2011-09-14

DREAM THEATER / A Dramatic Turn Of Events (2011)

      

『出来事の劇的なる転換』と題されたDREAM THEATERの新作を、
先週火曜の店頭入荷日に買いに行ってからというもの、毎日聴いている。



A Dramatic Turn Of Events (2011)

01. On The Backs Of Angels (8:42)
02. Build Me Up, Break Me Down (6:59)
03. Lost Not Forgotten (10:11)
04. This Is The Life (6:57)
05. Bridges In The Sky (11:01)
06. Outcry (11:24)
07. Far From Heaven (3:56)
08. Breaking All Illusions (12:25)
09. Beneath The Surface (5:26)



正直に言って、いい出来なのだけど「最高傑作」ではない。
むしろ、バンドの経歴からすると「中の上」くらいかもしれない。

それでも毎日聴いてしまう求心力がある、という点において、
近作(8th,9th,10th)とは決定的な差異があるように思う。

しばし、思ったことを綴っていきたい。


まずは、本作に至るまでの経緯から。

ほぼすべてのひとにとって「マイク・ポートノイの脱退」は青天の霹靂だった。
それは「ドラマーの脱退」という「よくある出来事」とはわけが違っていた。


わたしは去年のサマソニにおけるDTのツアー最終ライブを観ているけど、
ライブ終了後にポートノイが「The End!」と言ったかどうか、よく覚えていない。

伊藤政則氏は「ファンの間で憶測を呼んでいた」と書いているけど、
誰もがあれは長期に渡った2010年ツアーの「終了」と思ったのであり、
「終わった!」という達成感の表明と解釈する方が遥かに自然だった。
(そういえば、「おめでとう!」という感覚で拍手したかもしれない)

だから、バンド創設者のひとりであり、スポークスマンであり、
セットリストやカバーの選曲を決定し、全楽器のパートをも把握し、
ファンとのふれあいも含めバンドのあらゆる事象を記憶していた、
文字通りバンドの「頭脳」だったポートノイの脱退は信じられなかった。


ファンなら、ポートノイがかつてBURRN!誌のインタビューにおいて
「みんな(他のメンバー)適当なことを言っていただろうから、俺が真実を話すよ」
と言い放っていたことを覚えているだろう。彼は事実上「リーダー」だったのだ。
(もしくは、そう見えるように振る舞っていた、ということなのだろうか?)


脱退の発表と、その理由の公表、そしてバンド側の決定と事態は急展開した。
長期の休暇を要請するも他のメンバーに却下され、ポートノイはやむなく脱退するに至る。

ジョン・ペトルーシ、ジョン・マイアング、ジェイムズ・ラブリエ、ジョーダン・ルーデスは、
バンドの継続的な活動を選択し、新しいドラマーをオーディションすると発表、物議を醸した。

当初、ほとんどのファンがポートノイに同情的だった。少なくとも、わたしにはそう思えた。

休みたかった彼を、なぜバンド側は容認しなかったのか?そこまでして急ぐ必要があるのか?
本気でポートノイ抜きでやっていけると思っているのだろうか?すべてを仕切っていた男なしで?
彼の抜けた穴を埋められる者はいるのか?いたとしても、あの個性は失われてしまうではないか?

そうした意見が飛び交っていた。わたしもほぼ同意見だった。
そして、「DTはダメになってしまうかもしれない」とも思ったのだ。
ペトルーシとルーデスの弾きまくりばかりになったらどうしよう、と。
むろんそれはごく一部なのだが、気にかかる程度には「お約束」になりつつあった。


しかし、ドラマーのオーディションが公開され出したころから、むしろ状況は逆転してしまう。
オーディションに参加した有名無名のドラマーたちの超絶技巧が話題になり、期待が高まった。

結果、ドラマーは大方の予想通りマイク・マンジーニに決定した。

ハード・ロックからスラッシュ・メタルへと幅広く渡り歩いた「必殺仕事人」ドラマーであり、
スティーヴ・ヴァイやエディ・ジョブソンのような極めて厳しい耳を持った完璧主義者に認められた、
間違いなく当代随一の技術と適応力のある、超プロフェッショナルなイタリア系アメリカ人である。

個人的にはドラミングに「遊び心」のあるマルコ・ミンネマンがいるDTを観てみたかったけど、
陽気だが少し奇妙なところのあるドイツ人と一緒にいるのは難しいのかもしれないと納得した。


一方、ポートノイはAVENGED SEVENFOLDとのツアー終了と同時に迷走を始める。

「休みたかった」はずなのに活発にあちこちのミュージシャンと何かをやろうとし、
いずれもまだ形をなさないまま、どうにも「孤立」してしまった感は拭えない。

さらに、本作のリリースに伴うインタビューでバンドに戻ろうとしていたことまでが明らかにされ、
その上、彼なしでもいい作品が作れるどころか、その方がいい作品が作れてしまうとわかってしまった。

そうなると、ここぞとばかりに「アンチ・ポートノイ」言説が噴出してきた。
彼は窮地に立たされた。すべてが完全に「裏目に出た」のである。


それでは、肝心の新作は、どんな作風なのだろうか。

これが実は「いつものDT」で、新味はあまり、いやほとんどないのである。
逆に言うと、近作(とくに9th,10th)は「どこか違う」作風だったように思えるのだ。

10thでなされた軌道修正の延長線上にある作風でありながら、
90年代の作品にあった独特の幻想的雰囲気を、少し取り戻している。


ごく簡単に彼らの作風の経歴を振り返ると、
異様な光を放つ(RUSH的な)「新型プログレ・メタルの原石」だった1st (1989)、
(ヴォーカルがチャーリー・ドミニシからジェイムズ・ラブリエに交代)
歌メロ・高度なインスト・叙情メロディの理想郷を作りだした傑作2nd (1992)、
その三要素をそれぞれの楽曲で煮詰めるも、散漫になってしまった3rd (1994)、
(キーボードがケヴィン・ムーアからデレク・シェレニアンに交代)
オーガニックな音作りで三要素を再構築した、人間的暖かみのある4th (1997)、
(キーボードがシェレニアンからジョーダン・ルーデスに交代)
ストーリー・アルバムとして全要素を最大限に引き出した最高傑作5th (1999)、
持ち味を殺すことなく新たな実験性を開花させた斬新な6th (2002)、
ダークな世界観に叙情性とアグレッションを同居させた7th (2003)、
前作より明るい曲調のなか、すべてをコンセプト通りに統制した8th (2005)、
かつてなくダークでヘヴィかつプログレッシヴになった大作主義の9th (2007)、
歌メロや叙情メロディの揺り戻しのため前作より聴きやすくなった10th (2009)、
といったところであろうか。


個人的には、2ndと5thが問答無用の最高傑作であることを前提として、
(前者には未消化な冗長さが少しあるように思うが、それを補って余りある魅力がある)
「メタルっぽくない」音作りの4thが、過渡期的作品だとは認めるものの大好きでよく聴くし、
DTが「このバンドならでは」の本領を発揮したと信じてやまない6thと7thも傑作だと思っている。

あまり語られることのない「前史扱い」の1stも好きだし、
悪評がつきまとう3rdすら、いい曲もあるので好きだった。

ゆえに、わたしにとってずっと大切なバンドだったのだ。


しかし、2004年春の武道館公演でピークを迎えたわたしのDT熱は、以後下降していった。

「曲順にキーをF,G,A,B,C,D,E,Fで作曲する」というコンセプトありきの8thはピンと来なかった。
どうにも「余裕綽々」に思える安定感に、不満とまでは言わないが物足りなさを覚えたのだった。
音作りもどこか「鈍い」ものを感じたし、世評が高かった歌メロをそれほどいいとは思わなかった。

ヘヴィでダークでプログレッシヴな9thは、前作以上に「大物の横綱相撲」のように思えた。
物足りないのではなく、逆に過剰さを感じた。曲もかなり長くなって覚えにくく、聴くと疲れた。

10thは初めて、購入を踏みとどまってしまった。でもサマソニのライブで見直して聴いた。
9thほど聴きにくくはなかったけど、やはり釈然としない点があり、これまた聴くと疲れた。

そして、新作の登場となる。ペトルーシが舵を取り、バンドの得意なことに集中したという。
期待は高まり、それは裏切られることはなかった。久々に「生き生きした」DTが聴けたのだ。

前作と対をなすような作品なのだけど、軍配は明らかにこちらに上がる。
下降していたDT熱はようやく下げ止まり、あとはふたたび恢復していきそうである。

またうれしいことに、新作はオリコン総合チャートで1位を獲得した。慶賀すべき事態である。


これはわたしに限ったことではないようで、レビューやブログを読むと多くのファンに共通している。
「近作(8th~10th)はピンとこなかったけど、新作は飽きずに何回も聴ける」というのである。


みなが口をそろえて言うのは「新作の音作り・分離の良さ」で、これを「透明感」と呼んでいる。
この言葉は伊藤政則氏の解説やインタビューに拠るのだけど、たしかに新作は音がとてもいい。

特筆すべきはジョン・マイアングのベースが常によく聴こえる点で、この収穫は大きい。
これまでは驚異的なユニゾンやソロなど際立ったパート以外は聴きとりにくいこともあった。
マイアングが、楽曲に合った素晴らしいフレーズを紡いでいるところを容易に確認できる。
(ゆえに、ベーシスト必聴と言いたい。彼はムダにバカテクを使っているのではないのだ。)

また、歌メロやギターの叙情的なメロディがさらに増量されている点も「透明感」に寄与した。

歌メロ自体は近作も悪くなかった(とくに前作はよかった)のだけど、ペトルーシが強調するように、
「ラブリエに合った」作曲を心がけた結果、さらに生き生きしたヴォーカルが聴けることになった。
その上、ペトルーシが弾きまくりを抑えてメロディのあるソロを心がけたのだから、何をかいわんや。

新作の聴きやすさ、しっくりくる曲の感触はまさに「透明感」に拠ると言い切っていいだろう。


では、逆に考えてみよう。近作の「不透明感」とは何だったのだろうか?

いま8th・9th・10thを聴き返すと、悪いどころかこれらも佳作以上の出来栄えで感心さえする。
何がどうして「ピンとこない」のか、自分でも明確にできない点もあってもどかしさを覚える。


ただ、いくつか新作を「裏返す」ことで指摘できるところもある。

音作りで言うと、ドラムの音量の大きさや音質の特異さが、全体のバランスを悪くしていた。
ポートノイの独特な音作りはむかしから賛否が分かれていたけど、近作はとくにアクが強い。
それはライブにおいても同様(かそれ以上)で、ちょっと「前に出すぎ」だったかもしれない。
(ただ、いちばんドラムの音量が大きいのは2ndなのだ。これには別角度からの考察が必要。)

曲も長すぎた。15分以上の曲は、滅多なことでは成功しない。成功例は「例外」と言えるほどだ。
新作は最高でも13分以内に抑えたことが、功を奏した。12分くらいに「壁」があると思っていい。
8thから10thで挑戦した20分以上の曲において、水増しパートを生んでしまっていたきらいはある。
ペトルーシやルーデスの弾きまくりや高速ユニゾンなどに、形骸化した冗長性があったのは否めない。

歌メロや曲のキーを、ラブリエの特性を度外視して作っていたということもあるだろう。
8thがとくにそうで、コンセプトありきの曲作りでラブリエのヴォーカルを活かせなかった。
ヴォーカリストにはそれぞれ自分を活かせる得意なキーがある。それを無視してはいけない。


そして、これがファンをして「近作はどうにもピンとこない」と思わしめた最大の要因だと思うのだけど、
「ポートノイ主導のヘヴィネス」が、彼が期待していたほどにはバンドに合っていなかったのだと思う。


ポートノイは、6th以降の作品で自身のアルコール依存症に材を採った一連の楽曲に力を入れていた。
題材のシリアスな内容を受けて楽曲も必然的にヘヴィにならざるを得ず、毎回存在感を発揮していた。

当初はそれが新機軸のアグレッションとして機能していたが、8th以降はより複雑なヘヴィネスを醸造し出した。
同時に、ポートノイ主導と思しき曲にそのヘヴィネスが波及し出した。それがもっとも顕著なのが、9thだろう。


DTの歌詞世界は大きくふたつに分けられる。
ペトルーシ作の幻想的・寓意的・象徴的な歌詞と、ポートノイ作の現実的・批評的・私小説的な歌詞だ。
これにラブリエ作やマイアング作の歌詞が加わる。それは両者の中間か、乃至はやや現実寄り、である。

ポートノイ脱退をうけて、歌詞や作曲のほとんどを手掛けることになったペトルーシが、
リアリスティックな世界観からくるヘヴィネスを自然体で回避できたのは、当然と言える。

アートワークに端的に表現されているように、幻想的な世界観がふたたび戻ってきた。
人間的な醜悪さやもがき苦しむ過程を捉えていた「不透明感」から、クリアな「透明感」へ。


もしかしたら、DTは律義にも「不透明感」の表現において(も)成功し(かけ)ていたのかもしれない。
しかし、それはファンがバンドに求めているものではなく、またバンドが得意としているものでもなかった。

恐らくただひとり、ポートノイだけがそれを望んでいた。いや、望むようになっていった、と言うべきか。
それを証明するかのように、アルコール依存症シリーズは10thで終わり、燃え尽きた彼は脱退した。

皮肉なことに、『出来事の劇的な転換』を経験したのはバンドではなく、ポートノイだったのだ。


思えば、DTはペトルーシとポートノイの両輪で回っていた。曲作りも、大半は彼らが行っている。
ふたりともとても知的な人物で、やや「天然」の前者と少し毒のある後者でバランスが取れていた。
(「優しく包み込むお父さん」と「口やかましいお母さん」というイメージがわたしにはある。)


新作にも批判できる点は当然あるだろう。しかし、重箱の隅をつつく気にはならない。
「片輪」でこれほどまでにバランスを取り戻したペトルーシに、素直に敬意を表したい。


しかし、どうにも語り足りないところがある。
ペトルーシのギターについて、まったく触れられなかったし、
ポートノイも悪いところばかり書いて、申し訳ない気がする。

いずれ、他の作品を語ることで「両輪」の特質を再度検証したいものだ。


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2011-09-11

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ニュースの時間になったのでテレビをつけたら、
渡辺真理さんの後ろに煙をたてるビルが映っていた。

ビルはツイン・タワーの南塔で、火災は旅客機が突っ込んだためだという。
事故か事件か、判断が付きかねた。

こうゆうときに限って久米さんお休みなんだよな、と思った。
それにしても、こんなありえない事故があるなんて、とも。


21時54分時点では、NHKはまだ字幕スーパーでもニュースを伝えていなかった覚えがある。

22時になると、NHKもニュースを始めた。やはり、事故か事件かわかっていなかった。
ザッピングをしていると、煙の柱がもう一本増えていた。もう一機、突っ込んだと言う。

旅客機衝突の瞬間を、日本のテレビ局がオンタイムで中継したかどうか、覚えていない。
気がついたらそうなっていたのだった。

そして、すぐさまその衝突場面が映し出された。
これが航空事故などではないことを、誰もが悟らざるを得なかった。


相ついで、旅客機はハイジャックされた機体であること、まだ複数の機体が飛行中であること、
ペンタゴンにも旅客機が突っ込んだこと、さらにホワイトハウスに向かっている機体があること、
などが報道された。

その間、映し出されたツインタワーから、構造物とは大きさが違う何かが落ちていくことに気づいた。
人間だ、と思った。そして、たぶんそれは当たっている、とも思った。


テレビをつけてから1時間ぐらいしか経っていなかったころだった。ツインタワーの南塔が崩壊した。
どこかの局の専門家が、あんなに早く崩壊するはずがない、と言っていた。確かに、妙な気がした。

その30分後、北塔も同様の道を辿った。


時間を覚えているのは、その当時、友人たちとメールのやりとりをしていたからだ。

「一時間で潰れたぞ!?」「北はまだもってるな」といったやりとりを。

そういえば、キャンプ・デーヴィッドにも旅客機が落ちた、という誤報もあった覚えがある。



わたしはといえば、翌々日に迫っていた海外旅行の身支度をしていたのだった。
その翌日に足りないものを買いに行くため、早めの準備を意気揚々としていたのだ。


時間の経過とともに錯綜していく報道を見ながら、
旅行ができなくなったらどうゆう手続きをしたらいいのだろう、
パリに行っても同じようなことが起こったらどうしよう、と自分のことばかり思っていた。

実家や友人からも「本当に旅行行く(行ける)の?」と電話で聞かれた。
たぶん、としか言いようがなかったから、そう応えた。やめ方がわからなかったのだ。


翌日、友人と買い物をしながらもずっと不安だった。


結局、パリには難なく着いた。

いや、空港の警備や手荷物検査は、それ以前より厳しかったらしい。
わたしは「それ以前」を知らなかったから、とくに何も気にならなかった。



ホテルのテレビに「New War」という文字を見たのは、何日目のことだっただろう。

アメリカ大使館のまわりには、たくさんの花束が置かれていた。
自動小銃を持った大きな衛兵が何人か、辺りを睨みつけながら歩いていた。

本物の銃火器を目にしたのは、それが初めてだった。とても重たそうだった。



"Imagine"を筆頭に多くの曲がラジオで放送禁止になり、
アメリカのミュージシャンが発する愛国的な言葉に触れる機会が増え、
イスラム社会への敵意と無理解と偏見が際限なく増幅された。


イスラム史を専攻していたわたしにとって、それはつらいことでもあった。


そして、戦争が始まった。

あれを戦争と呼べるのなら、ではあるが。




Hora Fugit. - 時は逃げる。




あのときの旅行のために申請したパスポートの有効期限が、先日切れた。


10年経ったのだ。


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2011-09-10

Rory Gallagher / Notes From San Francisco (2011)

 

この一ヶ月ほど、ロリー・ギャラガーの「新作」をよく聴いている。

もちろん、周知の通りロリーは1995年に鬼籍に入っているのだから純然たる新作ではない。
1978年に「お蔵入り」となってしまった作品に、ライブ音源を加えた2枚組だ。

これが、ロリーのディスコグラフィーに「未発表音源集」としてではなく、
「正規の作品」として登録されるに値する出来だったがゆえに、「新作」と呼びたくなるわけだ。



Notes From San Francisco (2011)

Disc 1 - STUDIO
01. Rue The Day
02. Persuasion
03. B Girl
04. Mississippi Sheiks
05. Wheels Within Wheels
06. Overnight Bag
07. Cruise On Out
08. Brute Force & Ignorance
09. Fuel To The Fire
Bonus Trucks
10. Wheels Within Wheels (alternative ver.)
11. Cut A Dash
12. Out On The Tiles

Disc 2 - LIVE
01. Follow Me
02. Shinkicker
03. Off The Handle
04. Bought And Sold
05. I'm Leavin'
06. Tattoo'd Lady
07. Do You Read Me
08. Country Mile
09. Calling Card
10. Shadow Play
11. Bullfrog Blues
12. Sea Cruise


Disc 1は1977年~1978年の録音。Disc 2は1978年12月の録音である。

ロリーのファンならわかりきっているように、Disc 1のスタジオ録音盤は、
ボーナス扱いになっている3曲以外、基本的に既出の楽曲だ。(ミックスは違うが)

4,6,7,8,9はリメイクされて7th albumのPhoto-Finish (1978)に収録される。

1,3はCalling Card (1976)の、2はDeuce (1971)のCD版ボーナス・トラックとして、
5はロリーの死後に編集されたWheels Within Wheels (2003)に、それぞれ収録されている。
(ちなみに、3は"Public Enemy No.1"の原曲。8thのTop Priority (1979)で聴ける)


この点、目新しさはないとも言えるのだけど、こうして楽曲がひとつの作品の一部として並べられ、
「幻の作品」として知られていた音源の全貌が露わになったことは、とても意義深いことだと思う。

まして、この作品のように素晴らしい出来であるなら尚更だ。
(なお、ボーナス・トラックは純然たる未発表曲である。)


概略は以下の通り。

・「アメリカン」な作品を構想し、シスコにて録音する。
・しかし、曲はいいものの、ミックスに納得がいかない。
・ロリーが一方的にお蔵入りを宣言。バンドも解体する。
・バンドを新たに編成し、録り直したものが7thとなる。
・その新バンドとなってからのライブ音源がDisc 2。
・時を経て、ロリーの実弟ドネルが本作の再リリースを検討。
・「ロリーが当初思い描いていたであろう音」にリミックス。
・本作がリリースされ、わたしがしたたかに打ちのめされる。


Disc 1を聴くと、たしかにアレンジが「アメリカン」である。

元々、ロリーのバンドにはキーボード・プレイヤーがいたので、
おそらくそこが「アメリカン」に押し出されたのだろう、と思っていたのだけど、
これは半分も当たっていなかったようで、実際はホーンの導入など多彩なサウンドだった。

曲は、そもそもロリーの音楽性自体が間口の広いものなので、色々あっても違和感はない。

わたしとしては、曲さえよければ何やってもいいというスタンスなので、とくに不満はない。
それどころか、これほどのアルバムを「お蔵入り」にしてしまう完璧主義者っぷりに驚いた。

もっとも、当時のミックスと、いまわれわれが耳にできるミックスは違うので、
一概にどうこう言えるものではないのだろうけど。


この作品の録音後に、バンドを解体。ベースのジェリー・マカヴォイだけが残る。
新たなプロデューサーの紹介でドラマーにあのテッド・マッケンナを迎え、トリオ編成となる。
そして、上述のように7thをリリースし、以後この体制がつづくことになった。
(テッドは1981年に脱退、コージー・パウエルの後任としてMSGに加入。)


この編成のライブ盤として、各地で録音されたものを集めた名盤Stage Struck (1980)がある。
それと同時期に録音されたライブ音源が、Disc 2だ。ブートレッグでも出回ってなかったらしい。


これがまた、とてつもなく素晴らしいのである。
付属音源のような体裁だが、名盤とさえ言いたくなるほどだ。

「お蔵入り」宣言をした後のロリーは、トリオ編成によるハードロック路線に邁進した。
SEX PISTOLSの解散ライブを観たことが刺激になったようで、(ヤケであるが故の激しさ、か)
「ロックの直接性」とでも言える直情的な表現方法に、触手を(ふたたび)向けたのだ。


ロリーのライブは、山崎智之氏が解説で述べているように「常に超ハイテンションだ」が、
ひたすら激しく押しまくるこのライブ音源の迫力を前にして、ほとんど茫然とするほかなかった。

3枚のライブ盤はすでに愛聴して久しい。いずれも名盤であり、聴かず嫌いは馬鹿をみるだけだ。
それでもなお衝撃的だったのは、最新のマスタリングに拠るところもあるのかもしれない。
そうかもしれないが、何よりも讃えるべきは、そのギタープレイの凄まじさ、これに尽きる。


ロリーはいつも、ステージに普段着であがった。チェックのシャツに、ブルーのジーンズ。
その飾らない気さくな姿は、ドキュメンタリー映画になった『Irish Tour '74』で確認できる。

当時、アイルランドではIRAによるテロが最盛期を迎えており、
ほとんどのバンドがツアーを断念していた中での「地元の英雄」の帰還に狂喜する観衆が印象的だ。
(たしか、映画では市街地を走る戦車や装甲車が映し出されていた。ロリーはそこを飄々と散歩する。)


そんなロリーは、間違いなく「ロック・スター」のひとりでもあった。

「世界一のギタリストって、どんな気分?」と訊かれたジミ・ヘンドリックスが、
「ロリー・ギャラガーに訊けよ」と応えたことは、あまりに有名な逸話だ。

ジミが非常に謙虚なひとだったことを差し引いても、当時20歳前後のロリーへの評価は非常に高い。
ジョン・レノンも「素晴らしい才能を持った新人」と讃えている。
そして、誰もがそれに納得せざるを得なかった。


荒々しく、かつルーズでもある独特のヴォーカルも評価は高いが(ピッチも案外正確)、
クラプトンやジェフ・ベックが「廃業を考え」させられたあのジミをして「世界一」と言わしめた、
その鬼気迫るギタープレイはライブでこそ本領を発揮する。


陳腐な表現だが、「燃える上がるギター」「魂のギター」とでも言って思考放棄したくなってしまう。

前回、ゲイリー・ムーアについて「その心情が音に転化されてダイレクトに伝わってくる」と書いたが、
これはロリーにも当て嵌まる。と言うか、そもそもロリーこそがその第一人者なのだと思っている。

70年代に活動の全盛期を迎えたギタリストたちは、そのほとんどがステージで毎回違うソロを弾いた。
ロリーもそのひとりなのだが、彼ほど毎回違うソロを弾くひともいなかったのでは、というほど違う。


本作を聴いて、これまで愛聴していたロリー像が少し変わった。

感情表現豊かなギタープレイの内に「痛み」を抱えていたのではないか?そう思ったのだ。
終始「超ハイテンション」で弾きまくるギターに、何度かそうした影がよぎるように感じた。

わたしのくだらぬ心情の投影、と言われてしまえばそれまでだ。
しかし、そう思うのはわたしだけなのだろうか?これほどのギターを聴かされて?


歌うことのできたロリーは、それでもやはりギターの方がはるかに雄弁だった。
それは前回のゲイリーもそうだし、その他「歌えるギタリスト」すべてに当て嵌まる。

歌とはすなわち歌詞でもあるから、言葉が持つ定型性や意味の重力から逃れることはできす、
仮にスキャットや非言語的な音声でその呪縛を振り切ろうとしても、必ずいつか「壁」にぶつかる。

その点、ギターはもっとも効率的に「振動を電化」することができる楽器だから、
「こころをあらわす/あらわにする」ことにおけるアドヴァンテージは大きい。


そうした文脈において、こうも思ったのだ。

「ロリーのギターに匹敵するヴォーカリストはいる/いただろうか?」と。


わたしは見当違いなことを言っているのだろうか。
同じ表現でも、媒介するものが「歌」と「ギター」の比較はナンセンスだろうか。
それでも、聴き手として受ける「絶対値」のようなもの、それは厳然とあるのではないかと思う。


ロリーやゲイリーのような凄まじい「表現力」をもったギタリストが限られているように、
鬼気迫るヴォーカルを聴かせてくれるヴォーカリストもまた、限られている。

もちろん、そのような類の表現「だけ」が至上のものだとは思わない。そんな排除はしたくない。
あらゆる表現の「良さ」は多様に並立していてほしいし、できる限りそれを甘受したいと思っている。


だが、こころのなかを洗いざらい吐き出さずにはいられない「絶唱型」のミュージシャンなら、
音楽のジャンルや楽器の種類を問わず、ロリーの薫陶を受けねばならないだろう。
なぜなら、基準とは平均値にではなくその最高値にこそ設けられるからだ。


次々と繰り出されるフレーズの、あの立体感とストーリー性、その厚みと切実さ。
その「絶唱」は、必然的に重くなる。

かつて、ブルース・ディッキンソンはこう言ったそうだ。
「当時、ロリー・ギャラガーのライブが一番ヘヴィだった」と。


まだロリーを未聴の方には、とりあえず3枚のライブ盤を薦める。

スタジオ作は聴き手によって好みが分かれるから、
ライブ盤で気に入った曲の入っている作品を聴けばいい。


もしくは、本作から入ってもいいと思う。
必ずや、そのギターにうちのめされることになるだろう。


ちなみに、本作のジャケットになったものは、ロリーが郷里の母に宛てた絵葉書であるそうだ。
ツアーで行く先々で、必ず絵葉書を送っていたのだという。彼らしいエピソードだ。

本作の豪華版は、それらの絵葉書つきノートブック仕様になっているので、
余裕がある方にはそちらの購入を薦めたい。彼の直筆メモや歌詞ノートがついている。


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2011-09-07

Gary Moore / Live At Montreux 2010 (2011)

  

2月上旬に急逝したゲイリー・ムーアの遺作が、先日発表された。
去年のモントルー・ジャズ・フェスティヴァル公演のDVD/ライブ盤である。



Live At Montreux 2010 (2011)

01. Over The Hills And Far Away
02. Thunder Rising
03. Military Man
04. Days Of Heroes
05. Where Are You Now?
06. So Far Away / Empty Rooms
07. Oh Wild Ones
08. Blood Of Emeralds
09. Out In The Fields
10. Still Got The Blues
11. Walking By My Side
12. Johnny Boy
13. Parisienne Walkways


20年もの長きにわたって取り組んできたブルーズ路線(実験的な寄り道もあったが)のため封印されてた、
ハード・ロック時代の曲を中心に組まれたセットリストに、新曲3曲を取り入れた構成となっている。

しかも、80年代に「相棒」としてともに活動していたニール・カーターが参加している、
ということも大きなポイントとなっていて、この時代の彼らに愛着のあるすべてのひとを喜ばせていた。


ゲイリーは、来るべき新作の作風を「ケルティック・ロック」と呼んでいた。
しかし、何年もかけて慎重に書かれていたらしいその楽曲群は、彼の急逝とともに失われてしまった。
3曲だけとはいえ、こうしてライブ音源として聴けることに感謝せねばなるまい。


彼がなぜ、ときには否定さえしていた時代の音楽性に回帰しようと思うに至ったのかはもうわからない。

ブルーズ路線以降のゲイリーは、思いついたことを好き勝手にやっていたような印象がなくもない。
(具体的にはDark Days In Paradise、A Different Beat、Scarsで、いずれも成功したとは言い難い)
突発的なアイディアに拠るのかもしれないし、説得されるうちに腹を括ったのかもしれない。

また、よく言われるように、年齢からくるキャリアの終わりが見えてきてはじめて、
かつての自分に見直すべき何物かを見出し、音楽的な総括をしたくなったのかもしれない。


なんにせよ、遺されたのは3曲のみ。デモすら作らずに逝ってしまったのだ。
そのデモ作り前の最後の休暇中に、心臓発作で突然の死を迎えたのだった。


"Days Of Heroes"THIN LIZZYの"Emerald"を髣髴とさせる…と言うよりむしろ、
意図的にほとんど同じリフを採用したのでは、というくらいリフが似ている。
その点、本作にも収録されている"Blood Of Emeralds"の兄弟篇と言えようか。
荒々しいリフにメロディアスなソロが映える、ストレートなハードロックの佳曲だ。

つづく"Where Are You Now?"はバラードタイプのゆったりした曲。
80年代のその手の曲にありそうでなかった類のスケール感があり、
ゲイリーが「ケルティック・ロック」に新機軸を見出していたことを窺わせる。
のびのびと歌われる開放感のなかに、言い知れぬ悲哀と郷愁を感じずにいられない。




なお、「You」と歌われている人物はフィル・ライノットである。
思えば、フィルの死(1986)を受けて制作されたWild Frontier (1987)こそが、
意図された「ケルティック・ロック」の元祖なのだった。

たくさんあるようでいて、After The War (1989)とあわせた「前後篇」二作しか、
「ケルティック・ロック」作はないのだと、改めて思い出しておかねばなるまい。

彼にとって、愛すべき郷土と旧友は不可分なのだろう。
それゆえに、その路線をつづけることができなかったのではないか。
「ケルティック・ロック」とは、死と向き合うことと同義だったのではないだろうか。


"Oh Wild Ones"もまた"Days Of Heroes"同様、強烈にTHIN LIZZYを想起させる曲。
郷里の祝祭が目に浮かんでくるような牧歌的な曲調をハードロック化し、
荒野をさすらう神話的な流れ者を歌う。やはり、THIN LIZZYではないか。

断片からおぼろげに見えてくるのがTHIN LIZZYの姿であることは当然とも言える。
もしかしたら、あの完成されたスタイルの「つづき」を描いてみたかったのかもしれない。


長々と「新曲」について書いてきたから、この作品全体について書こう。

実は、"Over The Hills And Far Away""Out In The Fields"では、
原曲を知る者なら(いや、知らなくても)だれでもわかるような大きなミスがあったりするし、
"Thunder Rising"ではサビを歌うニールの声が引っくり返ってしまったりするし、
ゲイリーが歌いながらくすっと笑ってしまうといった場面もあったりする。


昨年の来日時よりも間違いなく太ったゲイリーを目にして(110kgはありそう…)、
心臓発作の原因はこの肥満にあるのではないか、と思ってしまったし、
何人か特定のオーディエンスを何回も映す(とくに後半に多い)編集にイライラさせられる。
しかも、ギターソロとオーディエンスをオーヴァーラップまでするのだ!これには呆れた。
ゲイリーの関係者や近親者であったとしても(それはなさそうだが)許容範囲外である。

「完璧主義者」でもあったゲイリーからすると、不本意な出来かもしれない。


しかし、やはり、当然のことながら、そのギターの素晴らしさには圧倒される。

昨年の来日公演のライブレポでも書いたように、あの大きい手でグッとチョーキングされたら、
レスポールも泣かずにはいられないだろう、という豪快っぷりである。


80年代後半以降の、精密機械の如き技術をもったギタリスト群もわたしは好きだけど、
60年代~70年代(ときに80年代前半も含む)に活動を始めたギタリスト群のギターは、
その心情が音に転化されてダイレクトに伝わってくるようで、聴くたびにこころを動かされる。


一度でもゲイリーのギターに感じるところがあったなら必ず聴いてほしいし、
一度も聴いたことがなくても、いつか手にとってほしい。


彼の旧作はリマスターが半端なので(やってない説すらあり)薦めにくいのだけど、
おそらくこれからは特典付きのレガシー・エディションがリリースされるだろうし、
(それはそれで若者を遠ざけるから、その手の再発はあまり好かないのだけど)
いい音楽を知る/聴くのに急ぐ必要はない。タイミングの見極めは重要だが。


個人的にはCorridors Of Power (1982)と上記「ケルティック・ロック前篇」が好きだ。
先日発売されたTHIN LIZZYのBlack Rose (1979)の再発盤から入るのもいいだろう。


まだ未聴に方には巨大な鉱脈への入り口であり、
慣れ親しんできた者には思い返す縁(よすが)であるのが、本作である。


もっとも、新曲に倣って「あなたはいまどこにいるのか?」と言いたくなってしまうのも事実だ。


しかし、その答えはあまりにも明白ではないか。
彼は戻りたかったところへと戻っていったのだ。故郷へと。


旧友や家族との再会を喜び、今ごろはギターでも弾いているにちがいない。


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