2011-11-06

HEAD PHONES PRESIDENT at Hosei Univ. Ichigaya Campus on 5th Nov

 

昨日、第64回自主法政祭に出演したHEAD PHONES PRESIDENTを観てきた。

4月から8月の間に行われたライブについて何も書いていないままだけど、
「Hit the iron when it's hot」と言うし、いまのうちに書いておきたい。

なお、諸事情で会場入りが遅れたためHPP以外はBLOOD STAIN CHILDを観たのみ。


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会場が暗転するも、校舎のホールということで通常のライブのようには暗くなり切らないなか、
明るいようでそうではない、浮遊感と高揚感が入り混じったドリーミングなSEが流れ出すと、
Hiroさん、Batchさん、Narumiさんそれぞれがスポットライトを浴びながら登場する。

メロイックを掲げたり一礼をしたり前方の客とハイタッチしたりと、
各自の手順を踏んでから楽器隊がその準備を整え終わったころ、
合わせた両の掌にマイクを挟んだAnzaさんが、半ば目を閉じたままステージ中央へ。
膝をつき悲しげな声を何度か響かせるとSEは終わり、いよいよライブが始まりを迎える。


Hiroさんが"Nowhere"のイントロを奏でている間、
いまにも飛びかからんとする鎖に繋がれた獣、ゲートが開く直前の昂奮した競走馬、
といった雰囲気をその見開かれた目と大きく開かれた両足に纏わせていたNarumiさんは、
Anzaさんが叫びヘヴィなリフが炸裂するや否やようやく解き放たれたとでもいった勢いで、
はやくも曲に同調しながらその身体を存分に暴れさせ、観る者をはるか彼方に置き去りにしていく。

これまで何度も同じことの周辺をなぞりながら書いてきたのだが、ここでも繰り返す。

HPPのライブはとても特異だ。ただメンバーの運動量が多く、またその動きが激しいだけではない。
激しい動きそれ自体が他のロック・ミュージシャンとはまったく違う位相にある、と言うしかなく、
それは彼らのライブを観たものならだれもが抱く感慨であり、多くの場合「舞台のよう」と言われる。
しかも、舞台劇など観たことのないものですら、そうした感慨を洩らすのだから猶のこと特異なのだ。

なにが「舞台のよう」なのか?「舞台」という言葉にどんな意味を込めてそう語るのか?

演劇理論に踏み込まねば語りにくいため、詳述は避ける。簡単に言おう。

その瞬間その瞬間を「用意されたもの」ではなく「起こっ(てしまっ)たこと」として提示すること、
「楽曲をなぞる」のではなく「楽曲でなぞる」こと、それを当然のものとして身体化すること。

わかりにくいだろうか?要は、その場で曲の一部になり切っている、ということだ。
一方で、それと同時に没入しすぎないような冷静さをアタマの片隅に置いている。

舞台劇における演者が、台詞をすべて覚え身体化し、舞台に上がる直前でその台詞をきれいに忘れ、
演じる人物になり切った上で、叩きこんだ台詞を自らの言葉として口にのせていくのと似ている。
また、演じながらあらゆる算段を思い、ときに観客の様子を窺う余地を残している点も、似ている。

そうした、意識されかつ無意識化されたものの表出/表現プロセスの近似的な様相が、
舞台劇を知らぬ者にさえ「舞台のよう」と言わしめる「なにか」を現出せしめているわけだ。

わたしはこれを「事件/アクシデントとしての時空」と仮に呼んだことがある。
ある種の認識論にまで踏み込まないと満足のいく解説はできない。ライブに戻ろう。


"Desecrate""Labyrinth"と、序盤ではすでに定番と化している激しい曲がつづく。

前回観たライブから間に2ヶ月以上挟んでいるためか(これだけ空くのは2010年の春以来)、
久々に見るBatchさんのドラムスティックがことのほか太く見える。ほとんど凶器である。
それであのパワーヒッティングをかますのだから、その迫力たるや相当なものだ。
(あれでダブル・ベース・ドラムだったらさらに恐ろしく感じられただろう。)

7月に発売された3rd DVDのDELIRIUM では、粗い音像ゆえ"Desecrate"のドラムの迫力が尋常ではなく、
ドラムが入るところでのけぞってしまったものだが、ライブだと毎回「それ」であるから恐ろしい。


だが、そうした比較的ロック然としたカタルシスを孕んだ迫力を見せながらも、
すぐさま別のフェイズに難なく移行するところがまた、HPPのHPPたる所以か。


"Labyrinth"が終わると同時にAnzaさんが膝から崩れ落ち、静かな音が紡がれていく。
その音に次の曲が予想された。ライブではお馴染みのフレーズに近づいていくのがわかる。

いずれ消えていくのだと予めわかっている光を感じさせる、儚く美しいメロディが一転、
沈み込んでいく音が剣呑で居たたまれない空気を醸造すると、その場の色を塗り替えてしまう。

ゆっくりと鎌首をもたげた"ill-treat"が、そこに込められた「なにか」を一息に飛散させる。
激しいがそれ以上にひどく内向的な曲で、自分も「なにか」を強制的に同期させられているのか、
この曲を観ているときは身動きをとる気がせず、蛇に睨まれた蛙よろしくいつも縮こまっている。


さらに異様な曲がつづく。8月の大阪公演が初演の曲で、発表順から新曲3としておく。

初めて観たとき、これまたえらい気持ち悪い曲を作ってきたもんだ、
と呆れ心地にも似た感嘆の念を抱いたものだが、とても奇妙な曲だ。

"f's"、"Grieve"、"Just Like"、"PALAM YA-DA"などに近い感触の曲だけど、
もっとささくれたギターの音やAnza語の気持ち悪さはそれらより上だろう。

展開が一筋縄ではいかないのはHPPの多くの楽曲の特徴ではあるものの、
この曲の中盤以降の急な展開はほとんど聴いたことのない類の「急さ」だ。

あの気持ち悪さをうまく言葉にできなくてもどかしい。

生理的嫌悪感を催す生物や事物を目にしたときのようで違い、
厭な事件を耳にしたとき胸中に広がる吐き気に似た思いのようで違い、
精神の不安定なひとを目にしたときの身構えるような緊張感とも違う。

こちらの居心地が悪くなってくるような、それでいて到底その場を去る気にならないという、
二律背反した感覚をもたらすという、なんとも曖昧で厄介で気味の悪い曲なのだ。


さらに新曲がつづく。こちらは7月の名古屋が初演の曲だ。同様に新曲2としておく。

これは、DELIRIUMにも収録された新曲1と近い印象の曲で、リフがかなりヘヴィだ。
初めて聴いた名古屋公演から徐々に変わってきたようで、新曲1との差別化が進んでいた。

当初は、新曲1と2のサビが似通っているという印象が強かった。(リフは全然違う)
どこがどう変わって「差別化が進んだ」と感じたのかはわれながら定かではないし、
もしかしたら曲に慣れただけで、初めて聴いたひとは同じことを思ったかもしれない。
ただ、わたしと同じ感じ方をしたひともいたので、やはり何かが変わったのだと思う。

系統で言えば「祈り」の曲に属するのだろうが、ここまでの激しさはなかった。
かといって、次作が「かなりヘヴィなアルバム」になると短絡する必要もない。
これらの新曲たちは完成形ではないのだし、まだ3曲しかわからないのだ。

なんにせよ、来るべき新作にはこのバンドにしか期待できない楽曲が収められることになる。
それだけは間違いないだろう。それまで、当分の間は間欠泉的なライブで渇きを癒すしかない。


めずらしく、ここでAnzaさんがMCをとった。アンコールを除くと、おそらく過去最長である。
この学園祭に出演できたこと、スタッフの学生や観客の学生、学生でない観客に謝意を告げ、
「(HPPは)あまりノリノリなバンドではなくて、後半になるとどんどんダークになっていくんだけど」
と照れ隠しにも見えた笑顔で言いながら「あと3曲あります」云々と言った後は、
すぐに「こちら側」を離れ、曲の世界である「あちら側」に行ってしまった。


Narumiさんがコードを鳴らし出し、"Light to Die"へ。HPPにとっても特別な曲だ。

ここまで触れずに書いてきたが、Hiroさんのステージングも随分と変わった。
以前はもっと控えめというか、控えざるを得なかったというか、動きは少なかった。
はっきりといつからとは言い切れないけど、四人編成になってからはさらに動くようになり、
最近では、ソロに集中するとき以外は常に動いているのではないか。

Anzaさんの衣裳も、ボロボロになって久しい。
去年12月の水戸公演から着用しているニットの上着は半壊状態で、
そのステージングが如何に激しいのか、あらためて思わざるを得ない。

Narumiさんは時折、幼児に退行したかのような大きな笑顔を見せながら演奏しているときがある。
本当に楽しくて笑っているのかもしれないし、自分でも気がついてないときもあるかもしれない。
没入して笑っているかと思えば醒めた表情に戻っている。激しく動く。目を閉じ静止する。座り込む。
そのすべてがおそらく等価なのだろう。それが「自然」なのだろう。身体的にも、音楽的にも。


どんなバンドも「全力で」ステージに臨んでいることだろう。当然だ。そうでなければ困る。
それなのに、HPPの「全力」はどうしてこうも他のあらゆるバンドと違ったものとして迫ってくるのか。
(その理由の一端は上記したことに含まれるが、それだけではとてもじゃないが足りないのだ。)


Batchさんの強烈極まりないヒッティングから"Endless Line"が始まり、
その激しさがいまもなお増殖しつづけている"Sixoneight"に至る。

初演は2008年6月だ。それがいまもなお「育ちつづけている」という現実がここにある。
いや、しかしそれは驚くに値しないことでもある。すべての曲が変わってきているのだから。

変わった、というより、ライブの場において新たな「なにか」が引き出される、と言うべきか。

毎回毎回ライブが違う、とは音楽的な(採譜的な、と言ってもいい)点に留まらず、
同じ曲でも受け取る印象がまったく違う、という認識論的な点に敷衍している。
(言うまでもないが、そこに印象操作的な小細工は一切ないと断言する。)


この日もまた、カタストロフィと称したくなるエンディングを迎えて終了。


時間が差し迫っていたらしくすぐにアンコールに戻ってくると、
「時間がないからチャッチャとやるね」と言うAnzaさん。
久しぶりに髪を束ねての再登場であった。

かつては髪を束ねるのがアンコールの習わしだったのだが(とくに2009~2010年)、
そういえばワンマン・ツアーに始まった今年は一度もしていなかった気がする。

最近はアンコールの定番となっているためか、本来は悲しかるべき"Chain"なのに、
どうしてもある種の幸福感を湛えた曲として、喜んで受け止めてしまうのだった。



SET LIST

01. Nowhere
02. Desecrate
03. Labyrinth
04. ill-treat
05. (new song 3)
06. (new song 2)
07. Light to Die
08. Endless Line
09. Sixoneight
Encore
10. Chain



次に予定されているライブは今月27日の激ロックFES vol.9だ。
出演バンドが多いので時間は短いだろうが、楽しみに待つことにしよう。


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4 件のコメント:

  1. A-ane

    この世に言葉や文字という形に残るものがあって良かった。
    この引き込まれる言葉や文字に私は救われて自信を貰い生きる場所を確認させてもらってるのです。
    そして新たに何かを作れる気がしてきました。
    とてつもない…らしさ…そのものをね!
    今回も光をありがとう。

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  2. >A-aneさん

    古代から現代まで、言葉を扱う者はみな音楽に憧れてきました。

    詩人が韻律や単語を吟味するのは音楽の直接性を得んがため。
    ただ、言葉は必ずや移ろい、忘れ去られます。でも音楽は違う。
    音楽は、おそらく言葉よりも古く、もしかしたら人類より古い。
    ゆえに無尽蔵の力が引き出されつづけています。
    わたしにとっては、それこそが光であり、救いです。

    こんな文章でも、何がしかの役には立てているようで…。
    ありがたいことです。

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  3. いつもながら、読んでいて自分がそこにいて観たような気分になれます。

    私がまだHPPの空間を体験していないのは充分すぎるほど(笑)ご存知でしょう。
    それでも毎回観た気分になれるので、ありがたいです。
    いつか・・・本物のHPPを体験できるまで、DVDを観まくるしかないのが寂しいですが。

    毎回自分の気持ちがうまく伝えられないけど・・・
    【観た気分になれる】レポ、ありがとうございました!

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  4. >kanaさん

    わたし自身、追体験したくて書いているところがありますから、
    そう言っていただけるとありがたいし、うれしいです。

    まあ、今回はレポートよりも「語る」方が多かったな、
    と読み返して少々反省しましたが(苦笑)
    ちょうどいい分量で、てのは相変わらず難しいものです。

    kanaさんのHPP初体験は、12月3日になるのかな?
    もしかしたら、お会いできるかもしれませんね。

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