2014-06-30

W. Axl Rose (vol.2): on his romantic vision



前回のつづきです。少しおさらい。

GUNS N' ROSES(以下ガンズ)のヴォーカリスト、アクセル・ローズをわたしはこう評しました。
アクセル・ローズというひとは典型的?なアメリカ型の天才ですよね。歴史を無化する表層性(ポップさ)や、誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さや、傍若無人な振る舞いに通底するある種の無垢といったものが、一貫して見受けられます。ロック史だけではなく、もっと大きな枠組みで捉え直したいひとです。
①表層性、②ヴィジョンの巨大さ、③無垢、この3点を挙げた上で、これを「アメリカ型の天才」とわかったようなわからないような言い方で括り、そこに「典型的?」と保留のようなクエスチョンをつけて、まあ逃げ切ったわけです。

このツイートに反応してくださった白玉さんのブログ「無垢」を受けて、解説を始めたのが前回のブログでした。そこでは③無垢を、一種の「原型的な力」として紐解くことで終わったのですが、今回は②です。

①②は大きな問題というか文脈との接合が不可欠となります。その大きな文脈が、「アメリカ」です。今回は、彼のヴィジョンの特質を語ることで「アメリカ」という汎世界性へと言及し、次回へとつなぎたいと思っております。では、始めましょう。


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「誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さ」をこう言い換えると、なにかピンと来るかもしれません。

「大陸的なスケール感」「スケールの大きい」「雄大な景色が目に浮かぶような」

アメリカのバンド/アーティストの作品/楽曲をこのように評している文章はたいへん多く、読んだことのないひとはいないのではないかと思われるほどです。確かに、南部や西海岸の音楽特有のゆったりとしたリズムや、たっぷりと新鮮な空気を肺にとりこんで歌っていそうな心地よい歌声や、愛や自由が大らかに称賛される歌詞といった、いかにもアメリカらしい「(もっともいい意味における)大味さ」を表現するのに、アメリカ大陸という広大なランドスケープを比喩・象徴・寓意として用いるのはわかりやすくて効果的ですし、実際、正しい認識でもありましょう。
(一方、だからこそニューヨーク出身のミュージシャンの個性が、「非アメリカ-反アメリカ-超アメリカ」的な例外として際立っていることに、留意しておきましょう)

もちろん、あらゆる楽曲にこうしたスケール感が伴っているわけではありません。スローからミドルくらいまでのテンポが望ましい。ことハードロックに限って言えば、いわゆる「パワーバラード」に「スケールの大きい」曲が多いですね。パワーバラード自体は、70年代からアメリカを問わず世界各地に(プロトタイプ的なものが)あったわけですが、MTVの旺盛に端緒を発した煌びやかな80年代に全盛を極めました。ハードロック系だけではなく、メインストリームのポップスやロックでも「売れ線」として支持され、「スケール感」の意味するところは楽曲やMVのプロダクションにまで波及するに至ったのでした。
(70年代末の「産業ロック」勢やAORの流行が、その土台となったのだと思います。また、あくまでわたしの勘でしかないのですが、SCORPIONSの"No One Like You"の成功が決定的だったのではないかと思っています)

こうした派手な「MTVハードロック」勢が成功した80年代にあって、原点回帰的なロックンロール(と言うにはその音楽性はあまりに個性的すぎるのですが、その精神性において、ということ)をハードロックのサウンドで叩きつけるという、一種の倒錯でもってシーンに切り込んだのが、GUNS N' ROSESでした。しかも、ルックスは当時流行のケバさにリンクはすれど、よりナチュラルなかっこよさを提示するという離れ技つきで。要するに、「ありそうでなかった」を、中身も外側も最上級のかたちで見せつけたのです。そのガンズが、究極のパワーバラードを創りあげます。それも、何曲も。ここではとくに、『Use Your Illusion I&II』(1991)に焦点を当てて論を進めましょう。


『UYI』のパワーバラードと言えばその作曲者はアクセルです。いや、贅を極めた超大作MVの制作をも考慮に入れると、作曲者ではなまぬるい。楽曲世界を創造し、微に入り細にわたって自らの意向をその映像版に注入したことも併せると、「統括者」と呼んだ方がいいかもしれません。
(クレジットに他のメンバーの名前がある曲もありますが、アクセルが「イエス」と言わない限り完成を見ないのですから、ここは「アクセル作」と考えることにします)

ここで強調しなければならないのは、MV三部作("Don't Cry""November Rain""Estranged")だけでなく、かのボブ・ディランのカバー"Knockin' Down On Heaven's Door"でさえも「大陸的なスケール感」のある、「スケールの大きい」「雄大な景色が目に浮かぶような」楽曲となっていることでしょう。(原曲もその題材ゆえに、天の高い澄みきった空を思わせる「スケール感」がありますが、もっとパーソナルな感触が強いです) このアレンジをガンズとアクセル、どちらの意向によるものと判断すべきかは難しいところで、というのも『UYI』は制作・完成・発表の過程が混沌としていたため信頼できる情報に欠けているからなのですが、当時のバンドの内情や力関係を鑑み、これもまた「アクセル作」と考えてしまいます。

さて、『UYI』に顕著なアクセルのパワーバラード志向と、その延長線上にあるMV三部作の桁はずれな「オレの世界」、これをわたしは「誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さ」としたのでした。そして、その背後に「アメリカ」という文脈がある、と。少しずつ、説明していきましょう。


まずは、アメリカにおける「ヴィジョンの精神史」を超簡単に振り返ります。

意外に思われる方もいるかもしれませんが、一般のアメリカ人とは日本人がぼんやり思っている以上に「真面目」で、格差やエスニシティやジェネレーションといった様々なバラつきを含めてもなお、基本的にはプロテスタント的な「地道にコツコツ働く」タイプの「地に足のついた」生活を是としています。まあ、地味なんです。ですから、想像力に乏しい。(大量生産品のパッケージや広告、TV番組や「良識家」の顔をご想像してください) ごくごく一部の天才だけが、自らの夢をかたちにすることができる。つまり、異端のみが「ヴィジョン」を提示するのです。

アメリカにおいて、強烈なヴィジョン(幻視)を提示してきた者の多くは、文学者や発明家や映画作家でした。文学者ならポー、メルヴィル、フォークナー、ディック、ピンチョン、エリクソン、発明家は言わずと知れたエジソンやテスラやフォード、映画作家ならグリフィスやデミルといった映画創世記の監督たちが、即座に思い浮かびます。あと、ディズニーもそうですね。最近ではスティーヴ・ジョブスもここに入るでしょうか。

彼らに共通する「ヴィジョンの巨大さ」は、小説世界/発明家の思い描く未来/映画の映像それ自体に、それぞれ顕著なものとして伺うことができます。それは「誇大妄想狂的」という形容が可能なほど細部にわたって「執拗」に展開されるため、「大味」が生みがちなむだな薄さや空白を許しません。巨大なヴィジョンの隅々にいたるまで、その世界は貫徹されているのです。これは疲れます。付き合わされる方はたまったものではありません。

しかも、彼らにはロマン主義的な気質が認められます。(ポーやメルヴィルのようなアメリカン・ルネッサンスの代表者たちは、アメリカにおけるロマン主義第一世代です。ただし、欧州のそれとは半世紀近く遅れていますが) 簡略化して説明すると、社会よりも個人を、理性よりも感情を、間接的ではなく直接的な表現を、整然よりも混沌を、欲する心性ということです。自分の感情世界=作品がすべてで、それに合うように外界=他者を矯正しかねないほど、そのこだわりが強い。
(思い=ヴィジョンが強すぎて、作品が破綻してしまう場合もあります。失敗作の多さもまた、特徴です)

「うおおおおおおお!!!」と昂奮したり、
「ぬああああああああ!!!」と苦悩したり、
「うわああああああああ!!!」と悲しんだりというような、
傍からみたらアンタいい加減にしなさいよ的な大仰さを伴うと誇張したら、わかりやすくなるでしょうか。

つけ加えると、ロマン主義は「遠く-近く」の弁証法でもあります。遠くにある理想(例えば恋人)を近くに引き寄せるため対立を除去して、次のステップへと進むこと。テーゼ-アンチテーゼ⇒アウフヘーベン、この運動ですね。これがロマン主義の要諦と言っていい。もちろん、その運動は必ずしも成功しない。目的への距離は縮まらず、むしろ遠ざかることもある。そのとき、そうなるはずではなかった目的へのまなざしは、まさに「ロマンティック」なわけです。煎じつめると、ロマン主義は「距離」を必要十分条件とするのですね。


このロマン主義は各国においてそれぞれ発現がやや異なり、アメリカの場合がもっとも「スケールが大きい」のです。これまた大雑把に言うと、わたし=自分の世界がアメリカへ、さらに世界へと、どんどん上位概念へと重ねられていく、そうゆう傾向があります。わたし=アメリカ=世界。

もちろん、そのすべてに見受けられるというわけではありませんが、これは社会法則に反発したイギリス・ロマン主義が称揚した「自然」でも、薄明に漂うドイツ・ロマン主義が示したリリカルな「小世界」でも、革命に揺れるフランス・ロマン主義が掲げたドラマティックな人生が交差する「社会」でもありませんでした。もっと、自己が極大にまで膨れ上がったイメージです。『白鯨』はもっともわかりやすい例となりましょう。

そして、ここが肝心なのですが、その心性が断続的・散発的に継承されたこと、それが上記したような、奇妙な系譜を生んだのです。膨張したわたしはアメリカであり、ひいてはアメリカは世界である、というこの乱暴な論法はしかし、その強烈なヴィジョンに押されて喉元を通り過ぎ、胃にすとんと収まってしまう。


アクセルもまたこの異端の系譜に属していると、わたしは考えます。アメリカ社会にとって特異な存在であるところの、ロマン主義的気質を備えたヴィジョナリー(Visionary 幻視家)であると。文字通り、スケール(尺度・規模)の感覚がおかしい、距離感を喪失したアウトサイダーたち。

アクセル作のパワーバラードは、
第一に「パワーバラードという様式」ゆえに自動的にスケールが大きく、
第二に彼の表現したいヴィジョンが巨大であるがためにスケールが大きく、
第三に彼のロマン主義的気質が執拗なまでの細部の作り込みを促すため完成度が高い、
という(最低でも)三層のレイヤーがあると言えます。この第一の極点が、MV三部作なのです。
(『Chinese Democracy』については、今回は割愛いたします。機会があれば、いずれ)

ここで少し、わたしなりのMV三部作観を披歴しておきましょう。

聴いているだけでも様々な映像が目に浮かんでくるような、パッと聴く限りでは「ふつうに美しい曲」なのに、どこか聴き流せない「過剰さ」があります。込められた情念に「重さ」を感じる、とでも言いましょうか。長い曲は楽曲の展開がとても劇的で、聴くたびに翻弄されてしまいます。また、"Don't Cry"は『I』と『II』で歌詞が少し違うわけですが、なんて細かいことをするのだと思ったものです。
(初めて聴いたとき、まだ中学生だったわたしは「他にもこうゆうことしてるひとっているのかな?」と思いましたが、以後、「こうゆうこと」をしているひとは、未だに見かけません)

これが映像となった三部作を初めて見たとき、その情報量に面食らった覚えがあります。しかも、どのMVも「愛」と「死」の色が異様に濃い。物語はバラバラになっていて復元が難しく、象徴的な照応関係や、並行世界のような時間の多重化、事実と妄想の境界の曖昧さ、三部作でそれぞれがそれぞれに言及しているかの如き円環性など、読み解くべき因数が錯綜しています。いざ解釈しようとメモを用意してペンを持ったが最後、危うく「あちら側」に引きとめられてしまいそうになるほどです。

そして、全編にわたって映し出されるのは、つまるところアクセル、アクセル、アクセル…なのです。彼のヴィジョン=幻視が、すべてを覆っています。そして、いかにもアメリカ的な風景や小道具、人物が目まぐるしく映し出されるにつれ、スケールの大きな曲調とダイナミックな展開に促されて、いつしかその映像世界にのめり込んでしまう。ただ、記号的な円環性にもかかわらず、アクセルが提示した世界は閉じているのではなく大きく開いていて、様々な解釈を許すだけの余裕さえ湛えているかのようです。これが気まぐれによる偶発的な結果なのか、意図したところなのかは、アクセル本人に訊かなければ(訊いても?)わからないでしょう…。


MV三部作を見て、わたしは「こいつ(アクセル)アタマおかしいな」と思いました。これはわたしなりの最上級の賛辞なのですが、アタマのおかしいアーティストというのは、そうザラにいるものではありません。今回の文脈に沿って言いなおすなら、この「アタマのおかしさ」がそのまま、かれの「誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さ」に当たるのです。お分かりいただけたでしょうか。

アクセルのロマン主義的気質は、彼の「距離」感がおかしいことと表裏一体なのかもしれません。なにが遠くて、なにが近いのか、わからない。遠くのもの(ひと)は近づけたいし、近くのもの(ひと)は遠ざけたい。そうした精神の運動が、すぐさま大きなステージを要請してしまう。しかも、前回ご説明した通り、彼は「無垢」のひとでもあります。幼児的な全能感そのままに活動できてしまうアクセルはやはり、天才としか言いようがない男なのです。

奇しくもと言うか、いかにもと言うか、『UYI』はアクセル単独作の(他のメンバーはアルバム発表までその曲の存在を知らなかったらしい)"My World"という、そのものズバリなタイトルの怪作で幕を閉じます。オレ様の世界。「然り」とするしかありません。
(その「オレ様」の範囲が、アクセル本人にわかっていないことが、数々の問題を生み出したわけですが、それはまた別の話となりましょう)



それにしても、ミュージシャンでヴィジョナリーというひとは、あまり思い浮かびません。そもそも、アメリカのアーティストって、基本線は「健康的」なんです。あ、社会的に健全、ということです。実際の身体的健康が酒や薬でボロボロであっても、表現されるものの多くは社会に歓迎されるものであることが多いんですね。(キリスト教系の歌詞を歌うバンド/アーティストがたくさんいることは、アメリカに突出して見受けられる現象です)

ふつう、バンドでは難しいんですね。ヴィジョンとは個人的なものですから、あり得るとしたらソロ・アーティストか、個人の意向が反映されやすいバンドのメンバーの、いずれかとなります。(ガンズは後者)

ソロだとルー・リードが思い浮かびますが、彼はあまりにもニューヨーカーでした。ヴィジョナリーというより、市井の詩人だったのです。(ただし、あの異様を極めた『Berlin』だけは別…。これについては、いつか書くかもしれません) アリス・クーパー、ブラッキー・ローレス、ロブ・ゾンビ、マリリン・マンソンといったショック・ロッカーの系譜は、個人的なヴィジョンというより興行的なサーカスの文脈で語られるべきものでしょう。それに、彼らは明らかに理知的です。ロマン主義的気質とは対極にあるとさえ言えます。やはり、ミュージシャンには少ないタイプだと思われます。
(例外的人物として、ロジャー・ウォータースの名前をあげるにとどめましょう)

蛇足ついでに、もうひとつ。パワーバラードが90年代に下火になったのは、「グランジの台頭」という時代の趨勢もあるのですけど、ガンズにおいてその質が「極点」を迎えたこともまた、その要因であったろうと思います。どんな芸術ジャンルにも言えることですが、何かが極まると、あとは洗練されて質を高める反面、そのインパクトを失っていくか、ただ姿を消すかのいずれかなのですから。


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そうゆうわけで、②ヴィジョンの巨大さをご説明いたしました。

次回、③表層性(ポップさ)を説明することで、「アメリカという物語装置」に切り込みをかけるつもりです。
最終的に、「典型的?なアメリカ型の天才」としてのアクセルの姿を浮き彫りにできたら、と思います。



2014-06-29

W. Axl Rose (vol.1): on inoccence that he holds



昨年11月上旬、Twitterで「GUNS N' ROSESで好きな曲10曲を選ぶ」という企画が流れてきました。
Twitterをやっていない方にはわかりにくいかもしれませんが、ハッシュタグというリンク用のタグを使うと、そのリンク先で同じテーマを扱った様々なツイートにふれることができるのです。そのときはわたしもこのタグに参加し、ついでにまとめも作成したのですけど、10曲を選んだ後にこんなことを呟きました。

アクセル・ローズというひとは典型的?なアメリカ型の天才ですよね。歴史を無化する表層性(ポップさ)や、誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さや、傍若無人な振る舞いに通底するある種の無垢といったものが、一貫して見受けられます。ロック史だけではなく、もっと大きな枠組みで捉え直したいひとです。

わたしがガンズというかアクセルに感じていたことを凝縮してツイートしたのですけど、当時は一切反応がなく、まあわかりにくいよねと思いはしたけどこのまま放置するのは忍びなかったので、このツイートもどさくさに紛れて上述したまとめに入れてしまったのでした。後は、まとめを見たひとの目にふれれば、それでよかろうと。

そしたら、先日こんなことがあったのです。
件の「GN'Rマイベスト10」タグを始めた方が、ブログでわたしのツイートに言及してくださったのです。

これには応えなければ、と思いました。
ということで、ほぼ閉店しかかっていたブログを書くことにしたのです。

さて、それでこのブログの方針ですが、原則として上記ツイートの「解説」です。
即席で条件反射的な「アクセル・ローズ論」を書くようでは、熱心なファンの方々に申し訳ないですし、「GUNS N' ROSES論」もまた然り。かと言って、音楽面を無視することはできない…。そこら辺のバランスが難しいのですけど、なんとか書いてみます。



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アクセル・ローズというひとは典型的?なアメリカ型の天才ですよね。歴史を無化する表層性(ポップさ)や、誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さや、傍若無人な振る舞いに通底するある種の無垢といったものが、一貫して見受けられます。ロック史だけではなく、もっと大きな枠組みで捉え直したいひとです。

自分で言うのもなんですが、ツイートにしては情報量が多すぎます。分解して整理しましょう。

まず、わたしは「アメリカ型の天才」の要素として、
①表層性
②ヴィジョンの巨大さ
③無垢
の3点をあげています。

また、「典型的」にクエスチョンをつけて、そうした判断にある種の留保をしています。
その上で、3点を少しでも浮き彫りにするための修飾節
①歴史を無化する~
②誇大妄想狂的な~
③傍若無人な振る舞いに通底するある種の~
を導入し、これらの言葉がロック・ミュージックとは違った文脈で(も)機能したらどうなるのか、気にするそぶりをしたままで終わっています。


順番に解説するよりも、これは逆から始めた方がわかりやすそうです。まずは③「無垢」から。

「傍若無人な振る舞いに通底するある種の無垢」としたのは、長年にわたるアクセルの行状が念頭にあったからに他ならないのですが、その言動・奇行・暴力沙汰といった数々の逸話を聞く(読む)たびにわたしが感じていたことは、「アクセルはなんと純粋なひとなのだ」という印象に尽きます。

通常、ミュージシャンを含む「アーティストと呼ばれるひとたち」は、一般人よりも「繊細」で「純粋」で「傷つきやすく」て「(ふつうに)社会で生きていくことができない」と言われることが多いです。これは一種の偏見でもあるのですけど、だいたいにおいて当て嵌まる(有名なひとにそのような傾向が見受けられることが多い)ため、一般的に許容・共有されている認識ではあります。
(実際はと言うと、もちろん各人それぞれケース・バイ・ケースです。座標なんかを作ってみるといいでしょうね。横軸に「社交的-引きこもり」、縦軸に「メンタルが強い-弱い」みたいな感じで、色んな座標が作れそうです)

アクセルは、他の様々なアーティストとは印象が異なります。なぜかというと、彼は「sensitive 繊細・傷つきやすい」であると同時に「naive 単純・素朴」なんですね。「敏感」かつ「鈍感」なのです。
(前者の意味で「彼/彼女はナイーヴだ」と言うことがありますが、あれはカタカナ語的な使用法で、英語で「He/She is naive」と言ったら、かなり高い確率で「彼/彼女はアホだよ」というニュアンスで伝わってしまいますので、ご注意を。もちろん、ポジティヴな意味合いもあります)

たいてい、芸術家というものは何らかの「過敏さ」を抱えた、sensitiveな存在です。一方で、生まれながらの詩人というか、ほとんど勘だけで作品をものしてしまう、naiveなひともいます。
前者を陰-理論派-意識的-根暗-計画的-ボトムアップ型(積み重ね型)
後者を陽-感覚派-無意識-天然-反射的-トップダウン型(ひらめき型)
と図式化してみると、少しはイメージしやすいでしょうか。
もちろんこれは超便宜的な腑分けであって、いくらでもツッコミ可能です。重なる部分も多いし。
(小林信彦が小林旭をして「無意識過剰」と評しましたが、この場合だとnaive型となります)

この陰陽の混ざり具合がアーティストの個性を、それこそ陰影豊かに、様々な階調(グラデーション)において彩っているわけですが、アクセル・ローズという男は極めてめずらしいことに、この両極をその最高度において内包しているのですね。超明るくて超暗い。ハイパーかつダウナー。知的で無知。潔白で腹黒。たまたまその中間の状態になってしまうと、白黒どっちなんだかよくわからない灰色になってしまう、取り扱い困難な「壊れもの注意!」のフラジャイルな男。わたしのアクセル観は、基本的にこのようなものです。


このブログを書くために、アクセルにまつわるエピソードをザッと振り返ってみたのですけど、どう贔屓目に見ても、この人は精神疾患もちです。いや、それどころか「精神疾患のデパート」とさえ言えます。彼の言動・行動は、その多くが何らかの心の病の現れとして、容易に分析・分類できるでしょう。痛ましいことです。(アメリカではその類の分析なり研究なりがあるのではないでしょうか?)

アクセルがsensitiveかつnaiveであることの幾ばくかは、そうした心の病(それも、複合的な)による分裂気質のためでもありましょう。しかし、それだけではただの病人です。彼には個性的な声と類例のない歌唱法と豊かな音楽的才能があり、(出来不出来の差が激しいとはいえ)ステージ・パフォーマーとしても一流です。病に心を閉ざされた人間が、あれほど旺盛な活動を可能とするだけのエネルギーを、果たしてもっているものでしょうか?

あの無尽蔵のエネルギーはどこか、全力で遊びまわるこどものそれと、似ているように思われます。
こどもはまた、sensitiveとnaiveの双方を備えています。(成長の過程でどちらかに分かれますが)
繊細で、華奢。単純で、素朴。sensitiveの系とnaiveの系、敏感と鈍感が両極にまだ分かれていない、入力(認識)と出力(行為)の区別さえついていない幼年期の状態を、わたしは「無垢(innocence)」と呼びたい。


通常、無垢が意味するところの「こどもの純粋さ」とは、社会化される以前の「無知・未熟」な状態として、切り捨てられます。こどもには「大人の社会=規律=ルール」を知り、それに積極的に参入することが求められているからです。もしくは、そうした無垢を「(年長のものが守るべき)弱さ」として、保護・擁護しようとします。しかし、本当に無垢とは「無知」で「未熟」な「弱さ」でしかないのでしょうか。知識や経験の「欠けた」、ネガティヴなものでしかないのでしょうか?

それは違う、とわたしは思うのです。むしろ、「無垢」とはあらゆる認識・感覚・知識・経験・感情が未整理で混沌としたままの、生命力の大きい状態のことを指すのではないか、と。欠損どころか、実のところ「過剰」なのではないか、と。そして、こうした原初の「無垢の力」をなんらかのかたちにおいて留めているひとたちこそが、真の意味で「アーティスト」と呼べるひとなのではないかと、そう思うのです。
(その芸術的感性の発露の系統を、sensitiveからnaiveへのグラデーションのなかである程度、分類できるのではないかというのが、上述した雑な腑分けです)


アクセルが他の数多くの天才たちと異なっているのは、この「無垢」がむきだしになっているからなのだと、わたしは思います。傍若無人なときのアクセルは、果たして自他の区別がついているのだろうかと怪しまれるほどの唯我独尊ぶりを発揮します。まるで幼児です。逆に、心の平安を得ているときのアクセルは紳士/真摯です。まわりのひとを分けへだてなく気遣い、正直であたたかい人間性を示します。

振り幅があまりにも大きいけど、これが彼の「無垢」の実相なのでしょう。いかなる形にもなり得る。そして、表にあらわれ(てしまっ)たものがすべてです。あらゆる誤解と伝聞が、「彼自身の真実」としてまかり通ってしまう。残念なことに、「無垢」の力は彼の不安定な精神ゆえにポロポロとこぼれ落ちて(いいものも悪いものも)ゴシップネタとなり、われわれの耳目を集めることとなっているわけです。
(もっとも、彼の「無垢」と精神疾患がどのように絡まり合っているのかは、専門家による綿密な調査と精緻な論考を必要とするわけですが…)

アクセルは繊細で、純粋で、傷つきやすく、単純素朴で、世間知らずな「弱い」男です。でも、あの弱さこそが彼の強さの源だった。それはこどもの弱さでもあり強さでもあった。純粋な生命エネルギーが充溢したままで、社会化されていない状態。それが、わたしの言う「無垢」なのです。お分かりいただけたでしょうか。


ではここでひとつ、横道に逸れてみましょう。

みなさんは、J・D・サリンジャー(1919-2010)の『ライ麦畑でつかまえて』The Catcher In The Rye, 1951)を読んだことがあるでしょうか。最近では、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のタイトルの方が、通りがいいかもしれませんね。アメリカ現代文学の傑作であり、永遠のベストセラーのひとつである本作に言及したのは他でもない、ガンズの現時点での最新作『Chinese Democracy』(2008)に、その名もズバリ"Catcher In The Rye"という曲(定冠詞はなし)が収録されているからです。

サリンジャーという作家、並びに『ライ麦畑』を評する余裕はありませんが、アメリカ文学においてもっとも「無垢 innocence」にこだわった作家/作品であることだけは、指摘しておきましょう。

アクセルが何を思って『ライ麦畑』なる曲を作ったのか、よくわかりません。歌詞は抽象的で、怒ってるようにも楽しんでるようにも読めてしまいます。ただ、曲調は明るく穏やかで、広々としたライ麦畑が、黄金色に輝いている光景が目に浮かんできます。

少し、「ライ麦畑のキャッチャー」が登場する箇所を、引用してみましょう。白水Uブックスの野崎孝訳です。
とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕があぶない崖のふちに立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえてやることなんだ。(中略)一日じゅう、それだけやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういうものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げていることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げていることは知ってるけどさ」
話者のホールデン・コールフィールドは、大人ではなく高校生の少年です。これは妹のフィービーに話しかけている場面。さて、このホールデン君は読者に味方も敵も多い。アクセルが彼に反発したのか、それとも共感したのかはわかりませんが、この「崖っぷちでこどもを助ける」というイメージはとても清新です。なにか霊感を受けたとしてもおかしくはありません。それどころか、アクセルの「無垢」を大いに刺激したことでしょう。

わたしは久しぶり(12年ぶり)に本書をザッと読み返しましたが、この箇所には変わらず感動させられました。同時に、こんなことも思ったのです。こども時代のアクセルを、大人になったアクセルが助ける、ということだろうか? しかし、アクセルは救われたのだろうか? むしろ救われたのは、彼の、ガンズのファンたちではないだろうか? 崖から落ちそうになったところを、彼/ガンズの音楽が抱きとめる…。そう考えると、アクセルはホールデン君が夢見た「ライ麦畑のキャッチャー」になりおおせたのだと言えるのではないでしょうか。「無垢」のかたまりのような男が、わたしたちリスナーの内なる無垢な魂を救う。わるくはない見立てだと思います。



蛇足ついで、もうひとつ。こうした「繊細かつ単純=無垢」なミュージシャンとして、わたしが観たことのあるひとを例に挙げると、ヌーノ・ベッテンコート(EXTREME)なんてまさにこれです。初めて観たとき、このひとは人間より天使に近いんじゃないかとさえ思いました。(イングヴェイは完全にnaive型ですね…)
あと、わたしはHEAD PHONES PRESIDENTの大ファンで、もう100回近くライブを観ているのですけど、ベースのNarumiさんも「無垢」の系統に入ります。(本当はヴォーカルのAnzaさんも入るのですけど、彼女はもっとずっと複雑で、言うなれば「無垢が多重化されている」と考えています)

ただ、ヌーノもNarumiさんも、情緒不安定なアクセルとは正反対で、とってもマイペースです。
これはこれで、また考察の対象ともなりましょう。


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一端ここで区切りましょう。

今回は「無垢」の解説をしました。
次回は「ヴィジョンの巨大さ」について、解説します。

アクセルの示すヴィジョンは、如何なる質のものなのか。
それを「アメリカ」というコンテキストにおくと、何が見えてくるのか。そんなお話です。

ガンズの音楽性についてふれないままでしたが、それは次回に持ち越しということで…。