2013-06-28

CHTHONIC / Bú-Tik (2013)


台湾のエクストリーム・メタル・バンド、CHTHONICの新作『武徳 Bú-Tik』がとにかく素晴らしい。
ひとりでも多くのひとに聴いてもらいたいので、以下にご紹介する。


Bú-Tik

1. Arising Armament (Intro)
2. Supreme Pain For The Tyrant
3. Sail Into The Sunset's Fire
4. Next Republic
5. Rage Of My Sword
6. Between Silence And Death
7. Resurrection Pyre
8. Set Fire To The Island 
9. Defenders Of Bú-Tik Palace
10. Undying Rearmament (Outro)


「台湾のシンフォニック・ブラック・メタル・バンド」という触れ込みでCHTHONICを知ったのは、
HEAD PHONES PRESIDENTが出演した2007年2月の「indenpendence-D」が最初だっただろうか。
(そのときは観に行けなかったのだけど、BURRN!誌でインタビューを読んで気になった覚えがある。なお、初来日は2000年のフジロックだったはず。2002年に渋谷サイクロン、2004年には原宿アストロホールで来日公演を行っている。)

当時はノルウェーのブラック・メタル・ミュージシャンのようなコープス・ペイントをした彼らが、言い方は悪いけど「色モノ」のようにしか感じられず、音楽的にも興味を惹かれなかった(ブラック・メタルはほんの一握りのバンドしか聴かない)ので、当時ちょうど日本盤がリリースされたばかりの4th『Seediq Bale』も聴くことはなかったのだった。

しかし、2009年の5th『Mirror Of Retribution』でその楽曲の質の高さに驚き、2011年の6th『Takasago Army』では飛躍的なステップ・アップを見せ、同年7月の来日公演(6th発表直後だった)で初めてライブを観てさらにいい印象を持つに至った。すでにして「ブラック・メタル」の面影はなく、もっとも現代的でレベルの高いエクストリーム・メタル・バンドのひとつとなっていた。

そして本作において、CHTHONICはわたしにとって決定的に重要なバンドとなったのである。


前作『高砂軍』が、実在した「高砂軍」をモチーフにした大河ドラマのような長篇小説だったとするならば、本作『武徳』は、20世紀台湾史からいくつかのモチーフを点描した連作短編集と言えるだろう。それも、読み進めていくうちに実は長篇小説と左程変わらないような構造をもった連作形式であり、それどころか、その手法は時間と場所を行き来するために為されたもので、そのドラマティシズムは長篇におけるそれに勝るとも劣らないものだと気づかされる類のものだ。

イントロとアウトロを配し、その間に8曲=8篇の「短篇」がある。
この8曲に通底するテーマが「正義のための戦い」であり、それぞれの曲において「蒋経国暗殺未遂事件」「泰源監獄脱獄事件」「鄭南榕焼身自殺事件」「火燒島監獄暴動」といった具体的な事件や、海賊、清代の反乱、独立のための戦いとその痛み、などが各楽曲のモチーフとなっている。そして、最終曲においてそれら各時代各事件の「戦い」が、あるフィクショナルな人物の目を通して描かれていたことが判明する。連作短編でありつつ長篇的な作品でもあるのは、そのためだ。


『武徳』というタイトルは、戦前日本の大日本武徳会に由来する。武徳会は最終的に戦争翼賛的な団体となってしまい、それ故に戦後、GHQによって解体させられたのだが、もともとは日本古来の様々な武術を「武道」として近代化させたことに大きな功績のある団体だ。
(もっとも有名なのが、「柔術」から「柔道」への改称だろう。)

その武徳会は、日本各地に「武徳殿」なる施設を建設した。現実的な機能としては道場ないし体育館のようなものなのだが、そこに「徳の涵養」という国家儒教的な要素が付与されているため、そこは同時に「神聖な場所」でもあった。
(柔道や剣道など、武道における厳格な礼儀作法を想起されたし。)

そして、その「武徳殿」は日本の(事実上)植民地となっていた地域にも、つまり台湾にも建設された。台湾においても同様に「神聖な場所」であるという。「正義のための戦い」をテーマとするに当たって、そんな神聖にして「戦い」の象徴でもある武徳殿をその中心に定めたようだ。

ただ、かつて日本に支配されていた台湾が、そうした時代の遺物である武徳殿に感じる「神聖さ」がどのようなものなのか、想像することは難しい。われわれ日本人が、キリスト教各宗派の教会や、イスラム教のモスクなどに「神聖さ」を感じたにしても、そこに歴史的な屈折はない。

もしかしたら、CHTHONICはある種の皮肉を込めた上で「武徳殿」を持ち出したのかもしれないと、初めは思っていた。しかし、インタビューを読む限りではそのようなことはないようだ。ということは、台湾の武徳殿には、生活上の実感として何らかの「神聖さ」を未だに放っているに違いない。


話を音楽的な内容にうつそう。

メタルという音楽は、(ロックというジャンルのなかでもとくに)テーマ的に「近代社会の暗部」との親和性が高い。「性と暴力」が多くの楽曲で取り上げられているのは、理の必然なのだ。(その論理/理論は割愛するが、要するに「《はみ出し者》は《社会からはみ出たもの》を扱うのが上手い」ということだ。)

CHTHONICの『武徳』のように、「正義のための戦い」に材を採るバンド/作品は枚挙にいとまがない。それどころか、これを取り扱ったことのないメタル・バンドの方が少ないだろう。にもかかわらず/それとは関係なく、この作品をして孤高の傑作としているのは他でもない「音楽的な質の高さ」だ。その質の高さ/深さをバックアップしつつ、相互浸透的に霊肉一元化しているのが上記のテーマ/モチーフなのである。


彼らの音楽における最大の持ち味として、「東洋的な旋律」が挙げられる。
それは激しいメタル・リフとヴォーカルに、二胡(その他の民族楽器)やキーボードがオリエンタルなメロディで絡む、という手法によって大きな効果をあげている。二胡の響きはそれ自体とても煽情的かつ優雅なもので、舞を舞うようなたおやかさのなかに哀しみや痛みを感じさせることができる。こうした「東洋の音」を巧みに取り入れるアレンジ・センスこそが、CHTHONICをして世界的な個性派たらしめていたのだった。

そこに、ジェシーのギターも加わった。彼もまた、「東洋的な旋律」を奏でるようになったのだ。そうした旋律がモチーフとなっている事件や題材の哀しみを際立たせ、その激情を伝えてくる。しかも、リフやサウンドの増強も図られている。このリフがまたどれも強力で、数も多ければ質も高い。よくぞここまでフックのあるリフが書けるものだと驚嘆するほどだ。さらに言うと、ファストな曲ばかりで占められているのに楽曲ごとの個性が立っており、すべての楽曲においてギターに「見せ場」がある。(表示タイムを書いて「ここ!」といくつも指摘したくなってしまう。)ジェシーはいま、世界でも有数のメタル・ギタリストに成長したと言っていいと思う。

フレディが楽曲の基礎とメインとなる東洋的旋律を作り、それに合わせてジェシーがリフとソロを構築する、という同時進行の共同体制が確立されたのは前作の『高砂軍』からなのだそうだが、それにしてはあまりにも早い完成形の提示であった。(もちろん、それは喜ばしいことだ。)この勢いのまま、世界でも屈指のソングライター・チームとなって名曲を書き継いでくれるだろう。


もちろん、CHTHONICはこのふたりだけではない。ドリス、ダニ、CJの活躍も作を重ねるたびに大きくなっている。(オーケストレーションの完成度の高さはCJの手腕に拠る。)ファストな曲のボトムを支えるリズム隊の充実度があってこそ、上記の「東洋的な旋律」は屈強なリフの上で乱舞できるのだ。2011年の時点でさえ、ドリスとダニがミュージシャンとしてここまで大きく成長するとは、失礼ながらわたしは思っていなかった。うれしい驚きであり、また深い感銘を受けた。

本作が例えようもなく感動的なのは、彼らが定めたテーマ/モチーフと音楽的な手法が、もっとも奥深いところからその表層に至るまで持続的に共振しているためだ。それらは不可分の両輪であり、片方だけで走行することはできない。その疾走は激しくも哀しく、獣と化した人間の無謀な暴走にも思えてくる。その倫理的な切実さに胸を打たれない者はいないだろう。


各楽曲の詳細や特質については、B!誌の前田岳彦氏によるライナーノーツに譲る。
とても充実した内容で、いまさらわたしがつけ加えることはなにひとつない。

ただ、ジャケットのアートワークについては付言しておきたい。

ジャケの女性は「弱い者(女性やこどもや老人)も武器を手に取り正義/平和のために戦おう」というコンセプトの具現化なのだそうだが、わたしはもっと違った寓意としてこれを受けとめた。

体が半‐機械化されたその姿はサイボーグそのもので、古今東西のあらゆるサイボーグ物語がそうであったように、ひとでもなく機械でもないそのグロテスクな存在は、必然的に哀しみを帯びる。

左腕が銃火器となったこの異形の、しかし美しい女性は、CHTHONICそのものではないか?

昂然とした表情/銃火器/刀はその音楽の戦闘性を、滑らかできめ細かい肌をもった美しい女性はその優美な東洋的旋律を、それぞれ象徴しているかのようだ。ただし、その黒髪は漂白され、人種的アイデンティティを剥奪されている。「台湾」という国とも地域とも言いかねる特殊な歴史的経緯をもった彼らの母国がそうであるように。(16世紀に台湾島を発見したポルトガル人が、この島を「フォルモサ(美麗島)」と呼んだことも付け加えるべきかもしれない。)

このジャケを「異形‐CHTHONIC‐台湾」と読み解くのは、わたしの牽強付会だろうか?

いずれにせよ、本作は近年稀にみる傑作メタル・アルバムだ。
ひとりでも多くのひとに聴いてもらいたい。


オフィシャルがアップしているMVを貼っておこう。アルバム収録と同じ順にした。

イントロ~リフの炸裂でつかみは完璧。一部の隙もない。メイキングはこちら。


TURISASのような雄々しい曲。ライブ映えすること間違いなし。メイキングはこちら。

 
「台湾民族主義」なる導入のインパクトが絶大。ギターソロも実にメタル。

 
ライブ映像を使用したもの。彼らのライブに行きたくなること必至。


中盤のギター以降の展開は鳥肌もの。メイキングはこちら。



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蛇足ながら、台湾の複雑な歴史を知るための書籍と映画をご紹介したい。

台湾は複雑だ。世代や本省人/外省人/原住民といった帰属意識など、様々なヴァリエーションがあることをじっくりと実感するには時間のかかる読み物が、とくに小説が最適だろう。二冊だけ紹介しておく。それだけだと重いので、ライトなものもついでに。

・朱天心『古都』・・・中短篇集。川端康成『古都』とリンク。京都好きはぜひ。(amazon
・龍應台『台湾海峡一九四九』・・・ノンフィクションだが、小説としても読める。重量級。(amazon
・片倉佳史『台湾に生きている「日本」』・・・新書。ルポタージュ。軽く読める。(amazon


台湾映画はなにはさておきエドワード・ヤンとホウ・シャオシェンである。
DVD化されているものだけ紹介しておこう。(レンタル可能な店はかなり限られるけど…。)

・エドワード・ヤン『エドワード・ヤンの恋愛時代』(1994)・・・早い話が「トレンディ・ドラマ」。演出完璧。
・エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)・・・群像劇。あまりに自然な「日本」の登場。
・ホウ・シャオシェン『冬冬の夏休み』(1984)・・・少年の夏休み。ラストショットの童謡に絶対泣く。
・ホウ・シャオシェン『悲情城市』(1989)・・・二二八事件を扱った歴史大作。

未見ながら、CHTHONICの4thと同じ題材の『セデック・バレ』という映画が今年の春に公開された。いまは名前だけでも覚えておいて、いつか見よう。


日本人なら必ず、これら台湾の作品に(必ずと言っていいほど!)登場する「日本」の異貌に不意打ちされることだろう。そこには少なからぬ痛みと喜びが、そして妙なむず痒さがあるはずだ。できるだけ、その作品群に触れてもらいたい。

わたしとしては、いつか台湾に行ってみたいと思っている。


2013-06-27

You / Maniac Love Station (2013) & Solo Live


DEAD ENDのギタリスト、Youさんが今年春にリリースしたソロ第3作がすこぶる素晴らしい。
Youさんのソロライブ(3月10日と6月23日)の短い雑感を含め、以下にご紹介したい。


Maniac Love Station

1. Romantic Brain
2. 妖しい夜
3. Bionic Zone
4. 魔王からの招待
5. Crash Man
6. Type B
7. Kiss Kiss
8. Hard Tension
9. Blue Voices
10. Puzzle
11. Dream World


これまでも「~投票日記」などで書いているように、Youさんのギター・スタイルは唯一無二である。

優美で柔らかいトーン、滑らかなフレージング、幽玄にして妖しい(でもキャッチーな)メロディ、奇矯で複雑精緻なリフ、決して失われることのない「ロックらしい」エッジの立ったサウンド、そのすべてが世界最高レベルであり、世界的に認知されるべき国内アーティストのひとりだと確信する。
(ARCH ENEMYのマイケル・アモットは2年ほど前に「発見」したようだ。流石である。)

作品の世界や物語にそった情念や感情を表現するというよりは、前回ブログのスティーヴ・ハケットがそうであったようにどちらかと言うと情景描写的なギターであるように感じている。(もちろん、それはDEAD ENDが表現する世界観に拠るのだが。)

聴いていて心地いいだけでなく、何らかの光景が、それも曖昧模糊とした幽冥境とでも言うほかない彼岸の世界が眼前に迫ってくるかのようなギターソロを、おもにDEAD END(とくに「再臨」後)で弾いているYouさんなのだが、自身のソロでは「ほとんど同じだけど、ほんの少し(でも決定的に)違う」ギターとなっている。

では、何が違う(とわたしをして思わしめる)のだろうか?

まずはYouさんの誕生日である3月10日(日)に行われたソロ公演のセットリストと、
先日のソロ・ツアー最終日6月23日(日)のセットリストを見てみよう。



You at Live Freak on 10th Mar
SET LIST
01. You’s Alien
02. The Thing
03. Bionic Zone (新曲)
04. Romantic Brain (新曲)
05. Ero Erotic
06. PSY-CHO
07. LOVE 9
08. Crush Man (新曲)
09. 妖しい夜 (新曲)
10. Type B (新曲)
11. Kiss Kiss (新曲)
12. Hard Tension (新曲)
13. Dream World (新曲)
Encore
14. 彼女が逆流
15. Pazzle (新曲)
16. 魔王からの招待 (新曲)
Encore2
17. The Thing
(3、4、8~13、15、16が新作からの曲。残りは2ndより。)





You at La.mama on 23rd Jun
SET LIST
01. You's Alien
02. Romantic Brain
03. The Thing
04. Bionic Zone
05. (新曲)
06. Ero Erotic
07. Love 9
08. Crush Man
09. (新曲)
10. Kiss Kiss
11. Hard Tension
12. (新曲)
13. 妖しい夜
14. Type B
15. Pazzle
16. (新曲)
17. Dream World
Encore
18. 彼女が逆流
19. Blue Voices
20. 魔王からの招待
Encore 2
21. The Thing
(5、9、12、16の新曲は詳細不明。タイトルはすべてメモしたけど、一応ふせておく。)


3月のライブは1曲以外すべて、去る日曜のライブは全曲と、ほとんど新作の曲だ。

ライブのメンバーは、3月がベースにIkuoさんドラムに淳士さんのBULL ZEICHEN 88コンビ、
6月のツアーがベースに同じくIkuoさんドラムにshujiさん(Janne Da Arc)のアルバム録音コンビ。
(念のためにつけ加えておくと、淳士さんは元?SIAM SHADEのドラマーである。)

ライブは両日ともに長丁場で、3月は2時間半、6月は3時間だった。
(いずれもゆるい爆笑トークがトータルで30分前後)

Ikuoさんの縦横無尽なベースには心底驚かされた。音作りはビリー・シーン(MR.BIG, NIACIN, THE WINERY DOGS)に近い印象で、小指まですべて使うフィンガー・ピッキングもやはりビリー的なのだけど、ありとあらゆる技巧を網羅しているかの如き卓越した演奏に度肝を抜かれた次第。まだ若いのに、すでに世界トップクラスの技術を持った末恐ろしい存在だ。

ドラムのふたりは好対照だったかもしれない。
ヒッティングが強くアクションが華やかで、いかにもロックなドラミングの淳士さんと、
地味ながらも的確でスティックさばきがシャープなドラミングのshujiさん、といった具合に。
どちらも非常にテクニカルで、変拍子を多用する曲が大勢を占めるなか見事に立ち回っていた。
(が、ふたりともトークでは「事故寸前」のギリギリな演奏だったと言っていた。余程難しいのだろう。)

リズム隊が盤石なので、Youさんはのびのびとギターを歌わせていた。そのために技巧を買って選ばれたリズム隊なのだ、とも言える。メロディをギターが奏でるとどうしても音が薄くなってしまうところを、Ikuoさんのベースがリズムとメロディの隙間を埋めあわせ、ドラムがすべての基底を支える。トリオ編成のため、そのアンサンブルの妙を堪能するに最適だった。
(そう言えば、ラママは28年ぶりの出演だったらしい。DEAD ENDでデビュー前に出演したのだそうな。)

さて、Youさんのギターだ。
DEAD ENDにおける鬼気迫るギターとは違い、ソロで聴かれるギターはとにかく心地よい。

ギター・インストものは大雑把に言うと「スポーツ・ニュースのBGMでよく使われるような」爽やかでキャッチーなアップテンポの曲や、ムーディでスローな曲、フォーク調のアコースティカルな曲、典雅でクラシカルな曲、民族音楽的な曲などに大別できるが、実はそれほど多くのヴァリエーションはない。その分、各ギタリストの個性(サウンド、フレーズ、アレンジ)にすべてがかかっており、その才能が剥き出しになるという点において、これほど怖い表現活動もないかもしれない。

Youさんのソロは、前作『You's Alien』(2005)がインストものの総覧と言えるヴァリエーションがあったのに対し、本作『Maniac Love Station』はよりロックに特化した、よりアグレッシヴな音像が楽しめる内容となっている。作風が前作以上にDEAD ENDに近く(バンドの曲をアレンジした曲も収録されている)、そしてそれ故に却ってその差異が際立ったように思うのだ。

ややもすると誤解されるかもしれないが、緊張感の質(キャラクター)が違うのである。

DEAD ENDは楽曲以前にその背後/その内奥の世界との緊張関係がある。そこで表現されるはその世界観であって、ギターは欠くべからざる重要な要素であっても部分に留まる。その緊張は楽曲のヴィジョンに由来する。(どことなく「狂気」への道を孕んでいるように感じている。)

一方、ソロは純粋にギターが奏でるメロディこそが主眼であり、内部の緊張は楽曲に奉仕するためのそれで、楽曲の要請次第で伸縮自在なのだ。だから、心地よく聴くことができる。


ギター・インストものは多々あれど、Youさんのソロ作はその完成形を提示したロック・ギタリストに迫るどころか、ほとんど凌駕さえしていると思う。とくに、本作はロックに特化したため一本筋が通っており、ハードロックやメタルを聴くリスナーにとってはジョー・サトリアーニスティーヴ・ヴァイといった超一流どころを聴くのと同等かそれ以上の喜びを見出すのではないか。

残念ながら公式な音源や映像がないのでビデオ等を貼ることができない。
ぜひとも実際にCDを手に入れて、その耳でこの心地よい緊張を楽しんでもらいたい。
(未聴の場合は、DEAD ENDも聴いていただきたい。年代順か、遡って聴くのを薦める。)


2013-06-22

Steve Hackett 'GENESIS Revisited Tour' at Club Citta' on 9th Jun



今月の9日、クラブ・チッタでスティーヴ・ハケット(Steve Hackett)のライブを観てきた。
ただのライブではない。ハケット在籍時のGENESISの曲だけを演奏するという、特別企画だ。




昨年、ハケットは『Genesis Revisited II』という(やや変則的な)セルフ・カバー作を発表した。
今回のライブはその発表に伴うツアーであり、世界各地で熱烈な歓迎と高い評価を受けている。
アルバムのセールスも好調で、地元英国では久方ぶりのチャート・イン(24位)を見せた。

ハケットはソロ転向後も(40年近くにわたって!)休むことなく活動してきた勤勉な多作家だが、
近年は質の高い作品を精力的に発表していたこともあり、さらにその評価を高めていた。

そんななか、満を持して制作された本作は大勢のゲストを招いた2枚組(計145分)の大作だった。
(2枚組にも関わらずチャートに入ったところに、英国人のGENESIS愛を感じずにいられない。)


Genesis Revisited II (Steve Hackett)

ハケットが、自らが在籍していた時代のGENESISを如何に愛し、かつ誇りに思っているのかがひしひしと伝わってくる。オリジナルに忠実なカバーに「新解釈」はなく、ハケット編成による楽団が再録音をしたと言った方が実情に近い。ならばオリジナルを聴けばいいとだれもが思うだろうが、間に40年を置いたこのカバーはとても新鮮で若々しく、ともすれば当時の録音レベルが曇らせがちな原曲の煌びやかさを取り戻したかのようにも思えてくる。完成されたギターサウンドによる、名曲の再‐名曲化が堪能できる。


ツアーには「GENESISをプレイするのに最適なメンバー」が選ばれ、盤石な布陣をしいている。
長年にわたる自らの音楽をすべて封殺してでもやりたいほど、ハケットは往時の音楽を愛しているのだ。


では、そもそもGENESISとはいかなるバンドだったのか、少し振り返ってみよう。

トニー・バンクス(key)、マイク・ラザフォード(b)、ピーター・ガブリエル(vo)、スティーヴ・ハケット(g)、フィル・コリンズ(dr)
ハケット、万年浪人生のような驚異的な老け顔だが、このとき(おそらく1972年)22歳くらいである。
ちなみに、コリンズ以外は全員1950年生まれ。コリンズはひとつ下。左の三人がオリジナル・メンバー。

いわゆる「5大プログレ・バンド」のひとつであり、もっとも大きな商業的成功を収めたロックバンドのひとつでもあるGENESISはしかし、ときに「4大プログレ」とされた場合はその中から脱落させられてしまうバンドでもある。

理由は簡単で、中期以降のGENESISは音楽性をポップなものへと大胆に(それこそ、ロック史上に類を見ないほど大胆に)変えたことに拠る。初期の幻想的な音楽性を愛するプログレ・ファンにとって、80年代最高のヒット・メイキング・バンドGENESISは「別物」なのである。ゆえに、「4大バンド」とされ省かれることがあるのだ。
(成功への二重三重に屈折した、複雑な嫉妬に近い感情もあるだろうが。)

しかし、たいていのプログレ・ファンなら「5大バンド」のなかで「もっとも(サブジャンルとしての)プログレに影響を与えたバンド」を訊かれたら、(初期)GENESISと答えるのではないだろうか。ファンタジックな歌詞とキャッチーなメロディ、シンフォニックな音像ならYESも近いものを提示しているし、情景描写的な演奏やコンセプト・アルバムという手法もPINK FLOYDがやっているのだが、両者はヒッピー文化に由来するサイケデリアとリンクしている面が、「時代の子」という側面があるのだ。(そして、KING CRIMSONとEL&Pは音楽的な類縁性があまりない。)

ところが、初期GENESISはそうした時代の風を受けていない。高踏的かつ牧歌的な「いかにも英国」といったあの独特な幻想世界は、60年代末~70年代初頭の世情からはあまりに遠く離れたものだった。(もっとも、本邦の天井桟敷のような、アンダーグラウンドの芝居小屋といった風情と通底する共時的な「何か」はあったかもしれないが。)

そして、そうした「社会的趨勢から自らを切り離したところで音楽を成立させる」ことと、音楽的幻想美とを接合しようとした一群にとって、初期GENESISは究極の模範にして永遠に「超えられない壁」でありつづけているのである。

その初期GENESISを体現していたのは、初代ヴォーカリストのピーター・ガブリエルという存在だった。
ヘンテコなかぶりものや気味の悪いメイクでステージにあらわれ、冗談とも本気ともつかないパフォーマンスを繰り広げる変人にして、知性と歌唱力と作詞作曲能力を天にさずかったこの奇才は、初期GENESISのアイコンに他ならなかった。非日常そのものの奇矯ないでたちは、彼らの楽曲の奇形性を視覚化していた、とも言えよう。

絶大なインパクトの破壊力たるや、ロック史上空前絶後である。これは6th発表後のツアー写真。
なお、GENESIS在籍時のピーターは19歳~25歳だった。奇抜な格好を始めたのは22歳から。


ピーター在籍時の6枚(おもに2ndから6thの5枚、とくに3rdから5thの3枚)のアルバムはそうした幻想性の精髄を伝える色褪せない作品群であり、彼がいた時代のGENESISこそが「5大バンド」のGENESISなのだと、プログレ・ファンが異口同音に主張するのはそのためだ。

ただし、より慎重なプログレ・ファンはこうつけ加えるだろう。
「ハケットがいたころまでは、(プログレ・バンドとしての)GENESISはよかった」と。

この、ハケット在籍時(3rdから8th)とピーター在籍時(1stから6th)の微妙なずれ、
またピーター在籍時と後期GENESIS(=トリオ時代=9th以降)の間にあたる7thと8thの評価、
そして、ピーターのあの超強烈なアピアランス、これらがハケットとの明暗を分けることになった。

「初期=幻想美=ピーター」の図式を、ハケットは持っていかれてしまったのである。
それらの多くは、実のところハケットに起因していた部分が大きかったというのに…。


前置きが長くなった。上述の背景や分析を絡めつつ、以下にわたしが観たライブの模様をお届けする。

ハケット/ピーターのネガポジ反転から見えてくる幻想性の転移と持続、
転換期GENESISとハケット音楽の相関性、そしてすべての要であるギタープレイについて、
わたしがライブを観ながら考え感じたことを縷々つづっていくつもりだ。
(写真は主にオフィシャルサイトのギャラリーから頂戴してきた。)


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定刻を5分ばかりすぎたころ、場内は暗転しメンバーがぞろぞろと登場する。

ステージ後方中央には高さ1メートルくらいの階段つきの台座があり、その向かって左(下手側)の、中央よりはやや低い台座にキーボードが、向かって右(上手側)の台座(下手の台と同じ高さ)にドラムが、それぞれ鎮座している。

キーボード台に古株のロジャー・キング(Roger King)が、ドラム台にゲイリー・オトゥール(Gary O'Toole メンバー紹介では「ギャリー」と発音していた)がつき、ステージ前方上手にベースのリー・ポメロイ(Lee Pomeroy 現IT BITES正式メンバー)、前方下手のキーボードにロブ・タウンゼンド(Rob Townsend)、その右隣にヴォーカルのナッド・シルヴァン(Nad Sylvan)、そして中央にわれらがスティーヴ・ハケットが陣取ると、会場が大きな歓声と拍手で包まれた。

ステージはこうゆう布陣。残念ながらスクリーンはなかった。

ロジャーが"Watcher Of The Skies"冒頭の重厚な和音をメロトロンで響かせると、登場時以上の歓声が上がった。次々と重ねられていくメロトロン独特の「ゆらぎ」のある音が、霞みがかった幻想性のさなか次第に緊張感を増していき、全楽器によるユニゾンのリフが刻まれ歌のパートに入ると一転して視界が開け、「大空の監視者」なる異様なヴィジョンが展開されてゆく。

4thの『Foxtrot』(1972)巻頭を飾るこの名曲のリフは、シンプルかつパーカッシヴな「原初のメタル・リフ」のひとつであると言える。LED ZEPPELINやBLACK SABBATHのような切っ先鋭い剣呑さや肉感的なグルーヴはないものの、多重キーボードによるシンフォニックな音像のなか効果的に弾かれるため極めて印象的であり、直情的なアグレッションだけではないリフの使用法を、つまり「あるヴィジョンを描くためのリフ」という手法の在りかを示唆している。シンプルなリフは同時に質的に「ヘヴィ」でもあり、この楽曲の黙示録的な世界観のドラマティシズムを否が応でも盛り上げるのだ。

ロングコートで登場したヴォーカルのシルヴァンは「監視者」よろしく小型の望遠鏡を取り出し、曲に合わせて徐々に望遠鏡を伸ばしたり腕の角度を上げたりカクカクと動いたりと、早くも「本家」ピーター・ガブリエルがやっていたかのようなシアトリカルなパフォーマンスを披露、しかもその歌声もピーガブ似なのだから何をか言わんや。(もっとも、「本家」のそれは狂気の沙汰と呼べるほど狂ったものなので、本気で比べてはいけない。)

かと言ってピーターのコピーに甘んじ、その「モノマネ」をしていたわけではない。原典に忠実な歌唱をしつつ、初期GENESISの世界観に沿ったパフォーマンスをしていただけなのだ。モノマネが招きがちな痛々しさや図々しさといったものはなかった。
この男、その歌声だけでなく佇まいからして説得力があり、すぐさまオーディエンスのこころを掴むことに成功していたと思う。初期GENESISの幻想世界を再現するに当たって、この上なく相応しい人物だった。

こうゆうケレンは必要。ちなみに、シルヴァンはスウェーデン人である。


つづくは6thの『The Lamb Lies Down On Broadway』(1974)から、ハケット自ら曲名を紹介する。
冒頭からハケット流のギターメロディが炸裂する"The Chamber Of 32 Doors"が始まった。
シルヴァンはロングコートを脱ぎ、ステージ中央の台上で身振り手振りを交え歌い出す。

ヴォーカルがメインの比較的地味な曲を選んでいることから、逆説的にハケットがいかにGENESISを愛し、誇りに思っているのかがうかがえる。(しかも、『GRII』では1曲目なのだ。)
今回のツアーは「集金目的のためのヒット・パレード」などではなく、真摯に自らの過去と向き合った、純粋に音楽的な動機から組まれたものなのだということが肌身に感じられた。「懐メロ」的な懐古趣味は一切なく、楽曲こそ40年前(!!!)のものながら、ステージ上から聴こえてくる音は完全に「現在の音」らしい瑞々しさに満ち溢れていた。


最高傑作との誉れも高い5thの『Selling England By The Pound』(1973)から、その1曲目でありアルバムの邦題ともなった『月影の騎士』こと"Dancing With The Moonlit Knight"が披露される。
(まさかとは思うが一応言っておくと、月影とは月光のこと。)

貴族風の?ジャケットを着てステッキを携えたシルヴァンが、ハケットの左隣で歌い出す。

純英国風、という言葉で形容したくなる曲だ。
田園風景の牧歌性と貴族的な文学趣味の混淆がそのままエリザベス朝以降の演劇文化に接続され、
「上品な大衆性」とでも呼ぶべき典雅にして躍動感ある楽曲として展開されていく。

月明かりのなか、迷路のような英国式庭園を彷徨っている光景が浮かんでくる。
そして「騎士」と出会うと一転、その場は野趣に満ちた舞踏会の会場と化すのだ…。


ところで、わたしは中央の2列目といういい席に座っていたのでずっとハケットの手元を注視していたのだが、あらためてとても不思議な弾き方をするひとだと思った。指弾きなのに「ピックを持った」ようなかたちで弾く(と言うか、遠目にはピック弾きにしか見えない)上に、効果音的な小技がたくさんあって、音源でこれまでずっとその音を耳にしていたというのに、いざそのプレイを目のあたりにして驚いてしまったのだ。

ハケットが指弾きに「転向」したのはキャリア30年目(!!!)、50歳になった2000年頃だという。
恐るべき探究心、開拓精神と言わねばなるまい。現在もなにかの「道半ば」なのだろうか…。

1950年代半ばまでに生まれたギタリストは、ピッキング以外では右手/左手(利き手)をまったく使わない場合がほとんどである。しかしハケットだけは、GENESISに加入した20歳のときからずっと当たり前のように右手を使って(文字通り)音を出してきた。

そんな「小技」の代表格が、エディ・ヴァン・ヘイレンに数年先行していたライトハンド・タッピングである。ただ、ハケットのそれは個性的で、指の先ではなくかつてはピックで「タップ」していた。その名残りなのか、指弾きの現在でもピックでタッピングをしていたときのように指を折り曲げたままタッピングしていて、傍目には人差し指の爪か親指でタッピングしているように見える。(なお、その音は通常のものよりもやや「キーボードっぽい」音に聴こえる気がするのだが、これは大元の機材のセッティングに拠るのかもしれない。)

こうゆうフォームになる。他のギタリストで同じようにプレイしているひとは皆無だろう。

タッピングだけでなく、右手薬指や小指を素早く弦上でスライドさせたり(ぴしゅーーーーん!とか、しゅうぃーーーっ!みたいな音が出る)、アームをチョップしたり、右手で指板上の弦をこすってカチャカチャとかキュッキュといったノイズないしスクラッチ的な音を出したりと、芸の細かい動きが多い。また、この曲ではスウィープ・ピッキングも披露している。これまた後続から何年も先行した奏法で、彼のアイディアがいかに優れているかを証明している。

これが「ぴしゅーーーん!」である。上から下、その逆、指違いなどヴァリエーションが幾つかあった。
1、2弦をこするのも特徴だ。巻き弦ではやらないのである。ついでに言うと、アクションとして単純にかっこよかった。

その発想の柔軟性や多様な奏法という観点からすると、意外にもジェフ・ベックがいちばん近いギタリストなのかもしれない。ただしハケットの場合、これらの小技の数々は楽曲に絶妙なフックをもたらすための彩りにすぎない。ギターは目的ではなく、あくまでも手段なのだ。(そんなプレイ・スタイルが、彼をギタリストとして「地味な」存在にしているのだろう。)


ここからはふたたび、6thの『幻惑のブロードウェイ』へ。3曲つづけて演奏された。

The Lamb Lies Down On Broadway (1974)

ピーガブ流の作詞=作劇術がピークに達した作品であり、ロック・オペラ的なコンセプト・アルバムの臨界点を示した作品でもある。(ただし、作曲はトニー・バンクスとマイク・ラザフォードがメインですすめたようで、当初は『星の王子さま』を題材として予定していたところ、ピーガブの悪夢に基づいた複雑怪奇なストーリー・アルバムにされてしまったらしい。)

それまでのアルバムにも毎回、登場人物や場面設定などが記された「演劇のような」楽曲が収録されており、言葉の奔流と人物の演じ分けを歌いながら同時進行するという驚異的なヴォーカル・ラインに圧倒されることが多々あったわけだが、2枚組(計94分)の大作となった『幻惑~』は、それら「ピーガブ劇場」の集大成と言っていい。

しかも、プエルトリコ人の少年を主人公に、アメリカを舞台に、イギリス人が作品をなすというこの倒錯は、いくら夢に材を採ったとはいえ、とても正気の沙汰とは思えない…。
(同時代のポストモダン文学との比較考証も行いたいところだが、今回は割愛する。)

メドレー形式の"Fly On A Windshield""Broadway Melody Of 1974"ではシルヴァンが引っ込み、ドラマーのゲイリーが歌う。前回の来日公演もゲイリーがドラムを叩きながら歌った。ピーターやシルヴァンのようなクセの強い声ではなく、凛とした男性的な声で(ジョン・ウェットンにやや近い)、歌唱力に申し分はない。

もちろん、本職のドラムも素晴らしい。
「本家」フィル・コリンズのドラミングは手数が多いだけではなく、
繊細なアレンジメントともなっている細やかなフィルインも多いのだが、どれも忠実にカバーしていた。

浮遊感のなかに不穏な緊張を宿した、ある種の崩落感がある。
2曲とも短いが、そこで展開されるドラマは深く、その内に大きな謎を秘めて進行していく。

つづく"The Lamia"からはまたシルヴァンが歌う。前2曲とは打って変わって、叙情的な美しさが際立つ、悲哀に満ちた隠れた名曲だ。優しく、そして柔らかいメロディが心地よい。ロブのフルートが美しく、また終盤のギターソロが問答無用に感動的である。『GRII』や今回のライブで、この曲の真価に気づいたひとも多いのではないだろうか。会場をあたたかな感動で包んでくれた。


初期の代表曲にしてロック史に残る名曲、"The Musical Box"がこれにつづいた。

生首が転がるジャケで有名な3rdの『Nursery Cryme』(1971)こそが、GENESISの在り方を決定づけた「真のスタート」と言えるだろう。ハケットとフィル・コリンズの加入により、GENESISは何段階も強力なロック・バンドとなったのだ。

Nursery Cryme (1971)

元々、GENESISはパブリック・スクールのチャーターハウス校に通うとても裕福な少年たちによって結成されたバンドだった。最初期には貴族のメンバーもいたらしい。(ただ、ピーター、マイク、トニーのいずれも貴族と遠戚関係くらいはありそうだし、ピーターは貴族階級出身と書かれることもある。)
二十歳前のデビューにも関わらずその内容が繊細優美にして極めて知的だったのは、彼らが受けた教育水準が非常に高いものだったからだ。なお、超高学歴が約束されたパブリック・スクールに通える財力を持つ英国人は、全体の1割弱と言われる。エリート中のエリート、まさに「選良」なのだ。(コリンズはバンドに加入したころ、「お茶の時間」があることにカルチャーショックを受けた、という逸話もある。)

しかし、本作の制作時から加入してきたハケットとコリンズという「庶民」がおぼっちゃま集団の意識を変え、ロックのダイナミズムと力強さをもたらした。一方で、その高踏的な作風は変えなかった。それらの衝突からなる化学反応から生まれた精華と言えるのが、邦題となった『怪奇骨董音楽箱』こと"The Musical Box"なのである。

さて、一分の隙もないこの曲の凄さを、どう語ったものか。
クロッケーに興じる少女がいっしょに遊んでいた少年の頭を「ふっ飛ばし」、少年の魂はオルゴール(音楽箱)に乗り移ってしまい、そして…という物語を描いた気味の悪いアートワークは、この曲が題材となっている。
歌詞/物語にあわせ、イノセントに始まり次第にインテンスさを増していくダイナミズムと、妖しくも夢幻的な雰囲気のシンクロニシティは圧巻と言うほかなく、とくに中間部で繰り広げられるギターとドラムの熾烈な「バトル」はいつ聴いても興奮させられてしまう。
(ちなみに、70年代のフィル・コリンズは個人的ベスト・ドラマー10選のひとりである。)

これほどの曲を、わずか21歳の若者たちが創りあげてしまったのだから恐ろしい。

ハケット・バンドはこの難曲を精緻に再‐表現していた。(ドラムは流石にコリンズには敵わないが…。)
ラストの「Now! Now!」の連呼はもっと盛り上がってほしかったが(プログレおやじどもは歌わない)、その代わりに曲が終わるともの凄い歓声が上がった。だれもが興奮している。もちろん、わたしも大満足だった。


しばらく大歓声がつづき、ハケット御大もご満悦といった趣き。
これまではずっとゴールドのレスポール(大きめのアームをとりつけたもの)1本だけで演奏してきたのを、ここでゼマイティスの12弦ギターにチェンジ。白い粉を手に叩いて椅子に座り、すぐに曲を始めた。
(しかし、あんなにアーミングを多用していたのにどうしてチューニングがずれないのだろう…不思議だ)

ここからはハケット在籍最終作となった8thの『Wind & Wuthering』(1976)の4曲が、アルバム収録と同じ順で演奏された。(B面の2~5曲目。CDでは6~9曲目。)

Wind & Wuthering (1976)

ふたたびゲイリーがヴォーカルをとる"Blood On The Rooftops"から、
"Unquiet Slumbers For The Sleepers...""...In That Quiet Earth"のインスト・メドレー、
そしてシルヴァンが戻りアコースティカルな"Afterglow"へ、という具合に。

この間、リー・ポメロイは12弦ギター+ベースのダブルネックで大活躍。
いや、これまでも通常のベース(リッケンバッカー)、ギター+ベースペダル、ダブルネックと忙しく立ち回っていたのだった。ポメロイはレフティーなのだがちょっと変わったことをしていて、彼はなぜか通常の「右利きのギター」をそのまま「左手で」弾くのである。それも、ベース・ペダルを踏みながら。なんと器用な男なのだろう…。

見ての通り彼は「右利きのギター」を左手で弾いている。
ライブでは気づかなかったけど、どうやら弦も逆張りしていない「低音弦が下にくる」というもの。

これは12弦ギターも同様で、ものすごく弾きづらそうなのだけど、つねに笑顔で余裕綽々といった印象だった。
なぜか本職のIT BITESでは来日できないが、とても優秀なミュージシャンである。

もっとも、「本家」のマイク・ラザフォードがそもそも「器用な男」の元祖的な存在なのだった。また、ベース・サウンドに特長のあるひとなので、ポメロイは音作りからして超個性的な本家に迫らねばならず、その苦労たるや相当なものだったのではないかと思われる。その高いハードルすべてをクリアし、縁の下の力持ちとして殊勲賞ものの働きぶりだったポメロイに、惜しみなく賛辞を送りたい。
(間近に観て、ああホントに笑い飯のヒゲにそっくりだな…と思ったのはここだけの秘密である。)


話をライブ/曲/アルバムに戻そう。

この頃のGENESISは、1975年にはピーターの脱退~ハケットのソロ・デビュー~ヴォーカルのオーディションとその失敗を経験し、翌1976年2月には7thを、12月には8thをリリースするという、もっとも密度の高い時期にあたる。
さらに、翌1977年にはとうとうハケットが脱退に至る。また同年2月にはピーターが、3月には初代ギタリストのアンソニー・フィリップスが、それぞれソロ・デビューを果たす。『そして三人が残った』という、やや自虐的なタイトルの9thがリリースされるのは1978年4月。実にあわただしい3年間である。
(なお、GENESISが12弦ギターを多用するのはアンソニーの影響と言ってよい。大いなる遺産だ。)

冒頭にも書いたように、「トリオ時代の後期GENESISはプログレではない」という言われ方をすることが多い。しかし実際には、爆発的なヒット作となった13thの『Invisible Touch』(1986)や、コリンズのソロのポップなイメージを遡行的に付与しているだけにすぎない。よく聴くとプログレ的な箇所も多く、同じく商業的な成功を収めたASIAは支持する一方で後期GENESIS(とくに9thと10th、14th)の不支持にまわるのは、公平性に欠くと思っている。

「ピーガブ劇場」時代と、成功したトリオ時代に挟まれた1976年の2作は、そうした派手さのない地味な作品として等閑視される傾向が高い。模索期、転換期、中途半端、折衷的など、ややもするとマイナスのイメージを持たれていることすらある。

ただ、これをハケット側から見なおす/聴きなおすと、違った側面が見えてくる。

"Unquiet..."~"...Earth"のようなインストはハケットがソロで引き継ぐことになる。彼の滑らかでメロディアスなソロは、リアルな感情表現ではなくファンタジックな情景描写に特化したもので、この頃にはすでに完成形に達していた。しかも、ギターというよりは「キーボードのような」音を志向していることも特徴的で、これはソロになってからさらに追及されることになる。

そもそもハケットは音楽的な動機ではなく、その主導権争いを嫌がって脱退したのだった。裏を返すと、音楽的には近いものを志向していた。最大の違いはギターとキーボード、どちらがサウンド面でメインとなるかであり、GENESISに残ったメンバーは後者を選択、ゆえにハケットはソロに転向した。
ハケットの初期ソロ作は、確かに幻想的な雰囲気はあるものの、同時代的なポップさをオミットしておらず、それどころかむしろ積極的に取り入れている。本家GENESISとの違いは歌詞の内容とギター/キーボードの違いくらいで(しかし、その違いこそが決定的だった)、これらはあまり似ていない双子のようにも思えてくる。

GENESISの幻想世界は、少しずつ小さな変化を重ねていた。牧歌的、寓話的なものから都会的、小説的/映画的なものへと。同時に、音楽的にもポップな大衆性の割合を増していた。
バンドがピーター/ハケット/残り三人と分岐したとき、こうしたイメージ群も分割され、もっとも幻想性の濃いハケットが「プログレの良心」としてその筋のファンに評価されることになったのだが、1976年の2作を中心に前後を眺めたとき見えてくるのは、こうした分岐に起因する相違点よりも、その共通点の多さではないだろうか。洗練の方向性も、この三者には近いものがある。より音楽に沿った考察が求められる。
(これ以上はやめておこう。なお、もっと緻密な論述が必要なのは百も千も承知している。)

換言すると、1976年の2作にはハケットと本家の「その後」の多くが出揃っているのだ。それどころか、不在のピーターの影および「その後」すら、ここにはあるように思う。もっとも適正な再評価が待たれる作品と言えよう。(それは後期にも当て嵌まるのだが。)


メンバー紹介を挟んで、5thからバンド初のヒット曲となった"I Know What I Like"がプレイされる。

この曲(だけ)はアレンジが変化していた。ソロ・パートでロブのソプラノ・サックスが大々的にフィーチュアされていたのだ。これがまたジャジーでよかった。原曲のポップさにはこうした可能性が秘められていたのかと、目から鱗だった。ハケットのソロも自由度が高いもので、その妙技を堪能。バンドがいちばんリラックスしてできる曲のようだ。

キーボード、フルート、ソプラノ・サックス、クラリネット、リード、バナナ型シェイカーなど多彩なロブ。
途中、ドラキュラの歯を入れて地味にポメロイを爆笑させていた。ハケットは気づいてなかったが(笑)


これにピーター脱退後初の作品となった7thの『A Trick Of The Tail』(1976)からの曲がつづく。

A Trick Of The Tail (1976)

プログレッシヴな展開の妙とキャッチーな歌唱が楽しめる"Dance On A Volcano"には、それまでになかった明るさが充溢している。この明るさに「否」を唱える向きもいるのだろうが、それならばハケットのソロも同様の理由から否定しなければならなくなる。

ハケットがより探究したかったのはこの路線、つまりプログレッシヴな幻想性とポップな大衆性の融合なのだ。それは月と太陽の結婚に喩えられよう。すなわちこれ、錬金術の骨法である。
繰り返しになるが、ピーターも本家も、やろうとしていたことは大筋でハケットと同じだ。ただ、やり方/語り方が違ったか、違うように見えるだけにすぎない。
(ピーターとハケットが同時期にワールド・ミュージックへの関心を示したことは示唆的だ。)

ゲイリーがドラム台から降りてきて、シルヴァンとともに"Entangled"を歌う。ハケットの後ろで大仰な礼をお互いに交わすあたり、ふたりとも楽しんでいることが窺えてよい。コーラスがとりわけ美しく、アコースティカルな淡さが清々しい。


ハケットがギターを12弦ギターに変えると、なんの前振りもなく畢生の大曲"Supper's Ready"が始まった。傑作4thの『Foxtrot』(1972)収録時間のほぼ半分を占める、7部から成る23分の超大作である。

Foxtrot (1972)

これまた語るに窮する曲だ。あまりにも破天荒な、『ヨハネ黙示録』に材を採ったヴィジョンの威容と、大衆演劇のような親しみやすさが同居した、英国産ならではの音楽世界。

タイトルの「サパー」がキリストの「最後の晩餐」のエコーであることは言うまでもなく、かの有名な獣の数字「666」が歌詞として使用されたおそらく最初期の例でもあり、人類史上初の宗教改革を行った古代エジプトの王イクナートンの登場からも推察できるように、宗教的なコンセプトを演劇的かつ幻想的に音楽として定位することがその眼目となっている。

ただ単に小曲を7曲をつなげただけではない。休みなしに展開されていくためその緊張感は雪だるま式に増大し、クライマックスの「8分の9拍子の黙示録」では本当になんらかの宗教的ヴィジョンを幻視しかねないほどだ。演奏する側も緊張するに違いない。

大団円となるラストでは、ある種の達成感があった。観ているだけであれほど曲に引き込まれることも稀だ。予定調和的なスタンディング・オベーションとは異なった、熱狂とも感嘆ともつかない疲労まじりの大歓声がバンドを讃えた。素晴らしいとしか言いようがなかった。


あまり間を空けずに、バンドがアンコールのため戻ってきた。
曲は5thから、ハケット最高の名演(のひとつ)が聴ける"Firth Of Fifth"である。

Selling England By The Pound (1973)

ロック史上最高のピアノ・イントロとさえ評される、格調高いピアノからしてすでに感無量だった。

トニー・バンクスがもっとも過小評価されているキーボード・プレイヤーであることは間違いない。
同時期に活躍したキース・エマーソンやリック・ウェイクマンのような強烈なショウマンシップや「自我の強さ」がトニーにはなかった。上述の「後期問題」のためプログレ評価の枠外に置かれがちなこともあるだろう。しかし、その作曲・アレンジのセンスがいかに確かなものだったのかは、それこそ「後期」の大成功が証明している。今回のライブで、ロジャー・キングとロブ・タウンゼンドがふたりがかりでキーボードを手掛けていたことは、彼のキーボード・アレンジの複雑さや重層性の証左でもあっただろう。バンクスはキーボードという機材の発展と並走しながら、その可能性を次々と引き出していった天才なのだ。

長年にわたってハケットを支えるロジャー。安定感抜群の鍵盤奏者である。

それにしても、この曲で聴かれるソロの完成度は只事ではない。月光がゆるやかな川面(タイトルは「第5河口」を意味する)を照らすなか、なにかこの世ならぬものが空をよぎっていくような、ファンタジックながらもどこかに緊張を孕んだ、飛翔感/浮遊感がある。(イカロス的、とでも名付けようか。)陶然とするより他なかった。

スティーヴ・ハケット、当時23歳。げに恐るべきはその早熟さではなく、その持続性だろう。真の天才にして孤高の芸術家である。(GENESISが凄いのは、主要構成メンバー全員にこの言葉が当て嵌まることだ。)


フィナーレは7thに収録のインスト曲"Los Endos"だ。イントロに屈強なリフを備えつけた、その賑々しいライブ・ヴァージョンはもはやオリジナルとは別物とさえ言える。

普段は楽曲最優先のハケットも、この曲だけはこれでもかと弾きまくる。手持ちの小技を総動員するかのように、矢継ぎ早に様々なプレイを仕掛けてくるのだ。ライトハンド、スウィッチング、アーミング、スクラッチ、スライド等々、なんでもあり。よくは見えなかったが、おそらく足元のペダル操作もいつも以上の煩雑さなのではないだろうか。
(「右手」だけでなく「足技」も彼が元祖的存在。初期に座って演奏していたのはペダル操作のためだ。)

とうとう、すべての曲が終わった。当然ながらかなりお疲れの様子で、しばし呆けた顔を晒していたハケットは最後に珍妙な礼(むかし、とんねるずがよくやっていた「バーイ、センキュ」みたいなの)をして去っていった。
約2時間20分の熱演だった。


SET LIST

01. Watcher Of The Skies
02. The Chamber Of 32 Doors
03. Dancing With The Moonlit Knight
04. Fly On A Windshield
05. Broadway Melody Of 1974 
06. The Lamia
07. The Musical Box
08. Blood On The Rooftops
09. Unquiet Slumbers For The Sleepers...
10. ...In That Quiet Earth
11. Afterglow
12. I Know What I Like
13. Dance On A Volcano
14. Entangled
15. Supper's Ready
       i) Lover's Leap
       ii) The Guaranteed Eternal Sanctuary Man
       iii) Ikhnaton And Itsacon And Their Band Of Merry Men
       iv) How Dare I So Beautiful?
       v) Willow Farm
       vi) Apocalypse In 9/8
       vii) As Sure As Egg Is Egg
Encore
16. Firth Of Fifth
17. Los Endos

GENESIS (Steve Hackett ERA: 1971-1976)
Nursery Cryme (1971) 3rd
Foxtrot (1972) 4th
Selling England By The Pound (1973) 5th
The Lamb Lies Down On Broadway (1974) 6th
A Trick Of The Tail (1976 Feb) 7th
Wind & Wuthering (1976 Dec) 8th


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




随分と長いブログになってしまった。ご容赦いただきたい。

これでも、語り切れなかったことが多い。PINK FLOYDのデイヴィッド・ギルモアやCAMELのアンディ・ラティマーといったギタリストや、同期の群小バンドやGENESISフォロワーの「ポンプ・ロック」勢(MARILLION、PENDRAGON、IQ、IT BITESなど)との類似点および相違点、フュージョンやAORといった70年代後半の音楽地理や、80年代という「ポップ」ディケイドの別の姿、歌詞の分析や、同時代文学とのリンク具合など、まだまだ話は尽きない。

ハケットには、またソロで近いうちに来日してもらいたい。ソロでも名作、名曲がいくらでもある。


もし、このブログを読んで興味を持ったのなら、とりあえず『Genesis Revisited II』をお薦めする。
本家GENESISなら、3rd~5thが聴きやすい。骨が折れるけど6thはいくらでも深入りできるし、7thと8thも虚心に聴いていただきたい。(ついでに、傑作10thの再評価もお願いする。)


あとはただ、その月明かりに照らされた世界に浸り、ひとしきり彷徨えばいい。
もっとも、淡い霧の向こう側に見える影が、ひとのものである保証はないのだけど。



2013-06-09

Music 2012: Domestic Scene & My Favorite 5



以下のブログは、本来は3月31日に投稿したものでした。

しかし、誤操作で書き足した分を消去してしまい、翌々日に再投稿したものの、
今度は嫌がらせコメントの攻撃?に会い(正確には3回でしたが…何だったのだろう)、
投稿を取り下げることにしたのでした。それで、約2ヶ月ほど干していたわけです。

その間、ブログの形式や内容など、いろいろ思い直すことがあり、
最初のものとは大きくかたちを変えたものとして再掲するに至りました。

とりあえず、中座していた「2012年のまとめ~国内編」をお届けします。


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今回は、日本国内の音楽シーンについて、書いてみます。

と言っても、基本線は前回のような、「○○や△△が新作を出した」という「2012年のまとめ」です。
しかも、音楽シーンと言ってもロック中心(それも、ヘヴィなもの)で、
ポップスやアニメソングなど、わたしが不得手とするものはほとんど扱いません。あしからず。
(ビデオは貼りませんが、代わりに別ウィンドウで開くリンクをたくさんつけときます。)


Solo Artist / Guitarist
Pop / Rock / Punk

まずはわたしが不得手としている「メジャーな」シーンからまとめてみましょう。

前回のブログ同様、ソロで活動しているミュージシャンから。だいたいリリース順に。敬称略。

わたしのメモにその名があったのは、神業ドラマー神保彰、たぶんオリジナル17th(凄い!)松田樹利亜、大貫妙子の再来?青葉市子、重鎮は衰えずカルメン・マキ、世界制覇へ第一歩きゃりーぱみゅぱみゅ、カバー作で小休憩?鬼束ちひろ、歌もの作とピアノ作を出した石橋英子、久々のライブ盤をリリース矢野顕子、その娘は愛を歌う坂本美雨、EP2枚とシングル1枚を連続リリース(アルバムは…?)森重樹一、ソロというかトリオものの坂本龍一、マイペース遵守トクマルシューゴ、久々のシングル・コレクション坂本真綾、といったとこですね。
あそうだ、VITAMIN-Q featuring ANZAのライブでバックコーラスをやっていたShantiもアルバムを2枚出してました。(ちなみにこの方はゴダイゴのドラマー、トミー・スナイダーの娘さんです。)

ギタリストは3人だけ。B'zの松本孝弘、TUBEの春畑道哉、ムーンライダーズの白井良明
松本・春畑は順当な正統派作品でしょうけど、異端児白井は何やってるのか気になります…。

バンドでは東京事変の解散に始まった年でしたね。個性・技術・曲の良さと三拍子そろったバンドがシーンのトップにいてくれたことの恩恵は、いかばかりのものだったのでしょうか。

変な言い方かもしれませんが、ポップ(大衆的)な音楽ほど売るのが難しい音楽もありません。
最終的には曲の良さと個性が勝つとはよく言われるものの、あくまでそれは結果論なんですね。
曲も良く個性も技術もセンスもあるバンドなんて、インディーズにはいくらでもいますから。

「ポップである」ことはすなわちジャンル的に細分化しづらいということでもあり、
あれこれとキャッチを張ってラベリングをしても、結局「売れるまでは無名」なのです。
つまり、たいていのひとは「売れてから聴く」のであって、それ以前はなきに等しいのです。

解散したフーバーオーバーはそこまで辿りつくことができなかったけど、決して楽曲的な質が劣るわけではありませんし(むしろ質はとても高い)、現在「上」に向かって健闘中のUNCHAINUNLIMITSも同様です。

その「上」の代表格、いきものがかりはメジャー5枚目(通算8枚目?)をリリース。若いバンドたちの希望の星として、まわりの大人たちに惑わされず活動をつづけてほしいところです。UVERworldもあっと言う間に大きくなったバンドですね。ドキュメンタリー映画の公開もしてました。(全国ロードショーしたのですよね、たしか。)

他にもOBLIVION DUST、THE BACK HORN、10-FEETあたりは順当に活動しています。変わったところでは菊地成孔率いるDCPRGがかの有名?な『アイアンマウンテン報告』に材を採った新作を発表。もはや古豪の貫録すらあるeastern youthは、ひたすらこつこつと活動中…。敬服しております。

ベテラン勢では、JUN SKY WALKER(S)の復活とTHE PRODIGAL SONSの活動休止と明暗が…。

つらつら書いてきたわりには、Shantiの『Lotus Flower』くらいしか買って聴いてないのでした。
ジャジーなポップなのでさらりと聴けます。ただ、さらりすぎるかも。もっとアクを出してもいいかと。


V-Rock

この節を「Visual Rock」にしようとしてふと、「視覚的ロック」って音楽の内容を一切表してないよねと思い、でもシーンが確立されて幾星霜、ええいままよと某フェスの呼称をいただきました。

本来ならここよりも前の節で紹介すべきビッグなバンドもいますが、まあ問題ないでしょう。

彼らは作品のセールスや媒体への露出率などは打っ棄っておいて、もっと「音楽的に」取り上げられなければならないと思っています。その出自はほぼ例外なくHR/HMであり、技術的にも非常に高い技巧を持っている方が多いです。なんと言ってもライブの本数が多く、またグッズ開発などバンドのイメージ戦略に秀で、かつその演奏だけでなく「エンターテインメント」としてのパフォーマンスを磨かなければならないという、実に何重苦とも言えそうな研鑽を重ねている、尊敬すべきミュージシャンたちなのですから。(その分、ある程度の集客やセールスは見込めるのですが、それも「そのレベル」にまで達しない限りは苦しいわけです。)

考えようによっては、もっとも現代的かつ質の高いメタル/ハードロックをやっている一群と言えるかもしれません。ただ、ヴォーカルの線の細さや粗さ、中性的な印象を受ける節回しへの拒絶反応が(とくにメタル系リスナーの間で)あることは否めません。しかし、それを補って余りある個性を放っておく手はないですし、とくにC級以下のメタル(60点以下メタルとでも言いましょうか…)を聴くよりはもっとずっと得るところの多い一大山脈だと思います。

もっとも、彼らが世間的には永遠に「色モノ」であることに変わりはないでしょう。男の化粧が、それこそ官僚や公務員でさえするのが普通にでもならない限りは。(しかしそれは御免蒙りたい。)
でも、せめて音楽界くらいは真っ当な評価をしてほしいところ。ルックスがいいからとか、最近売れてるからとか、海外でも評価されてるからとか、そうゆう外付けの理由で取り上げるのはやめてほしいですね。もっと音楽の実相に迫ってほしいものです。

では、わたしがチェックしたものだけ名前を挙げていきます。

2012年も活動が活発だったのがLUNA SEAです。シングル2枚、DVD3枚を発表。メンバーも多忙で、河村隆一はカバー作を、SUGIZOは舞台を手掛け、JINORANはソロ作を、INORANはさらにMuddy Apesを結成してアルバム発表とツアーという超多忙っぷり。(真矢?知らぬ。)

ラルクことL'Arc~en~Cielも久々にアルバムを出しました。12枚目。ニューヨーク公演は会場があのマディソン・スクエア・ガーデンでしたが、これには驚かされました。横須賀では美術展(と言うのはやや抵抗がありますが…)も行われましたね。

黒夢の清春人時はそれぞれのソロ作を同日(11月21日)にリリースしました。
まだ聴いてないのですが、人時さんのベース・インスト作はかなり面白そうです。

さて、上記3大物バンドに絶大な影響(元ネタとも言う)を与えたDEAD ENDは6thとライブDVDを、
やはり強大な霊感源でありつづけるBUCK-TICKは不動の5人のまま25周年を迎え17thをリリース。
(いずれもわたしの「Music 2012: MY BEST10」に入れましたのでご覧あれ。)

それと、「知る人ぞ知る」原初の伝説的V系バンド、Der Zibetが二部作を出していました。
気づかなかった…。これはかなり気になります。B-TやMorrieソロのファンは必聴でしょう。
(なお、ヴォーカルのIssayは土屋昌巳先生のソロに参加中。ソロは年内リリースか?)

もはや中堅というよりベテランと呼んだほうがいいかもしれないcali≠gariは11thを、Janne Da ArcのYasu率いるAcid Black Cherryはコンセプト作を、Morrie(DEAD END)+Hiro(La'cryma Christi)+人時(黒夢)らからなるCREATURE CREATUREは先行シングル2枚を出した後に3rdを発表。それぞれ独自色があっておもしろいです。また、DIR EN GREYは2008年の7th『Uroboros』のリマスター&拡張版を出しましたが、このリリースは異彩を放っていましたね。そうそう、元ラルクのSakura率いるZIGZOの復活作もありました。15周年を迎えたMUCCの11thについては、上記MY BEST10のリンクでどうぞ。

あとは力をつけてきた00年代以降の新興勢力たちですね。摩天楼オペラ、lynch.、the GazettEの新作はいずれも野心作だったと言えるのではないでしょうか?一方、順風満帆に見えていたVersaillesは活動休止に入ってしまいました。逆に、活動を再開した元DELUHIの技巧派ギタリストLeda率いるUNDIVIDEがデビュー。今風なヘヴィネスとキャッチーなとこを融合させてます。(ちなみに、Ledaさんは一時期GALNERYUSにベーシストとして在籍していました。)

さて、アルバム10選には漏れたけどご紹介したいものが一枚。こちらです。


PHANTOMS (CREATURE CREATURE)

不穏にして美しいヘヴィロック。実質的にMorrieのソロですが、メンバーの曲を採用するなど、次第にバンド色を強めてきました。が、Sakura(dr)がZIGZOへの出戻りのため外れ、3rdとなる本作ではゲスト・ドラマーが聴きどころとなっています。驚くべきは元?DEAD ENDのMinatoこと湊雅史のプレイで、ほぼ一発録りの「ドラムソロ」が驚異的。天才というか怪物です。作品としては前作のわかりやすさが一歩後退し、その分より哲学的になった深い歌詞と、ファルセットの表現幅を大きく拡げたMorrieの歌唱が堪能できます。



Hard Rock / Heavy Metal / Alternative Metal

ざっくり書くつもりが、メモがたくさんあったのでそこそこ書けそうです。
とりあえず、思いついた順に言葉を並べていきます。

国内メタル・シーンの立ち位置は、それが成立した80年代当時から現代に至るまで(鉤括弧つきカナ表記の)「ビミョー」でありつづけています。要するに、全面的に認められていないのですね。これは「日本人の日本嫌い」のヴァリエーションのひとつで、こうした傾向は社会史/社会誌的に内外から色々と議論されてきた「お馴染みの」テーマであるためここでは触れませんけど、音楽を聴くにあたり固定観念がそれを邪魔するのは、残念な限りです。

もちろん、そもそもメタル自体が世間的には「ビミョー」というか「欄外」なんですよね。なかったことにされてるというか、まあ遠巻きにしているわけです。そんなメタルの中で「ビミョー」な国内メタルの、さらに一段「ビミョー」なとこにポジショニングを強いられているのが、いわゆる「嬢メタル」勢と言えましょう。

女性をフロントに据えたバンドや、メンバー全員が女性というバンドが急増してきたのは2010年以降だったでしょうか。「嬢メタル」なる言葉は2009年ごろにはすでに使われていた覚えがありますが、「嬢メタル」と言えば国内バンドというほどに新しいバンド名を聞くようになったのは、それくらいだったと思います。

ただ、この呼称をわたしは好みません。蔑称のようなニュアンスがありますし、「ヴィジュアル系」や「アニソン」と同様、ある程度の音楽的な傾向は掴めるものの、音楽それ自体を表しているわけではないので、インチキ臭さを拭えません。とは言え、人口に膾炙した言葉としてすでに定着してきているため、これからはよりふつうに使われていくのでしょうね。

まずは、そんなバンド群からまとめましょう。

このジャンルの存立を決定づけたAldiousはヴォーカルの交代劇がありました。
メジャーデビューを果たしたLIGHT BRINGERexist†traceはそれぞれ新作を発表し、ワンマン公演を収めたライブDVDをリリースと、活動の幅を拡げました。ただ、前者はメンバー2人の脱退などいくらかの犠牲を必要としたようです。

ゴシック系とはやや異なる、LIV MOON、ANCIENT MYTH、CROSS VEINなどシンフォニックなメタルバンドが質の高い作品を(LMは2枚も!)発表してきたのは印象的でした。

ポップなところではアイドル的な?Cyntia、(いい意味で)90年代J-POP的なACTROID、メルヘン風味のPerpetual Dreamer、ガールズ・ハードロック・バンドGANGLION、Gacharic Spin+Fuki(LIGHT BRINGER)という実力派DOLL$BOXXとこれまた質は高く、 色眼鏡をかけてこの手のバンドを眺めているひとの思い込みを払拭するに充分な出来の作品が多かったように思います。

メンバー全員女性というデスメタルバンド、G∀LMETも注目度が高かったですね。

個人的に、試聴して一発で気に入ったのがこのアルバムでした。

Dolls Apartment (DOLL$BOXX)

Gacharic Spinのライブでヴォーカルのサポートをしたのを機に、LIGHT BRINGERのFukiが合流するかたちで始まったプロジェクト・バンドの第一作。曲の細部や音作りに多少の急造感は否めないし、デス声ならぬ今風な「デスボイス」などやりすぎと思える箇所もありはするけど、勢いある疾走感とポップな躍動感はとても新鮮で魅力的です。全曲PVを作るという気合い(と言う名の資金)の入れようもさることながら、それだけ曲のよさに自信を持っているということでしょう。少なくともあと2枚は作ってほしいです。



なんだかんだでチヤホヤされてもいる「嬢メタル」と比べたら、いわれのない誤解・偏見・罵倒の数々を掻い潜ってきたであろうベテラン勢の苦労たるや相当なものだったに違いありません。が、彼らは未だに現役で活動をつづけ、後続を奮起させているのだから頭が下がります。

浜田麻里は23rdを発表。(世界的に見ても女性ソロ・ヴォーカリストとしては前代未聞の作品数では?)
SHOW-YAも復活後初のアルバムをリリース。全盛時と変わらぬパワフルなハードロックでした。

日本のメタルと言えばこのバンド、LOUDNESSは25thを(この数の凄さ、もっと大きく扱われていいと思うのです。あまりに「いつも通り」新作をリリースしてくるから、だれもがマヒしているのでは?)、ANTHEMは15thを、SABER TIGERは10thを、それぞれ発表。

ヘヴィ系では重鎮UNITEDがセルフ・カバー作を出し、他にもROSEROSE、YOUTHQUAKEが新作を出しました。バイタリティというか、この世代は気合いが違います。

中堅ではSIGH、MAVERICK、BLINDMAN、ALHAMBRAなどが、やはり優れた作品を発表しています。(こうして振り返ってみると、国内バンドのレベルの高さにあらためて感服します。)

さらに新しい世代では、なんと言ってもGALNERYUSの成功が大きいですね。小野正利の加入以降は順調に多くのファンを獲得し、活動規模だけでなく作品の質も高めています。いや、元から高かったのだけど、より広範な支持を得られるような音楽性にマイナーなシフトチェンジを繰り返してきた、と言うべきですね。B!誌の人気投票にその結果が如実にあらわれていました。

玄人界隈で評価が高かったのは、スピードメタル系ではMinstreliX、BALFLARE
スラッシュ/デス系ではMANIPULATED SLAVES、Veiled in Scarlet、TYRANT OF MARY
ハードロック系ではDIABLO GRANDE、REGULUS、Crying Machineあたりですね。
そうそう、「RPGメタル」のDRAGON GUARDIANはEPとベスト盤を出しました。後者は愛聴しています。

わたしがあえてこの枠でご紹介したいのは、変種のこちら。


Cyclo (THE SLUT BANKS)

ZIGGYの戸城がすべての曲を書き、元ZI:KILLのTuskがヘンテコながらも奇妙に生々しい歌詞で歌う、ハードロック/メタル/パンク/ハードコアが一切の違和感なく入り混じったポップでキャッチーなロックンロール・バンドの復活作。しかもギターはかの横関"ジェットフィンガー"敦。なんかもうわけわからんのですが、一度聴いたらハマってしまうことうけあいの毒々しいケミカルな原色の世界。こんなバンド、海外にはどこにもいません。昭和(のヘンなところ)を知る世代はもちろんのこと、若いひとにこそこの世界を感じとってほしいです。



90年代以降、日本でも海外の「ヘヴィロック」的な音楽をやるバンドが出てきました。
ただ、日本人の好みには合わず、どれだけ質の高い音楽/パフォーマンスをしても「上」にいくことがむずかしいためか、80年代デビュー組ほど長続きはできないようです。(むしろ、この世代はそうした「オルタナ」勢への再カウンターとしての正統派組の方が目立っている気がします。)

しかし、21世紀も12年目を迎え、状況はかなり変わっています。
メタルコアやエモ/スクリーモ、サンプリングやエレクトロニカを導入したヘヴィロックなど、多くの若いバンドが「ヘヴィだけど、90年代までのメタルとは何かが違う」音楽をやるようになり、いまでは彼らのようなバンドこそが(メディア上の)主役に見えるほどです。

また、王道路線のロックでもデス声的なヴォーカルを使う例も増えてきました。ボーダーがなくなってクロスオーヴァーが常態化してきたというよりは、「目立つポイントをいくらでも取り入れる」といった風潮に見えなくもない、というのがわたしの印象です。つまり、音楽的な必然性を感じない場合が多いように思うのです。「これが今風」と見栄を張っているだけで、中身がなく内容とリンクしてもいない、というふうに。年寄りの僻目かもしれませんけども。

大雑把に、これらの00年代以降のバンドを「激ロック」系と言っていいのかもしれません。
ただ、激ロックやこの手のバンドを好むファン/オーディエンスの多くは、音楽それ自体よりもライブハウス/ロックフェスにおけるモッシュ、クラウド・サーフ、ウォール・オブ・デスなどの「体感/行為としてのライブ体験」を強調しすぎるきらいがあり、わたしのような「音楽ありき」という古いタイプの人間にとっては、そうした叙述には抵抗があることを告白しておきます。(まあ、簡単に言うと「いけ好かねえ」のです。)

そんなわけで、上述のバンド群には実のところ批判的です。しかし、それだけに個性のあるバンドには賛辞を惜しみません。世界的に「ほとんど同じことやってる」バンドだらけのなかで、いかに自らの内実を音楽的表現として屹立させるか?以下のバンドは、それができている/できかけている貴重な存在と言えましょう。

パンキッシュな歌メロとグルーヴに北欧メロディック・デスとエレクトロニカをブチこむという離れ技をやってのけたFACTは、さらにキャッチーになった新作を発表。HEAD PHONES PRESIDENTは4人編成となって初の作品となる3rdアルバムで新境地を開拓し、元SUNS OWLなどの猛者たちが結成したAWAKEDが強力なデビュー作を投下、沖縄のROACHはEP『Okinamerica』でその出自を明確にし、さらなる音楽的深化を遂げたMEANINGはハードコアとメタルをかつてないレベルで同化させることに成功しました。

また、この界隈では代表格であるfadeNEW BREEDがアルバムを、coldrainCrossfaithがEPを発表しました。仙台の若手、Fake FaceもEP発表とともに積極的な活動を展開してました。
が、狼人間集団MAN WITH A MISSIONがすべてをかっさらっていった気がします。Ozzfest参加など、今年も話題を独占しつづけています。

ベスト盤を出し、一度はキャンセルされたツアーの再準備中にPay money To my PainはヴォーカリストのKを急逝により失ってしまいました。この手のバンド群の「お手本」となっていただけに、残念でなりません。

HEAD PHONES PRESIDENTについてはすでに書いているので、ここではこの一枚を。


Blood (AWAKED)

ハードロック、メタル、ハードコアなどヘヴィ・ミュージックを総覧した精華。メンバーの前歴はあえて無視していいだろう。強力なフックを備えたリフとソロ、ブラックメタル的な暴虐性すら放つファストかつグルーヴィーなドラム、うねりまくるドライヴィンなベース、強靭極まりない歌唱を聴かせる歌心溢れるヴォーカル(フィル・アンセルモ級と断言する)と、そのすべてが強烈無比。楽曲という骨格に肉付けされたこれらの筋肉は、見せかけの美しさではなく実戦に特化したそれである。俊敏にして凶暴な獣の咆哮に、より多くのひとが気づき恐れ震えんことを願う。



Other Genre

「他のジャンル」「ジャンルその他」とは何か?
上記のジャンルに収まらないというより、「意図的にその枠外に出ている」一群と言っていいです。

具体的に言うと、残響レコードkilk recordsVirgin Babylon Recordsの3レーベルを意識しています。
簡単にまとめると、「ポスト~」なる接頭語がつくジャンルの音楽やエレクトロニカ、ミニマル・ミュージックやノイズ・ミュージックなどの現代音楽に通じることをやっているバンド/ミュージシャンを扱っているレーベルです。

バンド/ソロ/レーベルと文字通り「知的」なミュージシャンが多く、音楽だけでなく(クラシックからノイズ系など末端に至るまで、ほぼ全領域を網羅)、文学・映画・美術・現代思想への造詣が深い、ある種の知的選良たち(送り手も受け手も)によって構成されたシーンと言っていいでしょう。(わたしは基本的にここらへんの住人なのです。音楽だけはメジャー?志向ですが。)

そうした、やや上級者向けの音楽は敷居が高く感じられたり、ハイカルチャー/サブカルチャーを問わず知識教養をひけらかすスノビズムに惹かれたり反発したりと、どちらかというと隅に追いやられざるを得ないジャンルかもしれません。というのも、ポップ=大衆は過度に知的なものを拒絶しますから。

しかし、これは難解な文学でも、意味不明な映画でも、わけわからない抽象画でも、読解不可能な現代思想でもないのです。それらとリンクした内容でこそあれ、音楽は聴けばわかります。もし良さがわからなかったら、それはそうしたセンスを欠いているだけです。虚心に聴けば、以下の音楽の美しさや斬新さに打たれることでしょう。

残響は4人組となったハイスイノナサ初のフル・アルバムを、
kilkは夢中夢のハチスノイトを擁するユニットMagdalaデビュー作を、
Virgin BabylonはXINLISUPREMEシングルKASHIWA Daisuke裏ベスト
matryoshka2ndを、それぞれリリース。目を耳を見開かされること必至の音楽たちです。
(とくにXINLIには度肝抜かれました。←音量注意!)

また、国内ポスト・ロック勢のなかで抜きんでた存在であるMONOも6thをリリース。
インストバンドながら海外でも(いや、海外でこそ)評価は高く、さらなる成功が望まれます。

決してたくさんのひとに聴かれる音楽ではありませんが、だからと言って価値的に劣っているわけでも優っているわけでもありません。品質(quality)ではなく性質(character)としての「質」が違うという、ただそれだけのこと。わたし自身、毎日聴くわけではないけど、たまに聴いては鉤括弧つきの「歴史」や「芸術」について、現代思想の文脈で漠然と考えてます。

一枚を選ぶとしたら、いわゆる「歌姫」とは一線を画した歌姫を擁するこの一枚を。


Magdala (Magdala)

眠たそうな、夢そのもののような歌声。ふわふわしたオーガニックな浮遊感のなか、ときに爆ぜる火花にも似た打ち込みの音飾が耳を刺激する。
ポスト・ロック~ポスト・クラシックのどこかに居を置きながら、しかしそのどこにもいない。明晰夢のように冴えた認識と、すべてが分け隔てなく混在する無意識との合一。だが、「胡蝶の夢」のような陶然とした(幸福な?)居心地の良さよりも、そこへ入る亀裂にこそ重きが置かれているような、深遠への裂け目を感じずにいられない…。




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わたしがチェックしたものは以上です。(すべてを試聴してはいませんが、9割はしてます。)

これほど充実したシーンがすぐそばにあるのに、「日本人の音楽なんて」という日本人が後を絶たないのは残念というか馬鹿馬鹿しい限りです。そんな馬鹿どもが自らをさらに貧しくして勝手に自滅するのは一向に構わないのですけど、そのために日本の優秀なミュージシャンが生活に困るのはいただけません。音楽だけで生活できているのはほんの一握りであり、ましてロックという傘の下にいるミュージシャンはなおさらです。

これらのミュージシャンを応援するには音源を買い、ライブに足を運ぶしかないとはいえ、そこまでお金を出しつづけることも困難なわけで、より選択が重要となります。

その選択眼を磨くためにもより広い領域にわたって音楽を狩猟し、できるだけ偏見を取り除いた状態で謙虚に聴き、その感動を丁寧な言葉で綴りたいものです。


あまりにも、あまりにも敬意を欠いた言葉が多すぎますから…。