2013-03-23

Goodbye



わたしはふだん、「愛」や「愛する」という言葉を絶対に使わない。

橋本治はその著作のなかで、「愛‐する、というのはおかしな動詞」であり、
「それは状態を意味するため、意志の介在する余地がない」とした上で、
「だから、わたしは《愛する》ではなく、意志のある動詞として《好き》と言う」
といった趣旨の主張をしていたのだが、これにはわたしも強く同意したものだった。

「愛」もその動詞形「愛する」も、単に「使い勝手のいい」言葉にすぎないのではないか。
その意味的な強さ・重さとは裏腹に、あまりに簡単に使えてしまう。
それ故に、弱く、軽い言葉ともなっている。

いちいち例を挙げる必要もないだろう。誰もが目に耳に(そして口に)している。
感動的だがどこか胡散臭く、しかしおいそれとは否定できない言葉。

この言葉が想起させるあらゆるシチュエーションとストーリー、その陳腐な定型への抵抗感と、
こうした言葉を臆面もなく使える人たちの、ある種の鈍感さや言行一致の強度への羨望。


それでも、この言葉を使うことでしか伝えることのできない思いを抱くときを、
この言葉を使わざるを得ない、そんな状況が到来することを、どこか待ち望んでもいたのではないか。



以下に、昨晩、わたしが某SNSに投稿したものを再掲する。

わたしは、生まれて初めて「愛する」という言葉を使った。使わざるを得なかった。
そして、ようやく知ったのだ。この言葉が、どれほどの痛みに貫かれていたのか…。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


きょうは、わたしの勤めている小学校の卒業式でした。
(もっとも、わたしは教員ではないのですが)
この6年間、ずっと見てきたこどもたち80人と別れてきました。
学校の歴史に残る、もはや伝説的と言ってもいいほど手のかかる大変なこどもたちで、入学式から卒業式まで、先生方とは違ったかたちでそうした「伝説的な」所業の数々に驚き、怒り、呆れ、悲しみ、手を焼きながらも、(ときには心身ともに病んだほどでした…)結局、わたしはあの子たちがとても好きだったのだなと、あらためて述懐しています。

もう、彼らと日々をともにすることはありません。
それはそれでかなりホッとするのですけど、(もう酷い場面を見てこころを痛めることはないわけですから…)寂しくなるなと気落ちしてもいます。
転校していった子を含めると、88人。みんな本当に個性豊かな子で、他学年のこどもたちとは「何か」が決定的に違うのでした。(これはわたしの贔屓目ではなく、先生方も同意してくれるでしょう…)
そして、これはわたしが一方的に思っているだけかもしれませんけど、わたしは彼らとの間に「絆」を感じていました。ちょうど20歳、年が離れているにも関わらず、わたしたちはどこか対等な存在として、お互いを認識していたようです。それだけ彼らはこどもらしくなく、かつわたしはこどもだった、ということなのかもしれません。
彼らにとってわたしは友だちのような存在で、またわたしにとっても彼らは友だちのような存在だったのでしょう。また、わたしがときに兄のようなおじさんであり、彼らが弟や妹のようでもある、そうゆう関係でもあったでしょう。
こんな関係をだれかと築くことは、おそらくもう二度とありません。

愛していました。こころから。
いや、いまでも愛しています。

でも、お別れです。

みんな、卒業おめでとう。

さよなら。


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「彼ら」もいつかの日か、この言葉を使うときが来るだろう。それが、善きものであることを切に願う。




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