タイトルの表示と同時に、こどもが描いたと思しき絵が映し出され、
牧歌的で穏やかな、しかしどこか薄っすらと虚ろな恐さも感じさせる曲が始まる。
実は映画の内容を先取りしているこどもの絵がスタッフロールとともにつづき、
わずか90秒程度の短い巻頭の最後、一枚の絵をキャメラがクローズ・アップすると、
"Erase una vez..."「昔むかし…」という文字が浮かび上がって、映画が幕を開ける。
「1940年頃」の「カスティーリャのある村」に、一台のトラックが一本道をやって来る。
「オユエロス村(Hoyuelos)」という貧相な看板でかろうじてその名が知れる寒村である。
とくに目につくものがない広場に、こどもの歓声とそれに応じるような車の警笛が聞こえてくる。
「映画が来たよ!映画が来た!」とはしゃぐ何人ものこどもたちに囲まれたトラックが、
その裏にこどもが貼りついているというオマケつきで、公民館にようやく到着する。
「映画の缶づめだ!」「何の映画?」「恐い映画?」「カウボーイの?」
口々にきいてくるこどもに向かって、支配人らしき太った老人がこう答える。
「世界一すごい映画だよ」「これまでで最高の映画だ」「あとは見てのお楽しみ」
映画はジェイムズ・ホエール監督、ボリス・カーロフ主演の『フランケンシュタイン』だった。
薄暗い場内に、こどもが椅子を抱えてどんどん入って来る。黒服に身を包んだ女性も多い。
映画が始まるや否や、銀幕にはタキシードを着た男が現れて「映画の注意」を述べてゆく。
その異様なオープニングを固唾をのんで見守る人々のなかに、われわれは主人公の姿を見てとめる。
正装の男が口上を終えると暗転し、虫が飛ぶ羽音が聞こえてきて初老の男のアップに切り換わる。
男は養蜂家らしく、顔を覆うマスクをつけて厳格な面持ちで蜂の巣を取り上げ、何事か考えている。
作業をつづける男の姿に何かを読む女の囁き声が重なり、手紙を書く手元が映されてそれが手紙と知る。
手紙を書き終え、テレサと署名した女は自転車に乗ると、地平線を見はるかす一本道を下ってゆく…。
冒頭の10分で、わたしたちはいとも簡単にこの映画の世界に魅せられ、入り込んでしまう。
「映画は詩である」と公言するビクトル・エリセ (Victor ERICE / 1940-present)の長編第一作、
直訳すると「蜂の巣の精神(The Spirit Of The Beehive)」となる1973年の『ミツバチのささやき』は、
狭い《社会》を超えてより開けた《世界》に誘うところの「詩」と呼ぶに相応しい一作だ。
公開時のポスター。スペイン映画。99分。スタンダード。
大学の一回生だったころ、この映画を見たことで決定的に「映画の見方」が変わった。
好きな映画は数多くあるものの、「もっとも大切な映画は?」と訊かれたら、
何の迷いも気負いもなく『ミツバチのささやき』と即答するだろう。
ストーリーはごく単純だ。
『フランケンシュタイン』を見たアナは、姉のイサベルが苦し紛れについた嘘を信じてしまう。
あの怪物は死んでなどいなくて、仲がよくなればいつでも姿を現してくれる「精霊」なのだと。
村外れの井戸のある廃屋に「彼」はいるのだと、暗に示すイサベル。ひとりで再訪するアナ。
学校、キノコ狩り、父と母、邸宅、遊びなどの日常風景を挟みながら、アナは何度も廃屋に赴く。
月の出た晩、ひとり夜を明かしたアナは後日(翌日と断定はできない)、とうとうある男に出会う…。
これでもう全体の4分の3だ。しかし、ストーリーなど二の次である。それだけ密度があるからだ。
初めて見たとき、この世界の圧倒的な豊かさに打たれ、色褪せた現実に戻るのが厭わしかった。
自分が失ったと思しき領域の広大さとくらべて、その代償に得た諸領域に貧しさを感じたのだ。
あれから10年以上経った、という厳然たる事実が胸中にざわめきを引き起こしはするのだが、
毎年、10月になると必ず見ていた映画を、先日久しぶりに赴いたアテネ・フランセで見てきた。
そんな大切な映画を、しかしいったいどうやって語ればいいのだろう。
あらゆる側面からすでに語り尽くされ、新たにつけ加えることなどありはしないと言うのに。
例えば、アナとイサベルの明瞭な対比に関する考察など、誰にでもできる。
「映画はウソ」と理解しているイサベルは、この静けさに満ちた映画のなかでもっともよく喋る。
言語によって森羅万象たる《世界》を切り取り、人間の《社会》に引き寄せて理解、認知する。
一方、虚構と現実の区別がつかないアナは、主人公であるにも関わらず滅多なことでは喋らない。
その代わりに、「神の瞳」とまでに評されたあの大きく潤んだ瞳で《世界》を汲み取り、語る。
ラカンの言葉を使えば、言語-人工-《社会》側のイサベルは「象徴界」に、
表象/イメージ-自然-《世界》側のアナは「想像界」に、それぞれ当て嵌まる。
文学史や映画史を参照しつつ、神話学に寄り道して父フェルナンドの考察をすることも容易だ。
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』とホエール版『フランケンシュタイン』の相違。
劇中で引用されるメーテルリンクの『蜜蜂の生活』を経由して、父フェルナンドの異貌を捉える。
『フランケンシュタイン』の副題にある「あるいは現代のプロメテウス」から研究者としての父、
それも、プロメテウスという工人的神格がその知性ゆえに蒙った罰をも匂わせることで、
神話的かつ魔術的な、しかし過去への含みを持つ人物としての父を描くことができよう。
西洋絵画、とりわけフェルメールを想起せずにはいられないほど美しい屋内のシーンについて、
手紙を書いたりこどもにおめかしをしたりする母、という近代的なモチーフを読み込んでもいい。
さらに、何度か映し出される絵画の「読み取り」という作業もできるかもしれない。
(もっとも、絵画の特定にはいささか骨が折れそうではあるが。)
社会史からの言及も、それを元にした寓意の解読も、当然のように可能だ。
スペイン内戦の傷跡、フランコ体制への批評的暗示であるところの「寒村」と「家族」と「男」。
また、父と母の描写に秘められた語られざる物語は、その省略に気づけば気づくほど謎めいていく。
(この映画の公開時点ではまだフランコ体制下だったことを、ゆめゆめ忘れてはなるまい。)
だが、万言を尽くしてもこの映画の豊かさには至らない。
むしろ、考察という「解釈の魔」から逃れねばならない。
だから、あとはわたしの好きなシーンを述べるに止めよう。
いや、それだと映画全体に触れねば気が済まないか。
ならば、アナが登場するシーンにだけに限ろう。
フランケンシュタインの怪物が花を持った少女と束の間の交流をはたす場面を、
いてもたってもいられないとばかりに口を開け身を乗り出しながら見つめる姿。
映画を見た帰り道、公民館や学校よりも大きな自分たちの家(邸宅)の門を走り抜けながら、
「フランケンシュタイン!」「(叫び声)!」「フランケンシュタイン!」「(叫び声)!」
と奇声をあげるふたり。それにつづく、夜になって祈りを唱える静かなささやき。
丘の上から井戸のある廃屋を見降ろし、そこに向かって走り出すふたり。
それと同時にアンデス調の音楽が始まり、ふたりは小さな白い点となる。
広大な大地を雲の影が過ぎ去ってゆく。脳裏に焼きつく一本の立ち木。
ひとり廃屋に戻ったアナが、井戸にむかって「アーオー」と精霊に呼びかける。
子猫が威嚇しようと声を上げるも、どうにも間の抜けた響きになってしまうような、声。
父親が出かけた朝、ベッドの上で跳ねまわりながら枕をぶつけ合うふたり。
くちのまわりにシャボンを塗りながら、「これでおヒゲがとれるのね」と笑うアナ。
線路に耳を当てるふたり。汽車が目にとまると、吸い寄せられるように動かなくなってしまうアナ。
「アーナ!」と声を荒げて呼ぶイサベル。線路わきから、汽車が通り過ぎるのを見届けるふたり。
父親が部屋で飼っているミツバチを神妙な面持ちで眺め、網越しに息を吹きかける。
でも、ミツバチにその息は届かない。それとなく手を網に持ってゆく、慎重な動作。
イサベルの「死んだふり」に騙され、泣いてしまうアナ、笑うイサベル。
イサベルやその友だちがやっている火渡りをつまらなそうに眺め、
家政婦のミラグロスが呼びに来るまで焚火のそばで座っている姿。
月を睨みつけるように凝視し、目を閉じると「線路・汽車・男」の幻視につながるシークェンス。
もう、これぐらいにしておこう。「あとは見てのお楽しみ」だ。
わたしとしては、このブログを読んでいるひとには必ず見てもらいたい。
「できれば」ではなく、「必ず」なのだ。そこまで強い言葉を使いたくなる。
ただし、時期を見極めて、静けさを欲したときになってから見てほしい。
急ぐ必要はない。時期が来れば、いずれ邂逅することもあろう。
つけ加えると、エリセの長編第二作『エル・スール』は「この世でもっとも美しい映画」である。
勝手にそう断言することにしている。併せて見ていただきたい。
Moonさんが【必ず】っていうくらいだから、観ないと駄目ですね。
返信削除私にとっての【時期】がいつかはわからないけど(今かもしれない/笑)必ず観ます。
>kanaさん
返信削除「おもしろい!」ってゆう映画ではないのですけど、
だからこそ「こんな映画があったのか…」と思うはずです。
たぶん、となりに『エル・スール』も置いてあるはずなので、
そちらもいつか見てほしいですね。