2013-09-07

HEAD PHONES PRESIDENT / Pobl Lliw (2010)



はやいもので、HEAD PHONES PRESIDENT『Pobl Lliw』をリリースして3年経った。
(リリースは2010年9月3日金曜日。)

「アコースティック・サウンドによるセルフカヴァー作」と銘打っておきながら、その実ほとんど原型をとどめない曲ばかりが本作には並べられている。(また、新曲も収録されている。)

元々はデビュー10周年を記念して制作された企画盤でありながら、HPPの音楽性に新たな光を当てることに成功した野心作であり、旧作から次作の3rdフル・アルバム『Stand In The World』へとHPPの構成要素を(その核を残したまま)変質させつつ架橋した、重要な一枚だ。


リリースに前後して、当時まだ活気のあったMySpaceでは連日のようにレコーディングやリリースの模様がHPPのマイスペにアップされていた。収録曲のリクエストもホームページとマイスペでやっていて、そのときのバナーがこれである。

このウサギ、以前のHPPタオルが初登場。これ以後はRAZに発展解消…?


YouTubeのトレイラーにつづき、そのマイスペで先行試聴が開始された2曲("Labyrinth""Reset")を聴いて、その躍動感溢れる楽曲の鮮烈さに度肝を抜かれたことが昨日のことのように思い出される。(正確には、8月の末日あたり、ちょうど昼ごろだったと記憶する。わたしは夏休み中で、だれよりも早く試聴して――いや、2番目だった――反応したのだった。)



先行トレイラー。短すぎてアッという間に終わってしまう…。


発表後、わたしはすぐに本作の感想ブログをマイスペに書いた。しかし、いまとなってはもう読むことはできない。メモは断片的にしか残されておらず、2010年夏のHPP水戸公演のブログのように、それを復刻することは不可能なのだ。ただ、当時も現在も、聴いた上での思いや考えに変化はない。そこで、あらためて書きなおすことにした。

以前の自分の言葉遣いがどのようなものだったか参照したい気もするし、なんと言っても、初めて聴いた喜びや驚きを無意識裡に反映していたであろう、当時の文章の息吹を(そして、そうした文章を成立させていたマイスペという「場」の感覚を)もう一度わが身に受けてみたいと思いこそすれど、それは望むだけ無駄である。

以下にふたたび書かれるものは、内容こそ同一であれ、その表現はさすがに多少の向上があるだろう。それでも、当時の率直な、条件反射的な文章には敵わない。「時を同じくする」ことの鮮度とその喪失を噛みしめながら、追憶と忘却のあわい(しかし、それは等価であるどころか同じものである)に思考を漂わせつつ、書き継いでいくことにしよう。



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クラシックやジャズといったジャンルで、楽団や奏者が何度も同じ曲に挑むことは多い。でも、それをカヴァーやセルフカヴァーと呼ぶことはない。(それらは「誰々の」「いつの」「どこの」といったヴァージョン違いとして認識される。)カヴァーないしセルフカヴァーは、ポップスやロックといった大衆音楽の枠内におけるものをそう呼ぶのだ。

ただ、オリジナル曲を別のミュージシャンが演奏するカヴァーと違って、セルフカヴァーは自分(たち)の曲を自らカヴァーするため、通常のカヴァーとは趣きを異にする。前者よりも後者の方が数の上でも少なく、またアルバム単位となるとさらに例は少ない。

それでも、半世紀になんなんとするロック史におけるセルフカヴァーのヴァリエーションは、なかなかに多様である。再録もの(ベスト盤や人気のある作品に多い)や、オリジナルとは大きく異なったアレンジを施したスペシャル・ライブを収録したもの、外部とのコラボレーション的な企画ものなど、よくよく考えてみるとそれなりに思い浮かべられるものである。

ロック、とくにハードロックやヘヴィメタルといったジャンルにおけるセルフカヴァーにも、様々なものがある。交響楽団と共演してクラシカルな編曲を施すものもあるし(METALLICA、イングヴェイ・J・マルムスティーンなど)、できるだけ手を加えないリ・レコーディングものもある(STRYPER、EXODUSなど)。それでも、いちばんその数が多く、言うなれば「手っ取り早い」ものは他ジャンルと同様、「楽曲のアコースティック化」だろう。
(ちなみに、KISSはアコースティック化・シンフォ化・再録とすべてに手を出している稀有なバンドである。)


今回、あらためて紹介するHEAD PHONES PRESIDENTのセルフカヴァー作は、大きな枠で括るとしたらその「アコースティック化」枠の作品である。元々「歌もの志向」のハードロック系バンドはもちろんのこと、リフ・オリエンテッドなメタルや、グルーヴ重視のヘヴィロックといったバンドであっても、アコースティック・サウンドによるセルフカヴァーはその例を多々あげることができる。その中にあって、さらに異彩を放つ作品であるところの『Pobl Lliw』を語るに当たって、まずはその「アコースティック化」の内実について、整理しておきたい。

(なお、以下の「アコースティック・サウンド」とは基本的に電化された「セミ・アコースティック」であって、純粋な生楽器によるものを含めた上での、括弧つきの「アコースティック」であることは言うまでもない。「アコースティックって言ったって、電気通してるじゃん」みたいなムダな突っ込みは無用。)


いくつかの分類を施してみよう。大きく3つに分けることができる。
「カジュアル型」「衣裳チェンジ型」「モデルチェンジ型」の3つである。

原曲を「通常の着衣状態」と比喩的に定位した上で、そのアコースティック・ヴァージョンをそれぞれの度合いによって三つの型に振り分けるのだ。(もっと細かくできるだろうけど、これくらいで十分である。)

実例に沿って説明したほうが早い。順番にやっていこう。
なお、いつものようにHR/HMを中心に語っていく。


①「カジュアル型」

もっともシンプルかつストレートなもので、原曲のエレクトリック・ギターをアコースティックに置き換えただけ、と言ってよい。エレクトリック・サウンドのエッジやヘヴィネスが格段に弱まって音圧が小さくなり、音が軽くなる。重いレザージャケットやステージ衣裳を脱ぎ、普段着になった姿と比喩的に言えるので、「カジュアル型」である。

ボーナス・トラックなどで頻繁に耳にしてきた、それこそ「お手軽な」ものだ。ゆえに、原曲の質が厳しく問われると同時に、安易で気の抜けたものになりやすい危うさもある。もちろん、原曲がよければそうした骨組みの強度やメロディの美しさが際立つから、楽曲・歌唱・演奏が堅実であればあるほど、多くの労力を割かなくても質の高い「別ヴァージョン」の完成と相成るため、実力派バンドに好まれる手法でもある、と言えるだろう。
2011年のMR.BIGライブレポでも、わたしは同様のことを述べている。)

90年代中盤の、MTVを中心とした「アンプラグド」ブームを覚えているひとも多いと思う。バンドやソロ・アーティストが、MTVの番組内でアコースティック・ライブをやるというもので、録画・録音されたビデオ(当時)やCDが次々と大ヒットを記録していた。ジャズやカントリーが根っこにある、アメリカならではの音楽風景だったのだと、今となっては思いもする。(もっとも有名なのはやはり、NIRVANAの作品だろう。)

付言しておくと、アメリカのバンドのカジュアル型アコースティック化はカントリー/ブルーズ色(たまにジャズ色)が強いのに対して、ヨーロッパのバンドにおけるそれはクラシック/フォーク色が強いことを考えると、音楽の、出身地における「素朴さ」の位相に地域的偏差があることに気づかされもするだろう。

「カジュアル型」の代表的な名盤として、ALICE IN CHAINS『Unplugged』(1996)とGOTTHARD『D Frosted』(1997)を挙げておこう。(いずれもライブ盤)ごくシンプルに「そのままアコースティック化」しただけながら、質の高いオリジナルと比べても遜色ない出来に仕上がっている。また、音が軽くなった分、気楽に聴けて重宝する作品となっている。

他にも、多くのハードロック・バンドが90年代にこうしたカジュアル型のアコースティック作をものしている。FIREHOUSE、FAIR WARNING、HAREM SCAREM、HEARTLAND、MR.BIG、TESLAなどの作品はその典型的な例で、いずれも原曲のよさをそのまま活かした、とてもシンプルなものだ。
DOKKEN『One Live Night』だけは、アコースティックとエレクトリックを併存させた異色作。)

ちなみに、わたしがアコースティック作を好んで聴くようになったのは、1996年に当時の新作だったFIREHOUSEの『Good Acoustic』を聴いてから。いまでもよく聴く。いちばん好きなのは、HAREM SCAREMがあちこちに収録したアコースティック・ヴァージョンの数々。(後期のものはやや淡泊すぎるのだけど。)

われわれが通常「アコースティック・ヴァージョン」と聞いて思い浮かべるものの大半が、上記のようにエレクトリック・サウンドの重さや激しさを取っ払った、音も手法もシンプルな、この「カジュアル型」である。
(英語のCasualには「表面的な」「おざなりの」という意味があることも注記しておこう。)


②「衣裳チェンジ型」

やや複雑なもので、単に原曲のバッキングをアコースティックに置き換えただけではなく、そこからさらにアレンジを施して新たな印象を与えたもの、と言える。服を替えて新鮮な印象を与えることに似ているため、「衣裳チェンジ型」と呼びたい。

これは、HR/HMバンドには少なく、非HR/HMのアーティストやバンドの方が得意なようだ。前者は音楽的様式の定型化が徹底されていて、柔軟なアレンジが難しいのだろう。例えば、デスメタルのボサノヴァ化などは仮に成功したとしてもギャグにしかならない。(フラメンコ風にした「フラメタル」などという企画もあったが、やはりジョークとして流された。また、HR/HM系リスナーには、そうした高度なアレンジものが聴きたいというニーズがあまりないことも、作品例が少ない理由のひとつかもしれない。)

一方、後者はそこまで原曲の様式に囚われてはいないため、より冒険的なアレンジに望むことができる。アレンジ能力において他の追随を許さないスティングはこの手法の達人であり、自らがものした楽曲に様々な新味を持たせることに成功しつづけている。また、元IT BITESの神童、フランシス・ダナリー『There's Whole New World Out There』(2009)は半アコースティック作なので、ここに挙げるのは違うかもしれないけど、IT BITESファンには新たな発見のあるセルフカヴァー作の傑作だと断言しておく。

HR/HMにおける素晴らしい成功作として、SCORPIONS『Acoustica』(2001)を例に挙げよう。
シンプルなアコースティック化をベースとしながら、全編に渡ってスパニッシュ調のエキゾチシズム溢れるアレンジを施しており、原曲の正統派ハードロックの叙情性をラテン・フレイバーへと見事に換骨奪胎した逸品となっている。それでいて、原曲の同一性も保たれているのだから恐れ入る次第。
(実は本作を聴いて、わたしはセルフカヴァーの面白みを発見したのだった。)

他にも、アルバム単位ではないものの、ZIGGYが2002年に発表したふたつの"Heaven & Hell"はとても興味深い試みだったと思う。アルバムは夏に『Heaven & Hell』を、冬に『Heaven & Hell II』をリリース。そのタイトル曲はオリジナルの前者がハードロック、後者が「センチメンタル・ウィンター・ヴァージョン」(森重樹一 談)なのだが、これが装いを新たにした「衣裳チェンジ型」の傑作なのだ。なお、『II』には他にもZIGGY旧曲の「衣裳チェンジ型」セルフカヴァーが収録されていて、そちらも素晴らしい出来栄え。

①の「カジュアル型」よりもイメージしづらいかもしれないが、ポイントは「同じ曲なのに全然違うよさが出ていること」だ。いつも見ていた姿(オリジナル)もよかったけど、服(アレンジ)をかえるとここまで印象がかわるのか、というポジティヴで喜ばしい驚きがその核にある。これが「衣裳チェンジ型」である。


③「モデルチェンジ型」

かなり複雑なもので、アコースティック化による新たな印象づけどころか、もはや原曲から遠く離れ、独立した別の曲となっているもの。「同じ服を着ているけど赤の他人(タイトルは同じだけど違う曲)」と言っていいので、「モデルチェンジ型」である。

これは、全ジャンルを見渡しても作例が少ない。というか、わたしが知らない。(カヴァーならいくらかある。)
数少ない貴重な例として、ここではふたつだけ挙げることにしよう。

ひとつ目はHELLOWEEN『Unarmed』(2009)で、結成25周年を記念して作られた作品。当初伝えられていたアコースティック作の枠を超えて、シンフォ化やジャジーなアレンジなども加えた綜合的なセルフカヴァー作となっている。ただし、基本線はアコースティック・サウンドである。原曲を完膚なきまでに組み替えていて、ここまで原曲から離れるとわたしなどは却って痛快なくらいなのだが、そのために拒否反応も多々あったようだ。また、多数のゲストが参加していて、バンド外部からのインプットが多いことも特徴だろう。

ふたつ目は、PAIN OF SALVATION『12:5』(2004)だ。この作品が単なるアコースティック・ライブ作にとどまらないのは、その繊細を極めたアレンジの引出しの多さもさることながら、原曲のタイトル表示を大きくかえてまで全体を三部構成に編み直し、原曲が収録されていた作品(彼らはコンセプト作しか制作しない)の文脈から別のそれへと移行させるという、非常に高度で知的なアプローチが採られていることに拠る。そのため、曲がシンプルなカジュアル型アコースティック化であっても別の曲に聴こえてしまうという、音楽的アクロバットに成功しているのだ。カジュアル型や衣裳チェンジ型を内包しつつ、それでいて未だにヘヴィネスを醸し出し、かつ美しいという驚異的な傑作である。

①②と違い、楽曲の同一性が意図的になかば破棄されたもの、セルフカヴァーは口実であって、その実情は創作に他ならないもの。見せたい(聴かせたい)のは、変わったのは服(アレンジ)ではなく、ひと(曲)そのもの。これが「モデルチェンジ型」である。



以上が、わたしなりに「アコースティック化」の類型を分類したものである。もちろん、ある程度わたしの音楽遍歴による偏向があるし、その割り振りの多くは分析的である以前に感覚的なものであることを断わっておくが、それなりの説得力はあったのではないかと思う。
(ひとによっては蠍団の作品は②ではなく③だろうし、①ではなく②というものもあるだろう。)


さて、ここからが本題だ。HEAD PHONES PRESIDENT『Pobl Lliw』がどれだけ特異な作品であるのか、上記の概念を使用しつつ、詳述していくことにしよう。



Pobl Lliw (2010)

1. Hitotoiro
2. Fight Out
3. Labyrinth
4. Reset
5. Inside
6. Life Is Not Fair
7. Hang Veil
8. Sand
9. Hello
10. Col Delon
11. Pobl Lliw


HPPにとっては、これが初めてのアコースティック作ではない。2008年に2ndの『folie a deux』(2007)収録曲である"Chain"のアコースティック・ヴァージョンを、配信限定シングルとしてリリースしている。(→iTunes
(また、同年リリースの2nd DVD『Paralyzed Box』ではそのPVを観ることができる。)

原曲のインテンスなアグレッションがアコースティック化によって深い哀しみにかわっているだけでなく、長尺のギターソロを加えたことで劇的な要素が強まり、もはや別の曲と呼んで差し支えないところまで変貌を遂げている。③「モデルチェンジ型」の特長をすべて兼ね備えた曲なのだ。

ゆえに、「アコースティック・セルフカヴァー」と早い内から銘打たれていた『Pobl Lliw』は、発表前からそのクオリティを保証されていたと言ってよく、どんな手を使ってくるのか楽しみにしていた。そして、そうした”Chain (acoustic version)”から演繹される方法論が容易に予想できていたにもかかわらず、HPPはこちらの予想を大幅に上回るアレンジでもって本作を提示してきたのだった。それでは、1曲ずつ見ていこう。


1曲目の"Hitotoiro"はイントロ。都会の喧騒が聴こえてくると同時にギターの音が入り、Anzaが「Anza語」でたゆたうような歌声を響かせる。タイトルの「人と色」は、本作タイトル(ウェールズ語)の和訳である。短くも絶妙な、催眠効果のある導入である。

2曲目から本編となる。エフェクトをかけたAnzaのヴォーカル・ソロで始まる"Fight Out"(原曲は2003年の1stアルバム『Vary』収録曲)は、明るい日差しを浴びているかのような陽性の躍動感と、木漏れ日を受けながらやさしい微風を感じているときの、あの清涼感さえ湛えた曲として生まれ変わっている。

オリジナルで撒き散らしていた不穏な陰が完全に払拭されているばかりか、質的なネガポジを反転させるという荒技を、かくもエレガントにやってのけたかと驚かされた。初めて聴いたとき、わたしが快哉をあげたのは言うまでもない。

これにつづく"Labyrinth"(原曲は2007年の2ndアルバム『folie a deux』収録)は、明暗のコントラストを際立たせつつそれを融合させる、地中海音楽的なアレンジが施された曲となっている。躁的なフラメンコと穏やかなシエスタが交互に訪れる曲、とでも言おうか。(音楽的にフラメンコに近いのではなく、視覚的イメージとしてのフラメンコであると理解されたし。)ツインギターの高速ハーモニーにも驚かされた。

先述したように、わたしが先行試聴で度肝を抜かれた曲だ。"Fight Out"と同系統の躍動感・清涼感があるものの、より強い光と影の対比(及び融合)を感じる。日差しが強くなるとその影もまた濃くなるように、軽やかさのなかに凝集された闇が垣間見えるのだ。しかし、その闇は嫌悪を催させる類のものではなく、だれしも心に備えているような、ひとの原形質に触れる類のものに思える。

4曲目の"Reset"は新曲だ。当時のインタビューを読むと、当初の"Fight Out"新ヴァージョンから発展した曲らしい。トレイラーに使用されていた曲であり、また先行試聴で聴くことのできた曲だが、トレイラーではピンとこなかったのに試聴したらこの上なく気に入ったという覚えがある。

アコースティックとエレクトリックが併存するだけでなく、音作りの上でもかなり凝ったものとなっていて、以前のHPPでは考えられなかった(しかし、潜在的にもっていた)、アリーナ級のスケール感があるところに嬉しい驚きがあった。間接照明によって影がなくなった、不思議な明るさに充たされたSF的な空間を聴くたびに幻視する。そして、その空間は緑に覆い尽くされてもいて、無機的な感触よりも有機的なそれがはるかに優っているのだ。

わたしは、この曲が次作『Stand In The World』の布石であったように思えてならない。この不思議な明るさとスケール感を編み出したことが、それまでの密室性の踏破につながっていったのだ。
(HPPにおける「密室性」の変遷についてはここで述べた。)


ここまでの3曲(イントロは除外)が、わたしには一日の「昼」に相当するものに思えてならない。というのも、本作は朝~昼~夜という一日の流れに沿ったかのような展開を見せるからだ。イントロが朝、つづく3曲が昼、次の3曲が夕方、次の3曲が夜、そしてアウトロが夢、とでもいうような、三部構成(イントロとアウトロを入れると五部構成)として聴くことができる。コンセプトのないコンセプトアルバムというか、ある種の連続的なストーリー性のある作品というのが、本作に抱いているわたしの印象である。

5曲目の"Inside"(2005年発表の2ndミニアルバム『Vacancy』収録曲)からは光量がぐっと減り、薄暮がしずかにあたりを包みはじめる。原曲のおどろおどろしさはすっかり息を潜め、哀切な情感に浸されていく。

ここまで演奏面に触れずにきたが、本作を傑作たらしめているのが高度なアレンジを可能としたリズム隊の活躍にある。Narumiによるメロディアスで図太いベースラインは間違いなく本作の背骨として機能しているし、Batchの緩急自在なパーカッションが本作の多彩さを引き立てていることは、一聴してすぐに了とせられよう。とくに、「パーカッションができる(ロック)ドラマー」が実はあまりいないことを考慮に入れると、Batchの貢献度がいかに大きいかわかるだろう。上述したアコースティック化をものしたバンドのなかで、パーカッションを自ら叩くドラマーを擁したバンドは、ひとつもいないのだから。

6曲目の"Life Is Not Fair"(2001年発表の1stミニアルバム『id』収録曲)は逢魔時(おうまがとき)に当たるだろうか。ここでは原曲の禍々しさが、アコースティック化を経てもなお色濃く残されている。それと同時に、元々そこに込められていた鋭い哀しみが浮き彫りにされ、儚い叙情として楽曲を覆っているのだ。また、中間部の展開における、オリジナルの爆発的なまでに強烈なダイナミズムを、静謐なギターの独奏から素早いパッセージへの流れのなかに巧みに転化しているあたりなどは、感動的とさえ言える。本作におけるHiroの真骨頂ではないだろうか。

7曲目の"Hang Veil"『folie a deux』収録曲)だけはやや出自が違うのかもしれない。実は、この曲はHPPのアコースティック作で最初期に完成したものなのだ。おそらく"Chain"より早い。というのも、具体的な日時は忘れたが地方公演でこの曲のアコースティック・ヴァージョンを披露しているのである。
(YouTubeにその映像がある。)

映像を見る限り、この時点で大枠は完成していたように思われる。ギター・ソロやパーカッションなど、細かい異同はたくさんあるにせよ、他の曲と比べてかなりシンプルなものとなっているのはそうした制作時の事情によるのかもしれない。(それでも、①カジュアル型ではなく②衣裳チェンジ型であって、シンプルさの基準が違うことに気づかされるだろう。)いずれにせよ、落差の激しい原曲のヘヴィネスが深くうねるベースラインに託され、他のパートは切々とした感情の吐露を表現するのに専念している。


この中盤の3曲が、一日の「夕方」にあたるものだ。それも、ほとんど夜になろうとしている、空の奥や雲の下に光の残照を確認できるような、そんな時間帯だ。そして、ここから先は夜となる。

しかし、8曲目の"Sand"(2005年発表の4thシングル『WhitErRor』にエンハンスト映像として収録された、音源としては未発表曲)もまた、「夕方」の曲と言えそうな感触がある。3曲×3部というキリのいい構成を放棄して、そちらに編入してもいいだろう。残照の余韻を、紫色の空に認めることができるとでも言おうか。

原曲からして不思議な雰囲気の曲なのだ。歌詞はなく、Anza語であることもその謎めいた相貌に拍車をかけている。(Anza語に端を発した歌詞の分析はここで書いている。)この「謎」が無明としての「夜」を想起させているのかもしれない。中盤の3曲に通じる叙情性が色濃い導入に始まり、全パートの緊張感に満ちたアンサンブルが激情として迸る楽曲展開は、何度聴いてもぞくぞくさせられる。

9曲目の"Hello"と10曲目の"Col Delon"は新曲。ここに至って、空には星がうかがえるようになる。夜が来たのだ。それも、慈愛と諦念が交差しながら螺旋を描くような、どこか虚ろな「白さ」のある夜が。

この2曲は、ベースもパーカッションもフィーチュアされていない。モデルチェンジ型アコースティック化という高いハードルのクリアに最大の貢献を果たしていたリズム隊が引いたことで、本作は一気に違う様相を呈することとなった。"Hello"で開かれた空虚な白い夜は、茫洋たる宇宙を漂う"Col Delon"の母胎回帰的な闇へと接続され、一日の終わりが眠りのなかの夢であり、かつすべて(宇宙)は夢でもあるというヴィジョンへと至る。夢とは魂の彷徨であったかもしれない。

音楽的なことに言及しておくと、前者ではピアノが、後者ではシタールが効果的に使用されている。どちらにも驚かされたが、後者のシタールはインドを中心とする南アジア的なそれというよりは、本邦の琴に近い響きと旋律をもっていて、無国籍的かつ普遍的な郷愁をひそやかに掻き立ててくれている。

本作のアウトロである11曲目の"Pobl Lliw"は奇妙なものだ。それまでの展開とは切断された次元にある。つまり、ほとんど連続性がないアウトロなのだ。無表情にループされるフレーズ(Anza語)と、イントロの都会的な喧騒とは逆に森林浴でもしているような気分になる鳥の囀りや川のせせらぎの音が大勢を占める。"Reset"の音飾に通じるいくつかの電子音のみが、かろうじて連続性を保っているかもしれない。そして、あらためてイントロに戻ると、都会のノイズと森の声の間に奇妙な近似性を見出すのだった。


Hiroの驚異的なアレンジ能力と、バンドのアンサンブルが完璧に合致した傑作である。とくに、これほどまでに原曲を解体-再構築したHiroの手腕は、広汎なジャンルから称賛を受けて然るべきだろう。HPP五人編成時代最後の作品となってしまったが、Marのインプットも相当な貢献を果たしていただろうことは間違いない。できるだけ多くのひとに聴いてもらいたいと切に願う。

タワレコ以外では公式HPとライブ会場で購入できる。iTunesでもDLできるようになった。



以上がわたしなりの『Pobl Lliw』雑感である。3年前のものも、論旨自体はこのようなものであったはずだ。「イントロ+3曲×3部+アウトロ」というのは初めて聴いたときの感覚に基づいているのだけど、上述したようにいまでは"Sand"を「夕方」に入れるか、「夕方」と「夜」をつなぐ単独ポジションに置いたほうがいいように思っている。

なお、HPPは本作発表後にも意欲的にアコースティック化を図っていて、『WhitErRor』から"Crumbled"が、2004年発表の3rdシングル『de ja dub』から"Corroded"が、『folie a deux』からタイトル曲が、『Stand In The World』から"Stand In The World"、"My Name Is"、"Lost Place"が、ライブで披露されている。なかでも『Stand In The World』に原曲が収録されている後半3曲は①カジュアル型に近い、HPPにしてはかなりシンプルなものだが、もしレコーディングされることになるとしたら、また一段とアレンジされた姿となって再登場するだろう。
("Crumbled"のアコースティック・ヴァージョンは3rd DVD『DELIRIUM』に収録済み。)


ここまで、長いものを読んでいただいて感謝に堪えない。最後に、当時のフォトを貼っておこう。

2010年10月のアコースティック・ライブでは、開演前にスライドショーでたくさん未公開フォトを見ることができたものだったが、残念ながらその後あらためて公開されることはなく、それどころかMarの脱退に伴い、五人編成時代のフォトは公式HPやMySpaceから消えてしまった。またいつか見たいものだ。






なお、来週は2010年9月のツアーについて書かれた、マイスペ時代のブログを再掲する予定。



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