昨年11月上旬、Twitterで「GUNS N' ROSESで好きな曲10曲を選ぶ」という企画が流れてきました。
Twitterをやっていない方にはわかりにくいかもしれませんが、ハッシュタグというリンク用のタグを使うと、そのリンク先で同じテーマを扱った様々なツイートにふれることができるのです。そのときはわたしもこのタグに参加し、ついでにまとめも作成したのですけど、10曲を選んだ後にこんなことを呟きました。
アクセル・ローズというひとは典型的?なアメリカ型の天才ですよね。歴史を無化する表層性(ポップさ)や、誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さや、傍若無人な振る舞いに通底するある種の無垢といったものが、一貫して見受けられます。ロック史だけではなく、もっと大きな枠組みで捉え直したいひとです。
わたしがガンズというかアクセルに感じていたことを凝縮してツイートしたのですけど、当時は一切反応がなく、まあわかりにくいよねと思いはしたけどこのまま放置するのは忍びなかったので、このツイートもどさくさに紛れて上述したまとめに入れてしまったのでした。後は、まとめを見たひとの目にふれれば、それでよかろうと。
そしたら、先日こんなことがあったのです。
件の「GN'Rマイベスト10」タグを始めた方が、ブログでわたしのツイートに言及してくださったのです。
これには応えなければ、と思いました。
ということで、ほぼ閉店しかかっていたブログを書くことにしたのです。
さて、それでこのブログの方針ですが、原則として上記ツイートの「解説」です。
即席で条件反射的な「アクセル・ローズ論」を書くようでは、熱心なファンの方々に申し訳ないですし、「GUNS N' ROSES論」もまた然り。かと言って、音楽面を無視することはできない…。そこら辺のバランスが難しいのですけど、なんとか書いてみます。
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アクセル・ローズというひとは典型的?なアメリカ型の天才ですよね。歴史を無化する表層性(ポップさ)や、誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さや、傍若無人な振る舞いに通底するある種の無垢といったものが、一貫して見受けられます。ロック史だけではなく、もっと大きな枠組みで捉え直したいひとです。
自分で言うのもなんですが、ツイートにしては情報量が多すぎます。分解して整理しましょう。
まず、わたしは「アメリカ型の天才」の要素として、
①表層性
②ヴィジョンの巨大さ
③無垢
の3点をあげています。
また、「典型的」にクエスチョンをつけて、そうした判断にある種の留保をしています。
その上で、3点を少しでも浮き彫りにするための修飾節
①歴史を無化する~
②誇大妄想狂的な~
③傍若無人な振る舞いに通底するある種の~
を導入し、これらの言葉がロック・ミュージックとは違った文脈で(も)機能したらどうなるのか、気にするそぶりをしたままで終わっています。
順番に解説するよりも、これは逆から始めた方がわかりやすそうです。まずは③「無垢」から。
「傍若無人な振る舞いに通底するある種の無垢」としたのは、長年にわたるアクセルの行状が念頭にあったからに他ならないのですが、その言動・奇行・暴力沙汰といった数々の逸話を聞く(読む)たびにわたしが感じていたことは、「アクセルはなんと純粋なひとなのだ」という印象に尽きます。
通常、ミュージシャンを含む「アーティストと呼ばれるひとたち」は、一般人よりも「繊細」で「純粋」で「傷つきやすく」て「(ふつうに)社会で生きていくことができない」と言われることが多いです。これは一種の偏見でもあるのですけど、だいたいにおいて当て嵌まる(有名なひとにそのような傾向が見受けられることが多い)ため、一般的に許容・共有されている認識ではあります。
(実際はと言うと、もちろん各人それぞれケース・バイ・ケースです。座標なんかを作ってみるといいでしょうね。横軸に「社交的-引きこもり」、縦軸に「メンタルが強い-弱い」みたいな感じで、色んな座標が作れそうです)
アクセルは、他の様々なアーティストとは印象が異なります。なぜかというと、彼は「sensitive 繊細・傷つきやすい」であると同時に「naive 単純・素朴」なんですね。「敏感」かつ「鈍感」なのです。
(前者の意味で「彼/彼女はナイーヴだ」と言うことがありますが、あれはカタカナ語的な使用法で、英語で「He/She is naive」と言ったら、かなり高い確率で「彼/彼女はアホだよ」というニュアンスで伝わってしまいますので、ご注意を。もちろん、ポジティヴな意味合いもあります)
たいてい、芸術家というものは何らかの「過敏さ」を抱えた、sensitiveな存在です。一方で、生まれながらの詩人というか、ほとんど勘だけで作品をものしてしまう、naiveなひともいます。
前者を陰-理論派-意識的-根暗-計画的-ボトムアップ型(積み重ね型)
後者を陽-感覚派-無意識-天然-反射的-トップダウン型(ひらめき型)
と図式化してみると、少しはイメージしやすいでしょうか。
もちろんこれは超便宜的な腑分けであって、いくらでもツッコミ可能です。重なる部分も多いし。
(小林信彦が小林旭をして「無意識過剰」と評しましたが、この場合だとnaive型となります)
この陰陽の混ざり具合がアーティストの個性を、それこそ陰影豊かに、様々な階調(グラデーション)において彩っているわけですが、アクセル・ローズという男は極めてめずらしいことに、この両極をその最高度において内包しているのですね。超明るくて超暗い。ハイパーかつダウナー。知的で無知。潔白で腹黒。たまたまその中間の状態になってしまうと、白黒どっちなんだかよくわからない灰色になってしまう、取り扱い困難な「壊れもの注意!」のフラジャイルな男。わたしのアクセル観は、基本的にこのようなものです。
このブログを書くために、アクセルにまつわるエピソードをザッと振り返ってみたのですけど、どう贔屓目に見ても、この人は精神疾患もちです。いや、それどころか「精神疾患のデパート」とさえ言えます。彼の言動・行動は、その多くが何らかの心の病の現れとして、容易に分析・分類できるでしょう。痛ましいことです。(アメリカではその類の分析なり研究なりがあるのではないでしょうか?)
アクセルがsensitiveかつnaiveであることの幾ばくかは、そうした心の病(それも、複合的な)による分裂気質のためでもありましょう。しかし、それだけではただの病人です。彼には個性的な声と類例のない歌唱法と豊かな音楽的才能があり、(出来不出来の差が激しいとはいえ)ステージ・パフォーマーとしても一流です。病に心を閉ざされた人間が、あれほど旺盛な活動を可能とするだけのエネルギーを、果たしてもっているものでしょうか?
あの無尽蔵のエネルギーはどこか、全力で遊びまわるこどものそれと、似ているように思われます。
こどもはまた、sensitiveとnaiveの双方を備えています。(成長の過程でどちらかに分かれますが)
繊細で、華奢。単純で、素朴。sensitiveの系とnaiveの系、敏感と鈍感が両極にまだ分かれていない、入力(認識)と出力(行為)の区別さえついていない幼年期の状態を、わたしは「無垢(innocence)」と呼びたい。
通常、無垢が意味するところの「こどもの純粋さ」とは、社会化される以前の「無知・未熟」な状態として、切り捨てられます。こどもには「大人の社会=規律=ルール」を知り、それに積極的に参入することが求められているからです。もしくは、そうした無垢を「(年長のものが守るべき)弱さ」として、保護・擁護しようとします。しかし、本当に無垢とは「無知」で「未熟」な「弱さ」でしかないのでしょうか。知識や経験の「欠けた」、ネガティヴなものでしかないのでしょうか?
それは違う、とわたしは思うのです。むしろ、「無垢」とはあらゆる認識・感覚・知識・経験・感情が未整理で混沌としたままの、生命力の大きい状態のことを指すのではないか、と。欠損どころか、実のところ「過剰」なのではないか、と。そして、こうした原初の「無垢の力」をなんらかのかたちにおいて留めているひとたちこそが、真の意味で「アーティスト」と呼べるひとなのではないかと、そう思うのです。
(その芸術的感性の発露の系統を、sensitiveからnaiveへのグラデーションのなかである程度、分類できるのではないかというのが、上述した雑な腑分けです)
アクセルが他の数多くの天才たちと異なっているのは、この「無垢」がむきだしになっているからなのだと、わたしは思います。傍若無人なときのアクセルは、果たして自他の区別がついているのだろうかと怪しまれるほどの唯我独尊ぶりを発揮します。まるで幼児です。逆に、心の平安を得ているときのアクセルは紳士/真摯です。まわりのひとを分けへだてなく気遣い、正直であたたかい人間性を示します。
振り幅があまりにも大きいけど、これが彼の「無垢」の実相なのでしょう。いかなる形にもなり得る。そして、表にあらわれ(てしまっ)たものがすべてです。あらゆる誤解と伝聞が、「彼自身の真実」としてまかり通ってしまう。残念なことに、「無垢」の力は彼の不安定な精神ゆえにポロポロとこぼれ落ちて(いいものも悪いものも)ゴシップネタとなり、われわれの耳目を集めることとなっているわけです。
(もっとも、彼の「無垢」と精神疾患がどのように絡まり合っているのかは、専門家による綿密な調査と精緻な論考を必要とするわけですが…)
アクセルは繊細で、純粋で、傷つきやすく、単純素朴で、世間知らずな「弱い」男です。でも、あの弱さこそが彼の強さの源だった。それはこどもの弱さでもあり強さでもあった。純粋な生命エネルギーが充溢したままで、社会化されていない状態。それが、わたしの言う「無垢」なのです。お分かりいただけたでしょうか。
ではここでひとつ、横道に逸れてみましょう。
みなさんは、J・D・サリンジャー(1919-2010)の『ライ麦畑でつかまえて』(The Catcher In The Rye, 1951)を読んだことがあるでしょうか。最近では、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のタイトルの方が、通りがいいかもしれませんね。アメリカ現代文学の傑作であり、永遠のベストセラーのひとつである本作に言及したのは他でもない、ガンズの現時点での最新作『Chinese Democracy』(2008)に、その名もズバリ"Catcher In The Rye"という曲(定冠詞はなし)が収録されているからです。
サリンジャーという作家、並びに『ライ麦畑』を評する余裕はありませんが、アメリカ文学においてもっとも「無垢 innocence」にこだわった作家/作品であることだけは、指摘しておきましょう。
アクセルが何を思って『ライ麦畑』なる曲を作ったのか、よくわかりません。歌詞は抽象的で、怒ってるようにも楽しんでるようにも読めてしまいます。ただ、曲調は明るく穏やかで、広々としたライ麦畑が、黄金色に輝いている光景が目に浮かんできます。
少し、「ライ麦畑のキャッチャー」が登場する箇所を、引用してみましょう。白水Uブックスの野崎孝訳です。
とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕があぶない崖のふちに立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえてやることなんだ。(中略)一日じゅう、それだけやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういうものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げていることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げていることは知ってるけどさ」話者のホールデン・コールフィールドは、大人ではなく高校生の少年です。これは妹のフィービーに話しかけている場面。さて、このホールデン君は読者に味方も敵も多い。アクセルが彼に反発したのか、それとも共感したのかはわかりませんが、この「崖っぷちでこどもを助ける」というイメージはとても清新です。なにか霊感を受けたとしてもおかしくはありません。それどころか、アクセルの「無垢」を大いに刺激したことでしょう。
わたしは久しぶり(12年ぶり)に本書をザッと読み返しましたが、この箇所には変わらず感動させられました。同時に、こんなことも思ったのです。こども時代のアクセルを、大人になったアクセルが助ける、ということだろうか? しかし、アクセルは救われたのだろうか? むしろ救われたのは、彼の、ガンズのファンたちではないだろうか? 崖から落ちそうになったところを、彼/ガンズの音楽が抱きとめる…。そう考えると、アクセルはホールデン君が夢見た「ライ麦畑のキャッチャー」になりおおせたのだと言えるのではないでしょうか。「無垢」のかたまりのような男が、わたしたちリスナーの内なる無垢な魂を救う。わるくはない見立てだと思います。
蛇足ついで、もうひとつ。こうした「繊細かつ単純=無垢」なミュージシャンとして、わたしが観たことのあるひとを例に挙げると、ヌーノ・ベッテンコート(EXTREME)なんてまさにこれです。初めて観たとき、このひとは人間より天使に近いんじゃないかとさえ思いました。(イングヴェイは完全にnaive型ですね…)
あと、わたしはHEAD PHONES PRESIDENTの大ファンで、もう100回近くライブを観ているのですけど、ベースのNarumiさんも「無垢」の系統に入ります。(本当はヴォーカルのAnzaさんも入るのですけど、彼女はもっとずっと複雑で、言うなれば「無垢が多重化されている」と考えています)
ただ、ヌーノもNarumiさんも、情緒不安定なアクセルとは正反対で、とってもマイペースです。
これはこれで、また考察の対象ともなりましょう。
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一端ここで区切りましょう。
今回は「無垢」の解説をしました。
次回は「ヴィジョンの巨大さ」について、解説します。
アクセルの示すヴィジョンは、如何なる質のものなのか。
それを「アメリカ」というコンテキストにおくと、何が見えてくるのか。そんなお話です。
ガンズの音楽性についてふれないままでしたが、それは次回に持ち越しということで…。
白玉です。
返信削除あちこちですでに何度も御礼を申し上げてしまいましたが
あらためまして、本当に私のブログの発言を拾っていただき
時間を割いて長いコンテンツを書き上げて下さり
ありがとうございました。
何度読んでも面白いです。筋金入りの面白さです。
特に第一部は、Moonflowerさんが掲げたアクセルの3つの要素のうち
一番私が「それだ」と反応した「無垢」についてでしたから
そりゃあもう食いつきました…(笑
更に、ライ麦についての加筆は大変うれしいものでした。
私はニュー・ロスト・ジェネレーションと呼ばれた
90年代初頭の若手アメリカ作家の作品から遡りでライ麦を読みました。
なので、ライ麦を読んだ頃はすでにアクセルを知っていて
当時はうまく説明できませんでしたが
アクセルとサリンジャーの共通性みたいなものをすごく考えました。
サリンジャーは、アイコンになることを一切拒否して隠遁生活を送りましたよね。
変人説・奇行の人・謎の人物のまま、新しい作品を出すことなく亡くなられました。
アクセルもそうなるんじゃないかとハラハラしました…
結局アクセルも長いことお隠れになりましたが
サリンジャーと違ってまた、世間に戻り、紆余曲折を経ながらも新作を出しました。
二人の違いはなんでしょうね?なんてことを時々考えます。
そして、Moonflowerさんが書かれたとおり
アクセルは私たち聴き手のキャッチャーだと思います。私はキャッチしてもらいましたよ!
でも、不思議なことに私たちリスナーも(どだい無理とはわかっていながらも)
「なんらかの形でアクセルのキャッチャーになりたい」
みたいなことを考えます
それはアクセルの無垢がそうさせるのかなあ…なんてことも考えています。
長々と失礼しました。なにせ大好きな第一部なので…(笑
感想、ありがとうございます。
削除なるほど、確かにアクセルがサリンジャーのような「お隠れ」をする可能性も、
なきにしもあらずだったかもしれませんね。
もしくは、カポーティのように延々と「未完」の作品に携わったまま、という線も…。
(ピンチョンはデビュー以来、未だに「お隠れ」したまま…)
「書かれたもの」は必ずしも読まれる必要はないけど、
音楽は聴かれなければ存在しない。
そこが決定的な明暗を分けたのかもしれません。
このアクセル論ブログは、なんといっても筋金入りのガンズファンの方々が、
大きな反応をしてくれて、とても嬉しかったです。
あと、ホッとしました。見当違いなこと書いてないだろうか、と思うこともあったので…。
ともあれ、『ライ麦畑』は追加して正解でした。
アメリカのイノセンスについて、しばし思いを巡らせてみるつもりです。
チャイデモもリリースまで14年もかかりましたし
返信削除「未完の大作」になるところでしたよね。
むしろよく出したな…って思います(アクセル偉い)
「出さなきゃ意味がないんだ」って思ったんでしょうかね
なにせ、なにを考えているのか全然わからない人なので
それがたまらないです。
わからないから余計わかりたくなり、
その心情に思いを馳せることが楽しみの一つだったりします(^m^)
見当違いはひとつもございません(断言)
またこのアクセル論から派生した思いなども、いつか読ませていただければ!
最近はまた動きが活発になっているので、新作も期待できそうですね。
削除とはいえ、結局『Chinese Democracy』の内実って不明なままなんですよね…。
「この次」はいったいどうなるのか、楽しみでもあり怖くもあり。
そうゆうバンド/アーティストって他にいないから、まさに唯一無二ですね。
そうですね、アクセル論エクストラというか、
ガンズや作品や楽曲についてもブログも、考えてみます。
「無垢」についての解説はMoonさんらしいと思いました。確かに「無知・未熟」ではなく「純粋」と考えると、音楽に限らず何かを極める(突き詰める)上では必要な才能のようなものかも知れないですね。
返信削除これはかなり難しい話になってしまうのですが、
削除あらゆる芸術の根幹にあるのはなんらかの「無垢」であろうと考えています。
ここら辺は、もっとつきつめて考えみたいところです。
知識・思考力ともに足りてないけど…。