2014-06-30

W. Axl Rose (vol.2): on his romantic vision



前回のつづきです。少しおさらい。

GUNS N' ROSES(以下ガンズ)のヴォーカリスト、アクセル・ローズをわたしはこう評しました。
アクセル・ローズというひとは典型的?なアメリカ型の天才ですよね。歴史を無化する表層性(ポップさ)や、誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さや、傍若無人な振る舞いに通底するある種の無垢といったものが、一貫して見受けられます。ロック史だけではなく、もっと大きな枠組みで捉え直したいひとです。
①表層性、②ヴィジョンの巨大さ、③無垢、この3点を挙げた上で、これを「アメリカ型の天才」とわかったようなわからないような言い方で括り、そこに「典型的?」と保留のようなクエスチョンをつけて、まあ逃げ切ったわけです。

このツイートに反応してくださった白玉さんのブログ「無垢」を受けて、解説を始めたのが前回のブログでした。そこでは③無垢を、一種の「原型的な力」として紐解くことで終わったのですが、今回は②です。

①②は大きな問題というか文脈との接合が不可欠となります。その大きな文脈が、「アメリカ」です。今回は、彼のヴィジョンの特質を語ることで「アメリカ」という汎世界性へと言及し、次回へとつなぎたいと思っております。では、始めましょう。


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「誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さ」をこう言い換えると、なにかピンと来るかもしれません。

「大陸的なスケール感」「スケールの大きい」「雄大な景色が目に浮かぶような」

アメリカのバンド/アーティストの作品/楽曲をこのように評している文章はたいへん多く、読んだことのないひとはいないのではないかと思われるほどです。確かに、南部や西海岸の音楽特有のゆったりとしたリズムや、たっぷりと新鮮な空気を肺にとりこんで歌っていそうな心地よい歌声や、愛や自由が大らかに称賛される歌詞といった、いかにもアメリカらしい「(もっともいい意味における)大味さ」を表現するのに、アメリカ大陸という広大なランドスケープを比喩・象徴・寓意として用いるのはわかりやすくて効果的ですし、実際、正しい認識でもありましょう。
(一方、だからこそニューヨーク出身のミュージシャンの個性が、「非アメリカ-反アメリカ-超アメリカ」的な例外として際立っていることに、留意しておきましょう)

もちろん、あらゆる楽曲にこうしたスケール感が伴っているわけではありません。スローからミドルくらいまでのテンポが望ましい。ことハードロックに限って言えば、いわゆる「パワーバラード」に「スケールの大きい」曲が多いですね。パワーバラード自体は、70年代からアメリカを問わず世界各地に(プロトタイプ的なものが)あったわけですが、MTVの旺盛に端緒を発した煌びやかな80年代に全盛を極めました。ハードロック系だけではなく、メインストリームのポップスやロックでも「売れ線」として支持され、「スケール感」の意味するところは楽曲やMVのプロダクションにまで波及するに至ったのでした。
(70年代末の「産業ロック」勢やAORの流行が、その土台となったのだと思います。また、あくまでわたしの勘でしかないのですが、SCORPIONSの"No One Like You"の成功が決定的だったのではないかと思っています)

こうした派手な「MTVハードロック」勢が成功した80年代にあって、原点回帰的なロックンロール(と言うにはその音楽性はあまりに個性的すぎるのですが、その精神性において、ということ)をハードロックのサウンドで叩きつけるという、一種の倒錯でもってシーンに切り込んだのが、GUNS N' ROSESでした。しかも、ルックスは当時流行のケバさにリンクはすれど、よりナチュラルなかっこよさを提示するという離れ技つきで。要するに、「ありそうでなかった」を、中身も外側も最上級のかたちで見せつけたのです。そのガンズが、究極のパワーバラードを創りあげます。それも、何曲も。ここではとくに、『Use Your Illusion I&II』(1991)に焦点を当てて論を進めましょう。


『UYI』のパワーバラードと言えばその作曲者はアクセルです。いや、贅を極めた超大作MVの制作をも考慮に入れると、作曲者ではなまぬるい。楽曲世界を創造し、微に入り細にわたって自らの意向をその映像版に注入したことも併せると、「統括者」と呼んだ方がいいかもしれません。
(クレジットに他のメンバーの名前がある曲もありますが、アクセルが「イエス」と言わない限り完成を見ないのですから、ここは「アクセル作」と考えることにします)

ここで強調しなければならないのは、MV三部作("Don't Cry""November Rain""Estranged")だけでなく、かのボブ・ディランのカバー"Knockin' Down On Heaven's Door"でさえも「大陸的なスケール感」のある、「スケールの大きい」「雄大な景色が目に浮かぶような」楽曲となっていることでしょう。(原曲もその題材ゆえに、天の高い澄みきった空を思わせる「スケール感」がありますが、もっとパーソナルな感触が強いです) このアレンジをガンズとアクセル、どちらの意向によるものと判断すべきかは難しいところで、というのも『UYI』は制作・完成・発表の過程が混沌としていたため信頼できる情報に欠けているからなのですが、当時のバンドの内情や力関係を鑑み、これもまた「アクセル作」と考えてしまいます。

さて、『UYI』に顕著なアクセルのパワーバラード志向と、その延長線上にあるMV三部作の桁はずれな「オレの世界」、これをわたしは「誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さ」としたのでした。そして、その背後に「アメリカ」という文脈がある、と。少しずつ、説明していきましょう。


まずは、アメリカにおける「ヴィジョンの精神史」を超簡単に振り返ります。

意外に思われる方もいるかもしれませんが、一般のアメリカ人とは日本人がぼんやり思っている以上に「真面目」で、格差やエスニシティやジェネレーションといった様々なバラつきを含めてもなお、基本的にはプロテスタント的な「地道にコツコツ働く」タイプの「地に足のついた」生活を是としています。まあ、地味なんです。ですから、想像力に乏しい。(大量生産品のパッケージや広告、TV番組や「良識家」の顔をご想像してください) ごくごく一部の天才だけが、自らの夢をかたちにすることができる。つまり、異端のみが「ヴィジョン」を提示するのです。

アメリカにおいて、強烈なヴィジョン(幻視)を提示してきた者の多くは、文学者や発明家や映画作家でした。文学者ならポー、メルヴィル、フォークナー、ディック、ピンチョン、エリクソン、発明家は言わずと知れたエジソンやテスラやフォード、映画作家ならグリフィスやデミルといった映画創世記の監督たちが、即座に思い浮かびます。あと、ディズニーもそうですね。最近ではスティーヴ・ジョブスもここに入るでしょうか。

彼らに共通する「ヴィジョンの巨大さ」は、小説世界/発明家の思い描く未来/映画の映像それ自体に、それぞれ顕著なものとして伺うことができます。それは「誇大妄想狂的」という形容が可能なほど細部にわたって「執拗」に展開されるため、「大味」が生みがちなむだな薄さや空白を許しません。巨大なヴィジョンの隅々にいたるまで、その世界は貫徹されているのです。これは疲れます。付き合わされる方はたまったものではありません。

しかも、彼らにはロマン主義的な気質が認められます。(ポーやメルヴィルのようなアメリカン・ルネッサンスの代表者たちは、アメリカにおけるロマン主義第一世代です。ただし、欧州のそれとは半世紀近く遅れていますが) 簡略化して説明すると、社会よりも個人を、理性よりも感情を、間接的ではなく直接的な表現を、整然よりも混沌を、欲する心性ということです。自分の感情世界=作品がすべてで、それに合うように外界=他者を矯正しかねないほど、そのこだわりが強い。
(思い=ヴィジョンが強すぎて、作品が破綻してしまう場合もあります。失敗作の多さもまた、特徴です)

「うおおおおおおお!!!」と昂奮したり、
「ぬああああああああ!!!」と苦悩したり、
「うわああああああああ!!!」と悲しんだりというような、
傍からみたらアンタいい加減にしなさいよ的な大仰さを伴うと誇張したら、わかりやすくなるでしょうか。

つけ加えると、ロマン主義は「遠く-近く」の弁証法でもあります。遠くにある理想(例えば恋人)を近くに引き寄せるため対立を除去して、次のステップへと進むこと。テーゼ-アンチテーゼ⇒アウフヘーベン、この運動ですね。これがロマン主義の要諦と言っていい。もちろん、その運動は必ずしも成功しない。目的への距離は縮まらず、むしろ遠ざかることもある。そのとき、そうなるはずではなかった目的へのまなざしは、まさに「ロマンティック」なわけです。煎じつめると、ロマン主義は「距離」を必要十分条件とするのですね。


このロマン主義は各国においてそれぞれ発現がやや異なり、アメリカの場合がもっとも「スケールが大きい」のです。これまた大雑把に言うと、わたし=自分の世界がアメリカへ、さらに世界へと、どんどん上位概念へと重ねられていく、そうゆう傾向があります。わたし=アメリカ=世界。

もちろん、そのすべてに見受けられるというわけではありませんが、これは社会法則に反発したイギリス・ロマン主義が称揚した「自然」でも、薄明に漂うドイツ・ロマン主義が示したリリカルな「小世界」でも、革命に揺れるフランス・ロマン主義が掲げたドラマティックな人生が交差する「社会」でもありませんでした。もっと、自己が極大にまで膨れ上がったイメージです。『白鯨』はもっともわかりやすい例となりましょう。

そして、ここが肝心なのですが、その心性が断続的・散発的に継承されたこと、それが上記したような、奇妙な系譜を生んだのです。膨張したわたしはアメリカであり、ひいてはアメリカは世界である、というこの乱暴な論法はしかし、その強烈なヴィジョンに押されて喉元を通り過ぎ、胃にすとんと収まってしまう。


アクセルもまたこの異端の系譜に属していると、わたしは考えます。アメリカ社会にとって特異な存在であるところの、ロマン主義的気質を備えたヴィジョナリー(Visionary 幻視家)であると。文字通り、スケール(尺度・規模)の感覚がおかしい、距離感を喪失したアウトサイダーたち。

アクセル作のパワーバラードは、
第一に「パワーバラードという様式」ゆえに自動的にスケールが大きく、
第二に彼の表現したいヴィジョンが巨大であるがためにスケールが大きく、
第三に彼のロマン主義的気質が執拗なまでの細部の作り込みを促すため完成度が高い、
という(最低でも)三層のレイヤーがあると言えます。この第一の極点が、MV三部作なのです。
(『Chinese Democracy』については、今回は割愛いたします。機会があれば、いずれ)

ここで少し、わたしなりのMV三部作観を披歴しておきましょう。

聴いているだけでも様々な映像が目に浮かんでくるような、パッと聴く限りでは「ふつうに美しい曲」なのに、どこか聴き流せない「過剰さ」があります。込められた情念に「重さ」を感じる、とでも言いましょうか。長い曲は楽曲の展開がとても劇的で、聴くたびに翻弄されてしまいます。また、"Don't Cry"は『I』と『II』で歌詞が少し違うわけですが、なんて細かいことをするのだと思ったものです。
(初めて聴いたとき、まだ中学生だったわたしは「他にもこうゆうことしてるひとっているのかな?」と思いましたが、以後、「こうゆうこと」をしているひとは、未だに見かけません)

これが映像となった三部作を初めて見たとき、その情報量に面食らった覚えがあります。しかも、どのMVも「愛」と「死」の色が異様に濃い。物語はバラバラになっていて復元が難しく、象徴的な照応関係や、並行世界のような時間の多重化、事実と妄想の境界の曖昧さ、三部作でそれぞれがそれぞれに言及しているかの如き円環性など、読み解くべき因数が錯綜しています。いざ解釈しようとメモを用意してペンを持ったが最後、危うく「あちら側」に引きとめられてしまいそうになるほどです。

そして、全編にわたって映し出されるのは、つまるところアクセル、アクセル、アクセル…なのです。彼のヴィジョン=幻視が、すべてを覆っています。そして、いかにもアメリカ的な風景や小道具、人物が目まぐるしく映し出されるにつれ、スケールの大きな曲調とダイナミックな展開に促されて、いつしかその映像世界にのめり込んでしまう。ただ、記号的な円環性にもかかわらず、アクセルが提示した世界は閉じているのではなく大きく開いていて、様々な解釈を許すだけの余裕さえ湛えているかのようです。これが気まぐれによる偶発的な結果なのか、意図したところなのかは、アクセル本人に訊かなければ(訊いても?)わからないでしょう…。


MV三部作を見て、わたしは「こいつ(アクセル)アタマおかしいな」と思いました。これはわたしなりの最上級の賛辞なのですが、アタマのおかしいアーティストというのは、そうザラにいるものではありません。今回の文脈に沿って言いなおすなら、この「アタマのおかしさ」がそのまま、かれの「誇大妄想狂的なヴィジョンの巨大さ」に当たるのです。お分かりいただけたでしょうか。

アクセルのロマン主義的気質は、彼の「距離」感がおかしいことと表裏一体なのかもしれません。なにが遠くて、なにが近いのか、わからない。遠くのもの(ひと)は近づけたいし、近くのもの(ひと)は遠ざけたい。そうした精神の運動が、すぐさま大きなステージを要請してしまう。しかも、前回ご説明した通り、彼は「無垢」のひとでもあります。幼児的な全能感そのままに活動できてしまうアクセルはやはり、天才としか言いようがない男なのです。

奇しくもと言うか、いかにもと言うか、『UYI』はアクセル単独作の(他のメンバーはアルバム発表までその曲の存在を知らなかったらしい)"My World"という、そのものズバリなタイトルの怪作で幕を閉じます。オレ様の世界。「然り」とするしかありません。
(その「オレ様」の範囲が、アクセル本人にわかっていないことが、数々の問題を生み出したわけですが、それはまた別の話となりましょう)



それにしても、ミュージシャンでヴィジョナリーというひとは、あまり思い浮かびません。そもそも、アメリカのアーティストって、基本線は「健康的」なんです。あ、社会的に健全、ということです。実際の身体的健康が酒や薬でボロボロであっても、表現されるものの多くは社会に歓迎されるものであることが多いんですね。(キリスト教系の歌詞を歌うバンド/アーティストがたくさんいることは、アメリカに突出して見受けられる現象です)

ふつう、バンドでは難しいんですね。ヴィジョンとは個人的なものですから、あり得るとしたらソロ・アーティストか、個人の意向が反映されやすいバンドのメンバーの、いずれかとなります。(ガンズは後者)

ソロだとルー・リードが思い浮かびますが、彼はあまりにもニューヨーカーでした。ヴィジョナリーというより、市井の詩人だったのです。(ただし、あの異様を極めた『Berlin』だけは別…。これについては、いつか書くかもしれません) アリス・クーパー、ブラッキー・ローレス、ロブ・ゾンビ、マリリン・マンソンといったショック・ロッカーの系譜は、個人的なヴィジョンというより興行的なサーカスの文脈で語られるべきものでしょう。それに、彼らは明らかに理知的です。ロマン主義的気質とは対極にあるとさえ言えます。やはり、ミュージシャンには少ないタイプだと思われます。
(例外的人物として、ロジャー・ウォータースの名前をあげるにとどめましょう)

蛇足ついでに、もうひとつ。パワーバラードが90年代に下火になったのは、「グランジの台頭」という時代の趨勢もあるのですけど、ガンズにおいてその質が「極点」を迎えたこともまた、その要因であったろうと思います。どんな芸術ジャンルにも言えることですが、何かが極まると、あとは洗練されて質を高める反面、そのインパクトを失っていくか、ただ姿を消すかのいずれかなのですから。


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そうゆうわけで、②ヴィジョンの巨大さをご説明いたしました。

次回、③表層性(ポップさ)を説明することで、「アメリカという物語装置」に切り込みをかけるつもりです。
最終的に、「典型的?なアメリカ型の天才」としてのアクセルの姿を浮き彫りにできたら、と思います。



2 件のコメント:

  1. 「Don't Cry」のMVを観たのは大学2年の時だったかな。当時、神奈川に住んでいた中学校時代の同級生(今ではプロ野球の福留選手の奥さん)に頼んで、SONY MUSIC TV(テレビ神奈川でしかやっていなかった)をVHSにダビングしてもらった中に入ってました。
    「PURE SOFT METAL」という特集で、他にはOZZY、MR.BIG、RATT、DANGER DANGER、WINGER、EUROPE、SCORPIONSなどなど10数曲収録されていて、今でも時々観ています。
    タイトルの通り「バラード特集」なのですが、他のバンドは純粋に美しいバラード曲なのに対して、「Don't Cry」は、Moonさんの言う「重さ」や、「苦悩」のようなものが映像からも感じられて、とても印象に残っています。バンドの人気も凄まじかったですね。
    すみません、ブログの内容とあまり関係なくて(笑)。つい懐かしくて。

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    1. あのPVは、他のどんなバンド/アーティストのそれとは違いますよね。
      だいたい、ふつうに見てるとわけがわからない(笑)
      それでいて、「なにか」を表現しようと腐心しているように見えるという…。
      制作費も含め、「破格」と呼ぶほかないですね。
      他のメンバーはどう思ってたんだろう…。

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