(こちらを聴きながらお読みください)
巻頭、工事現場のドリル音で始まり、その標識が製作者リストとなっている趣向。
犬たちが画面に登場し、街灯に「マーキング」して去っていき、
残飯を漁ったり、馬車を追いかけたりしているうちに1匹ふえて、
手前は旧市街の壁の残骸、向こう側は灰青色のモダンな真四角の集団住宅という風景を疾駆、
弓なりのカーブを曲がると、そこは整然とした住宅街(やはりモダン)。歩き出す犬たち。
そのうち1匹は、赤黒のチェック柄のチョッキを着たダックスフント。
見るからにいいところ出のおぼっちゃま犬。ほかはのら犬といった風情。
ダックスフントはある家の鋼鉄製の門をくぐり(チョッキが引っ掛かって脱げそう)、
玄関へとつづく庭の曲がりくねった歩道の上をポンポンと走って、飼い主のもとへ。
脱げたチョッキを見咎めるおばさん(ヘンなパジャマ!)。
羨ましそうに柵から顔を出してその光景を見つめるのら犬たち。
いえからは恰幅のいい黒ぶち眼鏡のおじさんが出てきて、おばさんがかいがいしく出勤の支度。
忙しげな朝の様子だけど、何でもかんでも拭きまくるおばさんに「ぷぷっ」と笑ってしまう。
本当にこの熟年夫婦のこどもなの?というほど小柄な少年がおじさんの車に乗り込んで、出発。
そろそろと門まで進む車まで拭き拭きするおばさん。いってらっしゃいとばかりに布ごと手を振ると、
あらヤダ、まっ白いホコリがバサッバサッと出てきちゃった。
その次?次はね、もちろん、ジャズなんだ。
軽快な騒々しいジャズが流れ、マシーナリーで画一的で、やっぱりモダンな車また車。
スーパーみたいな小学校に着くこども、会社に着くおじさん。
ところ変わって市場。さあさ、やっとこさ「伯父さん」のご登場。
包み紙に使う新聞紙がぶら下げられてる八百屋の屋台。
ご丁寧に首を傾げて、その新聞紙を立ち読み中。
隣では女の子がトマトを落としちゃう。
それに気づいた伯父さん、オヤとそちらへ。
すると八百屋のおっちゃんがどやしつけてきて、伯父さん困惑。
屋台の下では、伯父さんのバックに突っ込んであった魚(牙がある魚!)と張り合って牙を剥くお犬が。
どうにかこうにかその場は収まったらしく、下宿へ戻る伯父さん。
なんともヘンテコなつくりで、窓や通路や階段から、姿勢正しく歩く伯父さんの姿を何度も散見。
最上階の伯父さんの部屋まで、それこそ長い旅路かと思えてしまう道のりに、
くすくす笑いも次第に大きくなるってもの。
それから?あとは映画を見てほしいな。『ぼくの伯父さん』っていうフランス映画なんだけど。
監督はジャック・タチ(Jacques TATI /1907-1982)。116分。1958年。スタンダード。カラー。
え?古いって?バカ言っちゃいけない。時代だけで決めつけちゃいけないよ。
10年代20年代のサイレントだろうが、つい最近公開されたばかりの話題作だろうが、
何が自分の「お気に入り」なるかなんて自分の目で確かめてみるまでわからないもんだよ。
でもまあ、同時代のものは素晴らしい(「共感」する!)、むかしのは古臭い(「共感」できない!)、
なんていう感性ないし知性の持ち主に、四の五の言ったところでどうにもなりはしないのだろうけどね。
でも、そんなひとに限って武将好きだったり、エジプトがどうこうとか古代に「ロマン」だとか言うんだ、
まあ、どうでもいいんだけど、ちょっと嫌になっちゃうときもけっこうあるんだよなぁ、ホントのところ。
今日はね、フィルムセンターで『ぼくの伯父さん』を観てきたんだ。
過去にビデオで4回、BSで2回、名画座で1回観てたけど、最後に観てから5年くらい経つのかな?
フィルムセンターは京橋にある「東京国立近代美術館」の分館。
未だに「整理番号制」を導入しないで、たとえご老人方でも立って並ばせる悪名高い「名画座」。
まったく、空いているときならいざ知らず、今日みたいに人気作になるとソファがすぐ埋まっちゃって、
お年寄りでも立って並ばされるのを見ているとイライラしちまったよ。まあ、ぼくも立ってたんだけど。
来た順に整理番号配ってればあんなことにはならないのに、いったい何考えてんだろ。
いや失礼、『ぼくの伯父さん』だったね。
ひとことで表すと「コメディ!」で、ギャグの数々は基本的にサイレントの文法に則ったものがほとんど。
でも、サイレント時代と違って「バカやドジを嗤う」みたいな底意地の悪いものなんかではなくて、
ちょっと間の抜けたひとが、テンポや認識がズレたばかりに巻き起こしてしまったちょっとした騒ぎ、
てゆうテイストだもんだから、こう言うのもどうかと思うけどとても「かわいい」コメディなんだ。
(「エスプリが利いた」「こ洒落た」「洗練された」なんてコトバで言いたくないんだなコレが)
タイトルにあるように「ぼくの」とあるんだから、論理的必然から甥っこが導き出されるわけで、
仲のいい熟年夫婦のこども、ジェラールくんが「ぼく」、そのお母さんが伯父さんの妹、というわけ。
ジェラールくんは、モダナイズされた新居で「箱入り息子」よろしくバカ大切にされているのだけど、
すべてが整然と規格化されたボタンだらけの家で大人しくしていられるようなこどもじゃあなくて、
じつは悪ガキどもといたずらを仕掛けたり、汚い手でジャムや砂糖を塗ったくった揚げパンを食べたり、
そして何より、分別ある大人とは別宇宙の住人たる伯父さんが大好きな、本当はよく笑うこどもなんだ。
(両親といっしょにいるシーンでは、一度も笑わない。伯父さんがいなければ。)
あのね、この映画って「物質文明を批判」とかお門違いなこと書くひとのせいで誤解されてるとこあんだけど、
実際はそういった批評的なとこはないんだよ、だってあれは「誇張」というギャグなんだから。
(もっとも、それもまた「批評」と言えば言えるけど、あくまでもそれは二義的なこと。)
焦げついたステーキを、キッチンのボタンを押してひっくり返すのなんてギャグ以外の何なのさ?
それにね、言うなれば「自然/こども(動物)」側の伯父さんと構造的に対立せざるを得ない、
「社会/おとな」側のお父さんだって、別にまんま悪役てわけじゃないどころか、ただの「常識人」だもの。
べつに批判されていないんだ。伯父さんに振り回されてふうふう言ってるけど(太ってるし)、いい人なんだ。
最後、伯父さんを見送るときに悲しそうな顔をしていたんだし、どうしてこの善人が批判されてると思うんだろう?
ん、また脱線したかな。でも、何が語りたかったんだっけ?
そうそう、この映画はコメディ。しかも「かわいい」コメディなんです。
完全に統制された(モダンな家のように!)映画的空間なのに息苦しくないのは、
それこそ「執拗」とさえ言いたくなるほどのギャグにつぐギャグの連続のため。
まったく、だれがあんな魚の形をしたバカげた噴水を思いついたんだろう?
来客を告げるベルが鳴ると門扉を空ける前にスイッチオン。客のランクによって水の高さを調節、なんてのを?
ユロ氏(伯父さんの名前!)のあの下宿は?ちょっと、ヒッチコックの『裏窓』(1954)みたいだったよね。
そういえば、パイプをくわえたユロ氏の横顔ってヒッチみたい。かわいげのあるユーモアも似ているし。
ああそうだった、この映画、なぜだかやたら「足」を強調するんだよなぁ。
ユロ氏が下宿の玄関から自分の部屋までの壮大な旅路において、チラッと見えつづける「足」。
面接先で自転車を止めたときに踏んでしまった白い粉のため、くっきりと跡をつけてしまった「足」。
庭の敷石が飛び飛びになっているため、おっかなびっくりで一歩一歩すすむメイドの「足」。
噴水が(伯父さんのせいで)壊れ、テーブルやお茶を持って庭を移動するパーティ参加者たちの「足」。
決まってシャッフル調のリズムでステップをリズミカルに踏んでしまう社長(=お父さん!)秘書の「足」。
もちろん、伯父さんはいつだってちょっと変わったリズムで歩く「足」を持っているしね。
だからどうした、ってわけでもないんだけど、久々に観てて「また足だ!」って喜んでたもんだから、つい。
もう全編ギャグだから、どこもかしこも書いておきたいんだけど、観てないひともいるだろうからやめておこう。
こどもたちのいたずらのとこなんて、ホントにケッサクなんだ。漢字の「傑作」じゃなくてカナの「ケッサク」ね。
それに、いたるところで「名演」を繰り広げてくれる犬たち!いやはや、どうやって撮ったんだろう?
動物に「名演」をさせることができるのは「名監督」だけ、てゆうテーゼがあるくらいだからね、さすがはタチ監督。
ゴダールやトリュフォーなど、先行世代を墓場送りにしたヌーヴェルバーグ一派に師事/支持されたほどだもんね。
おっと忘れてた、そのジャック・タチ監督が「伯父さん」ことユロ氏を演じていたその人なんだよ。
元々パントマイムをやってたひとだから、本編でもほとんど身ぶり手ぶりだけ。
(一回だけ喋るんだけど、どこで喋るかは黙っておこうか。)
ユロ氏の、こどものように純真で、でも大人だから礼儀正しくて、
なのに、一目見て「それ」とわかるほどどこかズレている、
てゆう難しい役どころを飄々と演じているタチ。
彼はわずか6本の長編しか撮らなかった。
短編があといくつか。
出演もいくつか。
でも、それで充分と言えるほど素晴らしい作品を残してくれたひと。
観たことのないひとは、いつかのんびりと観てほしいな。音楽も「かわいい」し、ね。
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