2011-05-18

Johannes Vermeer / The Geographer (1669)

   

先に瑣事を片づけておこう。


ヨハネス・フェルメール(Johannes VERMEER /1632-1675)の『地理学者』(1669)について、
あらゆる解説が取り上げざるを得ない、結局のところどうでもいい事象は以下の通り。


・フェルメールの作品中、前年の『天文学者』(1668)と本作のみが単身男性像である。

・ふたつの作品の依頼人は、オランダ東インド会社総督アドリアン・ペーツ[父]と目される。

・『天文学者』『地理学者』ともに、モデルは同郷・同世代の科学者レーウェンフックの可能性大。
アントニー・ファン・レーウェンフックは顕微鏡の発明者/微生物の発見者にしてフェルメールの遺産管財人)

・画中の男性が着ている服は、和服である。「ヤポンス・ロック(日本の衣)」と呼ばれていた。
(蘭東印社の平戸商館設立が1609年。出島の築造は1634年。天草の乱が1637年。鎖国完了が1639年)

・『天文学者』画中の天球儀と、『地理学者』画中の地球儀はヨドクス・ホンディウスによる制作(1618)

・『地理学者』画中の地図はウィレム・ヤンスゾーン・ブラウの「ヨーロッパのすべての海岸」の一部。

・『天文学者』は『地理学者』より、縦が少しだけ短い。5ミリ~1センチ程度。横は同じ。

・どちらも年期が記入されている。フェルメールは滅多に制作年を入れない。



いまではだれもがその名を知るフェルメールではあるけど、
日本でその知名度が上がり、人気出てきてからまだ10年くらいしか経っていない。

日本でのフェルメール人気が決定的なものとなったのは、間違いなく1999年と2000年の連続来日による。
以後、2004年、2005年、2007年、2008年、2009年と頻繁に来日している。2012年の来日も決定済みだ。
以前は1968年、1974年、1984年、1987年の四回だけだったことを考えると、人気の違いは明白である。

2000年当時、わたしは大阪に滞在中だった『真珠の耳飾りの少女』が観に行きたくて仕方なかったけど、
貧乏学生に美術展遠征などという発想はあり得ず、観に行ったと自慢げに語る倫理学教授を呪ったものである。


2000年、大阪にだけは来ていた『地理学者』1作のみの来日となったが、
今回の「フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展」でやっと観ることができた。


以下に、思ったこと、感じたこと、考えたことなどをぬらぬら書き連ねてみる。

ついでに『天文学者』にも触れよう。これはルーヴル美術館で2001年に観ている。もう覚えていないが。
それでも知っていることに変わりはないから、「対」となっているこの作品にも少し触れつつ、書いていこう。



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フェルメールが人類史上、類例のない高みに達した画家のひとりであることに異論を挟む者はいないだろう。

寡作な上に19世紀半ばまで忘れ去られていたこと、膨大な研究がなされてもなお詳細不明であることなどから、
「再評価された(存命時は)不遇の画家」「謎の画家」という人口に膾炙しやすいレッテルが貼られたために、
いまでは多くのひとが「天才画家」としてその名を知っている、「有名人」のひとりとなったフェルメール。


大衆(という言葉をあえて使うことにする)は「天才」というストーリーを好むものだから、
ひとたびそのレッテルが貼られたら一切の吟味もなく鵜呑みにして「有名人」のいる美術展に押しかけ、
何も感じなかったら「わからない」とか「むずかしい」などと囁き合いながら会場を後にするものだが、
そんな、普段は美術に関心がないどころか、むしろまったくの無知を決め込んでいるひとでさえも、
フェルメールの絵は「観ればわかる」、いや「わかってしまう」ほど、彼の作品は他の画家の作品と「違う」。


フェルメールは、基本的には「デルフト・スタイル」と呼ばれる絵画群とほぼ同様の題材を扱っている。
市井の風景(女性が多い)、室内に入り込む光、隣接空間(連続した部屋と部屋など)、窓、鏡、画中画など。
多様な遠近法の駆使と、入念な画面構成、そして、繊細かつ緻密な描写。

それらに画家ごとの多少の相違はあれど、基本線は同じなのである。
それでも、受ける印象は決定的に違う。

もちろん、その「違い」の幾許かは、彼の前人未到の技術力に負うものだろう。
だが、そうした表面の出来如何だけではない、もっと根本から質を違えているものを感じる。


思想が違う?それもあるかもしれない。いや、あるだろう。ただし、それが解明されることはないだろうが。
視覚効果が違う?それもあるだろう。解明もされてもいるだろう。しかし、脳科学で説明して何になろう。


ならば、画面構成だろうか。確かに、彼は独特の構成力を持っていたと言える。

清潔で統制された、心地よい私秘的な空間。それならだれでも描けた。どこにも溢れていたからだ。
フェルメールはそれを推し進めた。ひとを含め、すべてが絶妙な配置に収まった空間を描いた。
それらはあまりに絶妙すぎた。彼なりの空間把握法、「間合い」でもあったのかもしれない。
描き込むことよりも何を「描かない」か、そうした「引き算」の美学を感じるのだ。


さらに、同じ題材(風景、手紙、居眠り、学者など)を扱っても彼の絵には寓意も物語も希薄だ。

たいてい、絵とは「寓意(宗教や処世訓やモットーなど)が塗り込められた物語」と言ってよい。
しかし、フェルメールの絵に寓意を読み込むのは難しい。寓意を注意深く削除している、と言う学者もいるほどだ。
画中に寓意がない分、意味の重力が弱まったためか、彼の絵には同時代のそれらと比べて軽やかな印象がある。


この点、わたしはむかし(学生時代)から小説的/文学的と言ういい方で理解している(誤魔化しているとも言う)。

寓意(象徴)や物語(主題)など、意味を(意識的/無意識的問わず)埋め込むのが「文学的」、
それらを(意識的/無意識的問わず)可能な限り避けるのが「小説的」、という具合で。(本当はもっと複雑だが)

「小説的」なものにおいては、寓意や物語など「読み込まれてしまうもの」は抑えられる。
あるべきものが、すなわち読み込むものがないか、あったとしても曖昧で希薄なのだ。

それが絵画である場合、その絵を観る者は奇妙な感触を得るだろう。その絵に「謎」を感じるだろう。
そして、その「謎」は寓意の「解」がわからないときに感じるものとは異質の「謎」であるはずだ。


フェルメールの絵には「小説的」なものを感じる。
過剰な意味や物語を避けている。ゆえに謎めいて見える。
むしろ、解のある「謎」が埋め込まれた絵の方が、「ふつうの絵」なのだ。


彼の絵が「違う」のは、まさにこの点においてであろうと思う。

もちろん、われわれは「ふつうの絵」の寓意も物語も読むことはできない(かもしれない)が、
そのように描かれたものと、そのようには描かれなかったものの違いを、なぜだか触知できるらしい。

もしくは、フェルメールはそれほどまでに徹底して「何か」を描いていたのである。
問題は、その「何か」が何であるのか、だれにもわからないことなのだ。

あるいは、徹底するうちにどこかに突き抜けてしまった、とでも言うか。

彼の絵の「謎」とは、そういった類のものでもある。



それでは『地理学者』を観てみよう。





The Geographer (1669)


窓、外光、人物、清潔な空間、品のある高価な調度品、いくつかの「地理学者」的な道具。

この作品に如何なる寓意もない。物語もやはり希薄だ。
せいぜい、何か閃いたように見える表情と、やや持ち上げられたディバイダー(コンパス)、
この2点に「書斎の学者」というストーリーを読み取ることが、かろうじて可能であるだけだ。


対の作品となっている『天文学者』も観てみよう。



The Astronomer (1668)


『地理学者』よりやや暗い画面作りだが、道具立てが「天文学者」であること以外ほぼ同じだ。
寓意を画中画の「モーセ」に求めるのは難がありすぎるし、ここでは物語はないに等しい。


「天文学者と地理学者」という組み合わせに、
17世紀当時に覇権を握っていた海洋国家オランダを読み込むことは容易だ。

航海術に天文学は必須であり、拡大する地図の作成に地理学は欠かせない。
天文学者は天球儀とアストロラーベを、地理学者は地球儀とディバイダーを持っている。

しかし、それだけのことだ。


極論を言えば、各学者のアトリビュートである道具類がなくてもこの一対の絵は成り立つだろう。
それほど構図が優れているわけだ。画面内の何であれ、絶対にこの配置でなければならない。


そして、ここには、われわれの目には「謎」としか映らない「何か」が描き込まれているのである。


* * *


わたしは、前回に書いたフェルスプロンクの肖像画に衝撃を受けた後、
広い空間に据えられた『地理学者』を遠目に見ただけで、その「違い」に愕然とした。


矩形に切り取られた空間に、何度も何度も広告で目にしていた『地理学者』がいた。
それはしかし、既知のものを確認する、という範疇を遥かに超えていた。


技術的に「格が違う」のではなく(それも含むが)、
あの絵は「別世界/別次元」への「窓」なのだと、一瞬のうちに悟った。


何もかもが違った。そうとしか思えなかった。いや、思う以前にこう感じた。
そこには世界が、もうひとつの宇宙が、あったのだ。


フェルメールは、あの小さな空間に「宇宙」を閉じ込めていた。


いや、閉じ込めたのではなくて、そちらの宇宙へ接続できる「窓」をこしらえ、
わたしたちに「そちら」を覗き見ることを促した、とでも言おうか。


大袈裟に聞こえるかもしれないが、これが偽らざるわたしの感想である。




未見の方は、いそぎ会場に足を運ばれんことを。



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3 件のコメント:

  1. すごい!

    二つを並べてしっかり(というのか?)観たのは初めてです。
    Moonさんの解説をじっくり読み、絵を何度も見返してみました。
    その美しさは【光の使い方】だけじゃないのですね。

    素直におもしろかったです!

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  2. >kanaさん

    今回ほど書いててもどかしかったブログも久しぶりです…。

    ああそうじゃない、違うんだこうなんだ、いやだから…、
    みたいな感じで、まったく進みませんでした。

    最終的に、けっこう適当に書いて終わりにしてしまいました。
    いまの呆けたわたしのアタマでは、悲しいかなこんなもんです。

    それでもお楽しみいただいたようで、なによりでした。

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