2013-07-11

貴婦人と一角獣 - The Lady and the Unicorn



国立新美術館にて開催されている「貴婦人と一角獣」展を観てきた。



期待に違わぬ、いやそれどころかそれを上回る素晴らしいものだった。
おそらく、この連作すべてが今世紀中に再来日することはないと思われる。
東京ないし大阪で見逃した方は、ぜひともパリのクリュニー中世美術館へ赴くがよろしい。


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わたしが、作者不詳のこの「貴婦人と一角獣」タピスリー連作を知ったのは、学生時代だった。大学図書館で画集を眺めていたら出てきたのだ。そのときの印象は、いかにもルネサンス前の中世欧州らしい、牧歌的な作品というものでしかなかった。

このタピスリー連作と真に出会ったのは、堀田善衛の『美(うるわ)しきもの見し人は』(1969)を読んだときと言える。古今東西の「美しきもの」を、「なるべく努力をしない、勉強をしない」ように「できるだけ、自分の自然を保って」語ったこの名著は、それまで専門的な美術研究書や美学関連の思想書ばかり読んでいたわたしにとって、目から鱗の一冊となったのだった。

その12章「美(うるわ)し、フランス LA DOUCE FRANCE」で、この「貴婦人と一角獣」タピスリー連作が、中部フランスの静かで優しい景観を表象するものとして紹介されているのだ。
(なお、タピスリー/tapisserieは仏語。一般に使われるタペストリー/tapestryは英語である。)

一角獣の優しげな表情がとりわけ微笑ましいこのタピスリーについて、(ボッティチェリの「妖」といった印象とは違うと断りつつ)「幾分の謎がのこるという心持に見る者を誘う」と堀田は書いている。わたしは一角獣やそのまわりの動植物のかわいらしさに魅せられていたため、この「謎」という言葉には不意をつかれた覚えがある。

そして、実際にタピスリーをこの目で見た今となっては、まさしく「謎」という言葉こそがこの「La Dame à la Licorne」連作にもっとも相応しいのだと思えてならない。


ところで、一角獣といえば「角のある馬」と思われているだろうが、実はもう少し複雑で、「頭部と胴は馬、後ろ脚はカモシカ、尻尾はライオン、髭はヤギ」という構成が一般的だ。(細かい異同や時代・地域による差もあって、例えば翼を生やしている場合もあるらしい。)色も白と相場は決まっているものの、茶色や黄褐色で描かれていた時期もけっこう長く、他の幻獣と同様にその受容ならびにイメージの変遷は、なかなかに手強い。
(もっとも簡潔な解説として、澁澤龍彦の「一角獣について」を挙げておこう。『記憶の遠近法』所収。)

一角獣(ユニコーン)に限らず、ペガサス、グリフォン、ドラゴン、スフィンクス、セイレーン、ケンタウロス、キマイラ、ケルベロスといった幻獣たちは、様々な動物の部分から成る合成獣としての禍々しさとはまた別に、どこかしらひとを惹きつけてやまない魅力を持っている。そのなかでも、わたしは幼少のころから一角獣への思い入れが妙に強かった。今回、この美術展を観ながら、そんなはるか昔のことをも思い出していたのだけど、それは置いておこう。以下に、連作を順番に語っていくことにする。
(画像をクリックすると大きく表示されます。)


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Le Toucher (Touch / 触覚)

連作は「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」と五感の距離順に、すなわち対象をそれと認知・感覚するに必要な距離が短い順に並べられている。それなら味覚がいちばん先になりそうだが、どうやらこの「触覚」が最初期に制作されたものと目されているため、これが「連作その一」だ。
(なお、聴覚と視覚の順も微妙なところだけど、ここは認識における視覚の優位のためだろう。)

他の作品との大きな異同は獅子の顔と貴婦人の髪型、そして貴婦人自らが旗を持っている点だ。この作品が最初のものとされている理由のひとつとして、その三点が挙げられる。裏を返すと、それ以外は多くの点において共通項があり、印象も近いものがあるということだ。

赤地に千花模様(ミル・フルール / Mille Fleur)のなか、円形の庭園が島のように浮かんでいて、そこの中央に貴婦人が、傍らに獅子と一角獣がいる。ル・ヴィスト家の紋章入り四角旗や楯が目をひく。四本の果樹と、様々な動植物が庭園を取り囲んでいる。といったことが大きな共通項だ。(もちろん、細かな異同が多々あって、そのことがこの連作をより魅力的にしている。)


この「触覚」で、貴婦人は一角獣の角に優しく触れている。掴んでいるのではない。掌をなかば広げたまま、親指と人差し指をそっと添えるような具合で、小指はどうやら角に触れているようだが、中指と薬指は角から離れたままに見える。一角獣は貴婦人(もしくは旗)を見つめ、貴婦人はあらぬ方向を向いている。人間のような顔をした獅子が「こちら」を見ている…。(その顔はかなり不気味だ。)

一目見て驚かされたのが、貴婦人のリアリスティックな描写だ。顔には皺も描かれていて、この婦人が決して若くはないことを容易に知らしめている。女君主とでも言おうか、威風堂々とした趣きがあって、その表情には狷介さもあらわれている。頂点に立つ者の孤独も感じさせる。しかし、だからこそ一角獣にそえられた左手が、重要性を帯びてくるのだ。

褪色の進んだ赤と違い(その「枯れた」色がまたいいのだが)、深みのある青が印象に強かった。庭園の草花ひとつひとつが、現実的な描写だけでなく現代的な意味における「デザイン」としても優れていて、いたく感心させられたのだった。

しかし、その「感心」は連作を見るにつれて、どこか「当惑」にも似た思いに変わっていくのだった。



Le Goût (Taste / 味覚)

「連作その二」は「味覚」だ。横長で他の連作よりも大きい。ここから侍女も登場する。
でも、大枠では同じだ。庭園、貴婦人、獅子と一角獣、紋章、動植物…。

貴婦人がオウムにえさを与えていて、猿がなにかの実を食べている。だから「味覚」とされる。

獅子と一角獣のデザインが、随分と違うことに気づかされる。獅子は横を向き、一角獣は「こちら」を(いや、少し正面からは逸れたところを)見ている。獅子は「触覚」とは打って変わって実物の獅子の顔に近づいているし、一角獣はほぼ「美しい白馬」と言って差し支えない。その表情からは、優しさよりも逞しさが窺える。

また、旗を支える両者のポーズはシンメトリーになっているため、図像的に緊密な構成となっている。ペットの犬(明らかに他の犬と種類が違う)と侍女もやはり、その視線と姿勢においてシンメトリーを形成しているのが興味深い。

若い貴婦人は堂々としていて、凛々しさがある。(20代後半だろうか。)「触覚」の貴婦人ほどの威圧するような貫録とは違った、しなやかさを感じさせる。侍女とペットは、そんなご主人に見惚れているように見えてくるほどだ。その装身具を見るにつけ、両者ともに貴婦人の寵愛を受けていることが察せられる。見惚れるのも当然だろう。

そう言えば、「触覚」の貴婦人と面立ちが似ているかもしれない。親子?親戚?それとも、同じ座を占めたがゆえの責務が、彼女たちの同質性を強めているのだろうか。

(庭園の内と外で、ウサギたちがひそひそ話を始めた…。)



L'Odorat (Smell / 嗅覚)

縦長ではなく、横が短い。そのため、庭園がやや窮屈に見える。
貴婦人は花輪を編んでいて、猿が花の匂いを嗅いでいる。これが「嗅覚」だ。

獅子の楯の紋章だけ「逆」になっているのが不可解である。その獅子は、顔がまた人間的になった。ただ、「触覚」の獅子のような不気味な印象はなく、まるで若い小姓のような美しさがある。ほとんど少年と言っていいくらいの…。一方の一角獣もまた、顔が人間的なものになっている。ただ、うっとりと細められた目と山羊髯のためか、好々爺にも見えてくる。

貴婦人は髪の毛をほとんど隠している。顔を見ると若い。20歳くらいだろうか。直立のようでいてほんの少しだけS字型のポーズになっているためか、少し東洋風に見えてくる。(例えば、アジャンター石窟寺院の菩薩像。)花に向けた目を、少し細めている。花輪作りに夢中になっているようだ。

逆に、その貴婦人を見る侍女の目ははっきりと見開かれており、ぶしつけなほど直截に貴婦人へと視線を向けている。表情は硬く、直立姿勢のまま、どこか若い貴婦人への「抵抗」を感じさせるほどに…。

この「嗅覚」もシンメトリーが多く、とくに庭園外の小動物たちがほぼ対照的に配置されているため、図像の安定感も高い。これでひとつの結界を形成しているかのようだ。庭園を守るための、小さきものたちから成る布陣。しかし、不穏分子は庭園内にこそいるのではないか…?

(ウサギたちは、どうもお互いに情報交換をしているようだ…。)



L'Ouïe (Hearing / 聴覚)

これまた縦長ではなく、横が短い作品。庭園の窮屈さをオルガンの存在感が打ち消している。
そのオルガンを貴婦人が弾いていて、獅子と一角獣が耳を傾けている。ゆえに「聴覚」。

「嗅覚」では庭園外に結界を作っていた小動物たちが、ここでは園内に潜り込んで布陣をしいている。しかし、すでにして脅威はなく、侍女は日々の疲れでやつれているようにさえ見える。「お嬢さま、まだお続けになるのですか?」とでも言わんばかりの顔をして、ふいごの取っ手を握っている。

そのお嬢さま、すなわち貴婦人はとても若く、まだ10代といったところ。とても凝った髪型をこしらえている。かたちのいい丸い額は、「嗅覚」の貴婦人とそっくりだ。姉妹なのだろう。ただし、この「お嬢さま」はどこかしら夢見がちな姉と違い、なにやら野心的な顔つきをしている。オルガンを弾くにあたり、なにか算段でもあるのだろうか?(やつれた侍女の疲れは、そこに端を発しているのではないか?)

獅子はふたたび、やや不気味な顔になっている。この秘密は口外できないとかたく口をつぐんだ、若き廷臣にも見える。一角獣はここでまた「白馬」となっているのだが、なぜか後ろ脚がオルガン(獅子と一角獣の飾りつき!)の陰に隠れている。その表情には、驚きすら窺えはしないか?(これはさしずめ、初めて秘密を悟った老宰相といったところか。)

そもそも、この獅子と一角獣はおかしいところだらけだ。支える旗のかたちが獅子と一角獣とで逆になっている上に、体の向きが貴婦人の方を向いていない。ほとんど背を向けているほどだ。これはどうしたことだろう。(慌てでもして間違えたとでも?)これが臣下の所業であろうか。それとも、何らかの突発的な感情のあらわれなのか?だとしたら、余程の事態を察してしまったのだろう。旗の陰に、無意識的に隠れようとしている…。

よくよく見てみると、侍女の装身具はシンプルながらも豪華だ。「姉」の侍女とはわけが違う。これは何を意味するのか?(口止め料?いや、年嵩の侍女なら持っていてもおかしくはない…。)

(ウサギが一匹、まっすぐ「こちら」を向いている。これは警戒か、それとも…?)



La Vue (Sight / 視覚)

この作品だけ、縦横の長さがほぼ同じくらいになっている。
侍女がいない。旗は一本。果樹も二本だけ。庭園のかたちもややいびつ。
鏡が登場する。貴婦人と一角獣が、小動物たちが見つめ合っている。「視覚」と呼ばれる所以だ。

獅子と一角獣は、「触覚」のそれにもっとも近い。獅子は人間のような顔をしていて、一角獣は優しげな表情を浮かべている。ただ、獅子はあらぬ方向を向いている。(なにか見つけたようにも、貴婦人と一角獣から目をそらしているようにも見える。彼もまた廷臣の一角なのだろうか。)柔和な顔をした一角獣は貴婦人のドレスをたくしあげ、庭園に座る貴婦人の膝の上にその前足をちょこんと置いている。無邪気なようにも、それを装っているようにも見える。

貴婦人は、明らかに若くない。一角獣に向けられている目には、どこか冷淡で無関心な色がある。しかも、寝不足のためか目蓋が腫れぼったい。(それでも、凝った髪型をこしらえさせるだけの気力はあったようだ。)一角獣を引き寄せているのか、それともかるく押し止めているのか判然としないが、左手は一角獣の体にかけられている。右手には鏡。鏡像には一角獣。(彼はこの像に気づいているのか?)

貴婦人は、戯れに鏡を向けたのだろうか。(鏡像を理解できる、知能の高い動物は限られる。)だとしたら、それは危険な行為だったかもしれない。その誇りの高さで有名な一角獣を怒らせてしまっては大変だ。しかし、そんな恐れはないのだろう。だとしたら、なぜ?この鏡の向け方は、まるで護符を差し出しているかのようだ。それでなにを退散させたいのだろうか。

一角獣は処女の膝枕に眠るという。しかし、この貴婦人がその適任にあるとは思えない。また、視線を交わしていながら(それも、鏡さえ動員して!)、「触覚」以上に触れあっているとは何事であろう。それに、こうも近づいていたら、お互いの匂いさえ分かろうというもの…。

この貴婦人もまた、どこかオリエンタルな肢体に通ずる「柔らかさ」がありはしないか。いや、むしろ「嗅覚」の若い貴婦人以上に、アジャンター石窟寺院の菩薩像に近い。官能的、煽情的とまではいかないものの、平面的な図像の裏側に、そうしたエロティックな水脈の気配がある。
(髪型は先の「姉妹」と同じ。彼女が教えたのだろうか。顔は似ていない。伯母か親戚?)

小動物たちもまた、意味ありげな視線を交わし合っている。
(庭園のウサギが一匹、やはり「こちら」をじっと見ている…。)



Mon seul désir (我が唯一の望み)

「味覚」同様、横長の作品。いちばん色鮮やかな、綺麗なタピスリーだ。
これだけ作品名がある。天幕の文字から採られた。曰く、「我が唯一の望み」。

構図の緊密さは一、二を争う出来だろう。そして、たいていのひとはこれを採る。それも頷ける。

貴婦人‐獅子‐一角獣の三角形を、貴婦人‐侍女‐ペットの犬の三角形と、天幕‐獅子‐一角獣の三角形が補強する。さらにダメ押しで、天幕のロープが明確な三角形を形作る。これらのピラミッドを、直立する果樹と旗竿が引き立てる。白い小動物の点描が、この構図にアクセントをつける。

これまでの「五感」の連作とは見た目の感触が異なる。登場人物に「動き」を感じないのだ。だから、「物語」も動かない。これは連作の「ゴール」であり、大団円のラストショットなのだ。すでに「物語」は終わっているのである。

貴婦人は「嗅覚」「聴覚」の姉妹に、少し似ている。でも、それほど強い結びつきは感じない。

獅子と一角獣はピタリと動きを止めている。獅子など、いかにも図式的な獅子の顔になっているし、一角獣もまるで紋章のような図式性に落ち着いている。

侍女の髪型がより大胆になっていること(前の貴婦人と同じ髪型!)、ペットの犬があらぬ方向を見やっていること、気がかりなのはそれくらいだろう。やはり、すでに「なにか」は終わっており、すべては平穏無事な地点へと着地したに違いない…。


このタピスリー連作は、結婚の引出物と想定されている。「我が唯一の望み」とは「あなた」、つまり求婚相手のことだ。一角獣はここでは、新婦の処女性や純潔を表象する象徴として機能している。
(ただし、一角獣の象徴は極めて多義的かつ重層的であり、内容も幅広い双極的な領域に及ぶ。)

しかし、この連作は中世の風俗絵巻的な「ただの工芸品」に収まる代物ではない。図像的な見事さもさることながら、ここに表現された内容は、そこはかとない物語性を否が応でも導き出す。それも、非常に謎めいた物語であり、連作の内部で様々な円環を形成していくそれは、最終的に「いったい、わたしは何を見ているのか?」という当惑へと見る者を連れ去っていく。

見れば見るほど、この登場人物たちが実在の人物と思えて仕方なくなる。獅子や一角獣はもちろんのこと、小動物たちもなんらかのモデルがあるのではないか。とはいえ、これらの登場人物たちは寓意的な人物像であり、もしくは寓意そのものであるとされている。(作者すら不明なのに、モデル探しなどできるわけがないという事情もあるにはあるだろう。)

それにしたって、と口を継ぎたくなるのは、あまりに彼らが生き生きとしているためだ。

ふつう、中世の図像は平面的かつ図式的なもので、(後世が言うところの)リアリズムの見地からするとナイーヴかつイノセントな表現に見えることがほとんどだ。(フラ・アンジェリコのような例外もいるけれども。)

しかし、この「貴婦人と一角獣」連作は、図式的な色合いは残しつつも、ほぼ全編に渡ってリアリズムに徹していると言っていい。しかも、同時代のタピスリーと比べて異質の物語性を持っている。幾重にも「例外」が積み重ねられている。

ニュー・ヨークのメトロポリタン美術館には、同時代の「一角獣狩り」タピスリー連作がある。明確な物語性を持ったこの連作は登場人物も多く、図像的により煩雑で(そこがいいのだが)、「貴婦人と一角獣」のような構図の簡潔さや、語りを生む「余白」がない。また、その描写はより図式的なもので、リアリズムは部分にとどまる。

ただ、だからと言ってリアリスティックな人物造型や、簡潔な構図といった特徴だけが、あのような「物語」を導き出しているのではないはずだ。端的に言って、ここには制作者のなんらかの意図があると思われる。いや、「意図」では意味が強すぎるかもしれない。「わかるひとにはわかる」仄めかし、くらいのものだろう。図像的な寓意表現と、内輪の貴族社会に向けた「目配せ」との、ダブル・ミーニングになっているのではないか。そうでもなければ、あれほど「物語」が動くとは思えないのだが…。
(トレイシー・シュヴァリエが小説『貴婦人と一角獣』で、おそらくこの「物語」をフル活用しているはずだ。未読ではあるものの、ご紹介しておく。)


一角獣をめぐる図像表現には、「宮廷内恋愛」という寓意もある。上述の「処女性」を筆頭とする象徴の多義性に拠るもので、当時の流行りとだけ簡単に思っていればいいだろう。それほど複雑な経緯はない。この連作に、そうした恋愛的な仄めかしがあることは、それとなく書き継いできた。「視覚」ではよりわかりやすく書いたほどだ。そして、それ自体は左程重要なことではない。「謎」という印象にとっては。

上述した物語性の実像が不透明なこと、それを「謎」と呼んでいるのではない。仮に、作者やモデルの詳細が文書などの発見によって完全に判明したとしても、この「謎」は消えはしない。というのは、この連作がすでにひとつの小宇宙であって、現実などいう「外部」を持たないからだ。

連作は、お互いのイメージの還流によってその内奥を充足させている。見れば見るほどその類似点・相違点の坩堝に巻きこまれ、あれこれと視線をさまよわせつづけた挙句、自分が目にしているものが何なのか、とうとうわからなくなってしまう。うっすらと全体を覆う物語性は、そのような意味の消失点へと離陸を促す補助線にすぎないのだ。

連作を見る‐図像を読む‐物語を引き出す、ここまではふつうの寓意画だが、ここではループが生じるため世界が内部で強化されつづける。その結果、「見る‐読む‐物語」ループから意味の消失ないし存在論的な混乱へと至る。このとき生じる漠然とした感覚を、「謎」と呼んだのだ。そこにはエロティックな、しかし透明なイノセンスがある…。

実に奇妙な感覚だった。「透明なエロティシズム」は字義的に矛盾でもあるだろうが、この連作はそう呼びたくなる「存在」だったのだ。寓意表現という象徴言語を脱した、作品そのものの存在の強度が開示する「謎」。

すべての真なる芸術作品は、「謎」を開示する「謎」である。

人間社会ではなく、世界いや宇宙に属するこの「謎」のはかり知れない深さ(存在の崩落点とでも言うか…)、これを垣間見れただけでもう十分だろう。

あとはただひたすらこの庭園のひとびとを眺め、心地よい訝しさのなかを漂っていたいものである。




2013-07-05

庚寅文月水戸日記



マイスペでは前篇と後篇に分けていた「水戸日記」を、ひとつにまとめなおした。
前回、復刻したHPPの水戸公演に前後する出来事を書いただけのものである。

このような条件反射的なブログを書けていたのは、マイスペが居心地のいいところだったからだろう。何かを書けばこたえてくれるだれかが、必ずいたのだから。

さして内容のない、他愛のないブログなのだが、記録として残しておきたかったので復刻する。

なお、一部は思うところがあって削除した。


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常磐線の鈍行で水戸へ向かうべく、上野へ。
ちょっと間に合わないかな、と次の電車を調べたら、
なんと出発は一時間後。アホか、である。

そこで、本を読んで待つことに。

半年以上、ずっと本が読めなくなってしまっていたのが、
こないだ掌編「琥珀」を書いたことで(まあ、失敗作なんだけど…)
なにか変化が訪れたらしく、最近また「読みたい」気持ちが復活、
「とりあえず」入れておいた小説を、成り行き上しかたなく読むことに。

しかしこれがベストタイミングだったようで、スラスラと読んでたら、もう電車が来てた。

ちなみに、読んでたのはマイケル・オンダーチェ『ビリー・ザ・キッド全仕事』である。
日本でこれ知ってるひとは2000人もいないだろうし、
読んでるひとなんて1000人もいないんじゃないだろうか・・・。別にいいけど。


電車に乗り込む。常磐線は乗るの初めて。

本を読んだり車窓の風景を眺めたりアレコレ考えたり。

iPodではひたすらHPPを聴いてた。年代順に。


変わり映えしない町が延々とつづいていたのが、
しばらくすると田んぼや森・林などの緑が多くなってきて、
いま自分が田舎を通過していることが妙にうれしくなる。

しかし、けっこうな距離を来た気がするのに「あと一時間」かかる、
とわかると「水戸、すげえ遠いじゃねぇか…」と独りごちることに(笑)

本は、速攻で読むのが惜しいほどの傑作だったので読むのはやめ、
以後、車内の情景と車窓の風景に集中。

目の前ではギョロ目のおっさんが真っ赤な目でこちら側の風景を見ている。
優先席では中学生がペンケースを窓枠において宿題をしていて、その後就寝。

外には川、橋、土手、森、林、水田など。ごくまれにひとが横切っていく。
フェンスに手をかけて電車をじっと見ていた少年や、写真を撮っている少女がいた。

その他、ぶつぶつと考えていたら水戸に到着。のどかで、都会という感じがしない。


旅の基本は地図、なので改札ヨコの観光局で2枚くらいもらっていく。


ミルクスタンドがあり、反射的に列に加わる。ブルーベリーシェイクをいただく。
ミルクとブルーベリーをミキサーにかけただけなのに、甘い。さすが常陸牛。


今日の宿、のつもりでネット検索したマンガ喫茶を即発見。坂を歩いて古本屋へ。


奇跡のような偶然により、石川淳『文学大概』(中公文庫)を150円で発掘。
ほとんど、これだけで水戸行きが報われたと言っていい(笑)
神保町で2000円で見かけたことはあったけど、ここ6年探していたモノが目の前にあると、
これが現実に起こっているとは思えないのだから、なんというか、めんどくさい(笑)
現実なんて簡単に幻想に接続してしまうもんなのである。
ついでにベンヤミンと三好達治さえ安価で購入、もはや言うことはなし。


駅に戻る。土産物をのぞくと「かりんとう饅頭」なるものに目がとまる。
こどもが試食用の饅頭を背伸びして取っていた。仲間に入れてもらう。
食べながらまわりを歩くつもりが、あまりにうまくて引き返して買うことに(笑)
外側がパリパリしたかりんとう、内側はしっとりしたあんこ、とかなりの糖度。
でも、うまいからなんの問題もないのだ。食べながら南口へ。


だだっ広い空間が開けていて、これが本当に県庁所在地かとさえ思う(笑)


事前に調べていた洋食屋をさがしに南下すると、川岸に大きな黒い鳥が。


動物が身近にいると近寄ってしまう、という幼稚な習性を遺憾なく発揮し、近寄る。
どうやら黒鳥である。初めて見た。かなりでかい。近寄っても逃げない。
手を伸ばせば届くところまで寄っても、逃げない。大切にされているのだな、と感心。


さらに、つがいのカルガモさえやってきて、セッションでもするかのように川を滑りだす。


この鳥たちとかりんとう饅頭だけで、水戸の株が急騰したのだった(笑)
水戸といえば水戸藩で、水戸藩と言えば幕末の狂信的原理主義テロリストども、なので、
わたしのなかではずっと水戸の印象が悪かったのである。
それが、「鳥と饅頭」であっという間に氷解したのだ。他愛もないことよ。

それにしても、駅からせいぜい200メートルしか離れてないというのに、
こうして黒鳥と戯れることができるとは…。水戸、おそるべし。


時間がなくなりそうだったので、また歩き出す。
洋食屋も見つけ、ライブハウスへ直行しようと思ったら、橋でまた黒鳥を発見。
千波湖行ったら仰山いるかも、とようやく気づいて(遅すぎ)、そちらへ。

そしたらまあ、いるわいるわ鳥どもが。
黒鳥なんぞ、溜まり場でトグロ巻いてる不良どもの如き様相さえ呈しており、
水戸市民が川にいた黒鳥をサラッと無視していたのも当然であった。
こんなにフツーにいるんじゃ、ありがたみ皆無だもの。


さらに、白鳥もたくさんいたのでそちらへフラフラと向かう。


おっちゃんがエサやりをしていて、一切の屈託なく群がる鳥ども、無防備極まりない。
触れるんじゃなかろうか、と思ってポカリと叩いてみたら、ポカリと叩けて驚いた(笑)
オマエら、野生動物としてそれじゃアカンだろ…。


鳥と戯れてすっかり気を良くし、「水戸はよいところだ」とさえ呟きつつ、会場へ。
途中、意図せず藤田東湖の像にブチ当たったり、
ねこを追いかけてみたり、
雨が降ってきたので傘を買ったり、
会場前の「黄門さんおしゃべりパーク」も撮ったり、


と、少々浮かれ気味なほどであった。


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この後、ライブハウス到着後の仲間たちとのやりとりなどが書かれているのだが、省略する。


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さて、ひとりになったわたしはマックへ。
店員が小声で重い話をしていたので(苦笑)やめて、当初の予定通りマンガ喫茶へ。

そしたらコレが、タバコくせぇのなんの…。すぐやめようとしたが行き場所がないので諦める。
実は、マンガ喫茶ってほとんど初めてで勝手がわからず、しばしウロウロゴソゴソ。
タンクの水がないので「かえて」と言ったら「ない」だと。そんなんで客商売すんなよ、と呆れる。
仕方なくキャラメルティーを飲む。(おかしなチョイスではあるな…)

寝ようとしたがタバコ臭さと空調の定期的な直撃による寒波でなかなか眠れず。
でも今日は幸せだったな・・・と一日を思い出してるうちに、寝ていた。


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ここまでが「水戸日記前篇」で、以下が「後篇」となる。


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一畳のマットに寝っ転がってタバコ臭と冷房に耐え、
熟睡はできなかったもののそれなりに体力を回復。

6時間コースをフルに使い切り、入店してから5時間58分後に外へ出る。

服にしみついたタバコ臭があまりにひどくて、落ち込む。
完全分煙化を徹底するか、いっそ国家ぐるみで禁煙にしてほしい…。

なんてことを思いつつ、昨日時間がなくてパスした東照宮へ。


とくに特徴があるわけでもなく、これといった魅力はないが、
高台になっていて、下るときに商店街アーケードの屋根が見えて、
昭和じみた汚さが「こどものころたくさんあった」的感興をもたらす。


テキトーにてくてく歩きつづける。


このマッサージ怪しすぎ。

牛。畜産会館にて。こだわりのディテールが、かえってイヤである。

うす曇りだけど、とにかく暑い。

おしゃべりパークに辿りつく。Light House外観はこれ。

その対岸では父子が遊びつつ移動中。

Dさんにより伝説のラーメン屋となったのはこちら。

対岸には芸術館のシンボルタワーが。

これは間近に見ねばならない、と接近していく。かなり大きい。

広場では何やら撮影中だった。見学者2名。和やかである。暑いけど。


メインの大通りを外れると、東照宮横商店街のような古い建物が目立ちだした。
そういった「昭和残照」(と、わたしは勝手に呼んでいる)がしばしつづく。



なにやら朽ち果てた石像。もともとはライオン?溶けすぎだろ。

ガラスは割れ、布は破れ、と散々。

雷神様に寄る。

カエル・・・。


千波湖へ到着。でもそのまま進んで偕楽園へ行く。

が、正直言って期待はずれもいいとこであった。
とくに見どころはなく、兼六園とは比べるべくもない。
梅の花が満開だったらさぞ美しいのだろうが、
今の季節は梅がボトボト落ちていて、その匂いが強烈なだけ。

単に道が整備されただけの庭園で、好文亭にも入らなかった。たぶんもう来ない(笑)

これは付属?の常盤神社。


千波湖へ引き返すと、白鳥が子連れで毛繕いをしていた。


湖を、鳥と戯れつつぐるっとまわる。



対岸にいろいろあったのだけど、すべてパス。
佐藤純弥監督作の『桜田門外の変』オープンセットがあったけど、パス。
でも、映画がどうなるかは見物。佐藤監督はアクションが巧いので。
当時の狂信的なテロリズムをどう描くのだろう・・・。


やっとのことで昨日の黒鳥スポットまで辿りついた。


ぐるっと見てわかったが、昨日、川で最初に出会った黒鳥はもっとも大きいほうで、
必ずしも出会えるたぐいのお方ではなかったようである。


何キロも歩いて、首に巻いていたタオルもびしゃびしゃ。
昨日リサーチしていた洋食屋へ。

オムライスをいただく。水、久しぶりに飲んだ気がした(笑)


ゆっくりしているはずが、常磐線の時刻表を見たらまたしてもニアミスしそうだったので、
ダッシュで駅まで戻る。せっかく引っ込んだ汗が噴き出てきて不愉快。
もうちと路線ダイヤなんとかしてくれんかね、と愚痴りながらも、
南口の納豆像を撮り、さらにかりんとう饅頭も買って、駅ホームへ。間に合った。



あっ、藁納豆買い忘れた、と気づくも遅し。ミルクスタンドでも何か買うはずだった。
それでも今日の水戸散歩に概ね満足していたので、あとはボサーっとするだけ。
iPodで何も聴かず。聴く気になれない。何を聴いたらいいのかわからない。


土浦で快速に乗り換え後は、乗客が多くて耳を塞ぐためにメアリー・ブラックを聴く。
エンヤと並び称される、アイルランドの国民的シンガー。
シンフォなエンヤと逆に、アコースティックなのがメアリー。


By The Time It Gets Dark (1987)


心地よく聴いていたら、当然のごとく寝ていた。幸せなことである。



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そう、わたしはほとんどなにもせず、ただ歩いていただけで幸せを感じていたのだ。

ありがたいことである。



2013-07-03

HEAD PHONES PRESIDENT at Light House on 3rd Jul 2010



マイスペことMySpaceがリニューアルに伴い、過去のデータのほとんどを勝手に削除してしまった。
メールもブログも写真も、何ひとつ通知のないまま削除というあり得ない暴挙については、わたしにはもはや言葉もない。(ただ、旧ユーザーの思いは万国共通のようで、英語の記事だが参考になるリンクを貼っておこう。)

わたしにとって、マイスペはあまりに大きなターニングポイントだった。マイスペがなければ、現在つながっている人たちとの関係がどうなっていたのか(そもそも、関係があり得たのか)、想像だにつかない。いまはTwitterなどをやっているものの、正直に言って旧マイスペの方がずっと楽しかった。この思いが変わることはないだろう。

実のところ、データの消去は過去にも何回かあったのだが、今回のそれは完全リニューアルに伴うそれであるため、データが戻ることは二度とないように思われる。わたしが他の方々とつながるきっかけとなったブログも、もう読むことはできない。

ただ、ブログの復元なら、ある程度はできる。と言うのは、事前にメモ帳でテキストを書いてからブログをアップしていたからだ。もちろん、編集過程で加筆修正した箇所までは復元できないし(過去の自分は他人である)、メモを作らずにアップしたものは、すでにして忘却の彼方である。

楽しみながらも心血を注いで書いたブログがもう読めないのは、とてもつらい。まるで実家を失ったような思いだ。それだけでなく、ほんの数人とはいえわたしのブログを楽しんでくれていた方々への、申し訳なさも感じている。

そこで、メモがあるものはこちらで復刻することにした。ほとんど文章に手はつけていないので、ほぼ当時のブログそのままのはずである。改行等、違和感があるかもしれないが、これらのテキストは旧マイスペのレイアウトにあわせて書いたものなので、その点はご諒承を。


復刻ブログ第1弾を何にするか悩んだのだけど、ちょうど3年経ったこれにした。
わたしが初めて気合いを入れて書いた、HEAD PHONES PRESIDENTのライブレポである。
これが初めての「遠征」だった。とても思い出深いライブだ。

メモ帳の日付けは2010年7月5日22時06分となっているから、23時すぎのどこかでアップしたものだろう。
以下の復刻ブログは、2010年7月3日(土)のHPP水戸公演について書いたものである。



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客電が落ちると空気が変わる。
「何かが始まる」とその空気は伝える。
沈黙は張り詰めた緊張感を生み出す一方で、
包み込むかのような柔らかな「何か」をも醸し出す。

薄闇のなか、Anzaさんが登場。
定位置に座ると白いスカートのレースが円を描き、
花のように見える。月に照らされた花。囁き。

囁きは悲しげな声に変わり旋律をなぞり始め、
消え入るように伸びた声に楽器隊が音を重ねる。

ギターが透明な音を紡いで「何か」の始まりを告げ、
ドラムが入ると急速に空間は躍動感で満たされる。
ふたたびの静寂にも先ほどの沈黙にはなかったものが、
聴衆の「何か」に対する期待感が充填されている。


Marさんが屈みこんで"Hang Veil"の儚い音をつま弾くと、
リフの炸裂と同時にタガが外れたように動き出すメンバーたち。

一瞬の展開における鮮烈さこそがHPP最大の特徴であり、
鬼気迫るパフォーマンスを繰り広げつづける集中力と、
音楽の「中に」入り込んでしまうという表現者としての特性。

他のバンドと一線を画するHPPのHPPたる所以である。

「泣いているよう」
「怒っているよう」ではない。

「感情表現豊か」なのではなく、
「感情そのもの」をぶつけること。

それらとまったく変わらない精神状態になること。
表現としてではなく、音楽を媒介として「感情そのもの」を、
その場で新たに創出すること。

HPPのライブ・パフォーマンスとは常にそのようなものであり、
聴衆でしかないわれわれは、それに共振させられるだけなのである。


"Nowhere"では最近見られたような煽りをやらず、
劇的なイントロからリフの展開がさらに際立つ。
サビの胸が締め付けられるようなメロディは、
聴けば聴くほど、観れば観るほど、その威力を増す。


獣じみた怒りに満ちた狂気、哀しげな静寂、天を駆ける爽快さ、
という相反したものが混然一体となった"Desecrate"は、
初めて観たChelsea Hotel公演以来、一貫して「狂って」いて、
どうしたらこんな曲ができるのだろうとさえ思ってしまう。


もはやお馴染みとなったHiroさんのソロから"Labyrinth"へ。
Narumiさんが舌を出して嗤いながらベースを弾いていた。
奇矯な振る舞いのようだが、曲調と合っているように思ってしまった。


それまでの狂騒が曲の終わりと同時に消え去り、
悲痛な"Wailing Way"へ。ライブで観るのは初めてだ。
シャウトのパートはMarさんと分け合っていた。
唯一観たことのなかった新作の曲なので、単純にうれしい。


Anzaさんが前に出て、マイクを手に持ったまま腰に手を当て、
笑顔で"Chain"のオープニング・フレーズを口にする。

もちろん、これは「趣向」なのではなく、
「なぜかそのときそうしていた」だけであり、
そして、そのことは聴衆に容易に伝わるのである。

HPPの曲はどれもライブ映えするが、"Chain"はその中でも際立っている。
わずか3分だが、凝縮された想いの密度たるや尋常ではない。


そのまま、Batchさんのドラムがキモの"Cloudy Face"に突入。
攻撃性だけではない、様々な要素が交差するHPPならではの曲だ。


しばし、セッション的なやりとりがなされる。
Hiroさんがメロディアスなフレーズを弾くので、
9月の新作のイントロダクションかと思ってしまったが新曲ではなく、
曲はお馴染みの"Light to Die"だった。

浮遊感さえあるヴァースの心地よさから一転、
激しい感情が爆発するコーラスで胸がいっぱいになる。


そして、すべての感情を鎮めるかのような"Remade"が、
Batchさんの、囁きのようなドラムで始まる。
"Light to Die"もそうだが、「光」や「祈り」を感じさせる曲である。
なにか/だれかを、想い/祈る者へ降り注ぐ、光、とでもいうか。
もしくは逆に、光が天に昇っていくような、そんなイメージがある。


これで終わりかと思ったが、"Sixoneight"がまだあった。

哀しくも優しげなベースの柔らかい音がNarumiさんによって鳴らされ、
Anzaさんがいつにもまして悲しげな表情で歌いだす。

それだけに、激しいパートうつった時の暴れっぷりは最近覚えがないほどで、
跳びはねながら指を天に向け、「何か」を必死に訴えるかのようだ。


そのとき、一枚の羽根が落ちてきた。


少なくとも、わたしにはそれが羽根に見えた。


演出とも思えないし、そのあとステージを見ても落ちていなかったので、
見間違いかと思って一言もその件について口にしなかったが、
そのためか脳裏に焼きついてしまったのだ、羽根が、落ちてくるところが。


目にしていたのはほんの一秒程度だっただろうが、
もっと長い間、それを見ていたような気がする。
あれは、何だったのだろう・・・。



曲は激しさを増し、あまりに苦しげな激情の迸りへと向かい、終わった。

いつものことだが、強烈なライブだった。

次は渋谷で、この「いつものこと」を体験することになる。



SET LIST
01. Intro
02. Hang Veil
03. Nowhere
04. Desecrate
05. Labyrinth
06. Wailing Way
07. Chain
08. Cloudy Face
09. Light to Die
10. Remade
11. Sixoneight









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「羽根」の後日譚を紹介しておこう。

わたしとともに同日のライブを観た方が、「わたしも見た」とコメントしてきたのだ。
やはり「羽根」は現実だったのである。


なお、この当時のブログではわかりづらいが、「羽根」が落ちてきたのは曲の転換点である。
「静か~激しい~静か(短い)~炸裂~終焉」という"Sixoneight"の構成のなかで言うと、「羽根」は「静か(短い)」のちょうど終わりに見え、「炸裂」と同時にひらひら落ちてきたと記憶する。テキストに「演出」という言葉があるのは、あまりにもそのタイミングがよかったからだ。

いちおう、捕捉まで。





2013-07-02

CLUTCH / Earth Rocker (2013)


「ストーナー・ロック」をご存知だろうか?(たまに「デザート・ロック」とも呼ばれる。)

ドゥーム・メタル(というか初期BLACK SABBATH)のアメリカ型変種であり、フラワー・ムーヴメント以降のサイケデリックな麻薬文化(とくにマリファナやLSD)や、バイカー/サーファー/スケーターといったサブカルチャーとの接点も多いのが特徴でもある。

音楽的には「ヘヴィでディープなブルーズ・ロック」ないし「ライトでラフなハード・ロック/ロックンロール」といったところで、前者の代表がKYUSSSLEEPMONSTER MAGNET、後者の代表がNEBULAFU MANCHUなどだ。(より広い音楽性のDOWNCORROSION OF CONFORMITYSPIRITUAL BEGGARSなども、作品の時期によってはここに含まれることがある。)

また「初期サバス・フォロワー」の一群もこのジャンル内に含まれるため、そうした最重量級バンドとしてELECTRIC WIZARDや、本邦のETERNAL ELYSIUMおよびCHURCH OF MISERYなどの名前が挙げられる。(ただし、彼らを「ストーナー」と呼ぶのは文脈次第では違和感があることをつけ加えておく。)

最大の成功者は、元KYUSSのジョシュ・オムが結成したQUEENS OF THE STONE AGEだろう。どうしてあれほどの規模の成功を収めつづけているのか、あのマニアックな音楽性を思うと未だに違和感があって仕方ないのだが、いまはそれを置いておこう。


今回の主役は来日経験もあるヘヴィ・ブルーズ・ロッカー、CLUTCHとその新作である。

Earth Rocker

1. Earth Rocker
2. Crucial Velocity
3. Mr. Freedom
4. D.C. Sound Attack!
5. Unto The Breach
6. Gone Wild
7. The Face
8. Book, Saddle, And Go
9. Cyborg Bette
10. Oh, Isabella
11. The Wolf Man Kindly Requests...


この春にリリースされた10thアルバムの『Earth Rocker』は、彼らの最高傑作と言っていい出来だった。彼ら自身、「聴きやすさ」「ストレートなロック」を念頭に置いて制作したと語っている。実際、彼らの旧作はキャッチーな曲と非キャッチーな曲が混在しており(そこが魅力的なのだが)、ややもすると中途半端な出来と受け取られかねなかった。ただ、それにはこのジャンルならではの理由がある。

「ストーナー・ロック」は、ともするとそうした「キャッチーさ」を御法度とするジャンルなのだ。というのも、リスナーは気持ちよく「トリップ」したい輩がほとんどで、ならば耳に残るフックのある曲よりも、「ああ、なんか鳴ってるな」程度のだらだらした曲の方が好まれる場合があるからだ。よく言えば、「酩酊を深めるようなグルーヴ」を重視しているのである。(モンマグやベガーズは「キャッチーになった」と批判されたそうな。)

そうはいっても、ミュージシャンとして研鑽を重ねたら、自ずと表現力は拡がる。多くのバンドがより音楽的に洗練され、キャッチーになっていった。CLUTCHも同様で、それどころかCLUTCHは当初からこのジャンルでは「もっともキャッチー」で「聴きやすい」バンドだった。3rdは日本盤も出たし(90年代にこの音楽性で日本盤が出たのは奇跡と言っていい)、スピベガに帯同するかたちで2003年に来日もしている。わたしはそのときに彼らのライブを観て、一発でファンになったのだった。

そんな「わかりやすい」CLUTCH最大の特徴は、あらゆるアメリカン・ブルーズを網羅するかの如き「ごった煮」感だ。重厚なヴォーカル、シンプルなリフ、骨太なグルーヴなどからパッと聴きは「粗野で原始的なロック」なのだが、その実これほど洗練を極めたアレンジによるアンサンブルを聴かせるバンドは少ないことに気づかされる。

ブルーズ、ハード・ロック、サザン・ロックだけではなく、東海岸出身者ならではのR&B感覚や、アメリカの音楽の基底に流れているジャズ、フォーク、カントリーの素養も窺わせる。これらがとてもナチュラルに混然一体と化しているのだから、その咀嚼力たるややはり「原始的」なのかもしれない。

たとえばKYUSSの音楽には、人影なき荒涼たる砂漠を超然的な視点から眺めたかのような超越性が、言うならば「聖なるもの」の姿がちらつくのに対して、CLUTCHの音楽にあるのは日常的な大衆性である。(いや、それどころか「体臭性」と表記すべきかもしれない。)

広大なアメリカのどこかにある、わけわからない人間ばかりが闊歩する田舎町における悲喜劇的なあれこれを音楽化したとでも言おうか、とにかく彼らの音楽は人間臭いのだ。メンバー自身、どう見ても「そこら辺のおっさん」である。だが、その音楽は極めて豊饒だ。

これほどのロックはそうざらにあるものではない。アメリカ音楽をより広く深く聴いているひとほど、その魅力や実力に感嘆することだろう。それでいて老成することはなく、ハード・ロックならではのアタック感は失われるどころか増してさえいるのだから素晴らしい。

日本での知名度こそ低いが、間違いなく世界最高峰のロック・バンドである。

この手の音楽は、猛暑の夏に聴くとまた暑苦しくて最高なので、冷房を切って汗をだらだら流しながら爆音で聴くことをお薦めする。ついでに言うと、輸入盤は安くて買いやすいから懐にもやさしい。ぜひ一聴を!


この濃ゆいパフォーマンス、また観たいものだが…。だれか呼びなさいよ。