2011-10-31

蘇州夜曲 (1940)


「蘇州夜曲」 (昭和十五年)
作詞 西條八十 作曲 服部良一

君がみ胸に 抱かれて聞くは
夢の船唄 鳥の唄
水の蘇州の 花散る春を
惜しむか柳が すすり泣く

花をうかべて 流れる水の
明日のゆくえは 知らねども
こよい映(うつ)した ふたりの姿
消えてくれるな いつまでも

髪に飾ろか 接吻(くちづけ)しよか
君が手折(たお)りし 桃の花
涙ぐむよな おぼろの月に
鐘が鳴ります 寒山寺(かんざんじ)


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


多くの評論家やファンだけでなく、作曲家ですら口をそろえて言うように、
「蘇州夜曲」が日本における歌謡曲の最高峰に位置することに間違いはなく、
わたし自身、これほど美しい言葉とメロディで綴られた恋の歌を知らない。

70年以上前の曲だから、すでにあらゆることが語られ尽くしている。
ここでは簡単に曲を紹介するにとどめ、じっくり耳を傾けてほしい。




わたしが「蘇州夜曲」を知ったのは、学生時代のことだった。
30年代~40年代の日本について何冊か紐解いていたときに出会い、
運よく手に入れた橋本治『恋の花詞集』(1990年)で興味を持ち、
図書館で李香蘭の音源を借りたのが始まりだったと記憶している。

ふだんはメタル、ロックばかりを聴いているわたしではあるが、
こどものころから映画を大量に摂取していたことによるのだろう、
時代や地域の違いに無頓着なまま音楽を聴くことが比較的容易で、
それが「いい曲」だと思ったり、未知の素晴らしい曲があると知ったら、
偏見よりも好奇心が勝ってあっちこっちへ出向いて行くことになる。

そしてこの曲を聴いたとき、あまりにロマンティックな(「浪漫的」と表記したくなる)世界観と、
この世界観を支えていたはずの、日中戦争下にあってさらに太平洋戦争に雪崩れ込んでいく、
当時の軍国・大日本帝国というその落差に、どうにも消化しきれない違和感を覚えたものだ。


戦前の日本社会については誤解が多い。今回は都市文化的なことだけ言っておく。
当時の日本の都市部、とくに東京、横浜、大阪、神戸は「ほとんどヨーロッパ」と言えるほどで、
当時のフランスよりも文化的に洗練されていた面すら散見される。
と言うか、アメリカ、イギリス、ドイツに次ぐ文化大国だったと見ていい。

それほどの文化的達成=知的成熟があってもなお、戦争に突入してしまったこと、
もしくは、そうした爛熟があったがために戦争に突入してしまったこと、
それはゆめゆめ忘れてはならないだろう、と強く思う。


話を「蘇州夜曲」に戻そう。


あらゆる解説がふれているように、この曲は当時の映画の主題歌で、
その映画は伏水修監督、長谷川一夫・李香蘭主演の『支那の夜』という。

橋本治の言葉を借りれば、
「いい加減としか言いようのない」「政治的構図が丸見えの」「愚劣な」「思想映画」
でしかない。

わたしはこの曲が聴きたいがために、フィルムセンターまでこの映画を見に行った。

「若く賢く優しいうえに真面目で、しかもかっこいい」日本人青年(長谷川一夫)と、
「若く美しいが貧しくひがみがちな」中国人娘(李香蘭)という象徴的な構図以前に、
映画的に甚だ凡庸で、上海ロケのため撮影はよかったのだけど褒められるところは少ない。

ただ、音楽は文句なしに素晴らしかった。それに、李香蘭が歌う場面はとても感動的だった。
(美男俳優であるはずの長谷川は、本作ではどうもパッとしなかったが…。現代劇だからか?)


当時の日本におけるアジア諸地域にあった「外地」へのコロニアルな心性やら、
そのことに様々な角度から切り込むポスト・コロニアル批評的なものやら、
いくつか書いておきたいこともあるけど、曲の邪魔になるからやめておく。

ただ一言、美しい蘇州を本気で愛したからこそこの曲は生まれたのだ、と言っておこう。

「蘇州夜曲」には傲慢な思い上がりや政治的な愚劣さなど微塵もなく、
夢のようにひたすら美しい異国と、そこで恋人とともにいる幸せだけが響いている。


美しさ、かくあるべし。それは実に単純な「思い」による。それだけで十分なのだ。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


さて、すでに貼ってある「蘇州夜曲」は、アン・サリーによるもの。
わたしがいちばん好きなヴァージョンだ。このアルバムに収録されている。



moon dance (2003)


アン・サリーは一応ジャンル的には「ジャズ・シンガー」ということになっているけど、
ポップスやボサノヴァなども歌う、当代随一の洗練された「歌手」のひとりとして尊敬している。


「蘇州夜曲」は多くのひとがカバーしている。近年では平原綾香がいちばん有名だろう。
ASKA小田和正など、男性もこの曲を歌っている。意外なところでは奥田民生。)

ただ、オリジナルの渡辺はま子&霧島茂や劇中の李香蘭、そしてこのアン・サリーも含めて、
もっとも素晴らしい歌唱を披露しているのがやはりと言うか何と言うか、美空ひばりの恐ろしいところで。


音楽に偏見なくふれているひとにとっては常識として知られていることなのだけど、
美空ひばりはジャズなどを歌っても超一流で、一時代を築いたひとの才能には感服せざるを得ない。

だからこそ、昨今話題になっているような芸能界と裏社会のつながりが残念でならない。
これほどの圧倒的な実力さえあれば、そんなつながりなど必要ないはずなのに…。
いや、そこには興行の社会史という文脈もあるのか。なんにせよ、はやくなくなってほしいものだ。


最後に、劇中における「蘇州夜曲」をご覧いただこう。歌うはもちろん、李香蘭である。





ひとは、はるか昔から思いを詩やメロディに託してきたわけであるが、
こうした曲を聴くたびに「音楽も遠くまで来たもんだ」と思ってしまう。


もちろん、この「蘇州夜曲」だって商業的なヒット曲に違いない。
しかし、だからといって軽薄であったりはせず、むしろそれゆえに真情が注ぎ込まれているように感じる。

そもそも、大衆を相手にすることがイコールで「軽薄かつ大味」を意味することの方がおかしい。
別の言い方をすると、わたしたちは次第に、そうしたものと等号で結ばれるような「大衆」になってきたのだ。
それも、送り手や、送り手との仲介をなすビジネス側、彼らといっしょくたになって、である。

ビジネスが音楽を殺した、と断罪したいのではない。ただ、そうした側面はあったし、現にある。
また、わたしたち受け手がその片棒をかついできたこともまた、事実であると思う。

送り手も受け手も貧しくなって共倒れ、なんてゆう事態さえ考えられるほど、
メインストリームの音楽は痩せてきたように感じているのだけど、どうだろうか?


温故知新とはよく言ったものだけど、それができているかどうか。

愛すべき音楽を枯らさないために必要な思いとは、行動とは何か。

このような素晴らしい曲が70年以上前の曲であることを思うとき、
ふとそんなことを考えてしまうのだった。

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2011-10-29

Lou Reed, a strange kind of musician

      

来週、とうとうLou Reed & METALLICAによる合作Lulu がリリースされる。
しかし、この新作を楽しみにしている者が、果たしてどれだけいるというのか?

すでに先行オンエアされている"The View"に戸惑ったひとは数多くいるだろうし、
全曲試聴可能となって聴いてみても、ピンとこないどころか退屈に思えただろう。


かく言うわたしがそうだ。嫌な予感が当たった、とも言える。
少なくとも、音楽として楽しめる要素はほとんどなく、
バックをつとめるMETALLICAのラフな演奏もデモのようだ。

生々しい迫力、と讃える(=誤魔化す)こともできそうなロウ(raw)な音作りは、
「作りっぱなし」「ほとんどデモ」と評されたSt.Anger (2003)を思い出させる。

実際、本作のレコーディングは「基本的に一発録り」であると同時に「即興演奏」だったらしい。
ルーはアンビエント的なBGMをメタリカにポンと渡して「なんでもやってくれ」とのたまったそうで、
渡された側はただひたすらセッションに興じてそれを録音しただけという、まさに「生」な作品だ。

ところどころ、ハッとさせられるリフやアンサンブルが現れはするけど、
それもこれも、たいていの箇所が退屈なため、そう思うだけなのである。
("Mistress Dread"はかろうじてエキサイティングな曲と言えそうだが…。)

極めて文学的なコンセプトであり、しかも2枚組という超大作でありながら、
彼独特の美しいメロディや、洗練されすぎない絶妙なアレンジは完全に姿を消し、
建設途中のビルディングに見られるような剥き出しのコンクリート壁を思わせるような、
何もない空っぽな殺伐とした空間に、ひたすら蛮音が轟々と響き渡っていくだけなのだ。

そんな音像のなか、全編にわたってひたすら「朗読」に終始するルー・リードの声がつづく。
彼はほとんど歌わない。むしろ、「歌っている」のはジェイムズ・ヘットフィールドの方だ。

いったい、ルー・リードはどうしてしまったのだろう?
なぜ、繊細なコンセプトを台無しにするかのような作品に仕立てあげたのか?
もしくは、この野蛮な音を意図したからこそ何らかの表現が可能になったのだろうか?


ボブ・ディランやレイ・デイヴィスらと並ぶロック史上最高の詩人のひとりであり、
文学修士号をたしか取得しているはずの、ロック界きっての「文人」でもある彼が、
この新作『ルル』の詩作に並々ならぬ労力を注ぎ込んだことは、想像に難くない。

だが、正直に言って、その詩作に触れるために本作を購入したいとは思わない。
それなら、まだ手に取っていない他の作品を聴きたいし、実際そうするだろう。


いま、わたしが恐れていることは、この作品でルー・リードという天才が誤解されることだ。

断言はしかねるが、『ルル』はMETALLICAもろとも散々にこき下ろされることになるかもしれない。
場合によってはMETALLICAに同情票が寄せられることもあるだろうが、その際は彼が標的になる。

もしくは、その(主にアメリカにおける)キャリア全体に対する評価に恐れをなして(腰が引けて)、
音楽自体に話が及ぶことを避けつつ、その外縁をなぞりながらの「評価」に終始するだろう。

しかし、なんでも垂れ流せるネット社会になって久しい昨今において、そんな評に意味はない。
多くのひとが、口々に「退屈」「理解できない」「ゴミ」「オワコン」と言いだすに違いない。


そう思ったからこそ、先に言っておきたいのだ。
ルー・リードは奇妙なミュージシャンなのだと。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



ルー・リードは奇妙なミュージシャンだ。


たいていの場合、ソロ活動をするミュージシャンは以下のパターンに分類される。

①活動領域をどんどん変えていく。違う音楽をすることで、逆説的に変化しない部分を見せる。
ex)デヴィッド・ボウイ「モッズ→グラム→ソウル→テクノ/ニューウェイヴ→ポップ→以下略」

②表現方法をどんどん開拓していく。新たな理論を創出したり取り込んだりし、吐き出していく。
ex)ブライアン・イーノ、デイヴィッド・バーン、デイヴィッド・シルヴィアン、などなど。

③曲自体の変化は大きくないが、装飾(アレンジ)の洗練/拡張や共同作業にその矛先を向ける。
ex)ポール・マッカートニー、ピーター・ゲイブリエル、スティング、ポール・ウェラー、など。
(スティング、ウェラーは①でもいいかもしれない。)

④自らのルーツに立ち返る。言い方を変えると「趣味の世界に引き籠る」とも言える。
ex)ブライアン・ウィルソン、ロバート・プラント、フィル・コリンズ、などなど。

⑤ひたすら己の妄想を先鋭化させていく。これは「自分の世界に引き籠る」と言えよう。
ex)ピート・タウンゼント、ロジャー・ウォーターズ、ケイト・ブッシュ、などなど。

⑥本当はいろいろやっているのに、なぜか「いつも同じ」と思われてしまうひとたち。
ex)ボブ・ディラン、トム・ウェイツ、エルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、などなど。

ロックからポップス界に拡げると、まだまだこの分類はできるのだろうけど、
とりあえずこれくらいでやめにしておいて、ルー・リードに戻ることにしよう。


彼は上記の分類に該当しない。これは、当て嵌まらないように分類を作ったからではない。
(と言うか、書きながら適当にでっちあげたので、境界はかなり曖昧である。)

簡単に言うと、①から⑥に当て嵌まるミュージシャンは「大人の音楽」をやっている。
もしくは、長い年月をかけてそこに到達したり、わりに早い段階でそこに達している。
彼らを現役で聴いてきたリスナーも同様に年を取っているし、そこに抵抗はないだろう。


だが、ルー・リードは違う。彼は「大人の音楽」など一度もやったことがない。

では、ロック=初期衝動説に則ってロックを「こどもの音楽」と仮に呼ぶとしても、
彼の音楽はそうしたシンプルなものではなく、かといって複雑というわけでもない。

ゆえに「奇妙」なのだ。究極の「オルタナティヴ」とも言える。
彼は、音楽的な洗練や心地よさに興味などないのかもしれない。

そのため、彼の音楽は他では決して聴くことができない独自のものとなっている。

(これらの点において、共通点を見出せるのはニール・ヤングくらいしかいない。)


THE VELVET UNDERGROUND時代から数えて46年もの活動歴(!!)があり、
制作した作品はソロ時代のオリジナル・アルバムだけでも22作(『ルル』を含む)、
ヴェルヴェッツ時代や、ライブ盤、ベスト盤、企画盤、シングルにEPを入れると、
それはもう本当に膨大な量になる。本人もカウントしていないかもしれない。

というのも、彼はリリースに間をほとんど空けないからだ。
オリジナル・アルバムとライブ盤だけでカウントしても、最大で17thと18thの間の4年。
その次が14thと15thの間と、2008年のライブ盤と『ルル』の間の3年だけ。

あとはすべて、1年か2年以内にリリースしている。
繰り返すが、46年間もの長きにわたって、である。

考えられるだろうか?それほどの創造性と身体性を維持しつづける、ということが?


これだけでも並はずれた人物であることがわかるというものだが、その経歴も異様な点が多い。
これまた簡単に言うと、彼はときどき「わけのわからない作品」を平然と(?)作るのである。

いちばん有名なのが「レコード会社への当てつけ」説すらあるMetal Machine Music (1975)で、
これは全編フィードバック・ノイズで構成されている、というほとんど「聴く拷問」という一作である。

わたしは彼の全作のうち10枚ほども聴いていないので、まだファンとしては「浅い」のだけど、
たぶん『ルル』はこの「わけのわからない作品」の系に入ることになるだろう。


まったく、ひと騒がせで面倒くさいおっさんだ…と思わないでもないが、
その上、伴侶であらせられる方があのローリー・アンダーソンだというのだから、
もう本格的な論考などどこかへ打っ棄っておきたくなるというものだ。
(ローリー女史については『実験的ポップ・ミュージックの軌跡』を参照されたし。)

ここに、ニューヨークという特性、ユダヤ系アメリカ人という文脈、
「ビートニク」直撃世代としての文学性、アメリカにおける「詩」、
グラム・ロック時代と頽廃文学の関わり、ギタリストとしての特徴、
などなど、その因数の多さには困り果ててしまう。


キャリアが46年もあるのだからそれこそ「八ヶ岳」状態のディスコグラフィで、
どれから聴いたらいいのかわからないし、これ!と一枚を薦めるのも難しい。

彼の音楽はとてもユニークなのでわたしは大好きだけど、
どちらかというまでもなく「玄人向け」で、とっつきは悪い。

わたし自身、何度も歌詞を読みながら深みにはまっていったのだ。

だからといって、一聴して虜になってしまう曲も少なからずあるわけで、
やはり一筋縄ではいかない御仁なのだから…面倒くさいおっさんである。


それでも気になるというひとには、聴きやすいTransformer (1972)から入るのが無難か。
初期ならコンセプト・アルバムの傑作Berlin (1973)だろうが、あれはあまりに重い。
むしろ異色作のConey Island Baby (1976)を薦めるべきか。(ギターはボブ・キューリック!)
中期ではThe Blue Mask (1982)がクールで好きだし(ギターはロバート・クワイン!)、
もちろんNew York (1989)を最高傑作としてあげても、何の問題もないだろう。
近作ではEcstasy (2000)も聴きやすく、これは感動的ですらあるからお薦めだ。


ところで、『ルル』の国内盤は「メタリカ&ルー・リード」名義でリリースされると言う。

それを聞いたわたしは思わず「バカじゃねえの!?」と口に出してしまったのだが、
それもこれもルー・リードの日本における地位の低さに起因するのだから、仕方ない。


来年はとうとう70歳の大台にのってしまう御大、奇跡の来日公演は果たしてあるのだろうか。
あったとしても、『ルル』は一切やらんでいいのだが・・・。やっぱり、面倒なおっさんである。


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2011-10-26

Björk's Biophilia App #1 - "Moon","Cosmogony"

 

ビョークの新作『バイオフィリア』については、すでに大まかなことを書いておいた。
どうやら日本だけでなく海外でも賛否両論で、ほとんど罵倒に等しい言い草すら見受けられる。

堪え性のない人間など、あらゆる社会・年齢・時代に関係なく申し分のないほど十分にいる。

そうした大人げないひとが気軽に言う「失望」「駄作」「最低」に振り回されることはないし、
かと言って過剰に弁護する必要もないわけではあるが、何にせよとかく残念に思われるのは、
音楽が持ちうる世界(宇宙)の広大さや美しさを示すべく作られたこの『バイオフィリア』が、
多くの人たちがとらわれている偏狭さ、それに端を発する醜さを図らずも露呈させてしまった、
という構図のなんとも皮肉なところ、であろう。

豊かな音楽が、貧しい「音楽好き」を焙り出してしまう、という。


正直に言って、そうした言葉に触れるたびに疲れてやる気がいちいち殺がれてしまうのだけど、
「アプリにそって曲ごとに紹介する」と宣言した手前、やらないのも気が引けるので、つづける。



すでに紹介したように、マザーアプリは4曲目の"Cosmogony"を取り扱っている。
そのアプリに『バイオフィリア』の世界を紹介する、イントロダクションがある。

ナレーションは動物学者、英TV番組プロデューサーのデイヴィッド・アッテンボロー教授。
兄は映画俳優/監督/プロデューサーの、「あの」リチャード・アッテンボローその人だ。
(『大脱走』のビッグX、『ジュラシック・パーク』のおじいちゃんと言えばわかるだろう。)


まずは、そのデイヴィッド・アッテンボロー教授によるイントロダクションを聞いてほしい。




たいへん聞きとりやすい英語なので、少なくとも3回も見れば大意は掴めると思う。
この「前説」のなかでもっとも重要と思えるのは、中盤で声に出されるわずか6語。

「Nature, Music, Technology ; Listen, Learn, Create」の6語だろう。

「自然、音楽、技術 / 聴く、学ぶ、創る」 と並置されたこれらが本作のエッセンスだ。

自然と音楽を、技術(アプリ)によって視覚化しつつテーマ毎に統合し「学ぶ」こと、
自然と音楽の類似性やそこに象徴される事象を音楽化して「聴く」こと、
同時に自然それ自体に音楽を見出すよう促し「教える」こと、
そうして学んだ自然-音楽をアプリで新たに「創る」こと、
それが『バイオフィリア』の目的なのだ。


また、前半の3語と後半の3語が対応しているようにも思えるのだが、興味深いのはその並び方。

「自然、音楽、技術。聴く、学ぶ、創る」「自然を聴く」「音楽を学ぶ」「技術を創る」となり、
「音楽を聴く」「自然を学ぶ」が入れ替わることで、この新作の立ち位置というものが見えてくる。
(もちろん、これは必ずしも意図されたものとは限らない。あくまでもわたしの読み方だ。)



本作の特徴は「アナロジーとアレゴリーによる《宇宙=音楽》の把握」にあると思う。

アナロジーとは「類比/類推」によって異なる二者に共通項を見出し、一見関係ない両者を「つなぐ」こと、
アレゴリーとは「寓意/象徴」によって抽象的なものを具象化することで(例:「狡賢さ」を「狐」で表す)、
前者は「弱い論理」、後者は「広義の比喩」だが、重なる領域も大きいので細かい定義には踏み込まない。
(アナロジーの言語的使用法が比喩だ、とも言える。ここに「シンボル」を加えると事態はさらに混乱する。)

かいつまんで言えば、「似たもの(似ていると感じたもの)同士をつなげる」ことが両者の働きであり、
こうした直感と知性のなせる、アナロジカルかつアレゴリカルな認識の新たな「統合」こそが、
もっとも強力な認識や霊感を生むのだと、おそらくビョークは知悉しているのである。


これだけでは何のことかわからないだろうから、さっそく曲を紹介していこう。



1曲目の"Moon"は、「月周期(lunar cycle)」と「反復進行(sequence/cycle)」のアナロジーと、
「再生(rebirth)」や「一新(renewal)」といった概念を「月」という表象に託すアレゴリーによる。

月周期という天文学的/数学的な反復と、音楽的な反復を重ねあわせ、
そこに「人間(とくに女性)の身体」という生物学的な「自然」をも重ねあわせる。

この場合、キーとなっているのは「リズム」だ。反復されるリズム。
天文学的な、数学的な、音楽学的な、生物学的な、リズム。


また、そもそも太古より月は女性の象徴でもあった。月周期(月齢)と月経については言わずもがな。
そうした「女性性」をも(当然のことながら)包含したアレゴリーと考えるのが妥当だろう。

では、前回も貼ったこの写真を改めてご覧いただきたい。今度こそわかるだろう。



そう、これは「女性の尾てい骨」をデザイン化したもので、中央の月は「子宮」にあたる。
(『エヴァ』における「黒い月」=「子宮」を思い出したのはわたしだけだろうか?)


月は17あるが、それはこの曲のリズムが8分の17拍子となっているためだろう。
なぜ月齢的に区切りのいい15ではなく17になったのかは、今のところ不明。
ちなみに、iPad版アプリは片側に17、計34の月が子宮を取り巻いている。

前回も書いた通り、このアプリは楽器にもなる。こちらをご覧いただこう。


映像はiPad用のアプリ。月が17×2=34あるのがわかる。


幕開けとなる曲にしては地味に感じられるかもしれない。
しかし、だからこそビョークの声と、その女性性が強調される。
そして、奏でられつづけているハープの「リズム」という「反復」もまた同様だ。

月と女性のアレゴリーに関しては、国や地域を問わず枚挙に暇(いとま)はないだろう。
あらゆる神話において月は必ず女性神が表象しており、その点で神話学にも接している。


この神話的な相貌と言ったら…。天晴れ、としか言いようがない。


そうした神話学的/物語論的な含みを持たせつつ、ゆったりと歌われるこの曲には、
月周期と反復進行に関して、それ相応の知的な操作が為されたと思われる。
(そうでなければ、8分の17拍子などというリズムにはならないと思うのだが?)

ここで、音楽(音楽学)と数学の近さ、というものを想起してもいいだろう。
(中世において音楽学が数学的四科のひとつだったことを思い出すべし。)

となると、次に"Cosmogony"を紹介するしかあるまい。
というのも、ここでのキーワードがピタゴラスに由来するからだ。
(ピタゴラスについて今更説明する必要はなかろう。)




天球の音楽 (music of the spheres)」という概念を聞いたことがあるだろうか?

わたしはルネサンスの背景にあった思想史を彷徨っているうちにこの言葉に出会ったのだけど、
要は「宇宙という秩序」と「音楽という音の(配列などの)秩序」のアナロジーが根幹にあって、
そこを基底とした「惑星の回転が太陽系全体で和音を奏でている」という考えがそれである。

具体的に言うと「惑星軌道の比率の変化」と「弦の長さと音の高低の関係」に類推を見出す、
という数学的なアナロジーであって、漠然とした感覚に拠るものではないと言わねばならない。
(押弦の位置の関係から「オクターブ」を発見したのも、実はピタゴラスだったのだ。)

「天球の音楽」とは、人類の登場以前から「宇宙=自然」が奏でていた「音楽」があることを示す、
通常考えられている「音楽」の領域を拡大し、音楽と自然を等式でつなぐための概念なのである。


また、この「《宇宙/音楽》=秩序」という「天球の音楽」アナロジーは、
同時に、物理的/音楽的「均衡(equilibrium)」という概念をも含む。

この「均衡」こそが、そもそもはビョークの念頭にあったアイディアだった。
「世界に調和/均衡をもたらすアプローチの提示」が、本作の根幹にあったのだ。


順序が前後してわかりにくくなったかもしれない。つまり、

①「自分なりの《調和》《均衡》の在り方を提示したい」
②「均衡」→「秩序=宇宙=音楽」→「天球の音楽」
③「天球の音楽」=人類登場以前の「音楽」→「自然」
④「自然」を聴く、そのために必要な「教育」とは何か?
⑤iPad=タッチスクリーンを叩く、という「自然」な直接性
⑥アプリという「技術」による「音楽」の視覚化→「教材」



「自然、音楽、技術」「聴く、学ぶ、創る」
→『バイオフィリア(生命愛)』!!!


以上のような観念連鎖(アナロジー思考)があった、ということだ。
(順序自体はわたしが適当につけたものだけど。)


ビョークは『バイオフィリア』全体を統合する概念として「天球の音楽」を採用し、
"Cosmogony"を本作の象徴となるよう作曲したという。ゆえにマザーアプリでもある。


また、「宇宙論(Cosmology)」ではなく「宇宙生成論(Cosmogony)」であること、
ここにおそらくビョーク流のアレゴリー(寓意)があるように思われる。
(ただし、宇宙生成論が「具象」でないことには留意されたし。)

「現代人にとってのビッグバン理論は、古代人にとっての伝説と同じ役割を果たしている」

古代における、様々な宇宙創成神話における「宇宙の始まり」についての「説明→納得」。
現代における、ビッグバン理論という「宇宙の始まり」についての「説明→納得」。
同じ構図を辿る両者は、結局のところ同じことなのだとビョークは言うのである。

「宇宙(の始まり)を説明すること」→「納得すること」→「こころの《均衡》を得ること」
おそらく、これがビョークの言わんとしている「天球の音楽/宇宙生成論」の寓意だ。


さて、音楽自体はと言えば、コズミックに旋回するコーラスに始まり、
音の少ないシンプルな音像のなか、やはりゆったりとした歌声が際立つ。

ホーンの長音が、最後の方で高くなるのは「惑星の軌道」の運動を表しているのだとか。
こうした仕掛けはいたるところにあって、それが本作の底知れぬポテンシャルを窺わせる。

曲の構造やコンセプトに気づくことで曲の輪郭はかわり、こちらの認識も改まる。
そして、それは自然と音楽について、新たな表現の地平を切り開くものでもある。
(ゆえに、冒頭でわたしは嘆いたわけだ。気づかないままのリスナーが多いかもしれない…。)


アプリにはスコアやアニメーションが全曲「見る」ことができるようになっていて、
音の多寡、音程の高低、和音の重層性などが、一瞥してわかるようになっている。


例えば、こんな感じである。歌詞もついている。




本作の一環である「ワークショップ」で、この「見える」ことが大いに役に立つ。
こどもたちは「見て」「気づき」「学ぶ」、そしてiPadを叩いて「創る」わけだ。



「自然、音楽、技術」というコンセプトの下、拡げられた「天球の音楽」というタペストリー。
それはテーマごとに複雑に交差する、アナロジーとアレゴリーという縦糸と横糸で編まれる。

わたしはそんなイメージを持っているのだが、単純なようで込み入っているこの世界観を、
果たしてこのようなつたないブログでどれだけわかっていただけただろうか。


どうやら、「アナロジーとアレゴリー」なんて言葉を久しぶりに引っ張り出してしまったのが悪かったか。
知的体力ガタ落ちの今のわたしに、この錯綜とした全体像を解きほぐすのは荷が重かったようだ。


一例としての"Moon"と、全体の基盤としての"Cosmogony"をご紹介した。
あとは4曲ずつ2回にわけて紹介するが、今度はもっと簡単にするつもりだ。


言うまでもないことだけど、本作を聴くにあたって小難しいことを考える必要はない。

曲を聴いたり、歌詞を読んだりしてピンとくるものがあればそれでいいのだし、
アプリに触れる機会があれば、その「ピンとくる」頻度はさらに高まるのだと、
それだけわかってくれればそれでいいのである。


自力で考えたい、という方はここを見るといい。Tracking listの表に各曲のテーマが表示されている。
また、アプリには詳細な解説もついているので、ダウンロードできる方は読んでみるといい。
(けっこう長文だけど、それほど難しい英語ではない。大学入試レベルで十分読めると思う。)


このブログそのものが蛇足と化してしまったようなので、
蛇足ついでに、「アナロジー」に関するこんなリンクを貼っておこう。
わたしの思想的な主戦場のひとつ、がだいたいここら辺。
あれでもかなりわかりやすい方。ヒマなときにどうぞ。



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2011-10-23

HEAD PHONES PRESIDENT at O-West on 23rd Oct 2009

 .


記憶していること自体は称賛されることではないし、またそれを書き記すことも同様だろう。

ちょうど2年前、今日と同じ日付けのこの日は金曜日だった。
以下はわたしが記憶している2009年10月23日、その日である。



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LOUD PARK 09が終わり、喉を痛めたところから風邪を引いてしまったわたしは、金曜に行われる予定のHEAD PHONES PRESIDENT(以下HPP)のワンマン・ライブを楽しみにしつつも、一抹の不安を覚えていた。去る土曜に報道された、加藤和彦氏の急逝、それも自殺によるそれはあまりに突然で、ミュージカルやVITAMIN-Q featuring ANZAで活動を共にしていたAnzaさんの精神状態が心配されたからだ。ブログを見ると、MarさんのコメントはあったがAnzaさんによるものはなく、深い哀しみと痛みが容易に想像された。

わたしも加藤氏の自殺には深甚なる衝撃を受けた。加藤氏のような人物でさえ自殺し得るというのなら、わたしなどいつ自ら死を選んでもおかしくないだろうと思い、もともと塞ぎ込みやすいこともあってすっかり気落ちしてしまった。わたしですらそんな様子だったのだから、AnzaさんやHPPのメンバーの方々は混乱さえしていたのではないだろうか、と思った。しかも、ワンマン・ライブを直前に控えて、というこのタイミングで余計に切羽詰まった感があった。


月曜火曜水曜と日々滞りなく日常はつづいていた。しかし、わたしのなかで何かが変わっていた。本が読めなくなり、映画も見る気がせず、図書館で借りていた映画のビデオも見ないまま返してしまった。何もしたくなかった。かろうじて出来ることと言えば、HPPを聴くことだけだった。ビタQは聴くのが怖くて手を出せなかった。あのアルバムやライブの思い出に込められた幸福感に、こころが傷めつけられることは必至だったからだ。

2006年から2008年までともにHPPのライブに行っていた友人は、異動に伴いなかなかライブに行けなくなっていた。2009年はわずかに川崎でのライブに来ることができただけで、金曜も行けないとメールが来た。ひとりでライブに行くことにふたたび慣れてきたとはいえ、寂しさを感じずにはいられなかった。もう、わたしには何かを共有できるひとがこの先あらわれるとは思えなかった。いつかの年のように、またしてもひとりになってしまうのかとの予感に押し潰され、さらに気が重くなった。


そんな思いとは関係なく、すぐにも金曜はやってきた。風邪をずるずると引き摺ったまま、仕事が早めに終わったわたしは渋谷に向かった。いつもならCDショップや中古盤店、書店や映画館やbunkamuraなどに寄ってから会場に向かうのだが、この日ばかりはそんな気分になれず、まだ17時ごろだというのにO-Westへ直行したのだった。チケットの引き換えについて係員らしきひとに尋ねると、18時からだと言われた。少々肌寒かったので、いつものようにCDショップや中古盤店を訪れたが、何を見ても上の空で結局18時前には会場に戻ってきた。するとチケットの引き換えは18時半からだと言われ、仕方なく階段の最上段までのぼったところで待つことになった。わたしが先頭だった。




入り口には、新作のProdigiumを模した活け花が飾ってあった。こうした細部にこのバンドらしい美学的な拘りを感じ、少しこころがやわらいだ。わたしの後ろには列ができていて、顔馴染みが多いらしくたくさんのひとが談笑していた。毎回その顔を見かけているひとがすぐ後ろにいたため、何度か話しかけようとしたもののなぜだか思い止まってしまった。

開場は遅れていた。ほとんどのファンがチケットをオフィシャル・サイトで予約していて、プレイガイドで発券したひとは少なかった。わたしの列が予約組で、その隣がプレイガイド組のはずだったのに、わたしの隣には誰もいないままだった。係のひとが、チケットを持っている方はいませんか、と声をかけまわってやっと数人でてきたのだった。

こころがすっからかんになっていたわたしは、することもなく入り口を茫然と見ていた。すると、痩身の若い男性ファンが、まだ列のできていなかった階段の片側を上ってきた。チケットの確認だったようだが、係員にゲストになっていることを告げられ、驚いた顔をしたまま会場に入っていった。一度、こちらを振り返った。何度も見かけていたひとで、ゲストになるのだから音楽関係のひとだろうか、と思った。


中に入れたのは、予定時刻の18時半から20分は経ったころだったろうか。物販でこの日に発売となったポスト・カードとタオルを購入し、大きな赤い幕が斜めにかかっているステージを眺めていた。スクリーンには2月に始まるツアーの日程が映し出されていて、THE AGONISTとの共演が発表されていた。BGMもそれにちなんだもので、かつてのようにSIGUR ROSが流れることはなかった。あの、凍った海に差し込むか弱い光を思わせる、痛々しさと哀しさに満ちた曲がわたしはとても好きだったのだけど、加藤氏の死の後にその選曲はあり得ないのだと思い至った。それに、あの曲をライブ前に聴かなくなって久しかった。

徐々に会場がひとで埋まってきた。わたしのまわりでは、ポスト・カードやBGMやツアーに関する話が飛び交っていた。加藤氏の話はなかった。そこにHPPファンらしさを感じたものの、輪の中に加われない自分に情けなさも感じていた。ステージでは、他のバンドのライブで何度か見かけたことのある、膝まで伸びたドレッド・ヘアが極めて特徴的な中年男性が度々あらわれては、何事かチェックしては去っていくのだった。


開演時間を過ぎてもライブは始まらなかった。何人か、カメラを抱えたひとがいたので撮影をするのだろうかとあたりを見回したり柵の向こう側を見たりしていると、ようやく暗転した。ひとり、またひとりとメンバーが登場し、楽器を鳴らし始めるとAnzaさんがあらわれた。ちょうどモニターの間に置かれるかたちとなっていた小さな送風機の風を受けて、髪がさらさらと流れていた。Hiroさんがアコースティック・ギターを鳴らしだし、いつもとは違う幕開けとなったのですわ新曲か、と思ったのも束の間、Narumiさんのベースでこの美しい曲が"Folie a Deux"なのだと悟ると、戦慄にも似た衝撃が背中を走った。フルで演奏されることはなく、イントロ用にアレンジしたものだったのか曲はすぐに"Life Is Not Fair"へ。HPPのライブで毎回骨身に沁みている、あの一種独特な緊張感と、こちらをやさしく包み込むかのような柔らかさを孕んだ、しかし哀しげな旋律が奏でられだした。

上下を黒い衣裳で身に包んだAnzaさんは、曲の前半部では遠くを見やるような目をしたまま歌い、激しくなる後半部に入る直前にスカートを包んでいた布を取り去ってミニスカート姿になった。曲が激しくなると、MarさんNarumiさんが体を折り曲げながら暴れ出し、Anzaさんも身軽なステージングを見せる。この瞬間的な爆発力、この圧倒的なパフォーマンスこそがHPPの真骨頂であり、LP09で観ることができたバンドにも見出すことのできなかった絶対的な個性なのだと確信した。憂いていたこころはすでにどこかへ消え去っていた。

"Escapism"がオリジナルの日本語ヴァージョンで歌われたことに新鮮な驚きを覚えた。と同時に、新たな可能性を思い、このバンドこそが自分にとってもっとも重要なバンドなのだと思った。それは何度も思ったことだった。しかし、このときはもっと、いや、もっとも切実にそう思ったのだった。"Crumbled"が終わるとAnzaさんはステージを去り、楽器隊がセッションを始めた。毎回、わたしはワンマンにおけるこのセッションを楽しみにしていた。この演奏が即興であれ事前に練られたものであれ、奏でられたメロディが素晴らしいことに変わりはなかった。


今度は上下を白い衣裳に着替えたAnzaさんが戻って来ると、新作から立てつづけに4曲がプレイされた。攻撃的かつキャッチーな曲たちは一段とその魅力を増してこちらに襲いかかってきた。とくに"Reality"はそのリフの威力が存分に発揮され、高速ギター・ハーモニーのパートではNarumiさんがヴォーカルをとるという事態にまたしても驚いたのだった。一気呵成に駆け抜けた新曲の連続を終え、わたしのフェイヴァリットでもある"Wandering"がつづいた。

ふたたびのセッションが明けると、"A~La~Z"が始まった。Hiroさんがシタールを弾き始めると、体をタイトに絞った青紫のビスチェに着替えたAnzaさんがあらわれ、曲に合流する。"Corroded"と"fight out"でまたしても激しいパフォーマンスを展開したかと思うと、Narumiさんのやわらかなベースに導かれて"Sixoneight"が始まり、その激しさの位相が変化した。痛みの度合いが違う。会場に吊るされた赤い幕が、まったく別の意味合いを帯びてこちらに迫って来る。これに"Alien Blood"が追い打ちをかけた。痛みを超えて、狂気としか言いようのないものを垣間見ることになった。このひとたちが抱えているものは何なのか?そう思わざるを得なかった。

狂騒が過ぎ去り、静寂が訪れると"Remade"が始まった。実は、新作を聴いても、いやその前に初演となった8月3日に一度観てはいたものの、ピンと来なかった曲だった。それが、これ以上はないというほどの癒しと祈りに満ちた曲に感じられ、いったい何度目になるのだと自問しながら背中を駆け抜けていく戦慄に、このバンドしか「かける」ことのできるバンドなどいやしないのだと深く納得したのだった。

ひとり、またひとりとステージを去っていくメンバーたち。MarさんとNarumiさんが残り、ふたりにスポットライトが当てられてその姿が闇に浮かびあがる。後ろには薄っすらとあの赤い幕が見える。Marさんが去るとライトがひとつ消え、Narumiさんが目をつむりながらフレーズを弾き終わると、もうひとつも消えて暗転した。



アンコールでは、重荷が降りたとばかりにリラックスした様子のAnzaさんが何度か笑顔を見せた。それまで、ステージ上でそんな表情を見せたことはなかっただけに驚いたが、偽らざる本心が透けて見えた気がした。プレッシャーがあったのだと思う。加藤氏のこともそこには含まれていただろう。それまで1曲もプレイされていなかった2ndから(1曲目はアレンジが違うのでカウントせず)、大きく盛りあがった"Chain"、祈りの思いにこころを揺さぶられた"Light to Die"、そして暴走チューンの"Labyrinth"がつづいてライブは終わった。前方でハイタッチをしてまわるAnzaさんが、またも笑顔を見せる。HPPも徐々に変わってきていたが、それをはっきりと感じとった瞬間だった。
(この日のライブの断片はこちらで見ることができる。ライブレポはこちら。)



SET LIST
01. Folie a Deux (acoustic ver.)
02. Life Is Not Fair
03. star
04. Escapism (original ver.)
05. Crumbled
Session A
06. Nowhere
07. Desecrate
08. Reality
09. Cloudy Face
10. Wandering
Session B
11. A~La~Z
12. Corroded
13. fight out
14. Sixoneight
15. Alien Blood
16. Remade
Encore
17. Chain
18. Light to Die
19. Labyrinth




終演後、これまで数多くのライブを観てきてこれほどまでに満足のいくライブがあっただろうか、と自らに問いかけていた。それほど素晴らしいライブだと思い、その思いと感謝の念を伝えるべく、今日こそは出待ちをしなければならないと決心した。それまでも何回か、ひとりでライブに行ったときは出待ちをしようと粘っていたことがあるのだが、同じく出待ちをしている方々が楽しそうに話しているのを見るにつけ、自分がその輪に入ることの困難さを覚えては挫折していたのだった。


コンビニになっている会場の階下で、寒さを感じながら待つことにした。やはり、すでに出待ちしているひとたちは談笑していて、とてもその輪に入ることはできないとあらためて感じては、不甲斐なさにまたしても気落ちし始めていた。Marさんが最初にあらわれ、つづいてBatchさん、NarumiさんHiroさんと出てきてもなお、何もできずに立ち尽くしていた。何度かタイミングを掴みそうになると、メンバーの方々は常連と思しきひとたちと話し出したり、機材の運搬に戻ったりするので、自分には何かを伝えることはムリなのだとあきらめた。その場にいて、何もせずにただ立っている男、それがわたしだった。


たしか、23時をまわったころだ。Anzaさんが階段を下りてきた。それまで、DVDでオフの様子は見ていたものの、こうして目の前にあらわれると却ってその存在が非現実的に思われた。ずっと遠くにいたひとがいま近くにいることへの違和感と、為すすべなく突っ立っている自分の卑小さへの嫌悪感が入り混じり、かるい眩暈を覚えた。Anzaさんは気さくにあたりにいたひとたちに話しかけながら、機材車が止まっているこちらへ近づいてきた。

常連方の輪に加わって、先日のLP09に行けなかったことや今後の予定について話し始めるAnzaさんに、大きなナップザックを背負ったひとが訊きにくそうにしながら、大丈夫ですか、と声をかけた。うん、と笑顔でこたえたAnzaさんの口元は笑ってはいたが、目は哀しそうに歪められていた。あのおじちゃんは、今ごろ天国でもギターを弾いているでしょう、とつけ加えた。ほかに言うべきことはなかった。


写真撮影やサインに応じていたAnzaさんに、マネージャー女史が時間を促すようになった。23時半ごろだったろうか、その場にいたひとは何らかのかたちで各々の目的を果たしていた。わたしだけが何もしていなかった。それもいいだろう、と思った。それが自分には相応しい、と。時間も差し迫っているようだし、このままメンバーたちが車に乗り込んで解散しそうだった。

だから、写真を撮ろう、とAnzaさんが言いだしたときも、自分はそこに入ることなどないと思っていた。この場で空気同然だったわたしに気づいているひとがいるようにも思えなかった。それなのに、いざ写真を撮ろうと集まりだすとAnzaさんがわたしに向かって、ほらおいで、と言ったのだ。突然、そこに存在することになったわたしに注がれた視線に耐えきれず、さっさと撮影に協力することにしたわたしは、いったいどんな場違いな表情を浮かべたまま写真に収まったのだろう。


しかし、それもほんの一瞬の出来事だった。ふたたび無に帰したわたしに話しかける者などなく、またわたし自身、話しかけようとも思わなかった。最後の最後、ひとりずつ手を取って挨拶をしていくAnzaさんから逃げるように動いていたら、敢え無くつかまってしまった。そして、Anzaさんはわたしの手を取ると、ありがとう、と言ってくれた。さらさらとした、綺麗な手だった。あまりに優しい笑顔に言葉を失ったのか声が詰まり、何も言えなかった。

違う、それを言いたいのはこっちなのだ、ずっとそう言いたかったのだ、ありがとうと言わねばならないのはわたしの方なんだ、と思いはすれど、すべては終わっていた。Anzaさんが握手をしたのは、わたしが最後だった。車は走り去っていった。残されたひとたちは駅へ向かい始めた。それにつづこうにも、追い越すにも気が引けた。とぼとぼと歩きながら、どうしようもない自分を呪わしく思っていた。さらに塞ぎ込みつつも、今度こそは何か伝えねばならない、そうでなければ死んでも死にきれない、と思い始めていた。次のライブまで、死ぬわけにはいかなくなったのだった。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



以上が、わたしの記憶している2009年10月23日である。事実はこうでなかったとしても、だ。
(そしてもちろん、これがすべてではない。)

結果、このためにわたしは今日に至るまで生き延びることとなった。しかし、その間にわたしは何を成したというのか。自分のいちばん大切なバンドをダシにすることで延命を図ったものの、多くのことをふいにして来はしなかったか。この二年間、誤魔化しつづけたことは何だったか。わたしが本来いるべきところはどこなのか。

そんなことばかり、最近は考えている。いや、いつも考えていたのだったか。


これで終わりにする。



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2011-10-16

2 Years Ago

            

LOUD PARK 09に参戦したときのことだ。

二日とも参加するため、幕張からそう遠くはないところに宿を取り、友人とふたりで疲れた体を引きずって、やっとのことで宿に辿り着いた。途中、近くのスーパーで夜食やお菓子や飲み物を買い込み、チェックイン予定時刻にしていた23時前までには着いたと記憶している。

取り立てて特筆することのないビジネスホテルで、一日酷使しつづけてまだ轟々と鳴っている耳と、かるく明滅する目を休めながら、初日観たバンドや明日観るバンドのことを友人と話していた。

この年の初日は、3ステージの出演時間順に記すとBLESSED BY A BROKEN HEART、STEEL PANTHER、LIV MOON、OUTRAGE、fade、FIREBIRD、田川ヒロアキ、LOUDNESS、DOKKEN、LED ZEPAGAIN、ANTHRAX、LYNCH MOB、ARCH ENEMY、POISON THE WELL、MEGADETH、JUDAS PRIESTの16バンド。そのすべてを観たわけではないが、翌日を含めて2009年のベスト・アクトだったと確信するMEGADETHと、シンプルなロックンロールが却って新鮮だったFIREBIRDがとくに印象的だった。そういえば、JUDAS PRIESTの演奏中に関係者通路の窓から観戦しているケリー・キングを見た覚えがある。

気の置けない友人との会話はもっぱらDOKKENに関することで、あのただならぬ酷い歌唱を聴かされたことへの憤りを通り越したある種の「感嘆」をお互いに述べたり、ARCH ENEMYを筆頭に音の悪いバンドが多かったことを残念がったりしていた。


友人が先にシャワーを浴びているとき、本のつづきを読むにはあまりに目が疲れていたわたしは、無造作にテレビをつけてそれとなくニュースを眺めていた。そのときだった。字幕スーパーだったのか、それともフラッシュニュースのなかだったのか、もう細部までは覚えてはいない。だけど、その情報がもたらした衝撃を忘れることはないだろう。加藤和彦氏の自殺が報じられたのだ。軽井沢のホテルで発見されたという。

「ええっ!?」と大声を思わずあげてしまった。刺激と反射という身体的な直接性が失われて久しいわたしが、そんな反応をすることは一年で数回あるかないかといったところなのだが、これほど大きく反応したのは後にも先にも記憶にない。信じられなかった。それはあり得ないことだったのだ。論理的に破綻している、とさえ思った。と言うのも、加藤氏ほど自殺と無縁に思われる普遍的な(社会的な、ではなく)常識人は他におらず、精神の健全さや、生活を芸術にまで高めるというスタイリッシュさにかけては国内外を通じて当代随一の御仁と思っていただけに、到底信じられることではなかった。

シャワーから出てきた友人にすぐそのことを告げると、疲労と入浴のため閉じかけていた目を丸く見開いて「え」と口にした。「信じらんねえ…」「何だろ、何かあったのかな?」「ビタQ終わっちゃった…」「うん…」

信じられないことではあったが、それが事実ならば認めなければならない。たとえこころは受け入れられなかったとしても。即座にVITAMIN-Q featuring ANZAのことが頭に浮かんだわたしは、精神的に傷つきやすいAnzaさんを思わずにいられなかった。「Anzaさん、大丈夫やろか」「ワンマンすぐだしね」「これは相当キツイだろうな…」「うん…」


その前年の12月にリリースされたVITAMIN-Q featuring ANZAのアルバムを愛聴していたわたしにとって、2009年2月のデビューライブは生涯ベスト5に入るライブだった。当日のセットリストも載せておこう。(増田勇一氏のライブレポはこちら


VITAMIN-Q featuring ANZA at Ax on 3rd Feb 2009
opening act: CHIHANA

SET LIST
01.メタルに塗りつぶせ                                                               vocal: ANZA
02.The Queen Of Cool                                                             vocal: ANZA  
03.Panic Crush                                                                         vocal: ANZA
04.Cupid's Calling                                                                    vocal: ANZA
05.Love At Thousand Degrees                                          vocal: 屋敷豪太
06.In This Moment                                                             vocal: 土屋昌巳
07.As Tears Go By (THE ROLLING STONES cover)        vocal: ANZA
08.Harder Than They Come (Jimmy Cliff cover)      vocal: 加藤和彦
09.The Last Time (THE ROLLING STONES cover)     vocal: 加藤和彦
10.Heart Of Stone (THE ROLLING STONES cover)     vocal: 加藤和彦
11.スゥキスキスゥ                                                                        vocal: ANZA
12.Fun Fun Fun                                                                       vocal: ANZA
13.Take The Wild Way Home                                 vocal: 小原礼&Shanti
14.The Eternal Flash                                                               vocal: ANZA
15.Lotus Avenue                                                                 vocal: 加藤和彦
Encore
16.I Shall Be Released (THE BAND cover)                     vocal: 土屋昌巳
17.アンファン・テリブル                                                              vocal: ANZA


ビタQについてはいずれまた書くこともあるだろうから、話を2009年10月17日に戻す。
(ちなみに、Shantiさんはコーラスの方で、ゴダイゴのトミー・スナイダーの娘さん)


他のチャンネルでも同様の報道を目にした。あきらめてシャワーに入り、2月のライブを思い出していた。ギターを弾く姿よりも、なぜか本編ラストで披露した、ヴィンテージもののテープリールらしき機材の方を向いた後ろ姿ばかりが思い出された。あのスラッとした姿勢のいい長身、知的な相貌と優しそうな表情、柔らかい声、そしてなによりあの巨大な才能が失われてしまったこと、それも自らの手でそれらを葬ってしまったこと、そういった諸々の思いに頭が混乱したままだった。

シャワーから出ても、やはり同じような言葉ばかりが口をついて出てきた。加藤氏やビタQの扱いへの不満も出てきたが、疲れていたのでそのまま寝ることにした。翌日はそれなりにLP09を楽しんだが、もっとこころの奥深いところではすっかり気落ちしてしまっていたのか、わたしのなかで精神のバランスが大きく崩れてしまい、本を読むことができなくなった。2005年からこの2009年9月まで、月に最低でも20冊は読むのが習慣となっていたというのに、まったく読めなくなった。いや、2005年以降はそもそも「リハビリ」のようなもので、それ以前はもっと読んでいた。それが、完全に折れてしまった。実は、これは2011年10月の現在に至るまで尾を引いている。去年は年に20冊も読めなかった。あれからのわたしは知的退化の一途を辿っており、それはブログを書くたびに「痛み」を伴うほどの退化なのだがしかし、それはまた別の話だ。そして、それが語られることはない。


加藤氏に日本の音楽界がどれほどの恩義があるのか、まったく理解されてないのがいまだに信じられない。日本では海外とは比較にならないほど世代間の断絶が激しいとはいえ、そこに敬意が必ずしも伴っていないように感じられることが多いのはわたしだけだろうか。おそらく、音楽をやっているにも関わらず加藤氏を知らないひともたくさんいるのだろう。90年代以降に音楽を聴きはじめたひとにとって加藤氏が遠い存在だったことは間違いないし、洋楽ではかろうじて保持されている「ロック史」というフィクションが、なぜか国内においては確保されていない点に最大の問題があるからだ。国内アーティストは新譜の発売が中心で、バックカタログの販売は等閑に付されていることも問題ではある。

しかし、だ。

日本にPAシステムを取り入れ、アレンジ(編曲)という行為と概念を日本のロック(ミュージシャン)に持ち込み、日本人ならではのコンセプト・アルバムを提示し、ワールドミュージックを消化し(レゲエを日本で最初にやったのは加藤氏である)、といった前例を作ったのは加藤氏なのだ。海外のファッション(とくにロンドンのもの)を紹介することで「ファッション・アイコンとしてのミュージシャン」の先駆けとなったのも加藤氏だ。彼がこの世を去ってすぐに、「J-POPを創った男」という言葉が飛び交った。その通りだ、と思った。そして、こうも思った。それをなぜ生前にだれも言わなかったのか?言ったひとがいたとしても、それが巷間に認知されるに至らなかったのはどうしてなのか?と。


日本に限らず、音楽業界は一般人にはすぐに呑み込めないような奇妙な論理がまかり通っているところだ。異常と言える場合すらあるだろう。明文化できる公正なルールに基づく社会ではなく、やや誇張すると呪術的な慣習によって成り立っている社会だからだ。日本の場合、芸能界≒テレビ業界との関わりの比率が高く、またその芸能界も倒錯した論理で構成されているだけに、そのなかで一社会人としての「常識」と、より普遍的な観点における「良識」(「倫理」と呼んでも差し支えない)とを磨滅させることなく保持しつづけることは、われわれ一般人の想像も及ばない難しさが伴っているのだろう。

そのなかで、シーンの原初のときから「リーダー」であった加藤氏は、まさに別格の存在だった。才能や技術にかけては、もちろん他にも何人か名前をあげねばならないのだが、音楽面だけでなくそのライフスタイルにおいても旗手として先頭に立っていたのは、間違いなく加藤氏だ。それだけに、自殺は大きな驚きをもたらした。


その後、遺書の中で「音楽は必要とされていない」といった趣旨の言葉があったことが報道された。正確な表現までは知らないが、確かムックか何かの特集本に全文が掲載されていた覚えがある。読んではいない。手にとってさえいない。完全に後追いであるわたしにとって、氏はサディスティック・ミカ・バンドのリーダー兼コンポーザーであり、「ヨーロッパ三部作」の知的な加藤氏であり(これらの名作が廃盤であるところに国内シーンの不健全な在り様が表れている)、そして何よりビタQの加藤氏だった。まだまだ素晴らしく新鮮な曲を書くことができ、それをスタイリッシュにプレゼンテーションすることのできる稀有なひとだった。小原さんはビタQの次回作のため、曲も作り始めていたと雑誌で語っていた。そのことは却ってわたしを悲しい気持ちにさせた。


加藤氏が考えるところの「音楽」と、(加藤氏が思うところの)世間にとっての「音楽」に乖離があったのは間違いない。若い時分から輸入盤店を渡り歩いて「お気に入り」を探し求めていた氏にとって、音楽は生活と同義でもあっただろう。その音楽に空疎なものを感じ、どうゆうわけか自分の内側にも同様のものを認めてしまったとき、鬱が孕む負の螺旋に絡めとられてしまった加藤氏は自らすべてを終わらせることを選んでしまった。


「音楽は必要とされていない」という言葉は、エコーとなっていまも残っている。いや、もしかしたらその残響は日増しに大きくなっているのかもしれない。音楽どころか「生活」すら必要としていないのでは、と思うことすらあるほどだ。わたしに言わせれば、多くのひとがあまりに簡単に安手の「芸術」に「感動」しすぎているように思うし、そんなひとたちが本気で口にしているらしい「好き」「スゴイ」「最高」「熱い」は一切信用していない。でも、加藤氏はそこに動揺したのだと思う。氏を個人的に知っていたひとならだれもが口をそろえて「優しいひとだった」と言う加藤氏は、それらの反応を切り捨てるには「優しすぎた」のでは、と思うのだ。と言うか、自分を納得させるためにそう思うことにしている。だから、実情がまったく違っていてもかまわない。



長々と書いてしまった。一刻も早い氏のバックカタログの再発と、若い世代における然るべき認知を望みたい。


そして、加藤氏のご冥福を、あらためてお祈りしたい。



素晴らしい音楽を、本当にありがとうございました。




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2011-10-13

DEAD END live streaming on ustream

 

先程までUstreamで生中継していたDEAD END at O-Westのライブがあまりに素晴らしかった。
まだ興奮冷めやらぬなかではあるけど、感謝の意も込めて何か書いておきたい。


DEAD END 2011
Crazy Cool Joe (b), Morrie (vo), You (g)


DEAD ENDについては、過去につたないながらもブログの連投をしたことがある。
アルバムを一枚ずつ紹介するかたちで書き、Morrieのソロも含めて再臨後まで、

残念ながら、マイスペ退会を考えたほどの圧倒的な不評っぷりで、まったく読んでもらえなかった。
(まあ、それはこのブログも同じというか、こっちのほうがはるかに酷くてホント消え去りたくなるのだが。)

いま読み返してみても力不足の感が強くあってリンクを貼るに値しないのだけど、
それでもアルバムから受ける印象はさして変わるわけでもなし、一応紹介した次第。
(しかし不人気なんてもんじゃなく、2ndを扱った「1987年」は未だに24アクセスと惨敗…)


さて、今日のO-Westのライブは8月の「四鬼夜行 -四喰-」と題されたイベントで告知された。
そのときがDEAD ENDのライブ初体験で、ライブレポは書けなかったからメモでも置いておこう。




DEAD END at O-East on 10th Aug

SET LIST

01.摩天楼ゲーム                     from 5th Metamorphosis (2009)
02.The Awakening                            from 1st Dead Line (1986)
03.Danse Macabre             from 2nd Ghost Of Romance (1987)
04.???                                                                     new song!
05.Beyond The Reincarnation          from 1st Dead Line (1986)
06.Dress Burning                   from 5th Metamorphosis (2009)
07.Frenzy                                        from 1st Dead Line (1986)
08.Devil Sleep                         from 5th Metamorphosis (2009)
09.Sacrifice Of The Vision (Encore)   from 1st Dead Line (1986)



この日はlynch.Pay money To my Painを招いて急遽決まったチャリティ・イベントで、
当然のことながら持ち時間は短く、1時間にも満たなかったのが残念ではあったのだけど、
すでにCreature Creatureを2回観て、Morrieがいかなる「存在」であるのか知っていてもなお、
より思い入れの強いDEAD ENDがようやく観れた、という喜びがそんな思いを吹き飛ばした。

初めて観たYOUとJoeがまた衝撃的で、ギターとベースでこれほど個性のある人間がいる上に、
その間にMorrieのような、ほとんど超人と言っていいような別格の存在感を放つヴォーカルがいる、
などというバンドは国内外を通じてもそうザラにあるものではないので、心底参ったのだった。
(これで、ドラムにMINATO=湊雅史が復帰したらどうなんだオイ、とも。)

ドラムはヘルプの山崎慶さんで、若いのにあの難曲どもをよく叩いているなと感心したものの、
さすがに天才・湊雅史と比べたら物足りなさを感じないではなく、損な役回りだなと思った。

意外だったのが、セットリストに1stのDead Line (1986)からの曲が多いことで、
一時期は「(メジャーデビュー前の)デモのようなもの」というような自己評価をしていたのに、
再臨後の5thであるMetamorphosis (2009)と同等かそれ以上の扱いに驚きを覚えたのだった。


ライブ終了後、10月のツアーが告知され、東京の会場がO-Westと知ってまた驚いた。
狭すぎるのだ。いくらハコが空いてないとはいえ、前のワンマンはAxでやっている。
Axがだいたい1800人くらい入る。O-Westはその約3分の1。チケット争奪戦確定ではないか。


当日、スクリーンに映し出されたツアー日程。ああ、無念…。


そして、残念なことにチケットが取れず。e-plusの抽選も落ちて、一般発売は瞬殺。
同日にDIR EN GREYのチケットも同様の憂き目に会い、ほとんど憤死寸前であった。


そんなわけで、その後もぐちぐちと「チケット…」とかなんとかモゴモゴしていたら、
13日のO-Westのライブを生中継すると言うではないか。なんたる僥倖。ありがたや。

まあ、「自分がその場にいるべきライブを中継で見る(観るではなく!)とは…」とは思った。
なんでチケット取れんかったんやろ、とかなんとかまたモゴモゴしていたほどである。

それでもPC前に鎮座して開演を今か今かと待ち侘びているあたり、
われながら微笑ましいまでの忠実なファンではないか、と苦笑いである。


それでは、今日のセットリストをあげておこう。収録アルバムも参考に付記しておいた。


DEAD END at O-West on 13th Oct

SET LIST

SE:疑似ヴィーナス                from 5th Metamorphosis (2009)
01.摩天楼ゲーム                  from 5th Metamorphosis (2009)
02.Danse Macabre            from 2nd Ghost Of Romance (1987)
03.I Want Your Love                          from 4th Zero (1989)
04.Psychomania                         from 3rd Shambara (1988)
05.Dress Burning                 from 5th Metamorphosis (2009)
06.Gillotine                       from 5th Metamorphosis (2009)
07.Kill Me Baby                  from 5th Metamorphosis (2009)
08.Final Feast                                             new song!
09.Sleep In The Sky                          from 4th Zero (1989)
10.Promised Land                             from 4th Zero (1989)
11.夢鬼歌                                                   new song!
12.Conception                                                 new song!
13.The Awakening                       from 1st Dead Line (1986)
14.Frenzy                                 from 1st Dead Line (1986)
15.Devil Sleep                    from 5th Metamorphosis (2009)

Encore
16.Princess                        from 5th Metamorphosis (2009)
17.Perfume Of Violence                from 1st Dead Line (1986)

Encore (2nd)
18.冥合                             from 5th Metamorphosis (2009)
19.Sacrifice Of The Vision            from 1st Dead Line (1986)



当然のことながら、目下のところ最新作である5thがダントツで多い。
SEを入れれば、2曲を除いて全曲やっていることになる。

その次が1stの4曲、4thの3曲、新曲の3曲となり、2ndと3rdは1曲だけ。


駄曲がないバンドなので「あれもこれも」やってほしかったけど、そうもいかない。
2ndと3rdの曲が少ないことに、どういった意味/理由があるのかはわからない。

ただ、このセットリストは実によく機能していて、
曲が生み出された「年の差」から生じかねないギクシャクとした違和感は皆無だった。


現役バンドとしての若々しさ、伝説のバンドとしての威圧感もまた違和感なく共存しており、
だいぶ馴染んできた山崎さんのキレのあるドラムも相まって、バンドとしてよくまとまっていた。


そして、なんといっても「フルセットのライブ」が共時的に体験できたことが大きかった。
全19曲130分、会場にいられなかった悔いなどどこへやら、という調子で楽しんだのだった。


中継は画質も音質もカメラワークもよく、これまで見てきたあらゆる中継のなかでもベストだった。

最近はロックフェスの中継がよく行われていて、名だたるビッグバンドの中継をいくつも見てきた。
それら世界のトップクラスのバンドの中継と比べてもなお、今回のものが間違いなくベストだった。

わたしが重度のファンであることを差っ引いても、セットの流れ、パフォーマンスともに完璧で、
終盤の畳みかけるような攻撃的な曲の猛攻には、PC前で思わずヘドバンをかましてしまったほど。

滅多なことではそんな状態にならないわたしではあるのだけど、会場の熱気が伝染したと言うか、
あまりに素晴らしいライブに興奮してアタマがどうにかなってしまったのであり、
それはずっと中継を見ていた(平均)約1400人(累計約11000人)も同じだったと思う。


一方で、「映像で見る」ことで冷静に理解できたこともたくさんあった。

わかってはいたことだけど、全員とにかく巧い。技術だけでなく個性もある。
それも、極めて異例なほどの「個性」なのだ。Morrieは似た者の影すらない。

今日、もっとも感銘を受けたのが足立"YOU"祐二のギターで、何度も唸るしかなかった。
幽冥境を彷徨うかのような妖しいフレーズを、艶のあるトーンで聴かせてくれた。

とくに新曲のソロが素晴らしく、これはアルバム発売までとても待っていられない。
さっさと「三ヶ月連続シングルリリース」の波に乗らなければ、と思った次第である。

ちなみに、新曲のコンセプトはリリースされる順番に、
「近親相姦 (incest)」「食人 (cannibalism)」「殺人 (murder)」なのだとか。
実にMorrieらしい、おどろおどろしいテーマではないか。もちろん、その処理は極めて哲学的だ。


こうした聖(性)と俗が入り乱れたテーマの形而上学を開示し、
かつそれを「ヘヴィでキャッチーなロック」としてわかりやすく提示しつつも、
楽曲の定型性を気にさせないように強烈な個性で曲をねじ伏せているあたり、
やはりこのバンドは世界でも有数の「個性」を持ったバンドなのだと感嘆した。


あれほどのライブを中継で見せることができるバンドは、国内でも両手の指の数で足りるだろう。
アルバムとしての新作は先になりそうだが、まずはシングルのリリースを楽しみに待つことにしよう。

春のツアーは這ってでもダフ屋と交渉してでも行かねばならない、と自分に言い聞かせ、
今日のライブが中継で見ることができて本当によかった、と関係者各位に感謝したのだった。



それにしても、アンコールの"Sacrifice Of The Vision"は最高だった。
夏の「四鬼夜行」のときよりも更にいい出来で、とてもじゃないがいても立ってもいられず、
PCに向かってメロイックサインを出したりヘドバンかましたりと忙しいことこの上ないまま、
これしかなかろう、という勢いでもって

「黄金郷で、死ねぇっ!!!

とカマさずにはいられなかったのだった。


あれを見ていたひと何百人かがわたしと同じことしてたと思うと、何だか楽しくて仕方ない。


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2011-10-12

Björk / Biophilia (2011)

  
ビョークの新作が発表されて一週間経った。海外では今日が発売日だったはずである。

評判は賛否両論というほど明確ではなくて、誰もが歯の奥に物が詰まったような言い方をしている。
そうした評言が、この新作がいいのかどうか、どうにも煮え切らない印象を与えてしまっている。

わたしとしては、いくつかの文脈において画期的であるのみならず、
純粋に音楽作品としても興味深い、素晴らしい作品だと思っている。

では、何が問題/障害となっているのか?しばし、考えてみることにしよう。



Biophilia (2011)

01. Moon
02. Thunderbolt
03. Crystalline
04. Cosmogony
05. Dark Matter
06. Hollow
07. Virus
08. Sacrifice
09. Mutual Core
10. Solstice

Bonus Trucks
11. Hollow (original 7-minutes ver.)
12. Dark Matter (with choir+organ)
13. Nattura
14. The Comet Song


本作は、発表前から大きな話題を呼んでいた。ふつうのアルバム・リリースとは違ったからだ。
そもそもは「アプリとして新作を発表する」という報道が為されたのが第一報ではなかったか。

実際は少し違った。

新作Biophilia(=「生命愛」と訳しておこう)は多面的なプロジェクトとして企画されており、
アルバム、アプリ、ウェブサイト、ドキュメンタリー映画、ツアー&ワークショップの総計こそが、
ビョークが考えるところの『バイオフィリア』という作品の全貌であることが明らかにされたのだ。


彼女は常に最先端のテクノロジー(PCソフトやアイデアなどの総称と考えてほしい)を取り入れつつ、
エモーショナルでプリミティヴな、声そのものに強烈な存在感のある歌を響かせてきた。

毎回毎回、違う方法論・テーマ・コンセプトで作品を発表してきたとはいえ、
それでも、アルバム単体に留まらないプロジェクトの総計としての作品、
という今回の「新作」に、戸惑ったひとも多かったのではないだろうか。


わたしはと言えば、まずは「アプリとして発表」することに、むしろビョークらしさを感じていた。
新奇なものを即座に取り入れ、作品内容と同時にプロモーションにも活用する、という手法に、だ。

だから、心配していたのは「CDは出してくれるのだろうか?」ということだけであって、
新作がプロジェクトの一環としてアルバムもリリースすることを知ってホッとしたのだった。


iPhoneは持っているものの、アプリにはまったくと言っていいほど無関心なので(あまり使わないから)、
新作もアルバムを買って聴くだけで済ませるつもりだったところ、予想以上の斬新さに衝撃を受けて、
アプリもすぐに無料ダウンロードし、さらに有料アドオンも購入する、という事態になってしまった。


一方で、アルバム単体にのみ触れたひとたちのレビューもちらほら見かけるようになった。

冒頭に書いたように、腰の引けた評が多いのは、
①アルバムがこうした「プロジェクト」の一部でしかないこと、
②アプリがどのようなものになっているのか(評者が)知らないこと、
③さらに企画されているらしい「プロジェクト」があるらしいこと、
これらへの「配慮」ないし「引け目/気おくれ」のためと言っていいだろう。

また、中には「音楽のみで判断したら凡庸」という評もあった。
これには、わたしも首肯できる部分とそうでない部分がある。

この点、わたしとしてはビョークを弁護しておきたいのだ。
そうした経緯で、いまこうしてちまちまと駄文を連ねている。


さて、因数の多いこの方程式を、どこから解いていけばいいのだろうか。

ビョークの音楽活動を貫くコンセプトは「音楽・自然・テクノロジー」である。
理論に囚われない「自然」なこころの状態から生まれた「音楽」を最新「テクノロジー」で創造する。

とでも言えば、何かを要約した気にはなるものの、彼女を知らないひとにはイメージが沸かないだろう。

ビョークは「戸外を歩けば音楽はそこにある」と言うほど、
直接的かつシンプルに音楽と繋がることのできるひとだ。

彼女にとって、音楽は「身体と自然が当然のごとく共鳴する」ものであって、学校で学ぶものではなかった。

言うなれば、天性の感覚で「自然という音楽」と繋がってしまう「天然音楽才女」であるわけだが、
にもかかわらず、彼女は幼少のころから音楽学校に通っていた「天才音楽少女」でもあったのであり、
そうした「自然(身体感覚としての音楽)」と「テクノロジー(理論としての音楽)」の乖離を、
「ビョークという歌い手ないし作曲家」として体現しつづけてきた、という来歴があるのだ。


そんな彼女は、実は音楽学校を開くことが夢だったらしい。
「理論は(知っていても)意味を成さなかった」というのに。

彼女の身体(音楽)感覚と矛盾するようだけど、だからこそ、
そうした感覚の教授方法にずっと興味があったのだろう。

これが、「プロジェクト」の「ワークショップ」につながる。
しかも、「アプリ」を使っての「ワークショップ」なのだ。


それでは、アプリの概略を伝えておこう。

まずは、「biophilia」というアプリがあって、これをダウンロードする。
これがマザーアプリとなって、この内部に9個の有料アドオンがあり、
そのひとつひとつがアルバム収録曲の1曲ごとに対応している。

無料のマザーアプリは"Cosmogony"という曲に対応している。
10月12日現在では"Moon"、"Crystalline"、"Virus"とあわせて4つのアプリがある。
投稿後に確認したら、昨日アップデートされていた。どうやら全曲揃ったらしい。
(現在絶賛DL中。ただこれ、バカ重くてWiFiでもえらい時間かかるのである。)


白字の曲が使用可能なアプリ。


このアプリを通してさらにビョークが意図していることへの理解が深まった。

リリース間隔がいまいち掴めないのが難点だけど、(発表されているのだろうか?)
アプリの紹介と合わせて順次、楽曲紹介としてブログを書いていくつもりである。
そして、その都度、楽曲が併せ持っているコスモロジーも含めて、考えてみたい。


さて、ここでわたしが「理解を深めた」こととは、本作のシンプルさの理由と、
アプリとワークショップのつながり、その関連性について、なのだった。

このアプリ、すべてではないかもしれないけど、「ゲーム」ないし「楽器」になっているのだ。

たとえば、これは"Moon"のアプリで、月の部分をタップすると音が鳴るのである。


問題。このかたちは何を表しているでしょうか?正解はいずれ。


しかも、これはちゃんと録音できるようになっている。iPadなら、もっと楽器らしく「使用」できるのだろう。

"Crystalline"はゲームで、曲の構造とパラレルになっている。(詳しくはいずれ紹介したい)


本作は、彼女がiPad発表以前に「タッチスクリーン」の可能性を見出したことにもその起源がある。

それを新作に活かせる曲を用意していたところにiPadの発表があってすぐさま夢中になり、
そのタッチスクリーンの「自然な」直接性が自分の音楽学校プランとつながることに気づき、
より音楽の教授に特化した「シンプルな」曲を構想するようになった、というわけなのである。


「音楽は凡庸」という評があることを先に書いたが、それは本作の音の少なさと歌メロの平板さによる。

わたしが強調したいのは、それがワークショップで使用するための意図されたシンプルさであること、
また、そのシンプルさが「こどものための」ワークショップを想定しているためのものであること、である。

おそらく、ワークショップでこどもといっしょにアプリを使いながら曲の構造を教えたり、
パタパタとタップして音を紡ぎながら歌い歌われることで、曲の別の面が出てくるはずなのだ。

ビョークは、きっとそこまで意図ないし期待しつつ、音やメロディを「抜いた」のだと思う。

彼女は感性を重んじる天才肌の「天然音楽家」である反面、
必要とあらば学術書まで探究する分析的知性をも併せ持っている。

それゆえ、そう軽々に「凡庸」と断罪するわけにはいかないだろう。
本作の持つポテンシャルの射程は、予想以上に大きくなり得るからだ。
(実際、アプリで楽曲に触れたことで新たな魅力に気づいた。)

そして、そこまでシンプルにしたために彼女の声の存在感、いや「生命感」が増したように思えるのだ。

わたしが打たれたのはまさにその点で、鉱物的で硬質な宇宙観(=音像)のなか、
ビョークのエモーショナルでプリミティヴな声が、生命力豊かな花のように感じられたのである。




本作で重要な働きをした「創作楽器」については、ビジュアルで見ていないため割愛した。
ドキュメンタリーでその全貌が捉えられることと思うし、楽器を弾かないわたしには荷が重い。

アプリである程度、個々の楽曲の特性や思想、意図された観点などを捉えてから、
3回~5回に渡って2つか3つずつ、ブログに書いていくつもりだ。

連続すると書いていて食傷気味になるかもしれないので、2週間に1本くらいの割合で進めよう。


なお、このブログは、本作の国内盤で解説をなさっている新谷洋子氏に拠るところが大きい。
念のため、付記しておく。