2012-06-16

HEAD PHONES PRESIDENT / Stand In The World (2012)



先週、HEAD PHONES PRESIDENTが4年半ぶりにオリジナル・フルアルバムをリリースした。

5月下旬から先行配信されていたこの新作『Stand In The World』は、これまでになくキャッチーで聴きやすい多彩な楽曲がつまった、HPPにとって大きな転換点となるであろう「会心の傑作」となっている。


Stand In The World


5月22日24時、急遽iTunesより先行配信の始まった本作をいちはやく聴いた感想を引用する。
(Twitterで6連投となったものを、いくらか削った上でまとめなおした)

かつてなくキャッチーで多彩な楽曲群を配したこの新作において、メタルやヘヴィロックの定型により接近しつつ、しかし完全に逸脱するという離れ技をHPPは披露した。これは新しい音楽だ。 もっとも特徴的に思われるのは、ヘヴィネスの様相に変化が聴きとれることだ。これまでは、不条理に対する「なぜ?」を倫理的な怒り・やり場のない哀しみとして表現していた。そこに、それを前提として「ならば、どうするか?」というアクティヴなニュアンスが付加されたように感じたのである。言うなれば、「Why」から「How」へ、マイナスからプラスへ、という変化である。いや、まだそれは混在している。しかし、この新作においては「重さ」が「重苦しさ」に留まってなどいない。むしろ、快活さすら感じとれる瞬間も多いほどだ。また、HPP独特の「無国籍情緒」とでも呼べそうな、詩情ある儚さもより繊細な襞を獲得したように思う。いや、繊細さだけではない。ピアノをバックにAnzaが独唱する曲においては、そこに力強さすら加味されていた。また、各メンバーが素晴らしい躍進を遂げている。Anzaは持ち前の歌唱にさらなるダイナミズムと彩りを、Hiroは異様な速度で詰め込まれたソロと奇矯なリフ/展開を、NarumiとBatchは楽曲の「土台/接着剤」以上のフレージング/存在感を、それぞれもたらした。会心の傑作だ。

この時点では1回半しか聴いていなかったわけだが、いまも感想の大筋は変わらない。

以下に、こうした印象をもたらした楽曲群それ自体と、本作における「転換」の内訳について、
わたしなりに感じ、考えたことを詳述する。やや煩雑なところもあるとは思うが、そこはご容赦願いたい。
(簡単なものをアマゾンのレビューに書いたので、それで十分という方はこちらをどうぞ。)


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


端的に言うと、本作のわかりやすさ/聴きやすさは「歌詞の変化」に拠るところが大きい。
(「《歌詞の変化》を導いた変化」については、楽曲について語りつつ後述する)

歌詞は変わらず英詞なのだが、今回は意図的に「わかりやすい」単語を選んだと言う。
これを裏返すと、今までは意図的に「わかりにくい」単語を選んでいたということだ。

実際、そうだった。それどころか、ほとんど「壊れた」英詞が特徴ですらあったのだ。
そこに、Anza語が加わる。大体が英単語からなる、しかし意味を為さない音節群が…。


わたしはこれまで、HPP最大の特色のひとつである「Anza語」について言いそびれてきた。
何度か、そこに踏み込みそうになって戸惑ったり、また踏み込もうとして失敗したりと、
一進一退と言うのは憚られるほどの惨敗っぷりを隠蔽しつつ、書き進めてきた経緯がある。

しかし、今度ばかりは歌詞の在り方とその機能について、どうしても語らねばならない。
言語学、言語哲学、認知論、詩学(文学)、音楽学に跨ったこの問題をさらりと流しつつ、
「なぜ、そのように歌われなければならなかったのか」、わたしの考えを書いていく。


「Anza語」とは、早い話が「スキャット」に他ならない。

しかし、つけ加えねばならないのは、それはただのスキャットとは異なることだ。
ふつう、スキャットは「ららら」「るるる」といった単音によって構成されるか、
「ダバダ」「ドゥビドゥバ」といった反復される音節によるかの、いずれかである。

Anza語にもそういった「ただの音」は登場するが、基本的には英単語を用いている。
(いや、その比率が次第に高くなっていったと言った方がより正確であろう。
試みに"abiso"(2003)、"Puraudis"(2007)、"Sixoneight"(2009)と聴き継いでみるといい。)

そのため、ライブで彼女のAnza語による即興的な歌唱や曲間における独語を聞くと、
「自分には聞き取れないが、きっと流暢な英語を話しているのだろう」と思いがちである。

しかし、Anzaは英語を話せない。英語を使っているのではなく、その音をなぞっているだけなのだ。

言葉の上っ面である、言葉の「響き」をなぞること。
言葉を「ただの音」として取り扱い、声を楽器として扱うこと。
それゆえ、かろうじてAnza語を「スキャット」と呼ぶことができるのである。


それはメロディを、そのメロディに託された思いを音声化するための「依り代」でしかなく、
必要とされるのはその言葉(←言語未満を含む)の「響き」であって、「意味」ではないのだ。
(ただ、その「意味」から思い浮かべた単語を歌う、ということもたくさんあるだろう。)

言葉(言語)には、その音という「外側」と、その意味という「内側」がある。
人間は社会化されるにつれ、音=外殻を触知することなしに意味を認識できるようになる。
ゆえに、(意味を間違って覚えていようが)ある言葉を聞いたらその意味をすぐさま認知する。


HPPが、と言うより、Anzaが避けたかった(と思われる)のが、この社会化された「意味」だった。
(そもそも、「意味」とは社会性そのものである。社会が変われば意味も変わり得る。)

どんな言葉も、使い古され手垢にまみれたがゆえの「陳腐さ」から免れ得ない。
もちろん、言葉単体だけでなく、文章(フレーズ)単位でも事態は同じである。

そうした言葉の「意味」が、Anzaの思い/ヴィジョンを損ねて「陳腐」にしてしまう。
大切な思いが、ありきたりで平凡なそれへと「誤解」されてしまうことへの不安。
それならば、言葉の「意味」を放棄し、その「響き」だけを使うようにしてしまえばいい。

Anza語が要請された理由の少なくともひとつは、以上のようなものであったかと思う。

だが、それだけではない。HPPの歌詞において、Anza語はほんの一握りの割合しか占めていない。
ここからが重要なのだが、英詞にNarumiが力を貸すようになってから、更に捻りが加わったのだ。


それ以前も、どちらかと言うとぎこちない英語(直訳調、逐語訳的な英語)による歌詞が散見されたが、
そうした訳のぎこちなさとは違った「不自然な英語」を歌詞として採用するようになったのである。

話は『folie a deux』リリース時のインタビューに遡る。BURRN!2008年1月号に掲載されたものだ。
Anzaはここで、Narumiが「Anza語を英語にできると言ったから任せた。そしたら本当にできてた」
といった趣旨の発言をしているのだが、わたしは当時、これを読んでこう思ったのだ。
「Anzaは実は英語ができたのか。そうでなければジャッジできない。歌詞が楽しみだ」と。

しかし、その歌詞を読んで大いに面食らった。ほとんどわからないのである。知らない単語もあった。

わたしは一応、比較的英語が得意な方である。たいていは読めばわかる。聞いてわかることすらある。
でも、これはわからなかった。敢えてわかりにくくしているとしか思えなかった。そして思い当たった。

英詞なのに、どうゆうわけかAnza語に聞こえはしないか、と。
これは、Anza語の音とリズムを残したまま、それを英語に置き換えた歌詞なのではないか、と。
このことを評して「(Narumiの英訳が)本当にできてた」とAnzaは言ったのではないか、と。

そう思ったら、途端に理解できた。歌詞の「意味」ではなく、その機能が、である。


この、NarumiによるAnza語の英訳を、ここでは「Anglish」と造語しておこう。
Anglishの要点は上記の通りなのだが、その機能についてまとめておきたい。

Anglishは十全な英語ではない。むしろ、あえてそこから離れようとしている。
ゆえに、パッと聞いた限りでは何を言っているのか判然としない(部分が多い)。
単語のチョイスや文章の構成やリズムが、英語として不自然だからだ。

というのも、Anza語がそうであったように「意味の重力」を懸念しているからだ。
狙いは、英語として自然な定型句を連ねることによって導かれてしまう陳腐化を避けること。

しかし、それだけではなかった。

歌詞とは「歌われる言葉」であり、メロディないしリズムと不可分である。
だから、ここには意味作用だけでなく「音楽的な定型(句)」という重力が、
すなわち、「よくあるフレーズ=メロディ≒歌詞(意味)」という陳腐さが、
多重化されて横たわっていたのであり、それもまた避けねばならなかったのである。

そのため、歌詞には難解な単語や奇妙なフレーズが頻出した。文法の無視もいくらかある。
この傾向は『Prodigium』で頂点を迎えた。あれを一読して理解できるひとなどいないだろう。
Anza語とAnglishの混淆も進んだ。だから、"Sixoneight"はそのどちらともつかなくなっていたのだ。


英単語の比率が増したAnza語と、難しい単語/奇妙なフレーズによるAnglishの接近。
ここへきて、Anza語とAnglishはその機能においてほとんど同等の働きを示すようになった。

それだけに、『Pobl Lliw』の出方が気になった。新曲の歌詞をどうするか、という点が。

結果、"Reset"以外の新曲(及び未発表曲)は歌詞が収録されなかった。Anza語だからだ。
しかし、その三曲("Sand"、"Hello"、"Col Delon")はAnglishにも聞こえる。
やはり、その同質化に違いはなかった。なお、"Reset"もAnglishである。
(念のために言っておくが、全編が聞き取り/読み取りにくいわけではない)


こうした歌詞を採用する強みは、個性が強調される点と、歌う当人の表現における自然さである。
HPPにとって絶対的な存在であるAnzaがそう歌うことで、表現により深みが刻まれることとなった。

一方で、普遍性/社会性を失い、理解される度合いを狭めてしまうきらいも同時にあった。

YouTubeのコメントに、外国人の「彼女は何語で歌っているのか?」という書き込みがあった。
また、たとえ単語が英語であったとしてもAnglishであるがゆえの誤解もあったかもしれない。

英詞を「書けない」、英語に「聞こえない」、英語が「できない」というふうに。


「なにを言っているのか/歌っているのかわからない」ことはよくある。
声に出される/歌われるその言葉が、母語ではない言語の場合がそれだ。

ただ、それでもひとはそれが「ナントカ語」だろうと見当をつけることができるし、大抵そうする。
また、それが未知の言語であったとしても、それが言語であることくらいは(なぜか)認識できるのだ。
しかし、仮にその言葉が「壊れて」いたら、必ずしも言語として認知するとは限らない可能性がある。
意識的/無意識的とを問わず、「なにかがおかしい」と察知する。つまり、違和感を抱くことになる。

Anglishを導入したことでより表現の精度を(逆説的に!)高めたHPPであったが、
そのために、その音楽性に馴染めないひとには余計に異質な存在として捉えられ、
近寄りがたいと遠ざけられていた節もあったのではないか、とわたしは思っている。


ただし、これらマイナス面は意図されたものであった(と思うしかない)ことを、
いや、意図されたことの副産物だったのだと、あらためてここに言及しておきたい。

常識的に考えて、たとえ英語ができないからと言っても、あんな歌詞には絶対にならない。

ゆえに、それは意図されたものだ。ならば、理由があるはずである。
それも、上記の機能面だけではなく、表現したい「なにか」と関わるものが。
そして、その「なにか」に変化が起こった。だから「歌詞の変化」が必要となったのだ。



さて、ようやく、本論のスタートラインに立てた。
上記の歌詞観を前提に、新作について語っていくことにしよう。


まずは、#3-"In Scrying"から。長い間、新曲1と呼んできた曲だ。

昨年発表されたDVD『Delirium』にも収録された「ポップな」曲であり、
本作収録曲のなかでもっとも早い時点にできた曲である。(初演は水戸公演)
「明るさ」の大半は、80'Sを感じさせるリフとそのサウンドの印象に起因する。

本作の中ではもっとも「Anglish」的な歌詞である。とくにブリッジ(Bメロ)。
英単語自体は平易だが、言葉のリズムが英語的ではなく多分に「Anza的」なのだ。

BURRN!誌2011年8月号のインタビューでは「明るいのか暗いのかわからない」と言われていたが、
同誌今月号のインタビューで、この曲に触れてHiroは「底抜けに明るいコーラス」と言っている。
だが、わたしの印象は異なる。言葉がAnza的であることもあって、どこかしら不穏な陰りを感じる。

たしかに、『Delirium』所収のヴァージョンと比べるとさらに洗練され「明るく」なった。
ただ、Anglish独特の、言葉が溶け合うかのような音節の連鎖による認識の宙吊りや、
通常「リズミカル」と言うのとは違った趣きの「リズム」など、Anza的な磁場は強い。

「ポップすぎる」と外されそうになったらしいこの曲だが、おそらく理由はここにある。
要は、「Anza的=旧来のHPP的」な曲としては「ポップすぎる」のだと感じたのではないか?

逆に言うと、Anza的であっても、これまで通り「暗く重い」曲なら抵抗はないことになる。


それが#4-"Melt"~#5-"Dive"ではないのか。「気味の悪い」新曲3と呼んできた。

歌詞はもっとも単純な英詞となっている。その内容は「ラブソング」でさえあるのだ。
にもかかわらず、これはAnza語/Anglishによる「呪詛」であるかのように聴けてしまう。
歌い方に拠るところ大ではあるが、そう歌えるような音の単語が集められているとも考えられる。

リフは荒々しく、引き摺るようなヘヴィネスの密度は高い。ベースとドラムのグルーヴ然り。
ただ、これでも初めてライブでやってから数回のヴァージョンよりは聴きやすくなったと思う。
唐突に感じられた展開部も、案外すんなりと聴くことができた。気味の悪さはやや後退している。

それにしても、Anza語/Anglishではないのが信じられないほどのドロドロ感ではないか。
ただ、このヘドロはなぜだか厭な感じがしない。音作りの絶妙さが為せるわざかもしれない。


この2曲(3曲)は、言葉の響きにおいてこれまでのHPPと新しいHPPをつないでいる。
では、言葉の響きが変わったのはどの曲だったろうか。それはなにを変えたのか。


#7-"Just A Human"、#9-"Enter The Sky"、#11-"Rise And Shine"
の3曲をその例としてあげておこう。

これらの曲は、英詞が「ふつうの英語」になったことの恩恵をもっとも色濃く現している。
英語のリズムが自然になったことで、「歌詞の聞き取りやすさ」は格段に向上した。

また、そのリズムに乗るメロディもさらに明瞭になった。(曲自体は変拍子が多いが)
言葉が明確になったことで音節が画然とされ、それを受けてメロディもキャッチーになった。

つまり、同じメロディであっても、そこに乗る言葉が違うだけで印象は大きく変わるのだ。
ここでも逆に言うと、かつての曲の歌詞を変えると、これら3曲に似た曲となるものもあると思う。
(たとえば、『Prodigium』の曲の半分は歌詞の入れ替えが可能ではないか、と思っている。)

この文脈において言えば、これら3曲は旧曲の潜在的な可能性を明確な英詞で「開いた」わけだ。
「そうなっていたかもしれない」楽曲の姿を示したことで、却って旧曲に新たな光が当たった。


なぜ、かつてはAnza語/Anglishで歌われなければならなかったのか?
そう、それがAnzaにとって自然だったからだ。では、どう自然だったのか?

言いたいことを言うのではなく、どうしても言わねばならないことを吐き出すこと。
体外に排出しなければその身がもたぬ「なにか」、そんなものを明瞭にしておきたいだろうか?
だから、それは不明瞭でなければならなかったのだ。ゆえに、そう歌うことが自然だったのである。

Anza語/Anglishの機能についてはすでに述べた。歌詞の意味の陳腐さを、音楽的定型を避けること。

その内実はこうだったと思われる。あれはヴェールだったのだ。直視できぬ「なにか」を遮るための。
ヴェールで「なにか」を覆い隠す。それは、ある意味リスナーを「守る」ことでもあったかもしれない。
いや、それよりも、そうしなければAnzaが「もたなかった」のではないか。それは鎧でもあったのだ。

それほどまでに、その「なにか」は忌まわしく、憤ろしく、そして哀しい「なにか」であったに違いない。
だからこそ、あれ程までに張り詰めた音楽性となっていたのだろう。ライブにおいては尚更だった。

それはあまりに激しい独白だった。そこにはAnzaしかいなくて、他者は介在する余地がなかった。
同時に、Anzaは理解を求めはしなかった。理解を求めることは「なにか」を開示することだった。
それはできなかった。それ以前に、してはならないと思っていたのだろう。だから独り言となった。
だが、言葉には聞き手が必要なのである。たとえそれが誰にも理解されない言葉であったとしても。

この場合、Anzaの言葉の聞き手は、他ならぬAnza本人であった。

HPPのPVにおいて、Anzaはつねにその分身を登場させていた。黒と白。大人とこども。
あれはまさに象徴だったのだ。密室に籠り、自分にしかわからない言葉を紡ぐことの。


そして、プレビューライブのブログでも書いたように、そうした「密室」の時期は終わった。
自らを閉ざしていた密室の四壁は倒れ、あとに残された扉は開かれたのだった。広大な世界に向かって。

「なにか」を内に抱えていた少女は、それとは違う「なにか」を告げるため、開かれた扉から外へ出た。


#11-"Rise And Shine"をあらためて聴いてもらいたい。実に昂然とした曲だ。
歯切れよく言葉を繰り出すアジテイターのようなAnzaは、驚くほど「ロック然」としている。
そして、歌われる内容に括目してもらいたい。これは闘いの歌なのだ。自分を取り戻すための…。

本作には、そうした決意表明めいた歌詞が並ぶ。これまでは受け身だった倫理的葛藤から、行動へ。
内から外へ、閉塞から開放へ、ネガティヴからポジティヴへと、そのベクトルが180度転換したのだ。


#1-"Stand In The World"はこの「転換」の象徴であり、かつ契機でもあったろう。

新曲2と呼んできたこの曲は、新曲1と3の間にあって、まさにその中間点のような曲だった。
(実際、そういったバランスを意識して作られたのだとHiroが各誌で語っている)

リフには3に近い「硬さ」を、サビには1に近い、明るいのか暗いのかわからない「響き」を、
それぞれ感じていたのだったが、ライブで観るたびにアレンジが少しずつ変わってきたこの曲は、
最終的に広大なスケール感と柔らかな包容力をその身に纏い、決定的な曲として再登場したのだった。

語るべきところは多いが、タイトル・トラックに選ばれたことがすべてを物語っていよう。

明瞭になった歌詞と、そこに乗るメロディ。Anza語/Anglishの影は大きく後退した。
力強さは暴力的な攻撃性としてではなく、意志/意思からくる陽性のそれとして発現している。




かくして、HPPはそのスタンスを定め直すことに成功したのだった。
(本作のジャケットを見てほしい。これが現在の「立脚点」なのだ)


さて、こうなると「過去の総決算」が可能となる。
#6-"Where Are You"と#12-"Eyes"だ。

繰り返しとなるから、その内実について多くは語るまい。ここではその方法論に着目しよう。
いずれも、Anza語/Anglishではないところが最大のポイントであると言えはしまいか。

前者は、その構成から"Sixoneight"を強く想起させられる。ある意味「リメイク」とも言える。
優しげな前半はより優しく、激しい後半はより激しい。とくに、この後半部は過去最速ではないのか。
しかし、はっきりとその言葉が聞き取れるこの曲には、あの不明瞭さが醸していた厭な気配はない。
これまでとは違う「どこか」に到達したことを示す、記念碑的な曲となったように思う。

後者は逆に、過去の同系曲のような厭な気配に支配された「鬼の憑いた」曲そのままに聴こえる。
ただ、決定的に違うのは、ここでもやはり「歌」なのだ。叫びではなく「歌っている」のである。

過去の同系曲、"Alien Blood""Folie a Deux"といった曲は、
楽曲という鋳型に呪詛を流し込んで作っていたようなところがあった。
与えられた骨組みの上に、AnzaがAnza語でぶっきら棒に肉付けしていたと言うか。
これまでは「叫びのための場」にすぎなかった。それが、今回はちゃんと音楽になっている。
(もっとも、部分的にその激情が音楽という鋳型を決壊させているのだけど)

ちなみに、前半は22まで、後半はつづきから35までカウントを取っている。
Anzaの年齢だ。22は1998年のHPP結成時の、35はこの曲を書いたときの。


どれだけ意識していたのかはわからないが、こうした総決算的な楽曲を、
あらたに開拓した歌詞の方法論でもって更新したあたりにHPPの気概を感じる。


かくの如く過去を清算したら、未来に向かって歩めばよい。

文字通り、#2-"My Name Is"と#8-"Rainy Stars"はこの「未来」を扱っている。

いや、ロボットの一人称をとる前者はともかく、後者の舞台は未来とは限らない。
しかし、わたしにはこの2曲が舞台をともにする「姉妹曲」に聴こえるのだ。
同じ登場人物のいる、フィクションの世界が見えてくるのである。

前者はハードSF、後者はファンタジーのようだが、いずれも「少女」の影がチラつく。
それも、かつての「閉じた」少女ではなく、言うなれば「愛」の象徴としての少女が…。

楽曲も、フィクションのスタイルにぴったりと寄り添っている。

前者は「いかにもメタル」なリフが展開される曲で、近未来的なニュアンスに富んでいる。
しかし単純なメタルではなく、Narumiのベースが躍動することでヘヴィロック的質感が伴っている。
それはBatchのドラムにも言えよう。いや、全編にわたってこれは言えるのだった。

また後者は、個人的に「もっとも新しいHPP」だと思った曲である。
柔らかく優しげに歌われること(だけ)が目新しいのではない。

この曲の核にあるものこそ、HPPが目指す「なにか」に近似しているのではないか。
そう思ったのだ。直感したとも言える。"Light to Die"のような「明るい終末」を幻視する。

HPPは、「世界に愛を告げようとしている」のではないか。その世界が、たとえ崩壊寸前であったとしても…。


それはさておき、こうしたフィクションの世界など、これまでは考えられないことだった。

歌詞が「ふつうの英語」を介して客体化されたことで構造化し、却って表現領域が広がったのだ。
個人的な独白という「内向き」から、他者への語りかけ/三人称的他者として語る「外向き」へ。
陳腐化や定型化といったものを懸念する必要はすでにない。もしくは、元々なかったのではないか。


HPPの個性は、初期の時点ですでに揺るぎなく確立されていたと思う。『Vary』以降はとくに。
それでも「ふつう」を避けていたのは、内に秘めた「なにか」への後ろめたさのためだったか。


しかし、もう恐れるものなど何もないことに気づいたようだ。

ピアノとヴォーカルだけによる#10-"Lost Place"は、その証左ではないのか。

Anzaのソロキャリアに近い作風、と言うか、これをHPPとして発表したことに驚かされる。
このピアノバラードは、逆説的に現在のHPPが「何をやってもいい」領域に達したことを告げている。

言うまでもなく歌詞は明確だ。また、そこに込められた思いも。
象徴的な表現をとってはいるが、何を意味しているか、気づかれた方もいるはずだ。
ここ一二年の日本において「失われた場所」とさえ言えば、だれもがわかるだろう…。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



わたしが本作について思い、考えたことはだいたい以上のようなことである。

残念ながら、叙述の方向性と合致しなかったところは割愛せざるを得なかった。
とくに、歌詞論に集中したために音楽的なことに関してはあまり言えなかった。

ほとんど触れていない曲もあるし、長いわりには甚だ消化不良で情けない。
過去の楽曲との比較や、音楽的な細部のことなど、まだまだ言いたりないのだが…。


また、思っていることとややズレが生じたものもある。


これらすべては、わたしの力が至らなかったことによる。申し訳ない。
今回、語り切れなかったところは、おいおい書いていくことにしたい。


とりあえず、今回はこれまでとする。

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2012-04-07

猿でもわかる「iTunes USで買い物をする方法」



つい先日、iTunes USにてHEAD PHONES PRESIDENTのNew Singleが発売されました。

わたしはとてもアルバム発売の6月6日までは待つことなどできず、
一刻もはやく新曲が聴きたかったので、iTunes USにてさっさと買うことにしたのでした。


件の新曲の圧倒的な素晴らしさについては、まだくどくどと言いません。

他の方にも、すぐにでも聴いてもらいたいと思ったので、
「わたしは如何にしてiTunes USにて新シングルを購入したのか?」
その方法について、紙芝居のようにわかりやすく説明してみようと、
この「猿でもわかる《iTunes USで買い物をする方法》」を書くに至ったのです。


さて、USアカウントの取り方は、多くの方がブログなどで紹介されています。
(たとえば、ここなどがわかりやすいと思います。)

が、無料アプリが欲しいわけではないので、あちらで買い物をするために、
iTunes USのギフトカードが必要となりますから、先にそれを購入しなければなりません。

わたしの場合、ここで15ドルのカードを購入いたしました。
http://www.airplanemusic.jp/itunes/

正直にいって、昨今の超円高基準からすると、レート換算的に損した気分になります。
でもまあいいや、とそこは目をつむって、さっさと購入しました。

ちなみに、わたしは音楽に関しては現物=CD至上主義者なので安い15ドルにしましたが、
普段からDLで済ませている方は、高いもののほうがお得だと思われます。
ざっと見た限り、あちらのほうが1曲あたりのお値段がかなり安いようですから。

さて、上記サイトでカードを購入すると、メールで16ケタのピンナンバーが送られてきます。

なお、gmailが不調だったのか、あちらのサーバーがどうかしてたのか、
この返信がけっこう時間がかかって、かなりやきもきしました。
そんなわけなんで、返信が来なくても鷹揚にかまえてお待ちください。


あとはもう、iTunes USのアカウントを作り、われらがHPPの新シングルを購入するだけです。

以下に、キャプチャで取り込んだものを貼りつつ、ご説明いたします。


①iTunesを開き、左にある「iTunes Store」をクリック。
いちばん下までスクロールして「国を選択する」をクリックします。



②アメリカを選びます。



③画面右上のボックスで「HEAD PHONES PRESIDENT」を検索します。
もちろん、検索ワードは「Purge The World」でもかまいません。



④結果が表示されます。お目当ての新シングルをクリックします。



⑤「Buy Album」をクリックします。もちろん、ひとつ前の画面からでもできます。



⑥すると、こんな表示が出てきます。ここから、アカウント作りとなります。
なので、さっさと「新規アカウントの作成」をクリックします。



⑦「continue」を選び、同意書のサインボックスをチェックして次へ。
(キャプチャを取るの、忘れてたので画像はなしです。必要もないでしょうけど)

⑧USアカウントのIDを作ります。以下、注意点です。

・メールアドレスは、iTunes JPと違うものにする。
・パスワードは「大文字と数字を含む8字以上の文字列」にしてください。
・「Security Question」はみっつ登録します。テキトーでいいです。わたしは1文字にしたほどです。
・「Rescue Email Address」は、IDのそれとは別のものにしてください。
・誕生日は、何でもよさそうです。いちおう、自分のものにしましたが。



⑨ラストです。これさえ通過できれば、あとは新シングルです!

・クレジットカードはスルーします。これはUSのものなので、日本のは使えません。
・「To redeem」のボックスに、16ケタのコードを入力します。コピペはできないので、間違えないように。
・名前を登録します。テキトーでかまわないでしょう。自分の名前にしましたが。
・住所を登録します。少し、詳しく説明しましょう。
-ここで重要なのは、Zip code(郵便番号に該当)です。実在するものが必要かと思われます。
-たいていのZipはxxxxx-xxxxで、5ケタ+4ケタです。古い住所は5ケタなので、それでも大丈夫。
-で、あっちの住所なんか知らないよ、と思われるでしょう。わたしはこうしました。
-住所と電話番号がすぐに出てくるところと言えば、ホテルです。よって、ニューヨークのホテルを検索しました。
-期待通りでした。「Street」に番地を、「bldg」にホテル名を、「City」にNew Yorkと入れました。
-「State」ボックスから州を選びます。ニューヨーク市なのでニューヨーク州「NY」です。
(州の略字がわからないとあれなので、有名な州にしましょう。LAとかTXとか。)
-Zipを入力します。わたしの場合、5ケタでした。
-電話番号を入力します。xxx-xxx-xxxxとある番号の、アタマ3ケタが「Area code」です。
・「Create Apple ID」をクリックします。あとは勝手にDLしてくれます。




以上です。

あとは新曲をお楽しみください。わたしはすでに20周くらいしておりますです。
スケールが格段に増した曲を聴いて、あまりのかっこよさに思わず笑ってしまい、
そして涙ぐんでしまったほどです…。


あ、そうそう、これで13.02ドルほどあまりました。
サントラ収録曲とか、入手が難しいレア盤などを探しております。

いまのところ、ジョアンヌ・ホッグ(Joanne HOGG)ものを見つけたり、
『ストリート・オブ・ファイヤー』の"Nowhere Fast"はアルバム・オンリーだとガッカリしたり、
といった感じです。

こうして探すのも案外なかなか楽しいもので、
こうしたオマケさえあるのですから、さっさと『Purge The World』を買ってしまいましょう。






-追記-

そうそう、書いておくのを忘れていました。

わたし自身、DLしてから気づいたのですけど、iTunes USでは、どうゆうわけかHPPの表記が違うんです。
HEAD PHONES PRESIDENTが、HEAD PHONE PRESIDENTになってるんですね。

わかりましたか?そう、PHONESがPHONEになってるんです。Sが抜けてます。

うーん、これでいいのだろうか…。いいわけないですよね。
US本国に連絡したら、すぐになおしてくれるのかな?

あ、Headphones Presidentてのもあったな。スペースがない、という・・・。

もっとも、この間違いはたまにライブハウスもやってたりするし、
HPP自身、WhitErRor (2005)のジャケだけはその表記にしているのですが。

ただ、アメリカはいまや完全にダウンロード社会となってますから、
わたしとしては、表記は正しいもので統一してほしいな、と思いました。


-さらに追記-

4月22日(日)深夜、表記が正されているのが確認されました。よかったよかった。

これを記念して、「お金が足りなくなったらどうするの?」という質問に答えておきましょう。

買い物をしたはいいものの、案外あっと言う間に残りのドルがなくなってしまった、
というときは、やはり同じように、もう一度ギフトカードを購入し、ピンナンバーを入手します。

それで、ストアの右側にあるメニューバーの「Redeem」をクリックします。



あとは、16ケタのピンナンバーを入力すれば、その分だけ課金されます。かんたんですね。




個人的にはCDの方がありがたいのだけど、DL限定作品もあるので、大いに活用してます。

今のところ、オススメはDEFTONESのチノ・モレノの別働隊†††(Crossesと読む)でしょうか。
EPを2枚リリースしていて、これはCD化される気配がいまのところありません。




いずれもニューウェーヴに由来するゴス感覚を、21世紀的なエレクトロニカとヘヴィネスで聴かせる、
一筋縄ではいかない深遠な音楽となっておりました。どちらも18分くらいです。

それと、ヴァン・ダイク・パークスのシングル連作もいまはここでしか聴けません。
もっとも、EPレコードではリリースされているのですが…。わたしにはハードルが高くて…。

ただ、これはいつか必ずCD化されるだろうと、待つことに決めたのでしたが。


ここを見てくれたみなさまがよき買い物をなされるといいな、と思っておりますです。


2012-04-04

HEAD PHONES PRESIDENT 'Preview live' at Marz on 31st Mar


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去る土曜、HEAD PHONES PRESIDENT(以下HPP)は「Preview Live」と題されたライブを行った。

タイトル通り、来るべき新作の「予告」と新PVの「試写」を兼ねたライブだったのだが、
それと同時に、2012年現在のHPPというバンドの、言わば「見本市」としてのライブ、
という側面もあったようにわたしには思われた。以下に、その内訳を詳述したい。


ただし、先に断わっておきたいのは、これは所謂「ライブレポ」ではないということだ。

もっとも、これまでわたしが書いてきたものも、大抵のブロガーが書くようなそれとは異質で、
大部になったり、感想よりも考察が多かったりと、甚だ読みにくいものではあったのだった。

それを、今回は更に推し進めた。というより、そうせざるを得なかった。

元より、ライブを再構成/追体験するようなものを書く気はあまりなく、
それ以上に、自分が感じ、考えたことをすぐにでも放り出していくこと、
また、テキストとしての整合性よりも、そうした自分の考えというガラクタの集積が、
なんらかのヴィジョンを提示するのではないか、ということへの賭けにも似た期待、
そちらの方が、今は書くに当たってモチベーションとなっているため、なのだった。


眼前に繰り広げられるパフォーマンスに触れながらわたしが思い、感じ、考えたこと、
自然と想起された記憶への瞬間的/間欠泉的な遡行が織りなした、過去と現在の綾、
その織物に浮かんだように思えた、彼らの近未来をも包含するヴィジョン。

これはわたしの内部に展開されたものの外部化であって、客観的な叙述とはやや異なる。

わたしが書こうとしているものはそうゆうものだから、
ライブの模様が知りたいだけなら読まなくていいと思う。


なお、今回は敬称略とした。そうしなければ書けなかった、とも言うか。
このブログに慣れている方は違和感を持たれるかもしれないが、ご諒承を。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



スクリーンに新たなPVが映し出された。タイトルはまだわからないながらも、それが名古屋における初演から漸進的に進化してきた、わたしが「新曲2」と呼んできた曲であることは一瞬でわかった。画面左手上方から右手下方にかけて、はっきりと地層が見てとれる赤みがかった崖がその威容を誇り、抜けるような雲ひとつない青空と、その空よりもさらに青い海とのコントラストの狭間、やや窪んだ岩棚の上に、いくつかの黒い塊が見てとれた。HPPである。クレーン撮影による中空からの大掛かりなパンがバンドを捉え、矢継ぎ早に各メンバーの演奏するショットが挟みこまれ、ふたたびクレーンからの全体を映すショットに切り換わると、そこにはくるくると軽快にまわるAnzaの姿があった。まるく拡がるスカートの裾は花を思わせた。聞こえてくる音像のなかには、すでに何度か観て/聴いて馴染みになったリフとは別に、キーボード乃至ギターシンセによる装飾音が曲に新たな彩りと膨らみをもたせていた。そして、Anzaが歌いだす。

わたしは、この冒頭のわずか数秒だけで、優に感動し切ってしまったのだった。

細かくリアレンジされ、格段にそのスケールを増した曲に聴き入りながらも、新生HPPを象徴するに相応しい映像に釘づけにされたのだ。曲が2番になると、突然「扉」が現れる。木製のいかにも頑丈そうな扉は、どこかスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』に登場する、あのミステリアスでどこか不穏な雰囲気さえ湛えた漆黒のモノリスを思わせた。各メンバーがその扉と一対一で対峙するショットが挟みこまれると、その扉はかつてのPV群における「ふたりのAnza」と相似形のものに思え、物体としての扉は突如としてメンバーのアルターエゴを象徴/表象する、新たなダブル(分身)の化身として見えてくるのだった。しかし、辺りに夕闇が訪れると同時に、その扉が紅い炎をあげてその身を一層際立たせると、何かが大きく変わったように思われた。対していたはずのHPPは、燃える扉の周りで演奏をつづけるも先ほどの一対一の対峙とは印象が異なり、扉は打ち砕くべき対象と言うよりはむしろ共闘すべき何者かであるような相貌さえ見せはじめ、両者は炎を介してひとつとなるのだった。

この新PVが提示した世界を、わたしはそのように受け止めた。
そして、その世界が提示/内包する広大さに、ある感慨を覚えたのである。


HPPはむしろ、そうした広大な世界観とは無縁のバンドではなかったか。

それを内に潜在的に秘めていたとしても、その表出はとても内向(内攻)的で、
身を削り自らを傷つけているかのようにも見えた苛烈なパフォーマンスを前に、
わたしたちオーディエンスは蛇に睨まれた蛙よろしく縮こまっていたではないか。

ステージ上の彼らはどこか「閉じて」いて、それが魅力でもあったのだが、理解者は多くなかった。

狭いライブハウスで繰り広げられていた、そうしたパフォーマンスを象徴するかのように、
その時期のライブを収めたDVDはToy's Box (2006)、Paralysed Box (2008)というタイトルで、
ライブハウス≒密室≒箱というアナロジーによってバンド自身の密室性を奇しくも表していた。

そう、ある時期までの彼らは、ステージを「密室」としていたのかもしれない。
そして、われわれはその透明な箱/檻を、ただ眺めるしか為すすべはなかった。


試みに、最初のPVとなった"Corroded"の映像を見てみるといい。
Anzaは透明な「箱」に閉じ込められていて、遂には出られずに果てる。

ほかのPVにも同様の傾向があり、その類似性/一貫性/共通項は容易に指摘できる。
演奏場所は黒や白一色の抽象的な空間だったり、坑道や廃墟のような閉鎖空間だったりする。
"Groan And Smile"においては、灰色の空が出口のない世界を塞ぐ天井にさえ見えるほどだ。

この「密室」はなにも、PVの演出法や撮影場所のために生じた先入見に由来するのではない。
わたしはこの言葉が、ある時期までのHPPを表すに適当なものと思えてならないのである。
というのも、当のHPPが意識的無意識的とを問わず、そうした表現を選んでいるからだ。

HPPは、細心の注意をはらってPVを制作している。少なくとも、わたしにはそう思える。

楽曲が表し、かつその内に抱えた世界観をいかに映像化するか、慎重に考えていなければ、
各楽曲のイメージを壊さないどころか、それを増幅するかのような映像にはなっていないだろう。

だからこそ、少なくとも2007年くらいまでのHPPはその精神的/象徴的なトポス(場所)を密室的な閉鎖空間に置いていたと、ひとまずは言い切ってしまっていいように思える。そうでなければ、ああした「暗い映像になる楽曲」をPVにはしなかっただろう。もっとも、当時は「暗い映像にはならない楽曲」というものを、まだ持ち合わせてはいなかったのだが。


それが、そんな閉鎖空間にもいつしか光が差し込むようになっていた。光をもたらしたのは間違いなく、"Light to Die"という楽曲の誕生と、そのライブ・パフォーマンスにおいて、であった。2008年のLOUD PARK 08という特大の「密室」におけるステージにおいて、複数のスポットライトが作りだした紡錘状の光の集中に白く霞んだAnzaを目にして卒然と悟ったのは、HPPが本来いるべき場所はあの狭苦しい密室などではなく、垂直性の光が映える広い空間であるということだった。彼らが内に孕んでいるスケール感は、わたしの想像力では及びもつかぬほどの射程を備えているのではないか、そうも思ったのだった。

LP08以後のパフォーマンス/オーディエンスの変化は、古参のファンならだれしもよく覚えているはずだ。あれから、バンドは徐々に変わっていった。"Nowhere"のPVにおける空間は、もうそれを密室と呼ぶのは躊躇われるような広さと明るさを持っていた。ライブにおいても、その内向性は若干の位相の変化を段階的に踏みつつも、かつてのようなステージ上の密室性からは遠ざかり、オーディエンスとの交感が増えていった。そして、Pobl Lliw (2010)のアーティスト写真が緑の深い渓谷で撮影されたことは、わたしには何より象徴的な出来事に思えたのだった。もうHPPは、自閉的な密室に留まっていられるようなバンドではなかったのである。

だから、新PVの撮影が屋外でなされているとブログやツイッターで知ったとき、それは理の必然であると思ったし、その楽曲のスケール感に見合った映像になるだろうと予想したのだ。それを、期待を上回るかたちで見せつけられたことがこの上なくうれしく、また、HPPと共にしたこの数年間が一瞬のうちに凝縮されるような思いがして、なんとも言えない感慨を抱いたのだった。


新PVの上映が終わると、場内からは盛大な拍手があがった。当然の反応だった。
白い幕が上がり、暗幕が袖に消えると、ステージにはすでにメンバーがスタンバイしていた。

つい先ほど見たばかりのPVとほぼ同じサウンドの、硬質ながらもザラザラした質感のリフが掻き鳴らされ、大阪が初演となった「新曲3」と都合上呼んでいる曲が始まった。これは前回のブログで書いたような「気味の悪い」曲なのだが、PVから受けた印象を引き摺っていたためであろうか、どこか快活なものさえ感じ、戸惑いとも喜びともつかないものを覚えた。依然として「気味の悪さ」はあるものの、弾むような感触が加味された気がしたのだ。いずれにせよ、以前だったらこの曲で幕を明けることに抵抗を覚えたはずなのに、そういった違和感がなかったことから、何か微妙な修正が施されたのかもしれないとも思った。そうでなかったら、やはり先ほどの喜びが持続していたことの、心理的証左でもあろう。


これに、"Nowhere""Desecrate""Labyrinth"という定番がつづいた。"Labyrinth"に至っては、おそらくこの4年数ヶ月にわたってライブ序盤から一度も外されたためしすらない一曲である。それゆえに、この流れは一端ここで封印されるのではないか、とも思った。HPPがその密室の壁を叩き出し始め、少しずつ刻みこんでいった亀裂からその四壁を壊すに至ったのは、まさにこれらの曲によって、なのだった。めずらしく、いや、今後はこれが常態となるのだろうが、Anzaはときに笑みを浮かべながら歌い、そこにかつてのライブとの決定的な差を思わずにいられなかった。今となっては笑い話のように聞こえるかもしれないが、いつだったか、ライブ終演直後にAnzaが「ありがとうございました」と小声で言ったときの、わたしたちオーディエンスが受けた衝撃はかなりのものだったのである。客電が点いたとき、動揺にも似た表情を浮かべたひとを何人か見かけたが、自分もそんな顔をしていたに違いない。それほどまでに、ステージ上とこちら側は画然と隔たっていた。そこにはいかなるコミュニケーションもなく、それが「舞台のよう」「映画を見ているみたい」とも形容された所以の一端でもあったのだから。


HPP初期のテーマ曲とも言える、"Life Is Not Fair"がつづいた。久々の登場だ。アコースティック・ヴァージョンは昨年のワンマン・ツアーでもやっていたが、オリジナルのそれは、2010年9月11日の名古屋公演が、おそらく最後ではないだろうか。(九州/福井/台湾でやっていない限り、ではあるが)いずれにせよ、東京では2009年10月23日のワンマン公演以来の演奏となった。Anzaはステージ中央で直立不動のまま歌い、その大きな目は虚空を睨んだまま動かない。その異様な姿はかつてのパフォーマンスの残響のようでいて、しかし違う。と言うのは、これが数ある表現/表情のひとつであって、ただひとつのそれではないのだと、今ではだれもが了解しているからだ。

言うなれば、彼らは使える色彩を増やしたのである。モノトーンに沈みがちだった世界に――それはそれで、シルヴァープリントのモノクロ映画のようなシャープな美しさがあったのだが――少しずつ色味がついてきた。そして今は、そこに豊かな階調を加えようとしている、その真っ只中なのだった。曲が後半部で激しくなると、一気にその躍動感は増す。いや、躍動感などという言葉では生ぬるいだろう。動物的とさえ言いたくなるほどの衝動性を感じぬ者が、果たしてあの場にいたかどうか。ああした衝動性が、数多くのロックバンドと異なる発露を迎えるのはなぜか、幾度となく自問したその問いをまたもわたしは反芻していた。

曲はそのまま、id (2002)の曲順通りに"What's""Too Scared"とつづいたのだが、後者には驚かされた。2007年6月23日のワンマン公演以来ではなかろうか。そう言えば、あのときも会場はMarzだった。近いようで遠く感じる年月日だ。現編成になってからというもの、毎回のように「メタルではなくヘヴィ・ロック」という認識を――その一方で、リフの尖り方はどんどんメタリックになっているのだが――深めていて、とくに2002年までの初期の曲をプレイするときは、楽曲の特質といまのバンドサウンドとがしっくりくるように思える。ただ、冒頭のPVに見られたスケール感や深み/膨らみは、やはり最近の、いや「これからの」曲でなければ得られないのだろう、とも思ったのだったが、この時代の比較的シンプルな(ただし、並みのバンドからしたら十二分にヒネリの利いた)楽曲だからこその直接性は、いまでも(そしてこれからも)十分に楽しめるものである。


時代順、ということなのだろうか、de ja dub (2004)の2曲がつづく。いつものように、"ill-treat"は始まるその前からしてすでに絶望的なまでに哀しい。Hiroが紡ぐ繊細な音に合わせて、Anzaは明るい表情をある時点を境に曇らせ、あとはひたすら「落ちて」いく。泣き出しそうな顔から表情を失った顔へ、そしてヘヴィなリフが炸裂するころには哀しみが怒りへと転じ、まるで復讐劇の火蓋が切って落とされたかのようなただならぬ気配を色濃くしながら、曲は茫然自失の終局へと展開していく。前回まではNarumiがベースでそのエンディングを繰り延べていたが、今回はBatchのドラミングがその代役を果たした。タムやシンバルを繊細かつ巧みに操るその様は、打楽器による囁きに他ならなかった。

これにつづくは"Corroded"、そう、あの「透明な箱」の"Corroded"だ。思うに、2004年~2005年のHPPがいちばん密室性が高かったのではないだろうか。この時期の曲には、一種独特な磁場があると思えてならない。なんとも言い知れない「忌まわしさ」が、言うなれば、「鬼」が憑いていはしまいか。そして、その鬼にはなぜだか美しさが感じられないだろうか。こうも胸中に「厭なもの」を掻き立てる、忌まわしい存在だというのに。

こうしたある種の「忌まわしさ」がロックの言語となって久しい。あの90年代に活躍した一連のバンド群、とくにALICE IN CHAINS、NINE INCH NAILS、TOOL、KORN、DEFTONESといった主要バンドたちが、捩れた美意識と意外にも汎用性のあった方法論でもってロックにもたらしたこの文法は、同様の、しかし別種の文脈を備えていたここ日本において、究極にまで推し進められた感がある。日本には、ハイカルチャー/サブカルチャーの区分なしに、仄暗く陰湿な文化的水脈が長い年月をかけて流れているが、それとアメリカ社会における「忌まわしさ」を表現したロックが合流した、その水辺に咲いた徒花として、即座にJURASSIC JADEが思い浮かぶ。(ただ、彼らが内包する文脈はもっと複雑なので、この文脈における選出は必ずしも適切ではない。)HPPの音源を初めて聴いたときにそんな模式図を脳裏に描いたことを、ふと思い出した。


Anzaが去り、Hiroがアコースティック・セットの準備をしている間を、NarumiとBatchがつないだ。そこにHiroが加わり、短いセッションとなる。見なれた光景のようでいて毎回まったく違う音運びになるため、いつも新鮮な気持でその瞬間瞬間を注視/傾聴することとなる。着替えをすませたAnzaが戻り――前半は、白スカート(前の方は短くなっている)、黒キャミの上に黒い薄いレース状のケープ(ところどころカットしてあって、胸には大きな赤いクロスがあるもの)というもので、後半は、新PVとおそらく同様の黒スカート(金糸などの装飾あり/やはり前が短く後ろが長い)、黒パーカー(無地のもの)――"Inside"のアコースティック・ヴァージョンが始まった。『Pobl Lliw』というアルバム自体にも言えることだが、Narumiのベースがアコースティック・セットの中心を貫く背骨となっていて、このときも音の存在感が際立っていた。そのサウンドはとても心地よいもので、原曲においてはベースがもっとも曲の不穏さを増幅していることとはまるで対照的である。

昨年、『DELIRIUM』に収録された"Crumbled"のアコースティック・ヴァージョンを初めて観た/聴いたのは、2010年10月22日のアコースティック・ライブのときだった。とりわけ印象的だった口笛を今回は聴くことができなかったが、原曲から「忌まわしさ」をすべて取っ払ったこのヴァージョンは、曲に込められた思いを切々と伝えてくるだけに胸が詰まる。逆に言うと、かつてはこの思いを表現するのに「忌まわしさ」のフィルターが必要だった、ということなのだろうか。

曲が終わるとすぐさまギターが用意される。HiroがVシェイプのギターを持っているところを観るのは、これが初めてだ。(2010年9月のツアーで、Marが弾いていたフライングVを思い出したひとも多かっただろう。)掻き鳴らされる音が、どの曲に向かっているのかを告げる。冒頭で上映されたPVの、あの曲だ。これまで通り「新曲2」としておこう。初演のときから格段に進歩したように思われたのは、あのPVを観たあとだったからではあるまい。リフにしろサビの歌メロにしろ、さほど大きな変化はないのだが、こちらを柔らかく包み込む「なにか」が加わったのだ。初演のときはもっと「鋭い」印象があった。鋭角的に突き刺してくるものから、柔らかく覆いかぶさってくるものへ、というイメージへと変化したのである。そして、しなやかな力強さがある。祈りと生活がイコールとなっている者のみが持ち得る、あの清廉な力強さを感じるのだった。


Anzaが笑顔でMCをとる。新曲をやる、と。2曲つづけて演奏されたこの新曲を、都合上「新曲4」「新曲5」と呼ぶ。前者はソリッドでタフなリフ、突き抜けるようなサビの歌唱/その直後の歪ませた声、随所に見られた複雑なアレンジが印象的だった。これまでは、音の粒子を撒き散らすようなリフが多かったと思うのだが、この曲ではその粒子を圧縮してタイトに吐き出しているという印象を持ったのである。より構造化された、とでも言うか。ユニゾンで演奏する部分も多々あり、緩急のやたら激しいヴォーカルを含め、かなり難易度の高い曲だと思う。

つづく後者は、前半はヴォーカルとベースの静謐なパート、ギターとドラムが徐々に合流し、最終的には激しいパートに至るのだが、思いを洗い浚いぶちまけていたこれまでの楽曲とはやや異なっていた。どう違うのか、うまく言葉にできなくてもどかしい。2曲とも、いやこれは新曲すべてに言えることだが、これまでなら飛散/拡散していたものが収束/凝縮されたことで、却ってその世界観の拡がりを獲得している、というのが大雑把なわたしの感想で、一言でまとめると「タイトになった」のだ。付け加えると、ギターがえらい「動き」を見せていた。あの場にいたギタリスト諸氏はどう思ったのだろうか。

ほとんど唐突に、新曲から"Reality"に接続された。初めてこの曲を聴いたとき、リフの刻みっぷりに度肝を抜かれたものだが、ツインギターの片割れがいなくなってもその威力を減ずることがないのが素晴らしい。昨年2月4日のクアトロでのライブでは、Narumiがステージから身を乗り出してきたことが脳裏をよぎる。同時に、この曲を十全なかたちで観ることのできた唯一の機会である、2009年のワンマン公演のことも。


Anzaが「Are you happy?」と声をかける。この言葉には、思うところがたくさんある。2010年9月を思い出さないわけにはいかない。この言葉の内実が日に日に変わり、虚ろな言葉にあたたかな思いが充填されていった、あの数日間を。そしてまた、天を指さしながら「Frends...heaven」との言葉に、やはり2010年の8月を、またAnzaやHPPのまわりから「天」へと旅立ってしまった人たちのことを思わずにいられなかった。曲はもちろん"Light to Die"であり、Narumiのベースから始まる。

はじめは、妙なタイトルだと思ったものだ。「死すべき光」とは如何に?と。しかし、それは誤りだった。これは不定詞ではなく、Dieは動詞ですらない。このDieという単語はあらゆる死を象徴した音節にすぎず、文法や通常の用法など意味を成さないのである。ここにあるのは、あらゆる死に等しく降りそそぐ光、というヴィジョンであり、かつ、あらゆる死が天上の光へと向かって昇っていく、というヴィジョンなのだ。この垂直性が密室の天井を貫き、ひいてはその四壁を倒壊させるに至らしめたことはすでに述べた。そして、このとき悟ったのだ。新PVの扉は、かつてそこに密室があったことをまさに象徴しているではないか、と。あれは閉鎖空間の残骸そのものだったのではないか、と。しかしその扉も、燃えていつかは灰となる。これからのHPPは、水平上にその世界を広げていくのだ。あの赤みがかった、崖の上から。


近い将来へと思いを馳せていると、久しぶりに聞いた一節に否が応でも目を見開かせられた。「Savage in my heart...」とくれば、それは"I will Stay"である。2008年ごろまで、ライブの締め括りに鎮座していたHPP中期のテーマ曲だ。演奏されたのは、2010年9月の大阪・名古屋公演が最後だった。そのときでさえ、久しぶりという感慨がすでにあった。東京では2009年7月8日が最後だから、かなり間を空けたことになる。もちろん、現編成ではこれが初めてだ。わたしはもうやらない曲だとばかり思っていた。というのは、この曲と脱退したMarとの記憶における結びつきは不可分であり、彼との因縁が深い曲はやらないというより「できない」だろうと常々思っていたからだ。(演奏上不可能、という曲も当然あるだろう。)心理的な抵抗感だけでなく、記憶からくる「痛み」が伴うことへの恐れが予想できた。HPPのメンバーは、とても繊細なひとたちだから。またそれは同時に、Marをよく知るオーディエンス側にもあっただろう。わたしには、少なからずあった。だから、曲が始まったときに射抜かれるような驚きと微かな痛みを覚えたのだった。

新作の発表を控えたいま、あらためて過去を振り返ってみると、わたしにはVary (2003)だけが浮いているように思える。それは、この作品で多用されたアジアン・テイストの旋律やアレンジに因るところも大きいのだろうが、前後の脈絡とは別にあれ一作で完結している気がするのである。それ以前や以後の作品との連続性なり連関性なりがあることは当然のことであって、それとは異なった意味での「完結」なのだが、これまたうまく言葉にならない。コンセプトアルバムというわけでもないのに、受ける印象はそれとほとんど同じと言うか。そして、その仮構されたコンセプト――これを作品の魂と呼んでもいい――と、Marの存在とが深く結びついている、というのがわたしが長年抱いているこの作品のイメージなのだ。そこには、当時のHPPのアジアン・テイストのファッションから流れ込んできたイメージというものもあるし(物販に敷かれている布はあの時代の名残りだ)、何度も観た五人編成HPPのパフォーマンスにおけるMarの存在感、というものも混在していることくらい、わたしは百も承知している。書き出せばきりがない。

四人編成となったHPPが『Vary』時代の曲をやる意義は大きく、とくに"I will Stay"に関しては殊更それが大きいと思う。ステージを観ながら、Marのパフォーマンスをそこに観ていた頃へと意識が向かっていた。ときにAnza以上に曲にのめり込み、ステージから降りたまま終演を迎えることもあったMarが、ふらふらと立ち上がる姿が思い出された。しかし、彼はもうバンドを去ってしまって久しい。その姿がもっとも強く焼きついているこの曲を現編成でやったいま、彼は完全に過去のメンバーとなった気がした。現HPPにとって、これは超えねばならない試練であったかもしれない。もしくは、この曲こそが残された「扉」だったのだろうか?


沈黙が訪れると、チリーン、と音が聞こえてくる。"Sixoneight"だ。前半は亡きものへ向けられた慈しみの曲であり、後半は生けるものを亡きものにした「なにか」への昂然たる憤怒の曲となる。その前半部で、Anzaはわたしの手を取った。申し訳ないような、誇らしいような気持ちはすぐに失せ、グッと握る力が込められたその掌に意識を集中させた。いつか観たライブの光景が甦った。遠くも近くもある、記憶の遠近法。

初演から今日に至るまで、何回観ただろう。(初演の模様は『Paralysed Box』に収められている。)その後、曲は威力と深度を増しながら成長した。それがいつからか、崩れてきた。いや、崩れたのではなく、意図的に壊したのか。激しい後半になると、もはやヴォーカルは既存のラインをなぞることはせず、思いを表現するのではなくその激しい思いそのものとなって、ひたすら声を荒げるだけとなったのだ。われわればかりか、当の楽曲そのものが、彼らのパフォーマンスにたじろいでいるのではないだろうか。それほどまでに思いをブーストさせてしまうなにかが、言うならばやはり「鬼」が、この曲にも憑いていると思えてならない。ただ、2004年~2005年期のそれと違うのは、どこまでも拡散していくかのようなスケール感が伴っていることだろう。たとえ飛散していくそれが、血飛沫のような剣呑なものであったとしても。(この拡散が収束へと向かっていることについては、すでに述べたから繰り返さない)巨大に膨張してゆく怒りがフッと消え、束の間の静寂へと至ると、留め金が外れたように全楽器が轟音をあげるフィナーレを迎え、メンバーが去った。


アンコールでは、Hiro、Narumi、Batchが即興的な演奏をみせてくれた。つづいてAnzaがほぼ私服と言えそうな軽装(RAZの黒パーカー、ストライプのタイトなチュニック、黒レギンス)で登場すると、新作が6月6日に発売されることや、近くに迫ったアメリカツアーのことを話してから、「リクエスト投票の1位でした」と"Chain"を紹介し、曲が始まった。ライブの場において、いつしかこの曲に自然と付与されていた幸福感とともに笑顔で楽しそうにプレイするHPPを観て、いつものようにわたしは確信するのだった。このバンドなら、どこに行ってもだれを前にしても、必ずや「目にモノみせてくれる」だろう、と。

そして、来るべき新作が早くも待ち切れずにいる自分を感じたのだった。



SET LIST
01. (new song 3)
02. Nowhere
03. Desecrate
04. Labyrinth
05. Life Is Not Fair
06. What's
07. Too Scared
08. ill-treat
09. Corroded
short session
10. Inside (Acoustic ver.)
11. Crumbled (Acoustic ver.)
12. (new song 2)
13. (new song 4)
14. (new song 5)
15. Reality
16. Light to Die
17. I will Stay
18. Sixoneight
Encore
19. Chain


6月6日が待ち遠しい・・・


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2012-01-30

HPP's 3 New Songs

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HEAD PHONES PRESIDENT(以下HPP)の2012年初ライブを観に、名古屋に行ってきた。


HPPについては、これまで何度も何度もライブレポを書いてきた。
ネタ切れというわけではないけど、今回はレポ的なものではなく、
来るべき新作への思いとともに、3つの新曲について書いておきたい。

が、その前に1月27日のセットリストとメモくらいはあげておこう。


HEAD PHONES PRESIDENT
at Apollo Theater on 27th Jan 2012


SET LIST
01. Nowhere
02. Desecrate
03. Labyrinth
04. Light to Die
05. (new song 2)
06. (new song 3)
07. (new song 1)
08. ill-treat
09. Endless Line
10. Sixoneight
Encore
11. Chain


実は、終演後にセットリストを見せてもらったのだけど、新曲3だけはタイトルがあった。
ただ、まだ仮タイトルかもしれないので公表はしないことにした。

あと、セットリストには毎回"I'll-treat"とあって、illではないのかと首をひねるのだけど、
3rd DVDのDELIRIUM のチャプターでもI'llとなっていたので、もしかしてこれが正式?
と混乱するのだったが、それはいまのところどうでもいい。以下、短くメモを。


これは12月の仙台公演やMarz公演でも同様だったのだけど、「Anza語」に日本語が加わったのだ。
要するに、「何を言っているのかはっきりわかる言葉」をステージ上で発するようになったのである。
いや、2005年まではそうしていたのではなかったか。むかし、観た覚えがかすかにある…。

特筆しておくべきは"Endless Line"だろう。かなり様変わりしていた。
漸進的な変化はすでに経ていたのだが、今回は明確な違いがあった。
オリジナルよりも繊細な表現が強調され、前半は別の曲のようだった。

また、ライブにおいては曲間にセッション的な演奏がなされるのが常であるとはいえ、
新作のレコーディング中ということもあってか、聴き慣れないフレーズが出るたびに、
すわ「未知の新曲か?」とこころがはやったことをも、ここに残しておこう。

Hiroさんの、静けさの中で微細に音が震えるタッピングがわたしはとても好きなのだけど、
これは新曲のイントロではないのか、と緊張しながらその短いセッションに見入ったのだった。


それと、新作がリリースされると、おそらくこのセットリストも激変するだろうなと、
一抹の寂しさと、それに大きく勝る期待とが入り混じった思いをもって観てもいた。

"Labyrinth"はここ4年ほどセットリストから外れていないはずなのだが、
LOUD PARK 08以降は冒頭にHiroさんのソロがついたヴァージョンとなり、
驚くべきことにそのまま3年以上経って、今日に至っているのである。

HPPにとって転換点となった曲のひとつであろう"Labyrinth"も、
そろそろお役御免となるかもしれないと、ふとそう思ったのだ。

"I will Stay"がセットリストのラストから外れたとき、HPPの意志/意思を感じた。
それと同じことが、近いうちにふたたびあるだろう、そう予感したわけだ。

こうした「定番」の組み替えは、長年同じバンドを観つづけているひとはわかるだろうけど、
バンドが新たな領域に突入していったという喜びと、新セットの新鮮さを得ると同時に、
いまや過去形となったセットに曰く言い難い哀惜の念を覚えるものだ。


そんなふうにして、ライブ中は未来の哀しみと喜びを先取りしていたのだったが、
メモはこれくらいにしておいて、現時点で判明している新曲について書いてみよう。



すでに書いてあることだが、新曲の登場順に1、2、3と便宜的に名付けている。

1は2010年12月17日(金)の水戸公演が初演。DELIRIUMで見ることができる。
2は2011年7月18日(月祝)の名古屋公演が、3は2011年8月20日(日)の大阪公演が初演。


新作のレコーディングは前後半に分けて進めていることがブログなどから窺える。
Anzaさん曰く「音がもの凄くエグイ」とのことだが、この3曲は正にそんな音だ。

メタルの音作りは、切れ味の鋭い刃や地を轟かす重戦車や岩石を砕く重機など、
まさに「メタル」な鋼鉄関係の言葉やイメージに喩えられることがとても多いし、
古典的なハードロックや、メタルとは一味もふた味も違うヘヴィロックなどは、
「ロック」の名の通り岩石などの自然物(風水火土のエレメントでもいい)や、
鋭利なメタルとは対極の「鈍器」のイメージなどが用いられることが多い。


今回のHPPの「エグイ」音作りは、いずれにも当て嵌まり、かつ当て嵌まらない。

リフの切れ味は鋭いけど、その音にはずっしりとした量感がある。
重機が巌を砕くようにも、岩石が重戦車を潰すようにも喩えられそうだ。

音自体は「粗い」粒子が目に見えるようなささくれかたをしているのだけど、
メタルにおける「軍隊を思わせる規律ないし秩序」的な終始反復されるリフと違って、
より隙間のある(その点、ヘヴィロック的な)リフという(微小にして極大の)差異のため、
精錬された「メタル=鋼鉄」よりは、その原石である鉱物や「ロック=岩石」に喩えたくなる。

ゴツゴツザラザラとした巌の表面を、針金の束で撫でているような音とでも言うか。
その太く重い音の束が、垂直ではなくやや傾いで壁のようにそそり立っているのだ。

Hiroさんは、パワーコードではなくちゃんとコードを押さえて弾いていることが多く、
そのため鳴らされる音が増え、ああした重厚な音の響きを獲得できているのだろう。
(カンのいいひとはVOIVODを思うかもしれない。確かに「音」は近いものがある。)


そんな「エグイ」音作りだが、新作の全編にわたって「そう」だとは思わない。
おそらく、セッション的な音空間で聴かれたような美しい音像もあるはずだ。


では、曲はどうだろう。何が変わり、何が継承され、どこへ向かっているのか。

3曲だけでは判断材料に乏しいが、「順当な発展的進化/深化」というよりは、
むしろ「暴力的な先祖返り」とでも言えそうな荒々しさ/原始性を感じている。

それと同時に、これはPobl Lliw (2010)に収録された"Reset"にも感じたことなのだけど、
近未来的なヴィジョン/イメージとでも言うか、スケール感の拡がりもまた感じていて、
上述した原始性との相反する印象を持ってしまうところが、HPPらしいと思っている。


その"Reset"に近いのは、一応、明るさを湛えてはいる新曲1だろう。
一応、というのは、どこか不穏な影が脳裏を霞めていくからである。

リフ自体は80年代的とさえ言えそうなほど明るいのに、歴然とした違いがある。
ソロもかなりトリッキーで、どうしたらあんなフレーズが出てくるのだろうと訝しく思う。


Hiroさんは、9月のソロ公演で示して見せたように、いくらでもメロディが書けるひとだ。
それなのに、HPPではそのメロディ・センスをほとんど封殺し、奇妙で狂ったソロを弾く。

もちろん、そこにはHiroさんだけでなくメンバーの方々のジャッジもあるのだろうが、
それにしたって、あそこまで調性から外れたソロばかり弾くひとも珍しいではないか。

試しにProdigium (2009)収録の"Cloudy Face"におけるソロを聴いてみるといい。
わたしたちが慣れ親しんでいる音階から遠く離れた、実にクレイジーなソロだ。
(ホールトーン・スケールだと、どこかの音楽誌で言っていた覚えがある。)


しかし、新曲のソロはさらに狂っている。名古屋公演ではさらにソロが増えていた。
新曲2で、とてつもない速度のフィルイン的なソロが2回ほど挟まれていたのだけど、
あまりの速さと「わけわからない」音の並びに度肝を抜かれて笑ってしまったほどだ。


少し話がズレるが、前回の投票日記で書いたように、今年はDEAD ENDも新作を出す。

このDEAD ENDのYou(足立祐二)さんの、シングル三部作におけるソロが凄まじい出来で、
来年はギタリストの座はYouさんになってしまうかもしれないな、と思っていたのだが、
さすがにHiroさんも別次元のソロを構築してきたぞ、と感嘆し興奮した次第である。

美しさ/流麗さ/滑らかさにおいてYouさんを超えるギタリストは世界的に見ても少ない。
もしくは、いない。それだけのレベルに達したことを、Youさんはギターだけで告げている。
その上、極めてトリッキーなソロにもなっているのだから恐ろしく、新作が待ち遠しい。

一方のHiroさんも、トリッキーでクレイジーであることにかけてはやはりトップクラスだ。
マティアス・エクルンドのようなファニーなそれではなく(そこがマティアスの美点だが)、
シリアスでヘヴィで哀しいHPPの捩れた世界観に沿い、かつそれを増幅するようなギター、
それを追い求めた結果がああした「メロディアスではない」ソロなのだろうと思っている。
(そして、いずれ「メロディアス」なソロが出てくるだろうと予想/期待している。)


さて、その新曲2は、観るたびに少しずつ変化のあった曲だ。

これまた重厚な「エグイ」音のリフと、哀しみが空に満ちてくるかの如きサビが印象的だ。
上述したようにソロも増強され、HPPならではの「美しいヘヴィロック」となっている。


新曲3も徐々に変わってきたが、初めて観たときの「気味が悪い」感触に変わりはない。
また、あの「気持ち悪さ」をなかなか言語化できないままで、どうにも説明しにくい。

Anzaさんによる「Anza語」に起因する言語認知的な違和感に拠るところも大きいし、
痙攣的なステージングを観ていることから「気持ち悪さ」が増幅されてもいるのだが、
曲の構成/進行がそもそもおかしい/わけわからないものであるのが最大の特質だろう。

前回のMarzでのライブではNarumiさんによるドローン調のベースから始まって(?)いたけど、
今回はふつうにリフからのスタートに戻っていた。音源ではどうなっているのだろうか。


ここまで、ギターのことばかり書いてきたようだけど、
最近のライブではNarumiさんとBatchさんのプレイを観ていることが多い。
ただ、ベースやドラムについて書くことはなかなか難しく、課題となったままである。



あっちに行ったりこっちに来たりと、ふらふら落ち着きのない文章になってしまい申し訳ない。
このままでは締まりがあまりになさすぎるので、少し新作への期待を綴って終わりにしよう。


HPPは、毎回こちらの予想も期待も上回るものを作り上げてきたから、新作の出来に不安はない。

名古屋公演のあと、少しだけメンバーの方々とお話する機会があったのだけど、
Anzaさんは「150%自信がある」とまで言い切っていたのだから、尚更である。


最近、Crap Head (2001)やid (2002)など初期作を聴くことが多いのは、
ああいったヘヴィロック的感触を新曲に得ていることによる。

そうしてHPPの作品を振り返ると、1stのVary (2003)が浮いて見えるのはわたしだけだろうか。
いや、それなら2ndのfolie a deux (2007)もその他の作品とは何か違いはしないか。
それならば、3rdとなる新作も「何か違う」ものになるのではないか。
そんな風に思いながら、新作を待ち侘びている。


もちろん、アルバムタイトルやアートワーク、まだ見ぬ曲名などもとても気になっている。
それらは、決して適当なものであってはいけない。その重要さは中身と拮抗し得るほどだ。

というのも、まずはタイトルやアートワークなどが「アイコン」として機能するのであって、
それが示すものが豊かだったり鮮烈だったり謎めいていたりすることによって、
その作品へのイメージ(ときに偏見)が脳裏に懐胎するからである。

似たような曲名や、長くて覚えにくい曲名が多い、というのはマイナスだし、
作品の文字通り「顔」となるアートワークがダメでは目も当てられない。

まあ、これまた心配など一切していないので、単に楽しみにしているだけなのだが。



やはり、どうにも締まりが悪いものとなってしまった。

今回はこの程度の戯言で我慢しておき、退散するとしよう。


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2012-01-15

壬辰睦月投票日記

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早いもので、もう毎年恒例のBURRN!読者人気投票の時期となりました。

去年もここにあげたブログに書いた通り、(今年は葉書の写真撮るの忘れてしまった…。)
わたしは基本的に「ひとつの枠につき1バンドからひとりだけ」という原則を採用しています。

でも、それが崩れた(崩した)のは去年書いた通りで、今年も似たようなものになってます。

要するに、今年もHEAD PHONES PRESIDENTとそのメンバーに票を固めて入れました。
1995年から毎年投票しているのですけど、そこまで応援したくなったバンドはHPPだけです。

ただ、そうすると選から漏れてしまうバンド/ひと/作品が大量に出てしまいます。
HPP以外に言及しておきたい彼らのために、このブログは書かれているとも言えましょう。

各部門で選んだ方を「チャンピオン」とし、その他に10~15くらい、
選外となった方々の名前を順不同でつらつらとあげていくつもりです。
ただし、「B!誌で取り扱うジャンルの範囲内」という大原則の下で、ですが。


それでは、早速書いていきます。


GROUP / HEAD PHONES PRESIDENT



これまで散々書いてきたことですが、2011年はHPPにとって試練の年でした。

Marさん(g)脱退の衝撃を乗り越え、初のワンマン・ツアーを完遂したことは、
まるで自分のことのようにうれしかったし、最終公演は不思議な感動がありました。

また、そのライブのDVD化の際に、録音ができていないというトラブルすら起こりました。
それらすべてと向き合いつつ、DVDの制作や新作の曲作りと並行してライブを行い、
いずれの公演においても毎度のように熾烈なパフォーマンスを繰り広げてくれました。

新作の発表を控えた今年は、さらなる試練の年となりましょう。
わたしはただただ作品を聴き込み、ライブに足を運ぶのみです。


他に票を投じたかったバンドは、以下のバンドです。

『Road Salt』二部作を完成させるも、長年連れ添ったメンバーがふたり脱退してしまい、
その活動履歴に「一区切り」が(残念なことに)ついてしまったPAIN OF SALVATION
(またしてもB!誌のインタビューがなかった、という…。正直、かなり失望しました…。)
人間関係としてのバンド、それがあってこその音楽、というものを感じさせてくれた、
ライブにおいて終始一貫とした「いい雰囲気」を振りまいていたMR.BIG、DEF LEPPARD
解散宣言をしてもなお、素晴らしいライブ(日本最終公演…)をみせてくれたCATHEDRAL
ロック・スターと言って差し支えのない存在感を放っていたMORBID ANGEL、などです。



VOCALIST / Anza (HEAD PHONES PRESIDENT)



HPPでの活動もさることながら5月のソロ公演も素晴らしく、他に考えられませんでした。

今年はとくに、その歌唱に深い情愛を感じずにはいられない場面が多かったです。
それは個人的資質のあらわれであり、同時に表現したいことのひとつでもある。
そう思った次第です。あと、ステージでの表情が増えたのもよかったと思います。

あくまで私見ですが、彼女ほど読み解くべき「因数」の多いヴォーカリストは稀です。
あらゆる領域にわたって論考されて然るべき存在であることもまた、魅力のひとつです。


他に票を投じたかったヴォーカリストは、以下の通りです。

この怪しさ大爆発キャラも観納めか、としみじみさせられたリー・ドリアン(CATHEDRAL)、
ライブで観てあらためてその声に惚れ惚れとさせられたエリック・マーティン(MR.BIG)、
なんだ、まだまだ歌えるじゃないか、と感心させられたスティーヴ・ウォルシュ(KANSAS)、
なんだ、まだまだ歌えるじゃないか、と見なおしたジョー・エリオット(DEF LEPPARD)、
なんだ、まだなんとか痩せられるんじゃないか、と見なおしたチノ・モレノ(DEFTONES)、
おお、デス声もクリーン・ヴォイスも完璧だ、と感嘆したトミ・ヨーツセン(AMORPHIS)、
おお、なんと美しいデス声か、と感嘆したデイヴィッド・ヴィンセント(MORBID ANGEL)、
MCでは声がガラガラだったのに、歌うと問題がなく感心させられた下山武徳(SABER TIGER)、
歌が、言葉が、それ自体が「生き様」として刻まれているのだと思わされた森重樹一
一挙手一動足、存在様式すべてが別世界に属するMorrie(DEAD END, Creature Creature)
などが、ライブで観て感銘を受けたヴォーカリストたちです。順不同。でもベスト10。

音源だけ、というのなら、
怒りや哀しみから愛や祈りへと表現内容がシフトしたジェシー・リーチ(TIMES OF GRACE)、
歌唱における表現力の深みが更に増したダニエル・ギルデンロウ(PAIN OF SALVATION)、
崖っぷちのバンドを救ったと言っても過言ではないステュウ・ブロック(ICED EARTH)、
驚嘆すべき表現力を持ち、パフォーマンスも興味深いダラー・サダース(FAIR TO MIDLAND)、
流石としか言いようのなかった貫録の歌唱を聴かせたD.C.クーパー(ROYAL HUNT)、などです。



GUITARIST / Hiro (HEAD PHONES PRESIDENT)


HPPでの活動のほか、Anzaさんのソロ公演、そして自身のソロ公演において、
いずれも素晴らしい/凄まじいギターを聴かせ/魅せてくれました。

書く書くと言ったまま放置してしまっているソロ公演で聴くことのできた曲は、
大雑把に「アメリカン」と言ってしまっていいような曲調ではあったのですけど、
西海岸というよりは東海岸、もっと言えばニューヨーク的なものを感じました。

多国籍/無国籍な非アメリカ的な場所としてのニューヨーク、という点において、
とりあえず「アメリカン」と言ってしまえる、という程度の「アメリカン」なのです。
(わかるかな?いや、これじゃあムリか。ヴァイが近い…と思うのだけど。)

2012年もまたソロ公演が観たいし、それに何よりソロ・アルバムが聴きたい。
そのメロディ・センスとタガの外れたアレンジ能力が存分に活かされることでしょう。


次点はYouさん(DEAD END)でした。けっこう、いや、かなり迷わされました。
8月に観たライブと、10月に見たストリーミング中継で、その個性に驚嘆しました。

それはもちろん、アルバムの時点でわかっていたことだったのですけど、
完璧なトーン・コントロールとあまりに素晴らしいソロの展開には参りました。

2012年はDEAD ENDも新作を出します。HPPも出します。
来年は今年以上に、HiroさんとYouさんの間で迷うことになるでしょう。


他に票を投じたかったギタリストは、以下の通りです。順不同です。

さすが伝説の「100万ドルのギタリスト」と唸らされたジョニー・ウィンター御大、
これぞギター・ヒーロー、と快哉をあげたトレイ・アザトース閣下(MORBID ANGEL)、
過小評価されてる!と憤慨しそうになったほどよかったフィル・コリン(DEF LEPPARD)、
あんたやっぱり天才だよ、と言いたくなったヴィヴィアン・キャンベル(DEF LEPPARD)、
エレクトリックギターの生音の良さを教えてくれたアンディ・パウエル(WISHBONE ASH)、
刻みもリードも世界トップ・クラスと言わざるを得ないハリー先輩&大谷先輩(UNITED)、
あらゆる面でツイン・ギターの強みを体現していた木下昭仁&田中康治(SABER TIGER)、
素晴らしいメロディを紡いでくれたエサ・ホロパイネン(AMORPHIS)、などです。

音源だけ、というのなら、
あんたみたいなギタリストは二度と出てこないよ、と思わされたロリー・ギャラガー
どうしてこんな素晴らしい曲を遺して逝ってしまったんだ、と嘆いたゲイリー・ムーア
毎度のようにそのギターサウンドだけで幻想境へ誘ってくれるスティーヴ・ハケット師、
よくぞ困難を乗り越えた、と感心したジョン・ペトルーシ(DREAM THEATER)、などです。



BASSIST / Narumi (HEAD PHONES PRESIDENT)


去年の1月に、金沢でのライブを観たときからこの枠は決めていました。

すでに何度も書いているように、Narumiさんの演奏パートはかなり変化しました。
それを(わたしのような古株にさえ)一切の違和感なしに聴かせることができ、
その上、そこから先に拡がるHPPの新たな音楽的地平を感じさせてくれました。

来るべき新作においても、そのベースは決定的な存在感を放っているはずです。
また、ステージにおいて異質なパフォーマンスを「自然に」してしまうその資質が、
わたしなどには考えもつかない「なにか」を開花させるのでは、とも期待しています。


他に票を投じたかったベーシストは、以下の通りです。音源だけ、も含めて。

このひとは本当にOne & Onlyなんだ、と心底感激させられたビリー・シーン(MR.BIG)、
音作りも特異ながらフレージングも非常に個性的なGeorgeさん(JURASSIC JADE)、
強烈な存在感と個性的なベースラインに感銘を受けたCrazy"Cool"Joe(DEAD END)、
華やかでスター性のあるステージングをみせてくれたリック・サヴェージ(DEF LEPPARD)、
「三本弦ベース」なる新兵器のクリアでタイトなサウンドに驚かされた横さん(UNITED)、
クリアな音像の中、溌剌としたプレイを聴かせてくれたジョン・マイアング(DREAM THEATER)、
個性的なベーシストであることを再認識させられたデイヴィッド・エレフソン(MEGADETH)、
幅広い音楽的素養に裏打ちされた技術とセンスが冴えるエディ・ジャクソン(QUEENSRŸCHE)、
などです。



DRUMMER / Batch (HEAD PHONES PRESIDENT)


観るたびに思うのですけど、Batchさんほどのヘヴィ・ヒッターはそうそういません。
それでいて、囁くようなドラミングもこなすところに他にはない個性があります。

元々、HM/HR界隈はパワフルなドラミングを身上とするドラマーはとても多いのですが、
実は、90年代以降のヘヴィ・ロック・バンドのドラマーもそれに劣らぬどころか勝るほどの、
とてつもない「ぶったたき」ドラムを聴かせる猛者が多いのです。しかも、すごく巧い。

代表的なのは元KORNの化け物、デイヴィッド・シルヴェリアでしょう。(引退したまま…?)
あちこちのバンドに偏在するロイ・マヨルガ、MACHINE HEADの太鼓坊主デイヴ・マクレイン、
元AMEN、現GODSMACKのシャノン・ラーキン、TOOLの太鼓巨人ダニー・ケアリーなど、
枚挙にいとまがないほどです。というか、巧くないと潰れてしまうのかもしれません。
もしくは、潰れなかったものだけが巧くなれる、のでしょうか?茨の道に違いありませんが。

その点、Batchさんは順当かつ正統なヘヴィ・ロック・ドラマーなのですけど、
パーカッション的な静かで細やかなドラミングができる(というか求められる)点が、
ほかのドラマーたちとの最大の違いであり、今後さらに強みとなっていくところでしょう。


次点はエイブ・カニンガム(DEFTONES)でした。
彼もまた、ヘヴィ・ロック・ドラマーの典型にして頂点にいるドラマーです。
なんとも言えないしなやかなグルーヴを醸すことのできる不思議なドラマーです。

派手な技巧的プレイはありませんが、彼のドラミングにDEFTONESがどれだけ支えられているか、
2月のライブを観ていてしみじみと噛みしめたものでした。独特なグルーヴが心地よかったです。


他に票を投じたかったドラマーは、以下の通りです。音源だけ、も含みます。

やっぱりこのひとは何でも叩けるんだ、と感銘を受けたパット・トーピー(MR.BIG)、
ハードロック的なパワー感とプログレの技巧を併せ持ったフィル・イハート(KANSAS)、
もっとも称賛されてしかるべきドラマー、向日葵が似あうリック・アレン(DEF LEPPARD)、
ユーモアを交えた超絶技巧に笑うしかなかったマルコ・ミンネマン(THE ARISTORATS)、
長丁場をものともしない、パワフルなショットがひと際冴えていたAkiraさん(UNITED)、
パワフルかつグルーヴィーな孤高の太鼓坊主、デイヴ・マクレイン(MACHINE HEAD)、
多彩な「歌う」ドラミングを身上とするスコット・ロッケンフィールド(QUEENSRŸCHE)、などです。

繊細を極めた表現豊かなプレイに感動するほかなかったスティーヴ・ガッド(Kate Bush)も、
2011年でもっとも素晴らしいドラミングを聴かせてくれたので、畑違いでもその名を出しておきます。



KEYBOARDS PLAYER / Fredrik Hermansson (ex-PAIN OF SALVATON)



原則として「ライブで観たプレイヤーのなかから選ぶ」のが投票の常なのですけど、
とうとう脱退に至ってしまったフレドリック・ヘルマンソンに感謝を込めて一票です。
(フレデリック/ハーマンソンなどの表記もあった気がするけど、これで通します。)

わたしは長年、まだ見ぬ強豪としてPAIN OF SALVATIONの来日を待ち侘びていましたが、
とうとう、わたしがよく知るメンバーは中心人物のダニエルだけになってしまいました。

孤高の鍵盤坊主、フレドリックは地味ながらもセンスの光るプレイで作品の質を高め、
POSのコンセプト/世界観をより豊かに、より深くすることにずっと貢献していました。

どうやら「情熱を失って」しまったらしく、脱退に至ったようです。残念でなりません…。


他に票を投じたかったキーボード・プレイヤーもいるのですが、
ここはフレドリックにその場を譲ってもらうことにしましょう…。



LIVE PERFORMANCE IN JAPAN / DEF LEPPARD



毎年思うのですけど、「来日アーティスト」とあるのが引っ掛かってなりません。
それじゃあ、国内バンドのライブが最高だったらどうしたらいいのだ?と思うわけです。

ただ、国内バンドに入れて「死に票」になっても嫌なので、いつも国外バンドに入れてます。

すでにブログに長々と書いてあるので、今更どうこう言いません。素晴らしいライブでした。

他に、DEFTONESCATHEDRALMR.BIGKANSAS(チッタ公演)、MORBID ANGELも素晴らしく、
どれにしたらいいか迷いもありましたけど、貫録勝ちのDEF LEPPARDと相成りました。


BEST ALBUM / Road Salt Two (PAIN OF SALVATION)



すでに2011年の作品から25作品を選んでいて、メタル編でも10作ほどあげました。
ただ、ベスト3は決まっていて、ツイッターではその名をあげてもいました。
(いっさい反応のなかったのが、かなしいというか情けないというか…。)

でも、ここではその順位を変えました。POSへの手向け、とでも言いましょうか。
アルバムについてはすでに書いてありますから、とくにここでは言葉を連ねません。


BEST TUNE / "Musical Chair" (FAIR TO MIDLAND)


徹底してアルバム単位で聴くため、ここは毎回テキトーに選んでいます。

2011年もたくさんのPVをネット上で見ましたけど、これがいちばん好き、
というただそれだけの理由で選んでみました。このブログに貼ってます。



BEST SONGWRITER / Adam Dutkiewicz (TIMES OF GRACE)



ここもまた毎年悩みどころなのですが、今年はパッと思いついたこの人にしました。
TIMES OF GRACEは基本的に彼のソロ作だったし、アルバムも素晴らしい出来でした。



BRIGHTEST HOPE / FAIR TO MIDLAND

(しかしまあ、なんちゅうルックスかましたアー写であることか…。)

まったく迷いがありませんでした。今年は彼らしか考えられなかったです。

ただ、いくら日本デビューとは言ってもすでにキャリアのあるバンドなので、
その点、去年のBIGELF同様に「選外」とすべきでは、と思いましたけど、
彼らに感じた「なにか大きなもの」のため、一票を投じた次第です。



BEST ALBUM COVER / The Beginnings Of Times (AMORPHIS)



とくになにも思い浮かばなかったので、これにしました。

わたしは「メタルメタルした」ジャケにも愛着はあるけど、
アートワークとして好きかと訊かれたら、そうでもないのです。

レコードゆえ「選外」にしたけど、いちばん惹かれたのはこれでした。


The Vinyl Collection (DEFTONES)



ハッとさせるものがあり、同時にそのバンド/作品の世界観が反映されていて、
さらに、その音楽への想像力を掻き立てる、それがアートワークの本懐でしょう。
そう考えると、DEFTONESはさすがでした。見習っていただきたいものです・・・。



BEST DVD / DELIRIUM (HEAD PHONES PRESIDENT)



これまたすでに書いているので、今更くどくどと書くのはやめにします。
ロックバンドのライブDVDの在り方を考えさせられる作品となりました。


SHINING STAR / Anza (HEAD PHONES PRESIDENT)



なにも書く必要を感じません。



PLEASURE / MR.BIGの震災直後における来日公演



あのタイミングにも関わらず長期の来日公演を行ったMR.BIGへの敬意と感謝は、
すでにライブレポのなかに書いたつもりですので、そちらを参照してください。

うれしいニュースはいくつもあったけど、ここはMR.BIGにありがとうと言いたいです。


BORE / DIR EN GREYのWacken Open Airにおけるパフォーマンス


去年も書いた通り、わたしはこの枠で訃報や解散/脱退などは選びません。
それはわたしにはどうしようもないことなのだとあきらめるしかないのだから。

それで、なにかおもしろいことを書こうとしたのだけど何も思い浮かばず、
じゃあ「PAIN OF SALVATIONのインタビューがまたなかったこと」にしようか、
と思ったのだけど、そんな当てつけをするのもいかがなものかと立ち止まり、
結局、もっともガッカリさせられたもののひとつである、これにしたのでした。


もちろんわたしはヴァッケンになど行ってなくて、これはストリーミング配信されてた、
現地ライブの生中継(いや、録画したものの放送、だったかも)のことです。

日本時間は深夜2時前後で、いまかいまかと待ち侘びた挙句に目にしたのが、
彼らの散々たるパフォーマンスだった、というわけなのでした・・・。

わたしはディルのライブに何度も足を運んでいるので、とても歯痒かったです。
本当はこんなものじゃないんだ、もっと凄いバンドなんだ、誤解なんだ、と…。

でも、曲間になるたびに観客に背を向けチューニングしたり水を飲んだり、
肝心のステージングもほとんど動かずプレイにも熱の籠ったものを感じず、
また京のヴォーカルも不調で、観客がどんどん減っていく様を見ていたら、
さすがにわたしも弁護する気を失ってしまい、冷(醒)めてしまいました。

メンバーたちもかなり落ち込んだようで、京がツイッターで謝罪していたほどでした。
その後の欧州ツアーは軒並み好調だったようですけど、あの配信は痛かったと思います。

期待していただけに困惑しました。でも、元々ライブに「波」があるそうです。
わたしはたまたま、調子のいいときばかり観ていただけだったのかもしれない。
そして、多くのファンが熱狂状態のため、曲間の「間」に気づいてなかった…。

わたしはいまだに彼らのファンですが、あれから一線を引くようになってしまい、
新作にも左程入れ込めず、ライブにも行かず(これはチケットが取れなかっただけか)、
『Uroboros』のリマスター盤にも手を出す気になれず、今日に至っているのでした。

そんなこんなで、わたしのディル熱を再燃させてくれる「なにか」を待っている昨今です。