ビョークの新作が発表されて一週間経った。海外では今日が発売日だったはずである。
評判は賛否両論というほど明確ではなくて、誰もが歯の奥に物が詰まったような言い方をしている。
そうした評言が、この新作がいいのかどうか、どうにも煮え切らない印象を与えてしまっている。
わたしとしては、いくつかの文脈において画期的であるのみならず、
純粋に音楽作品としても興味深い、素晴らしい作品だと思っている。
では、何が問題/障害となっているのか?しばし、考えてみることにしよう。
Biophilia (2011)
01. Moon
02. Thunderbolt
03. Crystalline
04. Cosmogony
05. Dark Matter
06. Hollow
07. Virus
08. Sacrifice
09. Mutual Core
10. Solstice
Bonus Trucks
11. Hollow (original 7-minutes ver.)
12. Dark Matter (with choir+organ)
13. Nattura
14. The Comet Song
本作は、発表前から大きな話題を呼んでいた。ふつうのアルバム・リリースとは違ったからだ。
そもそもは「アプリとして新作を発表する」という報道が為されたのが第一報ではなかったか。
実際は少し違った。
新作Biophilia(=「生命愛」と訳しておこう)は多面的なプロジェクトとして企画されており、
アルバム、アプリ、ウェブサイト、ドキュメンタリー映画、ツアー&ワークショップの総計こそが、
ビョークが考えるところの『バイオフィリア』という作品の全貌であることが明らかにされたのだ。
彼女は常に最先端のテクノロジー(PCソフトやアイデアなどの総称と考えてほしい)を取り入れつつ、
エモーショナルでプリミティヴな、声そのものに強烈な存在感のある歌を響かせてきた。
毎回毎回、違う方法論・テーマ・コンセプトで作品を発表してきたとはいえ、
それでも、アルバム単体に留まらないプロジェクトの総計としての作品、
という今回の「新作」に、戸惑ったひとも多かったのではないだろうか。
わたしはと言えば、まずは「アプリとして発表」することに、むしろビョークらしさを感じていた。
新奇なものを即座に取り入れ、作品内容と同時にプロモーションにも活用する、という手法に、だ。
だから、心配していたのは「CDは出してくれるのだろうか?」ということだけであって、
新作がプロジェクトの一環としてアルバムもリリースすることを知ってホッとしたのだった。
iPhoneは持っているものの、アプリにはまったくと言っていいほど無関心なので(あまり使わないから)、
新作もアルバムを買って聴くだけで済ませるつもりだったところ、予想以上の斬新さに衝撃を受けて、
アプリもすぐに無料ダウンロードし、さらに有料アドオンも購入する、という事態になってしまった。
一方で、アルバム単体にのみ触れたひとたちのレビューもちらほら見かけるようになった。
冒頭に書いたように、腰の引けた評が多いのは、
①アルバムがこうした「プロジェクト」の一部でしかないこと、
②アプリがどのようなものになっているのか(評者が)知らないこと、
③さらに企画されているらしい「プロジェクト」があるらしいこと、
これらへの「配慮」ないし「引け目/気おくれ」のためと言っていいだろう。
また、中には「音楽のみで判断したら凡庸」という評もあった。
これには、わたしも首肯できる部分とそうでない部分がある。
この点、わたしとしてはビョークを弁護しておきたいのだ。
そうした経緯で、いまこうしてちまちまと駄文を連ねている。
さて、因数の多いこの方程式を、どこから解いていけばいいのだろうか。
ビョークの音楽活動を貫くコンセプトは「音楽・自然・テクノロジー」である。
理論に囚われない「自然」なこころの状態から生まれた「音楽」を最新「テクノロジー」で創造する。
とでも言えば、何かを要約した気にはなるものの、彼女を知らないひとにはイメージが沸かないだろう。
ビョークは「戸外を歩けば音楽はそこにある」と言うほど、
直接的かつシンプルに音楽と繋がることのできるひとだ。
彼女にとって、音楽は「身体と自然が当然のごとく共鳴する」ものであって、学校で学ぶものではなかった。
言うなれば、天性の感覚で「自然という音楽」と繋がってしまう「天然音楽才女」であるわけだが、
にもかかわらず、彼女は幼少のころから音楽学校に通っていた「天才音楽少女」でもあったのであり、
そうした「自然(身体感覚としての音楽)」と「テクノロジー(理論としての音楽)」の乖離を、
「ビョークという歌い手ないし作曲家」として体現しつづけてきた、という来歴があるのだ。
そんな彼女は、実は音楽学校を開くことが夢だったらしい。
「理論は(知っていても)意味を成さなかった」というのに。
彼女の身体(音楽)感覚と矛盾するようだけど、だからこそ、
そうした感覚の教授方法にずっと興味があったのだろう。
これが、「プロジェクト」の「ワークショップ」につながる。
しかも、「アプリ」を使っての「ワークショップ」なのだ。
それでは、アプリの概略を伝えておこう。
まずは、「biophilia」というアプリがあって、これをダウンロードする。
これがマザーアプリとなって、この内部に9個の有料アドオンがあり、
そのひとつひとつがアルバム収録曲の1曲ごとに対応している。
無料のマザーアプリは"Cosmogony"という曲に対応している。
このアプリを通してさらにビョークが意図していることへの理解が深まった。
アプリの紹介と合わせて順次、楽曲紹介としてブログを書いていくつもりである。
そして、その都度、楽曲が併せ持っているコスモロジーも含めて、考えてみたい。
さて、ここでわたしが「理解を深めた」こととは、本作のシンプルさの理由と、
アプリとワークショップのつながり、その関連性について、なのだった。
このアプリ、すべてではないかもしれないけど、「ゲーム」ないし「楽器」になっているのだ。
たとえば、これは"Moon"のアプリで、月の部分をタップすると音が鳴るのである。
問題。このかたちは何を表しているでしょうか?正解はいずれ。
しかも、これはちゃんと録音できるようになっている。iPadなら、もっと楽器らしく「使用」できるのだろう。
"Crystalline"はゲームで、曲の構造とパラレルになっている。(詳しくはいずれ紹介したい)
本作は、彼女がiPad発表以前に「タッチスクリーン」の可能性を見出したことにもその起源がある。
それを新作に活かせる曲を用意していたところにiPadの発表があってすぐさま夢中になり、
そのタッチスクリーンの「自然な」直接性が自分の音楽学校プランとつながることに気づき、
より音楽の教授に特化した「シンプルな」曲を構想するようになった、というわけなのである。
「音楽は凡庸」という評があることを先に書いたが、それは本作の音の少なさと歌メロの平板さによる。
わたしが強調したいのは、それがワークショップで使用するための意図されたシンプルさであること、
また、そのシンプルさが「こどものための」ワークショップを想定しているためのものであること、である。
おそらく、ワークショップでこどもといっしょにアプリを使いながら曲の構造を教えたり、
パタパタとタップして音を紡ぎながら歌い歌われることで、曲の別の面が出てくるはずなのだ。
ビョークは、きっとそこまで意図ないし期待しつつ、音やメロディを「抜いた」のだと思う。
彼女は感性を重んじる天才肌の「天然音楽家」である反面、
必要とあらば学術書まで探究する分析的知性をも併せ持っている。
それゆえ、そう軽々に「凡庸」と断罪するわけにはいかないだろう。
本作の持つポテンシャルの射程は、予想以上に大きくなり得るからだ。
(実際、アプリで楽曲に触れたことで新たな魅力に気づいた。)
そして、そこまでシンプルにしたために彼女の声の存在感、いや「生命感」が増したように思えるのだ。
わたしが打たれたのはまさにその点で、鉱物的で硬質な宇宙観(=音像)のなか、
ビョークのエモーショナルでプリミティヴな声が、生命力豊かな花のように感じられたのである。
本作で重要な働きをした「創作楽器」については、ビジュアルで見ていないため割愛した。
ドキュメンタリーでその全貌が捉えられることと思うし、楽器を弾かないわたしには荷が重い。
なお、このブログは、本作の国内盤で解説をなさっている新谷洋子氏に拠るところが大きい。
念のため、付記しておく。
あの・・・問題が解けません。
返信削除彼女の音楽にあまり触れてこなかったので。
ANZAさんが好きって書いてたので、触れてみようかとは思っているんですよ。
>kanaさん
返信削除おや、わかりませんでしたか。では、回答は来週半ばあたりに。
ビョークは、どのアルバムもとっつきにくいところがあるので、
この際ここから入っていってもよいと思いますよ。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のサントラが聴きやすいのですけど、
ああゆうのは映画とセットですからね。映画は、大嫌いな監督なんで見てないです(笑)