら、余程の事態を察してしまったのだろう。旗の陰に、無意識的に隠れようとしている…。
よくよく見てみると、侍女の装身具はシンプルながらも豪華だ。「姉」の侍女とはわけが違う。これは何を意味するのか?(口止め料?いや、年嵩の侍女なら持っていてもおかしくはない…。)
(ウサギが一匹、まっすぐ「こちら」を向いている。これは警戒か、それとも…?)
La Vue (Sight / 視覚)
この作品だけ、縦横の長さがほぼ同じくらいになっている。
侍女がいない。旗は一本。果樹も二本だけ。庭園のかたちもややいびつ。
鏡が登場する。貴婦人と一角獣が、小動物たちが見つめ合っている。「視覚」と呼ばれる所以だ。
獅子と一角獣は、「触覚」のそれにもっとも近い。獅子は人間のような顔をしていて、一角獣は優しげな表情を浮かべている。ただ、獅子はあらぬ方向を向いている。(なにか見つけたようにも、貴婦人と一角獣から目をそらしているようにも見える。彼もまた廷臣の一角なのだろうか。)柔和な顔をした一角獣は貴婦人のドレスをたくしあげ、庭園に座る貴婦人の膝の上にその前足をちょこんと置いている。無邪気なようにも、それを装っているようにも見える。
貴婦人は、明らかに若くない。一角獣に向けられている目には、どこか冷淡で無関心な色がある。しかも、寝不足のためか目蓋が腫れぼったい。(それでも、凝った髪型をこしらえさせるだけの気力はあったようだ。)一角獣を引き寄せているのか、それともかるく押し止めているのか判然としないが、左手は一角獣の体にかけられている。右手には鏡。鏡像には一角獣。(彼はこの像に気づいているのか?)
貴婦人は、戯れに鏡を向けたのだろうか。(鏡像を理解できる、知能の高い動物は限られる。)だとしたら、それは危険な行為だったかもしれない。その誇りの高さで有名な一角獣を怒らせてしまっては大変だ。しかし、そんな恐れはないのだろう。だとしたら、なぜ?この鏡の向け方は、まるで護符を差し出しているかのようだ。それでなにを退散させたいのだろうか。
一角獣は処女の膝枕に眠るという。しかし、この貴婦人がその適任にあるとは思えない。また、視線を交わしていながら(それも、鏡さえ動員して!)、「触覚」以上に触れあっているとは何事であろう。それに、こうも近づいていたら、お互いの匂いさえ分かろうというもの…。
この貴婦人もまた、どこかオリエンタルな肢体に通ずる「柔らかさ」がありはしないか。いや、むしろ「嗅覚」の若い貴婦人以上に、アジャンター石窟寺院の菩薩像に近い。官能的、煽情的とまではいかないものの、平面的な図像の裏側に、そうしたエロティックな水脈の気配がある。
(髪型は先の「姉妹」と同じ。彼女が教えたのだろうか。顔は似ていない。伯母か親戚?)
小動物たちもまた、意味ありげな視線を交わし合っている。
(庭園のウサギが一匹、やはり「こちら」をじっと見ている…。)
Mon seul désir (我が唯一の望み)
「味覚」同様、横長の作品。いちばん色鮮やかな、綺麗なタピスリーだ。
これだけ作品名がある。天幕の文字から採られた。曰く、「我が唯一の望み」。
構図の緊密さは一、二を争う出来だろう。そして、たいていのひとはこれを採る。それも頷ける。
貴婦人‐獅子‐一角獣の三角形を、貴婦人‐侍女‐ペットの犬の三角形と、天幕‐獅子‐一角獣の三角形が補強する。さらにダメ押しで、天幕のロープが明確な三角形を形作る。これらのピラミッドを、直立する果樹と旗竿が引き立てる。白い小動物の点描が、この構図にアクセントをつける。
これまでの「五感」の連作とは見た目の感触が異なる。登場人物に「動き」を感じないのだ。だから、「物語」も動かない。これは連作の「ゴール」であり、大団円のラストショットなのだ。すでに「物語」は終わっているのである。
貴婦人は「嗅覚」「聴覚」の姉妹に、少し似ている。でも、それほど強い結びつきは感じない。
獅子と一角獣はピタリと動きを止めている。獅子など、いかにも図式的な獅子の顔になっているし、一角獣もまるで紋章のような図式性に落ち着いている。
侍女の髪型がより大胆になっていること(前の貴婦人と同じ髪型!)、ペットの犬があらぬ方向を見やっていること、気がかりなのはそれくらいだろう。やはり、すでに「なにか」は終わっており、すべては平穏無事な地点へと着地したに違いない…。
このタピスリー連作は、結婚の引出物と想定されている。「我が唯一の望み」とは「あなた」、つまり求婚相手のことだ。一角獣はここでは、新婦の処女性や純潔を表象する象徴として機能している。
(ただし、一角獣の象徴は極めて多義的かつ重層的であり、内容も幅広い双極的な領域に及ぶ。)
しかし、この連作は中世の風俗絵巻的な「ただの工芸品」に収まる代物ではない。図像的な見事さもさることながら、ここに表現された内容は、そこはかとない物語性を否が応でも導き出す。それも、非常に謎めいた物語であり、連作の内部で様々な円環を形成していくそれは、最終的に「いったい、わたしは何を見ているのか?」という当惑へと見る者を連れ去っていく。
見れば見るほど、この登場人物たちが実在の人物と思えて仕方なくなる。獅子や一角獣はもちろんのこと、小動物たちもなんらかのモデルがあるのではないか。とはいえ、これらの登場人物たちは寓意的な人物像であり、もしくは寓意そのものであるとされている。(作者すら不明なのに、モデル探しなどできるわけがないという事情もあるにはあるだろう。)
それにしたって、と口を継ぎたくなるのは、あまりに彼らが生き生きとしているためだ。
ふつう、中世の図像は平面的かつ図式的なもので、(後世が言うところの)リアリズムの見地からするとナイーヴかつイノセントな表現に見えることがほとんどだ。(フラ・アンジェリコのような例外もいるけれども。)
しかし、この「貴婦人と一角獣」連作は、図式的な色合いは残しつつも、ほぼ全編に渡ってリアリズムに徹していると言っていい。しかも、同時代のタピスリーと比べて異質の物語性を持っている。幾重にも「例外」が積み重ねられている。
ニュー・ヨークのメトロポリタン美術館には、同時代の「一角獣狩り」タピスリー連作がある。明確な物語性を持ったこの連作は登場人物も多く、図像的により煩雑で(そこがいいのだが)、「貴婦人と一角獣」のような構図の簡潔さや、語りを生む「余白」がない。また、その描写はより図式的なもので、リアリズムは部分にとどまる。
ただ、だからと言ってリアリスティックな人物造型や、簡潔な構図といった特徴だけが、あのような「物語」を導き出しているのではないはずだ。端的に言って、ここには制作者のなんらかの意図があると思われる。いや、「意図」では意味が強すぎるかもしれない。「わかるひとにはわかる」仄めかし、くらいのものだろう。図像的な寓意表現と、内輪の貴族社会に向けた「目配せ」との、ダブル・ミーニングになっているのではないか。そうでもなければ、あれほど「物語」が動くとは思えないのだが…。
(トレイシー・シュヴァリエが小説『貴婦人と一角獣』で、おそらくこの「物語」をフル活用しているはずだ。未読ではあるものの、ご紹介しておく。)
一角獣をめぐる図像表現には、「宮廷内恋愛」という寓意もある。上述の「処女性」を筆頭とする象徴の多義性に拠るもので、当時の流行りとだけ簡単に思っていればいいだろう。それほど複雑な経緯はない。この連作に、そうした恋愛的な仄めかしがあることは、それとなく書き継いできた。「視覚」ではよりわかりやすく書いたほどだ。そして、それ自体は左程重要なことではない。「謎」という印象にとっては。
上述した物語性の実像が不透明なこと、それを「謎」と呼んでいるのではない。仮に、作者やモデルの詳細が文書などの発見によって完全に判明したとしても、この「謎」は消えはしない。というのは、この連作がすでにひとつの小宇宙であって、現実などいう「外部」を持たないからだ。
連作は、お互いのイメージの還流によってその内奥を充足させている。見れば見るほどその類似点・相違点の坩堝に巻きこまれ、あれこれと視線をさまよわせつづけた挙句、自分が目にしているものが何なのか、とうとうわからなくなってしまう。うっすらと全体を覆う物語性は、そのような意味の消失点へと離陸を促す補助線にすぎないのだ。
連作を見る‐図像を読む‐物語を引き出す、ここまではふつうの寓意画だが、ここではループが生じるため世界が内部で強化されつづける。その結果、「見る‐読む‐物語」ループから意味の消失ないし存在論的な混乱へと至る。このとき生じる漠然とした感覚を、「謎」と呼んだのだ。そこにはエロティックな、しかし透明なイノセンスがある…。
実に奇妙な感覚だった。「透明なエロティシズム」は字義的に矛盾でもあるだろうが、この連作はそう呼びたくなる「存在」だったのだ。寓意表現という象徴言語を脱した、作品そのものの存在の強度が開示する「謎」。
すべての真なる芸術作品は、「謎」を開示する「謎」である。
人間社会ではなく、世界いや宇宙に属するこの「謎」のはかり知れない深さ(存在の崩落点とでも言うか…)、これを垣間見れただけでもう十分だろう。
あとはただひたすらこの庭園のひとびとを眺め、心地よい訝しさのなかを漂っていたいものである。