2011-05-21

Jacques Tati / Mon Oncle (1958)



(こちらを聴きながらお読みください)


巻頭、工事現場のドリル音で始まり、その標識が製作者リストとなっている趣向。

犬たちが画面に登場し、街灯に「マーキング」して去っていき、
残飯を漁ったり、馬車を追いかけたりしているうちに1匹ふえて、
手前は旧市街の壁の残骸、向こう側は灰青色のモダンな真四角の集団住宅という風景を疾駆、
弓なりのカーブを曲がると、そこは整然とした住宅街(やはりモダン)。歩き出す犬たち。

そのうち1匹は、赤黒のチェック柄のチョッキを着たダックスフント。
見るからにいいところ出のおぼっちゃま犬。ほかはのら犬といった風情。

ダックスフントはある家の鋼鉄製の門をくぐり(チョッキが引っ掛かって脱げそう)、
玄関へとつづく庭の曲がりくねった歩道の上をポンポンと走って、飼い主のもとへ。

脱げたチョッキを見咎めるおばさん(ヘンなパジャマ!)。
羨ましそうに柵から顔を出してその光景を見つめるのら犬たち。

いえからは恰幅のいい黒ぶち眼鏡のおじさんが出てきて、おばさんがかいがいしく出勤の支度。
忙しげな朝の様子だけど、何でもかんでも拭きまくるおばさんに「ぷぷっ」と笑ってしまう。

本当にこの熟年夫婦のこどもなの?というほど小柄な少年がおじさんの車に乗り込んで、出発。
そろそろと門まで進む車まで拭き拭きするおばさん。いってらっしゃいとばかりに布ごと手を振ると、
あらヤダ、まっ白いホコリがバサッバサッと出てきちゃった。

その次?次はね、もちろん、ジャズなんだ。

軽快な騒々しいジャズが流れ、マシーナリーで画一的で、やっぱりモダンな車また車。

スーパーみたいな小学校に着くこども、会社に着くおじさん。

ところ変わって市場。さあさ、やっとこさ「伯父さん」のご登場。
包み紙に使う新聞紙がぶら下げられてる八百屋の屋台。
ご丁寧に首を傾げて、その新聞紙を立ち読み中。
隣では女の子がトマトを落としちゃう。
それに気づいた伯父さん、オヤとそちらへ。
すると八百屋のおっちゃんがどやしつけてきて、伯父さん困惑。
屋台の下では、伯父さんのバックに突っ込んであった魚(牙がある魚!)と張り合って牙を剥くお犬が。

どうにかこうにかその場は収まったらしく、下宿へ戻る伯父さん。
なんともヘンテコなつくりで、窓や通路や階段から、姿勢正しく歩く伯父さんの姿を何度も散見。

最上階の伯父さんの部屋まで、それこそ長い旅路かと思えてしまう道のりに、
くすくす笑いも次第に大きくなるってもの。


それから?あとは映画を見てほしいな。『ぼくの伯父さん』っていうフランス映画なんだけど。

監督はジャック・タチ(Jacques TATI /1907-1982)。116分。1958年。スタンダード。カラー。

え?古いって?バカ言っちゃいけない。時代だけで決めつけちゃいけないよ。
10年代20年代のサイレントだろうが、つい最近公開されたばかりの話題作だろうが、
何が自分の「お気に入り」なるかなんて自分の目で確かめてみるまでわからないもんだよ。

でもまあ、同時代のものは素晴らしい(「共感」する!)、むかしのは古臭い(「共感」できない!)、
なんていう感性ないし知性の持ち主に、四の五の言ったところでどうにもなりはしないのだろうけどね。

でも、そんなひとに限って武将好きだったり、エジプトがどうこうとか古代に「ロマン」だとか言うんだ、
まあ、どうでもいいんだけど、ちょっと嫌になっちゃうときもけっこうあるんだよなぁ、ホントのところ。



今日はね、フィルムセンターで『ぼくの伯父さん』を観てきたんだ。
過去にビデオで4回、BSで2回、名画座で1回観てたけど、最後に観てから5年くらい経つのかな?

フィルムセンターは京橋にある「東京国立近代美術館」の分館。
未だに「整理番号制」を導入しないで、たとえご老人方でも立って並ばせる悪名高い「名画座」。

まったく、空いているときならいざ知らず、今日みたいに人気作になるとソファがすぐ埋まっちゃって、
お年寄りでも立って並ばされるのを見ているとイライラしちまったよ。まあ、ぼくも立ってたんだけど。
来た順に整理番号配ってればあんなことにはならないのに、いったい何考えてんだろ。


いや失礼、『ぼくの伯父さん』だったね。

ひとことで表すと「コメディ!」で、ギャグの数々は基本的にサイレントの文法に則ったものがほとんど。

でも、サイレント時代と違って「バカやドジを嗤う」みたいな底意地の悪いものなんかではなくて、
ちょっと間の抜けたひとが、テンポや認識がズレたばかりに巻き起こしてしまったちょっとした騒ぎ、
てゆうテイストだもんだから、こう言うのもどうかと思うけどとても「かわいい」コメディなんだ。
(「エスプリが利いた」「こ洒落た」「洗練された」なんてコトバで言いたくないんだなコレが)


タイトルにあるように「ぼくの」とあるんだから、論理的必然から甥っこが導き出されるわけで、
仲のいい熟年夫婦のこども、ジェラールくんが「ぼく」、そのお母さんが伯父さんの妹、というわけ。

ジェラールくんは、モダナイズされた新居で「箱入り息子」よろしくバカ大切にされているのだけど、
すべてが整然と規格化されたボタンだらけの家で大人しくしていられるようなこどもじゃあなくて、
じつは悪ガキどもといたずらを仕掛けたり、汚い手でジャムや砂糖を塗ったくった揚げパンを食べたり、
そして何より、分別ある大人とは別宇宙の住人たる伯父さんが大好きな、本当はよく笑うこどもなんだ。
(両親といっしょにいるシーンでは、一度も笑わない。伯父さんがいなければ。)


あのね、この映画って「物質文明を批判」とかお門違いなこと書くひとのせいで誤解されてるとこあんだけど、
実際はそういった批評的なとこはないんだよ、だってあれは「誇張」というギャグなんだから。
(もっとも、それもまた「批評」と言えば言えるけど、あくまでもそれは二義的なこと。)

焦げついたステーキを、キッチンのボタンを押してひっくり返すのなんてギャグ以外の何なのさ?

それにね、言うなれば「自然/こども(動物)」側の伯父さんと構造的に対立せざるを得ない、
「社会/おとな」側のお父さんだって、別にまんま悪役てわけじゃないどころか、ただの「常識人」だもの。

べつに批判されていないんだ。伯父さんに振り回されてふうふう言ってるけど(太ってるし)、いい人なんだ。
最後、伯父さんを見送るときに悲しそうな顔をしていたんだし、どうしてこの善人が批判されてると思うんだろう?


ん、また脱線したかな。でも、何が語りたかったんだっけ?


そうそう、この映画はコメディ。しかも「かわいい」コメディなんです。

完全に統制された(モダンな家のように!)映画的空間なのに息苦しくないのは、
それこそ「執拗」とさえ言いたくなるほどのギャグにつぐギャグの連続のため。

まったく、だれがあんな魚の形をしたバカげた噴水を思いついたんだろう?
来客を告げるベルが鳴ると門扉を空ける前にスイッチオン。客のランクによって水の高さを調節、なんてのを?




ユロ氏(伯父さんの名前!)のあの下宿は?ちょっと、ヒッチコックの『裏窓』(1954)みたいだったよね。
そういえば、パイプをくわえたユロ氏の横顔ってヒッチみたい。かわいげのあるユーモアも似ているし。




ああそうだった、この映画、なぜだかやたら「足」を強調するんだよなぁ。

ユロ氏が下宿の玄関から自分の部屋までの壮大な旅路において、チラッと見えつづける「足」。
面接先で自転車を止めたときに踏んでしまった白い粉のため、くっきりと跡をつけてしまった「足」。
庭の敷石が飛び飛びになっているため、おっかなびっくりで一歩一歩すすむメイドの「足」。
噴水が(伯父さんのせいで)壊れ、テーブルやお茶を持って庭を移動するパーティ参加者たちの「足」。
決まってシャッフル調のリズムでステップをリズミカルに踏んでしまう社長(=お父さん!)秘書の「足」。

もちろん、伯父さんはいつだってちょっと変わったリズムで歩く「足」を持っているしね。
だからどうした、ってわけでもないんだけど、久々に観てて「また足だ!」って喜んでたもんだから、つい。


もう全編ギャグだから、どこもかしこも書いておきたいんだけど、観てないひともいるだろうからやめておこう。
こどもたちのいたずらのとこなんて、ホントにケッサクなんだ。漢字の「傑作」じゃなくてカナの「ケッサク」ね。

それに、いたるところで「名演」を繰り広げてくれる犬たち!いやはや、どうやって撮ったんだろう?
動物に「名演」をさせることができるのは「名監督」だけ、てゆうテーゼがあるくらいだからね、さすがはタチ監督。
ゴダールやトリュフォーなど、先行世代を墓場送りにしたヌーヴェルバーグ一派に師事/支持されたほどだもんね。


おっと忘れてた、そのジャック・タチ監督が「伯父さん」ことユロ氏を演じていたその人なんだよ。

元々パントマイムをやってたひとだから、本編でもほとんど身ぶり手ぶりだけ。
(一回だけ喋るんだけど、どこで喋るかは黙っておこうか。)


ユロ氏の、こどものように純真で、でも大人だから礼儀正しくて、
なのに、一目見て「それ」とわかるほどどこかズレている、
てゆう難しい役どころを飄々と演じているタチ。


彼はわずか6本の長編しか撮らなかった。
短編があといくつか。
出演もいくつか。

でも、それで充分と言えるほど素晴らしい作品を残してくれたひと。


観たことのないひとは、いつかのんびりと観てほしいな。音楽も「かわいい」し、ね。





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2011-05-18

Johannes Vermeer / The Geographer (1669)

   

先に瑣事を片づけておこう。


ヨハネス・フェルメール(Johannes VERMEER /1632-1675)の『地理学者』(1669)について、
あらゆる解説が取り上げざるを得ない、結局のところどうでもいい事象は以下の通り。


・フェルメールの作品中、前年の『天文学者』(1668)と本作のみが単身男性像である。

・ふたつの作品の依頼人は、オランダ東インド会社総督アドリアン・ペーツ[父]と目される。

・『天文学者』『地理学者』ともに、モデルは同郷・同世代の科学者レーウェンフックの可能性大。
アントニー・ファン・レーウェンフックは顕微鏡の発明者/微生物の発見者にしてフェルメールの遺産管財人)

・画中の男性が着ている服は、和服である。「ヤポンス・ロック(日本の衣)」と呼ばれていた。
(蘭東印社の平戸商館設立が1609年。出島の築造は1634年。天草の乱が1637年。鎖国完了が1639年)

・『天文学者』画中の天球儀と、『地理学者』画中の地球儀はヨドクス・ホンディウスによる制作(1618)

・『地理学者』画中の地図はウィレム・ヤンスゾーン・ブラウの「ヨーロッパのすべての海岸」の一部。

・『天文学者』は『地理学者』より、縦が少しだけ短い。5ミリ~1センチ程度。横は同じ。

・どちらも年期が記入されている。フェルメールは滅多に制作年を入れない。



いまではだれもがその名を知るフェルメールではあるけど、
日本でその知名度が上がり、人気出てきてからまだ10年くらいしか経っていない。

日本でのフェルメール人気が決定的なものとなったのは、間違いなく1999年と2000年の連続来日による。
以後、2004年、2005年、2007年、2008年、2009年と頻繁に来日している。2012年の来日も決定済みだ。
以前は1968年、1974年、1984年、1987年の四回だけだったことを考えると、人気の違いは明白である。

2000年当時、わたしは大阪に滞在中だった『真珠の耳飾りの少女』が観に行きたくて仕方なかったけど、
貧乏学生に美術展遠征などという発想はあり得ず、観に行ったと自慢げに語る倫理学教授を呪ったものである。


2000年、大阪にだけは来ていた『地理学者』1作のみの来日となったが、
今回の「フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展」でやっと観ることができた。


以下に、思ったこと、感じたこと、考えたことなどをぬらぬら書き連ねてみる。

ついでに『天文学者』にも触れよう。これはルーヴル美術館で2001年に観ている。もう覚えていないが。
それでも知っていることに変わりはないから、「対」となっているこの作品にも少し触れつつ、書いていこう。



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フェルメールが人類史上、類例のない高みに達した画家のひとりであることに異論を挟む者はいないだろう。

寡作な上に19世紀半ばまで忘れ去られていたこと、膨大な研究がなされてもなお詳細不明であることなどから、
「再評価された(存命時は)不遇の画家」「謎の画家」という人口に膾炙しやすいレッテルが貼られたために、
いまでは多くのひとが「天才画家」としてその名を知っている、「有名人」のひとりとなったフェルメール。


大衆(という言葉をあえて使うことにする)は「天才」というストーリーを好むものだから、
ひとたびそのレッテルが貼られたら一切の吟味もなく鵜呑みにして「有名人」のいる美術展に押しかけ、
何も感じなかったら「わからない」とか「むずかしい」などと囁き合いながら会場を後にするものだが、
そんな、普段は美術に関心がないどころか、むしろまったくの無知を決め込んでいるひとでさえも、
フェルメールの絵は「観ればわかる」、いや「わかってしまう」ほど、彼の作品は他の画家の作品と「違う」。


フェルメールは、基本的には「デルフト・スタイル」と呼ばれる絵画群とほぼ同様の題材を扱っている。
市井の風景(女性が多い)、室内に入り込む光、隣接空間(連続した部屋と部屋など)、窓、鏡、画中画など。
多様な遠近法の駆使と、入念な画面構成、そして、繊細かつ緻密な描写。

それらに画家ごとの多少の相違はあれど、基本線は同じなのである。
それでも、受ける印象は決定的に違う。

もちろん、その「違い」の幾許かは、彼の前人未到の技術力に負うものだろう。
だが、そうした表面の出来如何だけではない、もっと根本から質を違えているものを感じる。


思想が違う?それもあるかもしれない。いや、あるだろう。ただし、それが解明されることはないだろうが。
視覚効果が違う?それもあるだろう。解明もされてもいるだろう。しかし、脳科学で説明して何になろう。


ならば、画面構成だろうか。確かに、彼は独特の構成力を持っていたと言える。

清潔で統制された、心地よい私秘的な空間。それならだれでも描けた。どこにも溢れていたからだ。
フェルメールはそれを推し進めた。ひとを含め、すべてが絶妙な配置に収まった空間を描いた。
それらはあまりに絶妙すぎた。彼なりの空間把握法、「間合い」でもあったのかもしれない。
描き込むことよりも何を「描かない」か、そうした「引き算」の美学を感じるのだ。


さらに、同じ題材(風景、手紙、居眠り、学者など)を扱っても彼の絵には寓意も物語も希薄だ。

たいてい、絵とは「寓意(宗教や処世訓やモットーなど)が塗り込められた物語」と言ってよい。
しかし、フェルメールの絵に寓意を読み込むのは難しい。寓意を注意深く削除している、と言う学者もいるほどだ。
画中に寓意がない分、意味の重力が弱まったためか、彼の絵には同時代のそれらと比べて軽やかな印象がある。


この点、わたしはむかし(学生時代)から小説的/文学的と言ういい方で理解している(誤魔化しているとも言う)。

寓意(象徴)や物語(主題)など、意味を(意識的/無意識的問わず)埋め込むのが「文学的」、
それらを(意識的/無意識的問わず)可能な限り避けるのが「小説的」、という具合で。(本当はもっと複雑だが)

「小説的」なものにおいては、寓意や物語など「読み込まれてしまうもの」は抑えられる。
あるべきものが、すなわち読み込むものがないか、あったとしても曖昧で希薄なのだ。

それが絵画である場合、その絵を観る者は奇妙な感触を得るだろう。その絵に「謎」を感じるだろう。
そして、その「謎」は寓意の「解」がわからないときに感じるものとは異質の「謎」であるはずだ。


フェルメールの絵には「小説的」なものを感じる。
過剰な意味や物語を避けている。ゆえに謎めいて見える。
むしろ、解のある「謎」が埋め込まれた絵の方が、「ふつうの絵」なのだ。


彼の絵が「違う」のは、まさにこの点においてであろうと思う。

もちろん、われわれは「ふつうの絵」の寓意も物語も読むことはできない(かもしれない)が、
そのように描かれたものと、そのようには描かれなかったものの違いを、なぜだか触知できるらしい。

もしくは、フェルメールはそれほどまでに徹底して「何か」を描いていたのである。
問題は、その「何か」が何であるのか、だれにもわからないことなのだ。

あるいは、徹底するうちにどこかに突き抜けてしまった、とでも言うか。

彼の絵の「謎」とは、そういった類のものでもある。



それでは『地理学者』を観てみよう。





The Geographer (1669)


窓、外光、人物、清潔な空間、品のある高価な調度品、いくつかの「地理学者」的な道具。

この作品に如何なる寓意もない。物語もやはり希薄だ。
せいぜい、何か閃いたように見える表情と、やや持ち上げられたディバイダー(コンパス)、
この2点に「書斎の学者」というストーリーを読み取ることが、かろうじて可能であるだけだ。


対の作品となっている『天文学者』も観てみよう。



The Astronomer (1668)


『地理学者』よりやや暗い画面作りだが、道具立てが「天文学者」であること以外ほぼ同じだ。
寓意を画中画の「モーセ」に求めるのは難がありすぎるし、ここでは物語はないに等しい。


「天文学者と地理学者」という組み合わせに、
17世紀当時に覇権を握っていた海洋国家オランダを読み込むことは容易だ。

航海術に天文学は必須であり、拡大する地図の作成に地理学は欠かせない。
天文学者は天球儀とアストロラーベを、地理学者は地球儀とディバイダーを持っている。

しかし、それだけのことだ。


極論を言えば、各学者のアトリビュートである道具類がなくてもこの一対の絵は成り立つだろう。
それほど構図が優れているわけだ。画面内の何であれ、絶対にこの配置でなければならない。


そして、ここには、われわれの目には「謎」としか映らない「何か」が描き込まれているのである。


* * *


わたしは、前回に書いたフェルスプロンクの肖像画に衝撃を受けた後、
広い空間に据えられた『地理学者』を遠目に見ただけで、その「違い」に愕然とした。


矩形に切り取られた空間に、何度も何度も広告で目にしていた『地理学者』がいた。
それはしかし、既知のものを確認する、という範疇を遥かに超えていた。


技術的に「格が違う」のではなく(それも含むが)、
あの絵は「別世界/別次元」への「窓」なのだと、一瞬のうちに悟った。


何もかもが違った。そうとしか思えなかった。いや、思う以前にこう感じた。
そこには世界が、もうひとつの宇宙が、あったのだ。


フェルメールは、あの小さな空間に「宇宙」を閉じ込めていた。


いや、閉じ込めたのではなくて、そちらの宇宙へ接続できる「窓」をこしらえ、
わたしたちに「そちら」を覗き見ることを促した、とでも言おうか。


大袈裟に聞こえるかもしれないが、これが偽らざるわたしの感想である。




未見の方は、いそぎ会場に足を運ばれんことを。



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2011-05-15

The Golden Age of Dutch and Flemish Paintings

       





初回は地震後でひとが少ないなか、ゆっくりと時間をかけて鑑賞し、
二回目は連休中、入場規制をしてほしかったほどのとんでもない混雑のなか、
同行者へガイド的なことをしつつ、あまり時間はかけられずに観て回ったのだった。
(二回目に行ったとき、説明プレートが激減していたのはなぜなんだろう?)


印象に残ったことや思ったこと、考えたことなどを備忘録としてここに置いておこう。
会場の展示順に、気に入った作品についてだらだらと書いていくことにする。


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はじめのカテゴリーは「歴史画と寓意画」で、
フェルメールに次ぐ「目玉」だったルーベンスとレンブラントが圧倒的だった。
あまりに早いハイライトの到来に戸惑ったほどである。



ペーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul RUBENS /1577-1640)と、
ヤン・ブックホルスト(Jan BOECKHORST /c1604-1668)の『竪琴を弾くダヴィデ王』(1616~40)は、
ルーベンスが描いた老人の頭部像に、ブックホルストが描き足してダヴィデ王としたもの。

頭部とそれ以外の質の違いが歴然としているばかりか、板の継ぎ足しすら容易に確認できたにも拘らず、
その頭部に起因する重厚な威厳と人間的な哀感は、この老人をダヴィデ王とするに足るものだった。

わたしはむかしからルーベンスが苦手で、好みから言うと「あまりにバロックすぎる」のだけど、
間近で作品を観て、有無を言わさぬ説得力にそんな好みがどうこうなどという瑣事は一掃されてしまった。

「苦悩に満ちた」という紋切型がこれほど違和感なく当て嵌まる例もなかろう、という晩年のダヴィデ王は、
若年のころその腕を買われて宮廷入りした竪琴を弾くことで、陰惨な日々の無聊を慰めたであろうか?

家臣ウリヤの謀殺とその妻パト・シェバの強奪、長男アムノンとタマルの悲劇、次男アブサロムの謀反と死。
そんな激動の日々のなか、仮に竪琴を弾くことができたとしても茫然自失の体(てい)だったのではないだろうか。
目を見開いたまま放心した表情の王は、どんな曲を奏でたのだろう。腕は鈍ったのか、それとも円熟したのか。

絵を眺めながら、そんなことを思っていた。

それゆえに、ブックホルストはよくこの頭部像をダヴィデに見立てたものだ、と思った。
周囲のだれかや、ルーベンス自身が示唆した可能性もあるのだろうが、真相は永遠に闇のなかである。


ちなみに、展覧会タイトルにも含まれる「フランドル」とは「フランダース」(英語由来)とも呼ばれる地域で、
西ベルギー・南オランダ・北フランスにまたがる旧ブルゴーニュ公国領の一部なのだが(ほぼ現ベルギー)、
われわれ日本人には、あの「泣ける」(←厭な言葉だ)アニメ『フランダースの犬』の舞台、といえばいいだろう。

その『フランダースの犬』最終回で、主人公ネロが念願かなって観ることのできた絵の作者が、ルーベンスなのだ。
(ルーベンスはフランドル(フランダース)地方最大の画家なのだから、当然と言えば当然の登場なのだけど)

わたしがルーベンスを苦手としているのは、あの最終回が幼少期のトラウマになっているためかもしれない。
ネロが「素晴らしいだろう?」と愛犬パトラッシュに語りかけるほど素晴らしい絵だとはこどものわたしには思えず、
むしろこの絵を観て安心したからこそ愛すべきネロは天に召されてしまったのではないか、と思ってしまったため、
一時期ルーベンスはわたしにとって目の敵だったのである。



これにつづくレンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van RIJN /1606-1669)の、
『サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ』(1630~31)は「光と影の魔術師」が24歳前後のときに製作した作品。


まだまだ若いのに、すでにスポットライトの手法が完成されているのだから、まったく恐ろしい男である。

余談だが、映画技法ではスポットライト/ピンスポット照明を「レンブラント照明」と呼ぶ。
ライティング機材のあるはずもない17世紀に照明を「発明」してしまった視覚効果の天才が彼なのだ。

劇的な効果を盛りたてる、彼独自の手法であるライティング効果は、
間近で観てよくわかったのだけど、ハイライト(明るい箇所)に絵具を「盛って」作っている。
レンブラントが登場するまで、絵画の表面はフラットなのだ。彼は画面の改革者でもあった。

サウル王と、若き羊飼いにして宮廷に召されたほどの竪琴の名手であったダヴィデ。
悪霊に苛まれていた王はその竪琴の音色に救われ、重用されたダヴィデは長じて各地で戦功をあげた。
しかし、ゴリアテを破り名声を高めると、却って王のこころに嫉妬と猜疑を生む新たな「悪霊」となった。

悪霊は祓わなければならない。すぐにでも。そして王は、槍を握りしめた。

この場面は、まさにその瞬間を描いている。彩色はけっこう落ちているらしいが、それでも傑作だと思った。
カリフ風のターバンを巻いているところに、当時、世界最大の国だったオスマン帝国の影を見なくもない。

若いダヴィデは王の槍をかわし、サウルが没すると自らが王となってイスラエルとユダを統一する。
悲劇的な晩年の終わりに息子であるソロモンを王に指名し、自らはその「波瀾に満ちた」生涯を終えた。
その後、イスラエルはソロモン王の下で黄金時代を迎える。神殿が建てられ、聖櫃が安置されたと言う。
紀元前1000年ごろの出来事だ。旧約聖書に拠るが、ほぼ史実とみてかまわないだろう。


ちなみに、トランプの「スペードのキング」はこのダヴィデ王がモデルである。参考まで。
(ハートはカール大帝、ダイヤはカエサル、クラブはアレキサンダー大王となっている)



次は「肖像画」の部で、ここから「いかにもオランダ」と言いたくなるような、
驚異的に緻密で細部まで技巧を凝らした絵画の登場となった。



ヨハネス・フェルスプロンク(Johannes VERSPRONCK /1606~09-1662)の、
『椅子に座る女性の肖像』(1642~45)は驚嘆すべき細部の描写に超人的な技量のほどが窺えた。
黒服のゴブラン織り、レースの模様、椅子の飾り、襟や肌の質感、すべて本物と見紛う出来。


逆に、自由なタッチで人物像を浮かび上がらせることに成功していたのが、
フランス・ハルス(Frans HALS /1582~83-1666)の『男の肖像』『女の肖像』の連作(1638)。


ほとんど印象派と言えるような荒々しい筆のタッチに驚かされた。
筆の痕跡を可能な限り消すのが当時の常識なのだ。
実際、印象派の連中はそれまで忘れ去られていたハルスを「発見」して、熱狂したらしい。


残念ながらほどよい画像が見つからなかったので紹介できないものもある。せめて名前と題名だけでも。
(図録を撮ってもいいのだけど、満足できなかったのでやめることにした)

ピーテル・サウトマン(Pieter SOUTMAN /c1580-1657)作とされている『子供の肖像』(1635~40)は、
男の子か女の子かわからない、赤い服と帽子を身に着けたかわいらしいこどもの肖像画。
ただの肖像画なのに受ける印象は不思議と複雑であった。天使を描いたのかもしれない。



次は「風俗画と室内画」の部。

というより、とても広いスペースを割いてフェルメールの『地理学者』ゾーンとなっていたのだけど、
それは長くなるので次回に述べることにして、定義が曖昧な「風俗画」から二点。


ディック・ファン・バーブレン(Dirck van BABUREN /c1595-1624)の『歌う若い男』(1622)には、
こんなに「イタリア風の」絵を描く画家がネーデルラントにいたのか、と驚かされた。



ふつう、ネーデルラント(オランダ)の絵画はいわゆる「北方ルネサンス」の枠内で捉えられていて、
イタリアのそれと比べて細密な描写や「陰惨」と言いたくなるほど暗い人物像にその特徴がある。

もっとも、その北方ルネサンスほどには陰惨でないところがネーデルラント/フランドル絵画の美点で、
むしろ明るい人物像が多いところに、17世紀に覇権を握っていた国家とその市民の矜持が窺えもする。

それにしても、これはいかにもカラヴァッジョ的なキアロスクーロ(明暗対比)だ。
ルーベンスという「感情に訴える色」の巨匠がすでに輩出されているにしても、彼以上にイタリア的。
どうやら早世した画家らしい。活動期間が長かったら、いったいどんな絵を描いていたのだろう。




アドリアーン・ブラウエル(Adriaen BROUWER /c1605-1638)の『苦い飲み物』(1636~38)は、
見ての通り、思わず笑ってしまうような絵である。描かれた男には申し訳ないが。

ブラウエルは、ふつうは描かれない「醜い」題材のものを描いた。絵のタッチも荒々しい。それが魅力でもある。
しかし、いったいどこのどんな人物がこの絵を自宅に飾っていたのだろう。毎日目にしたくはないと思うのだが。




ヘラルト・テル・ボルヒ(Gerard ter BORCH /1617-1681)の『ワイングラスを持つ婦人』(1656~57)は、
小品(40cm×30cmくらい)だけど、精巧の極みと言うほかない陶器やグラスや銀器の描写に驚かされる。

手紙の質感、机の細工、スカートのドレープ、鮮やかな赤い椅子と、何もかもが見事。ひび割れが惜しまれる。
ほとんどフェルメール級の技巧の持ち主と言っていいのかもしれない。凄い奴がいたもんである。



次の「静物画」はわたしの好きなジャンル。今回も素晴らしい作品を目にすることができた。
ただ、目玉のひとつだったヤン・ブリューゲル[父](Jan BRUEGHEL the Elder /1568-1625)の作品は、
彼の「工房」の作品で、思ったほどの出来でもなくまた小さすぎて期待外れだったのが残念だった。
(19世紀まで、たいていの画家は自らの工房で弟子とともに作品を描いている。現代の漫画家と同じ)



ヤン・ド・ヘーム(Jan de HEEM /1606-1683~84)の『果物、パイ、杯のある静物』(1651)は、
細密描写にもほどがある、と言いたくなるような作品。グラスに写る窓に気づいたとき、鳥肌が立った。
全体で三角形をなす構図も見事だが、とにかくこの技術的達成のすべてが恐ろしい。狂気の沙汰である。


ド・ヘームの弟子ないし影響下にあった以下の三人の作品も、師匠同様かそれ以上だった。
画像がないのが悔やまれるが、狂的なまでの執拗な細密描写は現物を観て目ん玉ひん剥いてほしいところ。

ピーテル・ド・リング(Pieter de RING /1615~20-1660)はド・ヘームの弟子。
『果物やベルクマイヤー・グラスのある静物』(c1658)は、背景の石柱(?)が奥行きを作っていて謎が深まる。

ハルメン・ルーディング(Harmen LOEDING /c1637-1673?)はド・リングの同僚と目される詳細不明の画家。
『苺の入った中国製の陶器とレーマーグラスのある静物』(1655)もまた、寓意画のように謎めいている。

アブラハム・ミフノン(Abraham MIGNON /1640-1679)はド・ヘームの弟子。
『合金の盆の上の果物とワイングラス』(1663~64)は、カタツムリや蝶もいて賑やか。葡萄の描写が精密すぎる。



ヤコブ・ファン・ワルスカッペル(Jacob van WALSCAPELLE /1644-1727)の
『石の花瓶に生けた花と果物』(1677)は、美しい花が、その美しさゆえに非現実的な量感を伴っている。
トカゲや蝶や蠅に寓意を嗅ぎつけなくもない。花瓶のレリーフに施された神話もまた寓意表現だろう。
活動期間が限られていた画家らしい。オランダ黄金時代が戦火によって終わりを迎えたころにやめている。


ヤン・ウェーニックス(Jan WEENIX /1642-1719)の『死んだ野兎と鳥のある静物』(1681)は、
タイトル通り死んだ野兎の描写が克明で気味が悪い。猟自体が特権的であり、その収穫物は富の象徴だった。
ゆえに依頼主がいて題材足り得たわけだが、それにしてもあまりに陰惨な絵ではないか。

これを観て、ジャン・ルノワール『ゲームの規則』(1939)の狩りの場面を思ったひともいるのではないだろうか。
(「呪われた映画作家」ルノワールの、この「呪われた作品」についてはいまはその名前を出すに止めよう)


ほかに、「謎の画家」ペトルス・ウィルベーク(Petrus WILLEBEECK /c1620-1647~48)の、
『ヴァニタスの静物』(c1650)も気に入った。横たわる頭蓋骨の描写に並々ならぬ技量が窺えたのだ。


これら静物画か開示しているのは、物それ自体が孕む「謎」、「存在という謎」である。
即物的な描写を徹底したら、物の「向こう側」が「こちら側」に迫ってきたのである。
それは、言葉本来の意味におけるシュルレアリスム―超現実主義でもあるのだ。
(「超」は強調のため使用されている接頭語で、要するに、「超だるい」の「超」である)

晩年のダリが、一斤のパンを克明に描いて「これこそがシュルレアリスムだ」と言ったことが思い出される。


この後、最後に「地誌と風景画」の部があったのだけど、
二回目は混雑と時間の都合で観られなかったということもあって、あまり印象に残っていない。
図録を見返してみて、もっと時間をとって観ておけばよかった、と思ったが後の祭りである。

それでも気に入った作品はもちろんある。ただ、ちょうどいい画像はなかったが。

アールベルト・カイプ(Aelbert CUYP /1620-1691)の『牧草地の羊の群れ』(c1641)は、
的確な羊の描写と広がりのある青空が魅力的な作品で、開放感があるのどかな風景が素晴らしい。
極めて平坦なネーデルラント的風景なのに、イタリア風の柔らかい光に満ちているのがおもしろかった。

サロモン・ファン・ロイスダール(Salomon van RUYSDAEL /1600~03-1670)の、
『渡し船のある川の風景』(1644)は、さすがに画家一族の出身だけあって技巧・センスともに素晴らしかった。
画面左半分を占める木の繁みと、右半分の明るい空との対比、その下を流れる川、という構図がわかりやすい。
船に乗せられている牛、牛が写る川面、遠くの街並み、木の繁みや林の奥行きなどの精密な描写を楽しんだ。

アールト・ファン・デル・ネール(Aert van der NEER /1603~04-1677)の、
『漁船のある夜の運河』(1644~45)は、月明かりで青くなった夜空とその月を霞めている雲が印象的な一作。遠近法の消失点と月が少しズレている。運河で働くひと、近くの家、対岸を行く馬上のひと、運河沿いの木々など、月の光でいっそう叙情的になっていた。



厳選した上にかなり端折ったのだが、長くなってしまった。

ヨハネス・フェルメール(Johannes VERMEER /1632-1675)の『地理学者』(1669)は、
対となる前年の『天文学者』(1668)にも触れつつ、次回にまわすことにしよう。


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2011-05-08

ANZA's box at Marz on 1st May (Pt.2)

  

(承前)


「2003年。『レ・ミゼラブル』に出会いました」

「本田美奈子さんが出演されていた公演を観て、初めて《魂で歌うひと》を観た、と思ったんですよね」
「その美奈子さんが演じていたエポニーヌ役がたまたまわたしにまわってきたんだけど、とても苦しかった」

「セラミュ」を400回近くこなしているとはいえ、より本格的なミュージカルへ挑戦することに。
高い演技力と歌唱力を求められる役を演じるための試行錯誤、暗中模索は相当なものだったのだろう。
この試練を乗り越え、ANZAさんは女優としても歌い手としても自信を深めることになったのではないだろうか。

小説しか読んでないので(しかもあまり覚えてない)ミュージカル版は原作と異同があるかもしれないが、
エポニーヌは作中でもっとも純粋で悲劇的な薄幸の人物ながら、一抹の幸福を湛えたその最期が印象的だった。


そのエポニーヌとして歌う"On My Own"は、
愛に殉じたエポニーヌの思いと生き様を歌う、力強くも儚く、そして何よりとても切ない曲だった。

「またわたし行くところもないわ」と、語りと歌の中間をいく歌唱でひとことひとこと、
言葉に力と思いを込めて歌い出すその姿は、まさに「ミュージカル女優」のそれであると同時に、
HPPのライブで何年も観てきた姿と大差ないどころか、ほとんど受ける印象が同じであることに気づかされる。

彼女の「愛するひとを思う強さ」「それゆえの孤独」とANZAさんの歌唱が見事に合わさって、
辛さ、痛み、切なさに否応もなくシンクロさせられてしまう。役どころを知らなくてもそれは伝わっていただろう。

この曲で、「表現者ANZA」が伝えてくる感情の質というものの全体像が、おぼろげながら見えてきた気がした。


マイクをへそのあたりで両手に握りしめたまま、ANZAさんがゆっくりとステージを後にすると、
かわって、これまでパーカッションを叩いてきた坂口さんがマイクをもって前方に出てきた。

昼夜公演ともにさして紹介はなかったのだけど、坂口さんも「レミゼ」出演者なのである。
(2003年当時の出演者リスト、ならびに音源はこちらを参照

曲は"エピローグ"。おそらく、最後に出演者全員で歌う曲なのではないだろうか。
ANZAさんも途中から歌いながらあらわれ、ふたりとも向き合って熱唱する。
長い舞台の最後にふさわしい、勇壮でいてどこか「祭りの終わり」を思わせるような蔭りのある曲だ。

大きな拍手のなか、ふたたび定位置に戻る坂口さん。とてもうれしそうだった。


ANZAさんが次のゲストをステージに招き入れる。ミュージカル「GIFT」で共演した小田マナブさんだ。
公私ともに仲がよく(つい最近も渋谷で会ったのだそうだ)、小田さんもANZAさんを「アンジー」と呼んでいた。

「アンジーにはしょっちゅう相談をしていて…」
「でも、いつも聞き手にまわってアンジーの悩みを聞いてるうちに、自分の悩みなんてちっぽけなもんだな、と思って」「で、結局なにも言わないで帰ってくるんです」なんだか目に浮かんできそうなシーンである。

小田さんは、右側即頭部だけ髪を短く刈っているファンキーな髪型(色は明るめの茶髪)をしていてもなお、
その誠実な人柄が伝わってくるような方で、やわらかい話し方とこどものような明るい笑顔がとても印象的だった。


「このミュージカルには"笑ったら"てゆうとても素敵な曲があって、ずっといい歌詞だな、と思ってて」
「本当につい最近まで知らなかったんだけど、この歌詞を書いたのがじつは・・・マナブだったんだよね」

そうだよなんで知らなかったんだよ、と言いたげな調子で「そぉ~うなんですよ」と小田さん。
「ちょっと、歌詞を書いた背景なり何なり説明してくれる?」とANZAさん。「ハイ、ええと…」と語り出す小田さん。

その小田さん、かつてはミュージシャンを志して上京したものの生活のためバイトに明け暮れ、
結局は夢から遠ざかる日常に苛立ちや焦りを感じて過ごしていたという、そんな時期にこの歌詞を書いたそうだ。

実際、この「GIFT」での役どころも《夢を追うフリーター》の役で、
作品とまさにピッタリだったため、曲を使ってもらうことになったのだそう。

ANZAさんも「GIFT」の役どころが「すとんっ、と入ってきた感じ」がしたほど、違和感なく演じることができたらしい。


その"笑ったら"は、「夢や希望だけじゃ生きられない」「夢にはまだ1ミリも近づけない」と歌いだされ、
「あきらめることはできるわけはないよ」「自分で決めた道なのに」「笑ったらいいさ」とつづいていく。
(うろ覚えなので間違っているかもしれないが、流れは合っているはずである)

やりきれなさと、それをふり払おうとする意志の強さが胸に迫ってくる曲で、しみじみと感動する。



曲が終わり、ANZAさんは小さいノートを手にとって語り出す。
3月の震災のこと、阪神大震災のこと、被災者が「がんばれ」という言葉に励まされ、かつ傷ついたこと。
プロデューサーは「上手に歌うな、真剣に歌え」と声をかけていたらしい。技術ではなく気持ち、いや、倫理か。

「せっかく助かった命を、捨てないでほしいと思います」
「いま、《真剣に》歌いたいと思います。《自殺しちゃ、ダメだよ》」

テーマ曲の"GIFT"もまた、元々は小田さんがやっていたウェイターズの"自殺しちゃだめだよ"が原曲のようだ。

何度も何度も出てくる「がんばれ」という言葉。励ましとも祈りともつかない言葉。ときに無責任な言葉。


《真剣に》歌う、とはどうゆうことだろう。気持ちを込める、それだけだろうか。
込められた気持ちは必ず伝わるのだろうか。気持ちが入ってないのにそれと伝わってしまう場合もありはしないか。
送り手と受け手、どちらか一方だけで完結してはいないだろうか。だとしたら、何のため《真剣に》歌うのか?

思うに、《真剣に》ならねばならないのは自分に対して、なのだろう。自分に嘘はつけない。
誰しも、自分がついた嘘くらいわかる。そのとき気づかなくても、後々になって気づくだろう。
だから、《真剣に》歌わねばならない。嘘を、ごまかしを、見栄を、一掃しなければ歌ってはならない。

これは、ANZAさんがHPPで実践している以前に、アイドル時代からずっと貫いていることではあるまいか。
全力で、魂を込めて、真剣に、歌うこと。持てる感情を表現すること。それで伝わらなかったら、それまでのこと。

しかし、伝わらないことなどかつて一度でもあっただろうか?そう思わざるを得ないほど、圧倒された。


小田さんの頬には涙の跡があった。それも、昼夜公演の二回とも、である。
それが役者だろ、と言われそうだが、受けた印象はそうした職人めいたものではなかった。
ANZAさんが「素晴らしい役者さんであり、表現者」と太鼓判を押すのも頷ける。

はたして、これほど《真剣に》音楽に取り組んでいるバンド/アーティストはどれくらいいるのだろう?
ステージに立つのなら、作品を出すのなら、まずは嘘のない真剣さがあってしかるべきではなかろうか。
楽しければ、満足していれば、それでいいかもしれない。まして、成功していたら尚更だろう。

それでも、わたしは敬意と感謝を(《愛》と言い換えてもいい)捧げるに足る表現者を応援したい。
そうでなければ、申し訳が立たないではないか?こんなにも、与えてもらってばかりだというのに。


岩名さんのときと同様に、小田さんにステージを任せて姿を消すANZAさん。
しばし、震災のことを語った。多くの不幸、あの状況下で深められたひととひとの絆、それを信じること。

ウェイターズ時代の曲だという"テノヒラ"を、あたたかい声でじっくり歌って聴かせてくれた。
とてもこころに響く曲を書くひとだと思った。こうしたナチュラルな曲こそ多くのひとに届いてほしいのだが。


お色直しをしたANZAさんが再登場。曰く、「ブラック・アンザ」なのだとか。
襟が大きめの開襟シャツに紺のベストを着て、ストライプ(紺と白)のネクタイをゆるくしめた姿。
(昼公演の後に「AKBみたい」と言われたらしく、夜公演で「ちがーう!」と言い返していた)

小田さんと「今後の予定」についてトークしている間に、坂口さん、水谷さん、Tomoさんがステージを去り、
入れ替わりでNarumiさん(b)とBatchさん(per)がセッティング。

一方、ANZAさんは「HEAD PHONES PRESIDENTをメインに」活動することを告げる。
6月15日にDVD発売で、現在作業中とのこと。また、その後も「いろいろ企画している」とも。
(ANZAさん、テーブルに置いていたフライヤーで小田さんの舞台の告知もしていた。演目はこちら


ここからは、HEAD PHONES PRESIDENTのアコースティック・セットとなった。

"Chain"のアコースティック・ヴァージョンは、去年の10月23日以来2回目となる。4人編成ではこれが初めてだ。
(ただし、海外ではやっている。去年のブラジルと、今年2月のフランスである)
これまでは楽曲の「主役」だったANZAさんも、HPPでは全体の一部(ただし、欠くことのできない)となる。



"Life Is Not Fair"では、Narumiさんのベースがより前面にせり出してくる感触がある。
そのためもあって、曲の底流にあるとおぼしき情念がゆらゆらと立ち昇り、うねってくる印象が強い。

ミュージカルの楽曲を歌っているときとほとんど同じでありながら、何かが違う。
それがバンドという磁場、人間関係なのだろう。音楽とは、なぜか「そうゆうもの」なのだ。


Narumiさん、Batchさんがステージを後にし(昼公演ではなぜかHiroさんも一度去ったのだった)、
ふたたびメンバーが定位置についたところで「むかしやっていたカバーを」やる、と言う。

むかし、とはどうやらセラミュを卒業してソロになってからやったツアーのことのようだ。
となると、1998年~1999年である。Tomoさんはそのときからのつき合いになるのだろう。


当時、ドラマーだった仁科さんが英詞を日本語に翻訳(むしろ翻案)したという、
ベット・ミドラーの超名曲"The Rose"のカバー、タイトルは"Dear あなたへ"
(『おもひでぽろぽろ』の曲、と言えばあのメロディが思い浮かぶだろうか?)



わたしはこの曲にすこぶる弱いので、ピアノが一音一音鳴らされるイントロだけで泣きそうになった。
歌詞は、愛する者を失った悲しみを抽象化したオリジナルと違い、かなり具体的な描写となっていた。
死んでしまった恋人の顔を、茫然自失のまま見つめる姿が目に浮かぶかのようだった。
(ところどころ、水谷さんがコーラスをとってきれいなハーモニーをつくっていた)

後半、天に届けとばかりに声を張り上げる姿勢に、ANZAさんの変わらぬ「歌」を聴いた。
メロディをきれいになぞるのではなく、むしろところどころあえて濁らせ、力み、荒げて歌う。
それはHPPだけでなく、ミュージカルでも、カバーでもそうだった。(ビタQも同様だ)


技術を研鑽し、自分のやり方で、真剣に、世界と対峙する。愛と祈りを込めて。

これが「表現する」ということなのだ。
そして、それを悟らせてくれるひとは、じつに少ないのである。


これに未発表曲の"一人じゃない"が、MCなしでつづいた。
夜公演ではMCを挟んで、やはり未発表曲の"For Ever"だった。

いずれも曲自体はシンプルかつストレートな曲だけど、"Dream"ではなく明らかに"彼方へ"よりの曲。
ただし、"彼方へ"や"翼"ほど「痛み」は強くなく、もっと淡い哀感が漂う、といった風情。


「次の曲で最後になります。今日は本当にありがとうございました!」

曲名が告げられた未発表曲の"My Will"は、他のソロ曲と決定的に違い、
躍動感と楽しさと笑顔に満ちた、とても幸せな空間を会場に現出させてみせた。

中間部では、ANZAさんがひとりずつその名を呼んでのソロ・パートも。



水谷さんの流麗なヴァイオリン、吉田さんの柔らかいベース、
終始笑顔を絶やさなかった坂口さんのパーカッション、いつも通り弾きまくりのHiroさん、

「そして、今回の音楽監督をしてくれたTomo!」

「そしてわたくし、ANZAでした。本日はどうもありがとうございました!」


このままずっと、このときがつづけばいいのに、と叶わぬことを思ってしまう瞬間がある。
まさにそんな瞬間だった。終わってほしくなかった。もっと観ていたかった。


この公演を観て一週間経った(もう?まだ?)いま、こうしてブログを書きながら、
「もうあのライブを観ることはないのか…」と寂しさを感じている。


鳴りやまない拍手に、「ごめん、アンコールないの!」とわざわざ幕の横から顔を出した昼公演、
幕が閉まるまで手を振りつづけて、「なかなか閉まらないね」と笑いながら言った夜公演と、
その終幕まですべてが、いま思うと「ANZA一色」だった。


わたしはこの素晴らしいライブを2回観ることができた。そのことを深く感謝したい。


夜公演では、最後の曲が終わったあとに35本のローソクが刺さったケーキが運び込まれ、
みんなで楽しく「ハッピー・バースデイ」を歌ったことをつけ加えて、これで終わりとしよう。




SET LIST
Solo part 1
01. Song 5
02. Dream
03. 彼方へ
04. 翼
ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」より  w/岩名美紗子
05. ムーンライト伝説
06. I Miss You
主題歌メドレー
~07. ラ・ソウルジャー
~08. ラ・ムーン
~09. 伝説生誕
10. Over The Times (岩名美紗子 ソロ)
ミュージカル「レ・ミゼラブル」より
11. On My Own
12. エピローグ  w/坂口勝
ミュージカル「GIFT」より  w/小田マナブ
13. 笑ったら
14. GIFT
15. テノヒラ (小田マナブ ソロ)
as HEAD PHONES PRESIDENT
16. Chain (acoustic ver.)
17. Life Is Not Fair (acoustic ver.)
Solo part 2
18. Dearあなたへ (Bette Midler "The Rose" cover)
19. ひとりじゃない (昼公演のみ) / For Ever (夜公演のみ)
20. My Will


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ANZA 「皆ありがとうぅぅっっっ!!」(ココログ) 「ありがとう!」(アメブロ)
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坂口勝 「新宿MARZで・・・」
小田マナブ 「ANZA Live終了!」 「集合写真」

I (HPP Fan Site管理人) 「Rose Of May」

2011-05-07

ANZA's box at Marz on 1st May (Pt.1)

 

1日に新宿Marzにて行われた、ANZA's boxのレポートをお届けしたい。

ANZAさんのデビュー20周年(実際は21周年/去年開催予定だった)を記念してゲストを迎えつつ、
その経歴をレビューするという企画イベント/ライブで、昼夜二回公演の両方を観てきた。





わたしがAnzaさんを知ったのは、HEAD PHONES PRESIDENT(以下HPP)のヴォーカリストとしてであり、
アイドルとしてのAnzaさん、HPPと並行して活動していたミュージカル女優としてのAnzaさんは知らなかった。


アイドルに興味を持つことのないわたしが、90年代当時にアイドル大山アンザを探し当てることはまずないし、
ミュージカル映画は見るものの劇場には行かないわたしが、新進ミュージカル女優ANZAに気づくこともないから、
知らなかったこと/気づかなかったこと自体に悔しさを感じつつも、それはそれで仕方ないことと納得はした。

ただ、初めて「HPPヴォーカリストAnza」の経歴を知ったとき、不思議な思いがしたものだった。

それだけメジャーな活動をしてきた/しているひとが、どうしてHPPのような「聴く人間を選ぶ」音楽をしているのか、
そういった音楽をせずにはいられないひとが、どうしてアイドル/タレントとして活動でき(あるいはできなくなり)、
どうしてバンド活動と並行してまでもミュージカルで歌っていたのか、ピンとこなかったのだ。

もちろん、日本で「芸能」活動をすることほどストレスフルな仕事もないように察せられるし、
そこから必要となった「捌け口」がHPPやミュージカルなのだろうとわたしにも想像できたけど、
それですべて得心がいくというには程遠いほど、HPPの音楽は特異すぎた。
それゆえの「不思議な思い」だったのである。


今回、その活動を振り返るライブを観れたことで、そのような思いの大半は解消された気がする。
「必然」や「運命」というような言葉はできれば使わずに済ませたいところだが、そういったことを感じたわけだ。


それでは、以下にライブレポートをお届けする。


ちなみに、バンド表記は半角英数大文字(一部例外あり)、アルファベットの個人名は頭文字のみ大文字、
でほぼ統一しているこのブログだが、今回は「バンドのヴォーカリストとしてのAnza」とは一線を画するため、
「表現者ANZA」として、半角英数大文字表記で統一することにした。

文中で昼夜公演の記憶が入り混じったり、あえてそうすることもあるだろう。
その点、ご容赦願いたい。

また、もう二度とないイベントなので覚えていることは可能な限り書くようにした。
長くなったので前半・後半にわけてのライブレポにする。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



開場に着くと、受付にはメッセージが書かれたレモンリーフレットつきの花が飾られていた。




会場となったMarzフロアにはパイプイスが敷き詰められていて、いつもと雰囲気が違う。
指定された席は上手側の2列目、右から2番目で、イスにはお菓子とカードが。


(わたしは二回観たので、お菓子もカードもふたつなのだ)


花もカードもそうだけど、こういったあたたかみのあるやりとりには何度かお目にかかっている。
HPPとANZA、そしてそのファン双方の、敬意と感謝の念があってこその節度ある交流が、わたしにはうれしい。


定刻となった16時、ステージを覆う白い幕に「ANZA」の文字が浮かび、
シングル曲が順番に数十秒ずつ、ジャケットやPVを映し出しつつ流れ、
VITAMIN-Q featuring ANZAからも"The Queen Of Cool"のPVも流れた。

次いでミュージカル「セーラームーン」の一場面(伝説のキメ台詞つき)から、
相方だった森野文子さんのコメント(もしくは90年代当時の思い出話)へ、
ミュージカル「GIFT」の一場面から山川恵理香さんのコメント(及び赤子の泣き声)へ、
ミュージカル「AIDA」の一場面から安蘭けいさんのコメント、
そしてHPPのライブ映像(5人編成が一瞬だけ、あとは2月のクアトロ公演)と、
代表的なキャリアを振り返る映像が次々に映し出される間にバンドメンバーが定位置につく。


映像が終わると同時にTomoさん(key)がコードを鳴らすと、
ステージ後方からのライトをうけたANZAさんのシルエットが、白い幕にうつる。

天上の高いMarzだからできる演出で、4メートル近い影を見上げていると幕がゆっくりと上がっていった。

ANZAさんは白い薄手のカーディガンに白いスカート姿。カジュアルながらも舞台衣裳のようにも見えた。
(夜公演は、ピーコート風デザインの、白に近いベージュのゆったりとした上着で、やはり衣裳のよう)


1曲目は未発表曲で、どうやら正式タイトルはついていないらしい"Song 5"から始まった。

水谷美月さんのヴァイオリン、坂口勝さんのパーカッション、HPPのHiroさんのアコースティック・ギター、
という生楽器メインのアレンジで終始ライブは進められたのだけど、それゆえにワールド・ミュージック的な、
空間的な広がり、牧歌的な郷愁、記憶の古層に何かがふれるような感覚といったものを感じることが多かった。

未発表の曲とはいえ、哀感を伴ったメロディが情景を喚起する美しくも躍動感のある曲で、すぐに引き込まれた。
(ちなみに、歌詞は英語か、英単語で綴られたANZA語だった。両者の共通点/相違点は割愛)


Tomo (key), Norio YOSHIDA (b), Masaru SAKAGUCHI (perc/vo), ANZA, Hiro (g), Mizuki MIZUTANI (v/cho)


「ANZA's boxへようこそ」という挨拶につづいて、
「今日は、みなさんといっしょにタイムスリップをしてみたいと思います」

ソロになってはじめて発表したシングル曲の"Dream"(1998)は、この日はじめて聴いた。
当然のことながら90年代的なJ-Popだけど、上記のとおりワールド・ミュージック的なアレンジが施されている。


「次に《だいじょうぶだいじょうぶ…》ってやつを出しましたけど、今日はやりません(笑)」
(ええーっ、と声が上がるのをうけて)「だってもう歌えないでしょー、アレは」
「え~、もうオトナになりましたので、しっとりと歌いたいと思います」
「この曲の歌詞を書くにあたって、(共作者の)伊藤緑さんに自分の思いをぶつけたことを思い出します」


"彼方へ"(2006)は個人的に思い入れの深い曲なので感無量だった。
広い空をうつした大きな河をゆっくりと漂っていくかのようなスケール感のある曲だけど、
全編にわたって言い知れない哀しみに覆われてもいて、聴いていると焦燥感にちかい痛ましさに胸を打たれる。



同曲のカップリング曲だった"翼"がつづく。伴奏はTomoさんのピアノだけ。Hiroさんはじっと目を瞑っていた。
歌詞の重みをうけて、ANZAさんの歌にも力が入る。とくに夜公演では、ステージに跪いての熱唱となった。
曲の終わり、「I love you,loving you」のくだりは、長い舞台の終わりと錯覚するほど、
歌い手(もしくは、歌詞の中で歌われたひと)の切なさが伝わってきた。


大きな拍手に一礼をすると、「わたしのミュージカルの出発点は…アレなんですよね(笑)」と少し照れながら、
「セーラームーンのミュージカルをやることになったのは…」と当時の経緯を語りだす。

「ゲストを呼びましょう…もう、はやく出たがっててステージ裏は大変なことになってます」
「もうね、20年前とキャラがなんッにも変わってないから!岩名美紗子!」

その岩名さん、登場するや否や「セーラーマーズ参上!」とさっそくポーズをキメ、
(夜公演では「マーズがMarzに参上!」→ANZA「ああ、そうだ…!」なんてのも)
それを見たANZAさんは笑いながらも「やれやれコレだよ…」と首を横にふる、という、
おそらく当時と変わらぬコンビネーションを見せてくれたこの登場だけでその人物像が伝わったのだから恐れ入る。
(岩名さんの経歴についてはこちらを参照


さらに、夜公演では岩名さんが「アレやってよ!例のやつ!」と自らがマイク・スタンドと化し、
半ば強制的に「例のやつ」をやらせようとすると、「ええっ!ヤダヤダ、ホントに!?」とアタフタするANZAさん。
会場からもやんやの喝采をうけて、ハラをくくったのかマイク・スタンド(?)の高ささえ調整し、
20代半ば以上の日本人ならたいてい知っている「あのセリフ」をポーズつきで口にしたのだった。
(言い終わった瞬間、ステージにへたりこんでしまったけど。「まさかこの歳でやるとは…」とのこと)


「でも21周年てスゴイね~」と岩名さん。「わたしも一児の母だし」「ウチの子、もう11才よ」「もう35だもんね…」
「それ言うか!てゆうかまだ34だから!」とANZAさん。しかしフロアからの「35!」コールにいじけるのだった。

なお、ふたりの出会いはドラマ「中学生日記」の撮影時とのこと。
岩名さん、ハーフの人間を見るのが初めてなので「オオーッ!」と驚いたのだそう。
その後、「お互いこんな性格だから」(と岩名さん)すぐに仲良くなってセーラームーンにつながっていったのだとか。


かくして「美少女戦士セーラームーン」suiteが始まったわけだが、ならば主題歌から始めないわけにはいかない。曲はもちろん、もはやアニメソングでもクラシックとして殿堂入りしているであろう"ムーンライト伝説"である。

岩名さんが踊ったりステップを踏んだりしながら歌うのを見て、
顔をしかめたり笑ったりしながら歌うANZAさんではあったが、
見ているこっちは「これが本物か…」と妙に圧倒されてしまっていた。

自分が小中学校のときにやっていたアニメの主題歌を、当時本当に歌っていたひとがいま歌っている、という…。
既視感と記憶が現在進行形のステージとごっちゃになって、「超豪華なカラオケ」なる言葉が浮かんできたのだが、それにしても貴重なものが観れたもんである。
(ちなみに、ANZAさん擁するムーンリップス版の主題歌は1994年3月19日~1996年3月2日の放映)


「いや~、懐かしいね」とANZAさん。「あんたも踊りなさいよ」と岩名さん。
「あたし、踊らないから」「えぇ~っ」「みさこっち、汗すごいよ」「ここ、あっついよね?」などなど。



「次の曲は、本当はあたしとみさこっちの曲じゃないんだけど、ずっといっしょに歌いたかった曲で」
「先生にデュエット曲をお願いしてたんだけど、どんどん出演者が増えてって」
(「で、わたしさっさと死ななきゃいけなくなったのよね」と死んだふりする岩名さん)
「やっといっしょに歌えて、うれしく思います」と紹介されたのが、"I Miss You"というバラード。

夜公演は、ANZAさんにしてはめずらしく声に詰まる場面があって「長丁場で疲れたのかな?」と思ったけど、
どうやら何か胸に迫るものが込み上げてきたらしく、涙を堪えてのデュエットとなっていたようだ。

歌い終わったあと、「いや~、なんかねいろいろと思い出しちゃって…」と目頭をおさえるANZAさんに、
岩名さんも「ね、いろいろあったもんね…」と同じ思いだったもよう。


1993年8月に始まった通称「セラミュ」の主役として、
1998年2月までにANZAさんは382回もの本公演を務めている。(詳しくはウィキ参照
この他にもファン感謝イベントや、アイドル/タレントとしての活動もあったことを考えると、
「部活みたいだった」との言葉では汲み取りきれるはずもない忙しさだっただろう。
(重くなっていく衣裳のため背筋がめちゃくちゃ鍛えられた、といったとこは確かに「部活みたい」だが)


この日、多くのセラミュ時代のファンが駆けつけていたことは、公演中の手拍子でも察することができた。
彼らにとっては自明のことではあるけど「セーラームーンミュージカルには、毎回主題歌というものがありまして…」
と解説するANZAさん、「セーラームーン時代を知らないひとも来てるんだからね」と釘をさす。

わたしも「セーラームーン時代を知らない」ひとりなわけだが、当時のファンの方々はANZAさんがHPPというバンドをメインに活動してきたことを、どう受け止めてきたのだろうか。


そうこう思いを巡らしていると、主題歌メドレーが始まった。
アップテンポな"ラ・ソウルジャー""ラ・ムーン"、バラード調の"伝説生誕"が、
それぞれワンコーラスずつ歌われた。独特の手拍子に、往時のステージの華やかさを思う。
もちろん岩名さんは振りつきで踊りながら、ANZAさんも照れ笑いしつつ控えめに踊りながら、のステージだった。

長年ファンに愛されてきたことも納得できる、明るく楽しくも質の高いミュージカル曲だと思った。



「ええー、これでセラミュの曲は終わりまして…(ええーっ!?とフロアから大声)ああっ!その感じ懐かしいっ!」
「いやー、ヘッドホンのライブではこうゆうのって有り得ないから(笑)、なんかいいね」
(夜公演は昼の「ええーっ」ほど大きな声じゃなかったので、率先して言わせていましたが)


「それじゃあみさこっち、せっかく来てくれたんだから、わたしのために1曲お願いね」
とANZAさんがステージを去る。
岩名さんがステージに残り、なんだか妙な気分になったのだが曲が始まったらそんな気分はどこかに消えた。

「超光戦士シャンゼリオン」という特撮ものも、その主題歌"Over The Times"(1996)も知らなかったけど、
のびやかに歌われるメロディはとても気持ちのいいもので、すぐに気に入ってしまった。
(ドラマ自体はかなりの怪作だったようだ。90年代らしいとも言える。ウィキ参照

ギターソロはHiroさんがHPPで弾いている以上の弾きまくりで、あまりの速さに反射的に笑ってしまったほど。
それでもメロディアスな素晴らしいソロで、この日にこの場でしか聴けなかったかと思うと惜しくて仕方ない。


「いや~、今日はありがとね」「うんうん、また呼んでね」「みさこっち、ライブしなさいよ」などなど。

「今度は(セラミュ出演者の)みんなで集まって、感謝祭的なイベントしたいね」とANZAさんが言うと、
フロアからは「おおーっ!」と歓喜の声があがる。やるならわたしも観てみたい。


この後、ステージを去りがたい岩名さんと追い返したい(?)ANZAさんの小競り合いが少しあり、
岩名さんがようやく舞台袖に姿を消して、ああ疲れたとばかりに笑いながら肩を落とすANZAさん。

「…ふぅ~。あのひと変わってないでしょ?(あたしが)大変なのわかるでしょ?」などなど。


気を取り直すように深呼吸をしてから、「ええ~、次にわたしが出会いましたのは…」
とふたたびひとりになって語りだした。



つづく。