2013-09-13

HEAD PHONES PRESIDENT on 'Fuse the soul' Tour in Sep 2010



「Fuse the soul」と銘打たれた東名阪3公演は、
2010年9月10日金曜日の大阪公演から3日連続で行われた。

前ブログでも書いたように、このツアーはHEAD PHONES PRESIDENTがカナダのDOMENICAを招聘し、自らトリをつとめるという形式で行われたものだ。今月末に行われる「ロックとファッションの複合イベント」としての「FUSE THE SOUL」とは、連続性も共通点も少ないが、HPPが意欲的な活動を展開した記念すべきツアーだったと思う。


HPPが如何にこのツアーに力を入れていたのか、そのセットリストを見るとよくわかる。3公演で毎回演奏した曲は3曲だけ(イントロを入れると4曲)で、2回演奏が4曲、1回だけ演奏が19曲と、一日ごとにセットリストの約半分を入れ替えていたのだ。ここまでセットリストが毎回異なるツアーは、後にも先にもこのときだけだ。3日連続だからその間には長距離移動もあるし、よくやったものだといまでも思う。


以下に、その3公演について書かれたブログをまとめて再掲する。私事は削除した。
もちろん、旧マイスペ時代は1公演ずつ書かれたわけだが、いまとなってはこの長さでも構うまい。
そもそも、わたしは3公演まとめて書くつもりだったから、これが真の姿であるとも言えるのだ。

それでは、読んでいただこう。
前ブログと連続しているので、未読の方はそちらを先に。



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9/10 at Club Vijon (Osaka)


予定より30分押しの20:30ごろにスタート。

幕が開くと同時に始まるイントロのSE。
毎回書いているように、始まる前から放出される磁場によって、
すでにしてHPPのショウは形成されている。

Anzaさんは黒キャミに白スカート、と今年の標準装備。
"Nowhere"から"Desecrate"へとつづく導入部では、Asiaでやっていたような煽りは抑え目。
むしろ、じっくりとその世界観を浸透させる役割を果たしていたようにさえ思えた。
同じ曲、同じ演者だというのに、受ける印象が毎度異なるのがHPPのライブである。



このまま最近の「定番」がつづくのかと思いきや、曲は久々の"Snares"へ。
個人的に大好きな曲であるのみならず、後のアグレッシヴな"Labyrinth"登場の橋渡しをした、
HPPにとっても転換点にあたる重要な曲でもある。(と、わたしは思っている)
重厚なリフと激しい展開、空虚さと哀感と怒気を孕んだ曲調は、HPPならではの世界観だ。

さらに、2月以来の"Just Like?"がつづく。
次から次へと新たなパートに展開していく比較的ヘヴィなナンバーだが、
ライブだと重々しさよりも(解放感とまでは言わないが)奇妙な心地よさを感じる。
(満たされた羊水に視力を失った状態で浸る、とでもいったイメージが浮かぶ…)


ここで、セッション的な短めのインタールード。
Batchさんのパーカッシヴなドラミング(一部素手による)に、
MarさんとNarumiさんが音を重ねていき、Hiroさんがソロをとる、
というのが基本的なスタイルだが毎回その内容はかなり違っていて、
この日は中央のAnzaさんの動きに合わせた伴奏的な印象。

そのAnzaさんは、ゆっくりと歩いては止まり、歩いては止まり、
振り返り、上を見上げ、俯き、フロアを見渡し、手を合わせる。



「Please, my friend, my family, live happy, please」

そう口にしていた。ならば、つづく曲は"Light to Die"しかない。

ステージの高さと、それに伴う見上げる角度もあったのかもしれないが、
この日の"Light to Die"はいつにも増して天に昇るかのような飛翔感があって、
見上げたその先にある「光」をつい思ってみたのだった。


"Hang Veil"で会場の空気に哀しみを織り込み、
"Chain"でふたたび怒気を重ね、曲は"Cloudy Face"に。

Asiaのときからそうだったのだが、Batchさんのドラムの抜けがズバ抜けてよく、
その威力が全開となったのがこの曲だった。粒の揃ったベースドラムが気持いい。


曲が終わって、Anzaさんが「Are you happy?」と訊いてくる。
Asiaのときと同様に、はじめは固まって反応できなかったオーディエンスであったが、
2回目か3回目に訊いたとき、「大丈夫やで!」という声があがり、多少空気が和らいだ。

二週間近く経ったいま考えるに、この答え/応えほど相応しいものはなかったように思えてくる。
そもそも、「幸せ?」という問いに「大丈夫!」とは、おかしい応答であるのだ。
にもかかわらず、もっとも相応しい答え/応えに思えるのは、その前後に言葉を足せばわかる。
これは、「(われわれは)大丈夫(だから、心配しなくていいよ)」であり、
同時に、「(われわれは)大丈夫(だけど、Anzaさんは大丈夫?)」でもあって、
応答者がそう意図した/しないは、もはや関係ない。
この応答は、そのように機能したのだ。

その答え/応えを受けたAnzaさんが、どのようにそれを受け取ったのかはわからないが、
翌日、その訊き方が変わったことから意識下無意識下を問わず、何らかの変化があったに違いない。



そのためかはわからないが、この日の"sacrificed"は前回の激烈感よりも、
もっとオーガニックな質感だったように記憶しているのだが…これは記憶の改変かもしれない。


Batchさんが素手でプリミティヴかつシャーマニスティックにドラムを叩きだす。
まるで、地霊を呼び起こすか鎮めるかのような、呪術的な響きがある。
ギターをレスポールのブラック・ビューティーに代えたHiroさんが音を重ね、
"Remade"が静かに、地面から湧き上がってくるように、始まる。



"Remade"も"Light to Die"と同様に「祈り」の系譜に連なる曲だ。
ただ、"Light~"が絶対神的なものへの怒りを含んだ祈りを感じさせるのとは違って、
この曲は偏在する八百万の神へ語りかけるような祈り、とでも言いたくなる節がある。
「祈り」の形態を、前者は「垂直的」、後者は「水平的」と便宜的に峻別してもいい。


ふたたび、セッション的なインタールードへ。
今度は、Anzaさんが声と歌の中間、といった音節をループさせて重ねていき、
そこにバンドが合流していくというもので、どんどんリズミックになっていったり、
HiroさんとMarさんがメロディを絡めていったり、と同時多発的。

「最近のバンドはセッションができない」とは伊藤政則氏がよく仰ることだが、
「HPPほど優れたセッションができるバンドはいない」とわたしは言うことにしよう。


セッションが行きつくところに行きつき、「Savage in my heart...」との呟きが。

バンドにとってテーマ曲的な位置にある曲のひとつ、
"I will Stay"が久々にその凶暴さを剥き出しにして襲いかかってくる。
はるか前からそうだが、スタジオヴァージョンとは比べ物にならないヘヴィネス。
そして、込められたあらゆる想いの、一切の秩序を失った発散。

この時だっただろうか、衝動の赴くままに暴れるNarumiさんのベースのヘッドが、
Marさんの即頭部を直撃したのは?(流血を危惧したほどの勢いだった)
それでも演奏が乱れることはなく、カタストロフィックなエンディングへ。

最後に「I will staaaaaaaaaaaaaaaaay!」と叫ぶところでは、
AnzaさんだけでなくMarさんもギターを弾きながら、上体をのけぞらせて叫ぶ。
そのとき、動きがシンクロしたかのようにまったく同じ姿勢となったふたり。
ここでもまた、「絆」とでも呼ぶしかないものを感じることとなった。



アンコールでは、Batchさんの短いドラムソロにつづいて、
先日のAsiaと同じくAnzaさんが(やはり、照れながらの)MC。
DOMENICAの紹介と感謝を告げ、曲は"Labyrinth"で最後にまたモッシュ。

Marさん、あまりの熱演であの高いステージを降りてしまい、
最後は激しくヘッドバンギングしながらフロアでリフを刻みに刻み、
終わった後は放心状態だったのか、自力で立ち上がることができず、
周りのファンの方々に支えられながら、やっと歩き出したのだった。


SET LIST
01. S.E.
02. Nowhere
03. Desecrate
04. Snares
05. Just Like?
Short Session
06. Light to Die
07. Hang Veil
08. Chain
09. Cloudy Face
10. sacrificed
11. Remade
Session
12. I will Stay
Encore
13. Labyrinth

緑色は大阪公演のみの演奏



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9/11 at Heartland Studio (Nagoya)


この日も予定時間を20分ほど押した20:20すぎにスタート。
会場は壁も床も天井もすべて白、とめずらしいライブハウス。

名古屋公演ということでAnzaさん(そっくり)の弟君や妹君の姿も。
(妹君は次女か三女かわからず、また確証もなし。でも同じ声してたから…)


幕がまだ開かないうちに聴こえてきたAnzaさんの声。
ギターの音とほぼ同時に幕が開き、
スカート前部が膝上までカットされた新衣装のAnzaさんの姿が。



そのまま「最近の流れ」になるのかと思いきや、
まさかの"Life Is Not Fair"で驚かされる。

徐々にその密度を高めていき、臨界点に達したところで激情が爆発、
激しくハネるリズムにのってフロアでは早くもモッシュが起こる。



"Nowhere""Desecrate""Labyrinth"と矢継ぎ早に繰り出される曲に、
モッシュはその騒乱の度合いを高め続け、さらにはコーラスの合唱さえ起こる。
国内で、はっきり聞き取れるほどの合唱が起こったのは初めてなのでは?

モッシュもコーラスも、少し前までは考えられないことだった。
HPPのライブといえば、オーディエンスは静観することしかできなかったのだ。
その世界観の密度があまりに高く、われわれは圧倒されて動くことすら躊躇われた。

IN THIS MOMENTとの最初の共演、そして「LOUD PARK 08」の出演以降、
バンドのパフォーマンスの漸進的な変化によってできた(煽りとかの)「隙間」から、
新たなライブの場が形成されようとしており、今は長い変化の真っ只中なのである。


ここで短いセッション。この日はHiroさんの叙情的な美しいソロがいつも以上に冴えていた。
こういったソロを、いわゆる「クサメロ」とは無縁の領域で弾けるのだから、
ソロ・アルバムを期待しないわけにはいかない。(ソロライブはあったが)

ソロがひと段落したところで、Anzaさんの「Are you happy?」が。
はやくも「Yeah!」と声が上がる。Anzaさんの表情も和らぎ、何人かの頭を撫でる。

Asiaで行われたような、ギリギリの地点から発せられた鬼気迫る問いかけはそこにはなく、
もっと平素の精神状態に近い、いや、ごく普通な応答として、このやりとりは行われた。


「My friend, family...」と言いながら天を指さすAnzaさん。
Marさんがコードを鳴らしだして"Light to Die"が始まる。

両足を大きく踏ん張って歌う姿は、前日の神々しさとは違って人間的なそれであり、
等身大のAnzaさんというか、「いますぐそこで歌っている」ことに目を見張らされる、
とでもいった印象だった。



ふたたび、英語を流用したAnza語で、何事か囁きはじめる。
「I will be a star in the sky...」といった意味のことを呟いた覚えがある。
(すでにライブから二週間近く経過しているので、この辺はご諒承されたし)

曲は、去年のワンマン以来の"star"だ。
しかし、オリジナルと異なるサウンド、異なるアレンジのリフで、
はじめは何だかわからなかった。
"star"だとは思ったが、違う曲のように聴こえたのである。

こうして、よりヘヴィになったサウンドで聴くと、
曲の「成長」「変化」「重層化」に驚かざるを得ない。


それは、つづいてプレイされた"puppet"にも当て嵌まる。
それでいて、オリジナルを特徴づけていたアジアンなテイストや、
歌メロやギターソロのラインが持っている妖しさは失われてはおらず、
メリハリのついたヴァージョンとなっている点が素晴らしい。



Anzaさんが人差指を立てて唇につけ、「シィィィーッ」と場内を制する。
"Cray Life"が原曲通りのユニゾンで始まり、印象的なギターハーモニーへ。

水滴が滴り落ちるかのような美しい音色のクリーントーンと、
手数の多いドラム、ヘヴィに炸裂するリフとの対比が見事。
さしてアイコンタクトを取るわけでもないのに、
ピッタリと息の合うギターは言わずもがな。


Narumiさんのベースが"f's"の異様な世界へとわれわれを導く。
この前日にプレイされた"Just Like?"と同様に、
次々とパートが展開していく、ヘヴィかつストレンジな曲だ。

神経症的な心象風景が浮かんできそうな「危うさ」を感じさせる。
「障らぬ神に祟りなし」なる諺の、「障らぬ神」とはかくの如しであろう。


Batchさんのドラムが「あの」フレーズを奏で出す。
"Endless Line"の、"Light to Die"とは一味違った浮遊感に会場が満たされる。

これまたHPP以外ではおいそれと出会うことのない奇妙な、しかし美しい曲だ。
その美しさにヒビが入り、亀裂から叫びが漏れ、拡がった裂け目から終末へ。



重たい雰囲気を空気に刻印したまま、セッション的なインタールードが、
前日と同じくAnzaさんのヴォーカル・ループを起点に始まった。

リズミックな印象の強かった前日とは違って、
この日はもっとメロディにウェイトが置かれていた。
(この点、短めのセッションも似た印象である)

締めはやはり"I will Stay"の「この日の」ヴァージョン。
"Sixoneight"の登場以来、やらないことが多くなっただけに、
二日連続で観れたのはうれしかった。


アンコールでは、メンバーがBatchさんのほうに手を向け、注目を促す。
凄まじいショットとキックの連続…だったが、スティックを落とした上、
出てきたAnzaさんに「うるさーい!アタシしゃべんだから!」と言われてしまう。

とくに照れた様子も今回はなく、
「みんな、アタシしゃべれないと思ってんでしょ!」とさえ言う。


来てくれたファンに謝意を告げて"Chain"が、
やはりどこか幸福感すら漂わせ、演奏されたのだった。


SET LIST
01. S.E.
02. Life Is Not Fair
03. Nowhere
04. Desecrate
05. Labyrinth
Short Session
06. Light to Die
07. star
08. puppet
09. Cray Life
10. f's
11. Endless Line
Session
12. I will Stay
Encore
13. Chain

橙色は名古屋公演のみの演奏



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9/12 at Boxx (Tokyo)


いつもはセットチェンジに最低25分はかかるのだが、
この時ばかりは20分弱とかなりの短縮に成功、
客電がスッと落ちてステージを覆う幕が開く。


この日のAnzaさんの衣装はワンマンの時のように凝ったもので、
黒字に金を施したビスチェ(肩紐のないコルセット的なもの)は、
表がブーツを模しているのか紐が胸のところまで結ばれていて、
後ろは腰のところに薔薇を模したリボンが付いている、というもの。

いつものキャミソールと違ってドレッシーな衣装ゆえ、
「正装」しての登場にいつもとは違うライブになることが早くも窺われる。



もはやお馴染みとなって久しいイントロにつづいて、
"Hang Veil"からこの日のライブが始まった。

水面に小さな波紋が広がっていくような繊細さのメロディをMarさんが奏で、
残酷な悲劇の始まりを告げるかの如きリフが、暴虐的に刻まれる。

儚げな美しさと、その美を破りかねない激情の発露との交差が生むダイナミズム。
それは、あらゆる曲にHPPならではの「指紋」として刻印されてはいるが、
この曲はもっともその対比がわかりやすいもののひとつであり、
会場をHPP色に染め上げるに極めて適したナンバーである。


曲が終わって"Nowhere"のイントロがつま弾かれているなか、
前方に来てフロアを見渡したAnzaさん、
「みなさぁ~ん、いかかですかぁ~?…いきますわよ~」
と、うつろで間延びした言い方で、少し冗談めかした煽りを披露。
言い終わると同時にリフが炸裂、場内の熱気が一瞬で高まる。



この日もコーラスでは声が上がっていた。
何かが、ターニングポイントを迎えていることに間違いはない。

"Desecrate"からの"Labyrinth"でその熱気はさらに膨張するが、
曲が終わると突然、異質の空気に会場が満たされ、静寂が。


Anzaさんがしっかりした表情で「Are you happy?」と声をかける。
すぐさま「YEAH!!!」と応える大勢のオーディエンス。繰り返される応答。

Club Asiaでの(わずか四日前の)ライブを観たひとは、
その違いに驚いたかもしれない。いや、間違いなく驚いただろう。

わたしは、間の大阪・名古屋公演を観ていてなお、その変化に驚いていた。
それと同時に、うれしさも感じていた。Anzaさんの、精神的な恢復を思って。



Marさんがコードをかき鳴らし"Wailing Way"の開始を告げる。
7月の水戸公演で(たぶん初めて?)披露されたときと同じく、
コーラス後のギターソロと二番はカット、という短縮版なのだが、
その分、込められた想いの重さがストレートに伝わってくる。



Anzaさんがステージから姿を消し、セッションへ。
実は、セッションでAnzaさんがいるといないとでは大きな違いがある。
時間的なものではなく、音楽的な違い。
少なくとも、わたしの印象では、そうだ。

ワンマンでなければ滅多に観られないのが惜しいのだけど、
Anzaさんがいるときはより装飾的な音として聴こえ、
いないときはより密度の高い、有機的な音の繋がりとして聴こえる。
(いや、これでは語弊がある…まだうまく言えないことをお許しあれ)



端的に言うと、後者の方がメロディの多い印象があり、
毎回、オーガニックで心地よいサウンドを提供してくれる。
それも、どのバンドにも似ていない心地よさの。

Anzaさんが舞台の仕事などでバンドを離れているときは、
是非とも四人編成のインスト・ライブを観たいものだ、と毎度のように思った。


黒のミニスカートに着替えたAnzaさんがゆっくりと戻ってくる。
その間にエレクトリック・シタールが用意され、
"A~La~Z"のアルペジオをHiroさんが弾きだす。



水にゆらゆら浮かんでいるような、
水底からゆらゆら揺れる光を眺めているような、揺らぎのある曲。
シタールの音色とパーカッションの効果で、南アジア的な印象もある。
ただし、陽ざしの厳しい昼ではなく、漆黒に塗り込められた夜の、だが。


セッションからつづいていた有機的な柔らかい音の連鎖が、
"Corroded"の硬質なベース音で違うフェイズへと移行した。

昨年のワンマン以来となるが、実にヘヴィである。
底辺を這うようなグルーヴ、怒りと哀しみを往還するメロディ、
そのどれもが心に突き刺さってくるかのごとき刺を潜めている。


さらに、2008年のワンマン以来となる初期ナンバーの"Room"が、
オリジナルとは比較にならないヘヴィネスでもって畳みかけてくる。

"Sand"のように謎めいたイントロや展開で構成されてはいるものの、
そそり立つ壁の如きリフの迫力が、HPPの数多いリフの中でも異質だ。


久々の曲がつづくなか、
個人的に極めて思い入れのある"ill-treat"には昂奮せざるを得ない。

その音を聴いていると、
あらゆる厳しい悲しさを担わされた者がその重さに押し潰され、
倫理的な怒りが不条理に屈し、ついには発狂に至る…
というストーリーを思い浮かべてしまう。

(精神的な)重さ、という点では屈指の曲ではあるのだが、
ライブという空間に放たれるとパフォーマンスの鮮烈さのため、
ある種のカタルシスが得られる曲でもあるのだ。
浄化されたものが何なのか、それは判断付きかねるが…。


"wandering"がこれにつづいた。
これも極めて思い入れの深い曲で、何をどう書いたらいいのかわからない。

救いをあきらめた者の彷徨、とでも言おうか?



"Lie Waste"が、哀しみに満たされた会場に追い打ちをかける。
轟音とともに破砕した感情が畸形的な変形を見せたかと思えば、
ふたたび理性を取り戻して哀しみに沈み、そして最後は咆哮。
変転しつづける曲展開がなぞるその「想い」に、否が応でも同調させられてしまう。


たしか、ここで「My friend...」と言った覚えがある。
"Light to Die"かと思いきや、チリーンと鳴らされたその音が、
"Sixoneight"の開幕と、ライブの終幕を告げる。

クレイジーな曲展開をせねばならないほどの「想い」、その重さ。

それと並行して、哀しむ心の「優しさ」を感じる前半部では、
Asiaのとき同様に、Iさんの手をAnzaさんが握る。
目の奥に力強さを、表情に優しさを感じさせながら。

「Are you happy?」のやりとりがあったからだろうか、
わたしには、これがAsiaでAnzaさんがIさんに言った、
「ごめんね」の返答にも思えた。「もう大丈夫」、というような。

中盤以降、軋んだ「想い」の決壊で一気にアグレッシヴなパフォーマンスに。
かつては見入るよりほか仕方のなかったオーディエンスも、
Marさんとともに「DIIIIIIIIIIE!」と蛮声を上げる。

行きつくところへ行きついた「想い」の暴走が終わり、
いま一度、哀しみと同義の静寂を会場にもたらす。


バンドがカタストロフィックな爆音を叩き出すなか、
AnzaさんがMCを取り出した。もはや照れた様子はない。

ツアーのこと、スタッフやメンバーやファン=ファミリー、
DOMENICAとそのレーベルや、ゲストなどへの感謝の言葉。


当然の光景と言えばそれまでだろう。
それでも、充足感と達成感に満ちた空間で述べられたわずかな言葉は、
その場にいた者すべてを笑顔にさせずにおかなかったのである。


SET LIST
01. S.E.
02. Hang Veil
03. Nowhere
04. Desecrate
05. Labyrinth
06. Wailing Way
Session
07. A~La~Z
08. Corroded
09. Room
10. ill-treat
11. wandering
12. Lie Waste
13. Sixoneight

黄色は東京公演のみの演奏



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以上が2010年9月の「Fuse the soul」ツアー3公演を追った、3年前のブログである。

なお、BARKSにある東京公演のライブレポは、セットリストに誤りがある。当日、アンコールは2曲予定されていたものの行われることはなかった。進行が押したためだ。(残念なことに、これ以後、この手のやむを得ない演奏曲カットは度々なされている。)


さて、3年前のわたしは、9月8日のAsia公演ブログでこう書いた。
「happy?」なるやりとりがその色合いを変えつづけ、充実度を高めていった点にこそこのツアーの有り様が凝集されてもいる。
3公演の間、この言葉の内容は少しずつ変わっていった。緊迫した空虚から、あたたかみのある充溢へと180度転換していったのだ。わたしは驚きをもってライブを観ながら、その様に感動したことを覚えている。


いま、こうしてかつてのブログを読み返し、かつ画像を貼りながら振り返ってみて、ライブにおけるMarさんの強烈な存在感にあらためて打たれている。Marさんの存在は、HPPにとって間違いなく不可欠だった。にもかかわらず、HPPは四人編成として再生することができた。

この背理が詭弁ではなく事実であること、変わることと変わらないことの弁証法的関係、『Stand In The World』はHPPの何を変え何を変えなかったのか、彼らの表現する対象や手法や背景、そして考え得るこの先について、わたしは未だに書きあぐねている…。


2013-09-12

HEAD PHONES PRESIDENT on 7th & 8th Sep 2010



旧マイスペ崩壊のため、読めなくなってしまったブログをここに再掲する。
ちょうど3年経った、ということもあるが、今年ふたたび「FUSE THE SOUL」なる名称を聞いたことが大きい。

来る9月28日に開催される「FUSE THE SOUL」は、HEAD PHONES PRESIDENT主催の(正確には「提唱」であり、実際の主催者はCarry Onという制作会社)「ロックとファッションの融合」を謳った複合イベントだ。そして、「ふたたび」というのは、このタイトルが元々は2010年9月にカナダのヘヴィロック・バンドDOMENICAとのツアーの際に使われていたもので、その使用が2回目であることに拠る。また、先の名称は最初の文字だけが大文字の「Fuse the soul」という表記だった。ここでは両者の区別のため、ふたつの表記を使い分けることにする。


HPPが関わっていること以外に、連続性はあまりない。ただ、「海外バンドを招聘して自らがトリをつとめる」ツアー形式や、「バンドのライブとファッション・ショーを交互にやる」イベント形式(まだ明言されていないけど、常識的に推論するにそのような方法しか考えつかないから、これで間違いないだろう)には、他のバンドとは違ったことをやろうとするHPPの意欲的な姿勢がうかがえる。「魂の融合」と題されたこの名称は、彼らの気概を表明すると同時に、「ここぞ」というときにのみ使用されるものだと思われる。

(時期はあやふやなのだけど、いつだったかHPPファンサイトがTwitterやマイスペで「招聘してほしいバンド」のアンケートを採ったことがあった。これは「Fuse the soul 2」と冠されていなかっただろうか?めずらしく記憶が曖昧なので、思い込みによる間違いがあるかもしれないけど。)


2010年9月に話を戻そう。
3年前の9月の第2週、9/6(月)~9/12(日)はHPP一色だった。ライブが5本もあったのだ。

7日(火)はタワーレコード新宿店でアコースティック・ミニライブ、
(これは前ブログで詳述した『Pobl Lliw』リリースに伴うイベント)
8日(水)はClub Asiaにて「Connect Note」という(確かマイスペ主催の)イベント出演、
一日だけ間を置いて、
10日(金)はVijonにて「Fuse the soul」大阪公演、
11日(土)はHeartlandにて「Fuse the soul」名古屋公演、
12日(日)はBoxxにて「Fuse the soul」東京公演と、
実に慌ただしい一週間だったのだ。(このすべてに先述のDOMENICAが帯同した。)


わたしはすべての公演を観ることができた。大阪公演については、よく行けた(間にあった)ものだとわれながら思ったものだし、いま振り返ってもひやひやするぐらいだ。

さらに、HPPはこの一週間後の19日にもD'ELANGER主催イベントに出演しているし、わたし自身はこの他にRouse Garden(14日)、「THRASH DOMINATION 2010」(18日)、METALLICA(26日)も観に行っている。随分と忙しい、でもそれ以上に、この上なく楽しい一ヶ月だった。


ここに再掲するのは、7日のアコースティック・ミニライブと、8日のAsia公演についてのブログだ。

前者はともかく、後者はかなり呻吟させられることになった。「ブログを書く」ことに初めて躓きを覚えたブログである。(以後、その躓きは常態化・深刻化し、精神的・知的停滞を悪化させつづけているのだが、それは別の話だ。)それでもなお書き得たのは、意地、いや、敬意が書くことの放棄を許さなかったからだろう。(だれに対するそれであるかは、以下のものを読んで確認してほしい。)

再掲するに当たって、私事に関連する箇所は極力削除することにした。マイスペ時代のように読む側をこちらで限定できないし、また、当時のブログに出てくる人物が、現在このブログを読んでいる方々にはわかりようもないからだ。(SNSで知り合ったひとと現実で後に知り合ったのではなく、現実に知っているひととあらためてSNSで繋がったという経緯があったので、マイスペ時代はほぼ全員が顔見知りだった。それで、そうゆう書き方をしていた。)

実のところ、7日のブログの読みどころはそうした友人たちの姿を描出した箇所なのだけど、いまここで再掲するのは憚られる。Facebookでフレンド限定にして公開することも考えたが、多くのひとに読んでもらいたいので、一部削除したうえで投稿することにした。なお、文章はメモに残っていたものであって、当時のブログとは若干の異同がある。ただ、誤字脱字や明らかに修正した方がよいもの以外は、一切手を加えていない。


まずは、2010年9月7日(火)のアコースティック・ミニライブについて書いたものを。
(これは一字たりともかえていない。改行も当時のままである。)


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9/7 at Tower Records Shinjuku


21:30ごろにHEAD PHONES PRESIDENT登場。

Marさん、Narumiさん、Batchさん、Hiroさんがまず出て来てイスに座り、
各自が音を出し始め、そのまま"Hang Veil"に。

黒い帽子に薄い青/緑のケープと、
いつもとは違う装いのAnzaさんがゆっくりと歩いてきて音に合流、歌い出す。



この時点で、すでに辺りはHPP一色、と言っていいほどの濃密な空気に満たされる。
哀切なメロディを丁寧に奏でるMarさん。
弾きまくるHiroさんのギターに耳がいきがちな新作ではあるけど、
要所要所でしめているのはむしろMarさんのギターなのか、と思った次第。




Batchさんの呪術的なパーカッションで曲が終わり、
(その間にギターチェンジなどを済ませてた)
Anzaさんのかるい挨拶程度のMCを挟んで、
"Fight Out"がCD通りにエフェクトのかかったのヴォーカルから始まる。

曲を始める際に、アイコンタクトで呼吸を合わせるバックのメンバー一同。
Hiroさんのメンバーを見る目に「バンマス」的な厳しさを初めて見た気がしたのが印象に残っている。

ノリのいい快調なアレンジとなっているため、
座っているのに体を前後に大きく動かしながらプレイするNarumiさん。



Anzaさんも途中からは立ち上がって歌い、イスをうまく使って動き回る。
このあたり、キャリアの経験が違う、と得心す。
隠しようのないものが「格」なのだ。


引き続き"Inside"へ。

それぞれの音が曲をタペストリーのように編みあげている、
というイメージを初めて聴いた時から抱いているのだけど、
やはり素晴らしいアンサンブルで、コーラスではうっとりしてしまった。
極彩色というほど派手ではない、華やかだけど品のある織物を幻視したほど。
(「一角獣と貴婦人」の青ヴァージョンが動いている、みたいな…わからんか)



AnzaさんがあらためてMC。
「普段はしゃべらない…」「ボロが出るので…」
「ライブを渋谷で…」「こんな感じじゃないけど…」
など、終始控えめかつ恥ずかしそうに言う(微笑)

曲名を紹介し、一番聴きたかった"Sand"がプレイされる。

新作の感想でも書いたけど、HPPならではの不思議な曲。
ここでも完全に異質な磁場を放っていたように感じた。

「爆発」感のある中盤以降のアンサンブルはCD以上の見事さで、
とくにBatchさんのパーカッションが凄い迫力。
これがアコースティックライブだろうか、と思ったほど。

すべてが混然一体となっていて、その統一感がどこかで幸福感と重なり、
観ていて聴いていて体感していて、なんとも言えないうれしさを感じる。
(と同時に、曲の持つ哀しみもまた、体に浸透してくるのだが)


素晴らしい演奏を終え、一端会場を後にするメンバーたち。
アコースティックでも、HPPはHPPらしいライブをするのだった。


SET LIST
1. Hang Veil
2. Fight Out
3. Inside
4. Sand









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「貴婦人と一角獣」ならぬ「一角獣と貴婦人」が文中に登場するが、わたしとしては完全に忘れていたのでハッとさせられた。まさか、三年後に現物を東京で観ることになるとは。また、Marさんのギターに言及していることも忘れていた。5人編成時代のアンサンブルも、非常に緊密なものだったことは言うまでもない。AnzaさんのMCはまだまだものめずらしいものとして、わたしは観ていた。店頭イベント(それも、初めての)なのだから喋って当たり前なのだが、それでも奇妙な思いがしたものだ。

この前後には、わが友人知人たちの愛すべき愉快な姿が描かれているのだが、前述の理由により削除。


次に、翌8日のライブについて書いたものを再掲しよう。これもまた同様の削除を行っている。ただ、ブログの性質上、ひとりだけは登場している。いまは別の名で知られているが、これは当時のままとした。また、一瞬だけ登場する「N氏」とは、当時HPPでPAを担当していた方である。(この後、一時離れ、最近また何回か担当するようになった。OzzfestもN氏が音を作ったはず。)

このブログ冒頭にある「Anzaさんのブログ」とはマイスペのブログであって、Anza.jpのそれや、アメブロのそれとは違う。内容について書かれていないのは、わたしのブログ読者ほぼ全員がそれを読んでいることが前提となっているからだし、実際、だれもが読んでいたはずだ。

掻い摘んで言うと、Anzaさんの近親者が亡くなったことに触れたブログだった。
7日早朝か、6日深夜だったかに連絡を受けていたと、書かれていた覚えがある。
(具体的にだれであるかは書かない。書いたところで何になろうか。ご冥福を祈るほかない。)

それでは、こころしてお読みいただきたい。
わたしのとって、もっとも思い出深いライブのひとつである。


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9/8 at Club Asia


この日の朝、Anzaさんのブログを読んで固まったひともいるのではないだろうか。
アコースティック・ライブもそのあとのイベントも終始和やかに進行していたので、
まさかその背後に何事かが起こっていたとは、到底思えなかっただけに驚きも大きかった。
(Iさんだけは、何か察していたらしいことがそのブログから窺える)
折しも、過酷なツアーが始まるその日に…と嘆息せずにいられないが、
その方が気も紛れるかもしれない、という点のみに気を払うことにした。


視界を遮る幕もなしにセッティングがメンバーたちによって進められ、
出演予定より30分押しの、21:40くらいになってスタート。

半ば目をつむったAnzaさんがマイクを持ったまま歩いて中央に来る。
囁き、祈り、歌、それぞれを往還しながら紡がれる導入部は、
その始まる直前の静寂をも遡及的に曲の一部として含んでいる。
観る者は場内が暗転したその時から、すでにHPPの世界に引きずり込まれている。



"Nowhere""Desecrate""Labyrinth"とつづいた序盤では、
最近やるようになった日本語での煽りをいつも以上に入れてくるAnzaさん。
この日は胸元にリボンをあしらった赤~ピンクのキャミと黒スカートを着用。
Hiroさんはめずらしく髪を固めていた。

HPPの楽曲群のなかではとくにストレートなアグレッションをもった曲がつづき、
フロアも激しくその楽曲に応える。ほんの少し前までは、絶対になかった光景だ。




ここまで、パフォーマンスもいつも通り素晴らしく、
またクリアなサウンドバランスも完璧で文句なし。

Anzaさんも心配していたような影響は見受けられず、
「安定」という言葉に潜む怠惰とは無縁の強度でもって、
「安定」したパフォーマンスを繰り広げてくれたので、
心配は杞憂だったようだ、と安堵していた。

それどころか、クルクル廻ったり、あぐらをかいて座ったり、
"Labyrinth"の最後では「ありがぢょおごじゃりまじだぁ~」
と、おどけたような言い方さえしていて、
むしろノリにノッている、という印象さえあった。


いちおう念のために付言しておくが、この心配は
パフォーマンスの低下・不安定化・劣化に向けられたものでも、
彼女/彼らのプロフェッショナリズムへの疑念に根差すものでも、ない。

また、感情表現に悲劇的な出来事の影響の一端を読み込んでしまうことから、
ある種の痛ましさを感じてしまうことを予期した躊躇から生じる心配でも、ない。

われわれファミリー=ファンは、ただ単に心配していただけなのだ。
いまこの場に、目の前にいるけど、きっと辛いのだろうな、と。

それが、前半部の見事なパフォーマンスに
プロフェッショナリズムを見せつけられることとなり、安心したのだった。

しかし、パフォーマンスの揺るぎない「安定」に変わりはなかったものの、
その表現のベクトルは急激にその色を変えていくこととなった。



それまでの「ロック・バンド」然としたタイトな演奏とアグレッションが一瞬で引き、
短いセッション的なインタールードのなか、機材に腰かけたAnzaさんが何やら口にしている。

Anza語で…いや、英語を介したAnza語、というべきか。
(この点、いずれ詳述したいところなのだが…)

人差指を天に向け、「my friend, family...」と言っている。

先月のAsiaでも、「"Light to Die"が先立ったファミリーに捧げられた」、
とIさんがブログで書いていたので、どのように捧げられたのかと気になっていたのだが、
どうやらこうゆうことだったようだ、とひとり得心していた。


"Light to Die"が、いつものように哀感と浮遊感と幽かな怒りとともに始まる。

ここまでは、「いつもの」と書くことに間違いはない。
また、それは称賛されこそすれ、揶揄される性質のものではない。
裏を返せば、この後は「この日だけの」ものだったのだが、
それもまた、同様である。

曲が中盤に差し掛かったころ、Marさんのマイクスタンドへ歩み寄り、
コード付きマイクを取って胸に抱えるようにして中央に戻ったAnzaさんに、
何かただならぬものを、いや、そんな過剰よりもむしろ空虚を感じ、
突如として「不安」と「心配」がアタマをよぎった。

後ろではN氏が急ピッチでマイクの立て直しに奔走するなか、
体をのけぞらせてサビを熱唱するAnzaさん。
さらに、マイク越しではもどかしいとばかりにマイクを置いて、
柵に乗り出し、目を思いっきり閉じ、両手を胸に当て、轟音のなか絶唱したのだった。


このとき、はじめてHPPを観たときのような戦慄とともに、
なぜこのバンドがかくも他のバンドと違うのか、悟った気がした。



あまりに過剰な現在形として提示された存在そのものが孕む圧倒的な強度、
それが引き起こす認識の脱臼によってもたらされる驚異と眩暈(ときに恐怖)、
一瞬にして頭の中を脱色し空白を生じしめ、その場を占拠してしまう視線、
まったき現在形としてのみ成立する事件/アクシデントとしての時空。

いまはこの、断片化された言葉のみをここに止めておくとする。
いずれ機会があったら、解説を試みることもあるだろう。


話をAsiaに戻そう。

曲が終わったあと、
Anzaさんは依然、放心状態といった雰囲気を纏っており、
マイクなしのまま「Are you happy ?」と消え入りそうな声で、
ときに見開かれ、ときに柔らかく歪められた目をむけながら、
オーディエンスひとりひとりに訊いて回る。
その場だけ舞台が開かれているような調子で。

その「舞台」はステージを右側から降りたAnzaさんによって拡張され、
また「Are you happy ?」と訊いてまわる。

どうやらそれに答えたらしいひとりのアタマにポンと手を置いて、
これで満足したのか、ふたたびステージ中央に戻ってきて何やら呟きだす。

なお、この「happy?」なるやりとりがその色合いを変えつづけ、
充実度を高めていった点にこそ今回のツアーの有り様が凝集されてもいるのだが、
それはまだ先の話だ。

この時点では、オーディエンスはただ圧倒されるだけで、言葉を呑みこむよりほかなかったのである。


N氏がマイクを渡すと、左手で髪を押さえたまま右手で受け取る。
Marさんがゆらゆらと前後に揺れながら不穏なシグナルを発し、
機材に腰かけたHiroさんがクリアなタッピングで彩りを加える。

"sacrificed"が、いつもより「怒」も「哀」も増強されて、
序盤とは打って変わった重さと炸裂感でもってプレイされる。
たじろいだまま目を見張るだけだった。



チリーン、という音で"Sixoneight"へ。
きっと何か起こるだろう、と覚悟に似た予感が告げる。

もはや立っていることすらやっと、といった絶え絶えな歌声が、
悲しそうというより、辛そう、という言葉を選ばせてしまう。

歪められた悲痛な表情は、どこか必死で頑ななこどものようでもあり、
為すすべのない者が浮かべる表情の空白をわたしたちは晒していたはずだ。

バンドサウンドが合流し、音ともにゆっくりと感情がかたちを成していく。
消え入りそうな声、束の間の「音=感情」の爆発、いま一度の静寂。

ほとんど泣き声となった歌声、精神崩壊寸前に見える表情。
這うようにして前の方にやって来て、手を伸ばした。


「それ」が起こったのは、この時だったと記憶している。

AnzaさんがIさんの手を強く、引っ張るように握り締めたのは。
そして、Iさんが何かを理解したかのようにこうべを垂れたのは。
同じく、やはり深くこうべを垂れるAnzaさんとIさんの間に、
何かが共有されたことを知らされた。その相似形の姿に。

「それ」は、わずかな間の出来事にすぎない。
しかし、時間の長短などは所詮、相対的な多寡でしかない。
この時、時間はふたりの絆に遠慮してゆっくり流れたに違いないのだ。
永遠にも似た、ひととひとの関係が持ちうる神聖さを見た気がした。
感動せずにいられなかった。だが、すぐにも次の衝撃が襲いかかる。


手を放し、すっと立ち上がり中央へ。
いつもは「Diiiiiiie!」と伸ばされ叫ばれるところが、
瞬時の反転と同時に「DIE!」と短く切り取られた叫びでなされる。

あまりの唐突さと声の強さに、
まるで鮮血が飛び散ったかのような生なましい衝撃を受けた。

あとは茫然とその終局を見守るしかなかった。


アンコールとなって、ひとりふたりと姿を現す。
耳元で何か伝え合っていたが、どうやら曲の変更だったらしい。
(当初は"Cray Life"の予定だったようだ)

髪を結んで戻ってきたAnzaさんが、うつむきながら照れ笑いをもらしつつ、
「MCは慣れてないけど…」と話し出した姿を見て、正直ホッとした。



その分、アンコールの"Chain"は激烈な曲なのにどこか幸福感すら漂っていて、
ショウの締めくくりに相応しい、明るい大団円となったのだった。


SET LIST
1. S.E.
2. Nowhere
3. Desecrate
4. Labyrinth
5. Light To Die
6. sacrificed
7. Sixoneight
Encore
8. Chain


その後のことは、言葉少なにとどめよう。

Anzaさん、やはりかなり参っていたようで、
終演後、開口一番に「ごめんね~」とIさんに声をかけていた。
「今日だけはホント、勘弁して…」と。

かけるべき言葉の見つからないわたしたちは、ただ黙って頷いていた。



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1曲目に"S.E."とあるのは当時のイントロで、結局どこにも収録されることなく終わった、いまとなっては幻の曲だ。確か、2009年10月のO-West公演か、同12月のBlackhole公演から演奏していたはずだ。わたしはこのイントロがいちばん好きだった。いや、いまでもこれを採る。いつかまた、聴くか観る機会があればと思っている。


このブログは難産だった。これにつづく「Fuse the soul」ツアー3公演までは書くことができたものの、その後は不可能となってしまった。書けないだけでなく、読んでもらえないことに苦しんでいた。(その後のさして変わらないが。)かろうじて書き継いできたのは、わたしなりのHPPへの敬意としか言いようがない。

しかし、わたしのことはどうでもいい。8日のブログにあるように、あのときのライブが(仮に事情を知らなかったとしても)異質なものであったことは、読んでいただいたいまとなってはお分かりいただけるだろう。機材トラブルに端を発したAnzaさんの一連のパフォーマンスは、途轍もない緊張感をもたらした。

それだけに、アンコールは文字通り開放感があった。ライブにおける"Chain"に幸福感が付加されたのは、このときだったとわたしは思っている。これもまた、漸進的な変化を遂げていたHPPの一コマであり、かつ、決定的な一コマだった。それについては、いずれ述べることになるだろう。


Anza語について、言い淀んでいた箇所があったが、それはこの2年後、書かれることになった。
もうひとつ、言い淀んでいた箇所がある。それこそが、今度こそ書かれねばならない。もう3年になるのだ。


その前に、「Fuse the soul」ツアーのブログを再掲しなければなるまい。
明日か明後日あたりに、まとめて投稿する予定だ。



2013-09-07

HEAD PHONES PRESIDENT / Pobl Lliw (2010)



はやいもので、HEAD PHONES PRESIDENT『Pobl Lliw』をリリースして3年経った。
(リリースは2010年9月3日金曜日。)

「アコースティック・サウンドによるセルフカヴァー作」と銘打っておきながら、その実ほとんど原型をとどめない曲ばかりが本作には並べられている。(また、新曲も収録されている。)

元々はデビュー10周年を記念して制作された企画盤でありながら、HPPの音楽性に新たな光を当てることに成功した野心作であり、旧作から次作の3rdフル・アルバム『Stand In The World』へとHPPの構成要素を(その核を残したまま)変質させつつ架橋した、重要な一枚だ。


リリースに前後して、当時まだ活気のあったMySpaceでは連日のようにレコーディングやリリースの模様がHPPのマイスペにアップされていた。収録曲のリクエストもホームページとマイスペでやっていて、そのときのバナーがこれである。

このウサギ、以前のHPPタオルが初登場。これ以後はRAZに発展解消…?


YouTubeのトレイラーにつづき、そのマイスペで先行試聴が開始された2曲("Labyrinth""Reset")を聴いて、その躍動感溢れる楽曲の鮮烈さに度肝を抜かれたことが昨日のことのように思い出される。(正確には、8月の末日あたり、ちょうど昼ごろだったと記憶する。わたしは夏休み中で、だれよりも早く試聴して――いや、2番目だった――反応したのだった。)



先行トレイラー。短すぎてアッという間に終わってしまう…。


発表後、わたしはすぐに本作の感想ブログをマイスペに書いた。しかし、いまとなってはもう読むことはできない。メモは断片的にしか残されておらず、2010年夏のHPP水戸公演のブログのように、それを復刻することは不可能なのだ。ただ、当時も現在も、聴いた上での思いや考えに変化はない。そこで、あらためて書きなおすことにした。

以前の自分の言葉遣いがどのようなものだったか参照したい気もするし、なんと言っても、初めて聴いた喜びや驚きを無意識裡に反映していたであろう、当時の文章の息吹を(そして、そうした文章を成立させていたマイスペという「場」の感覚を)もう一度わが身に受けてみたいと思いこそすれど、それは望むだけ無駄である。

以下にふたたび書かれるものは、内容こそ同一であれ、その表現はさすがに多少の向上があるだろう。それでも、当時の率直な、条件反射的な文章には敵わない。「時を同じくする」ことの鮮度とその喪失を噛みしめながら、追憶と忘却のあわい(しかし、それは等価であるどころか同じものである)に思考を漂わせつつ、書き継いでいくことにしよう。



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クラシックやジャズといったジャンルで、楽団や奏者が何度も同じ曲に挑むことは多い。でも、それをカヴァーやセルフカヴァーと呼ぶことはない。(それらは「誰々の」「いつの」「どこの」といったヴァージョン違いとして認識される。)カヴァーないしセルフカヴァーは、ポップスやロックといった大衆音楽の枠内におけるものをそう呼ぶのだ。

ただ、オリジナル曲を別のミュージシャンが演奏するカヴァーと違って、セルフカヴァーは自分(たち)の曲を自らカヴァーするため、通常のカヴァーとは趣きを異にする。前者よりも後者の方が数の上でも少なく、またアルバム単位となるとさらに例は少ない。

それでも、半世紀になんなんとするロック史におけるセルフカヴァーのヴァリエーションは、なかなかに多様である。再録もの(ベスト盤や人気のある作品に多い)や、オリジナルとは大きく異なったアレンジを施したスペシャル・ライブを収録したもの、外部とのコラボレーション的な企画ものなど、よくよく考えてみるとそれなりに思い浮かべられるものである。

ロック、とくにハードロックやヘヴィメタルといったジャンルにおけるセルフカヴァーにも、様々なものがある。交響楽団と共演してクラシカルな編曲を施すものもあるし(METALLICA、イングヴェイ・J・マルムスティーンなど)、できるだけ手を加えないリ・レコーディングものもある(STRYPER、EXODUSなど)。それでも、いちばんその数が多く、言うなれば「手っ取り早い」ものは他ジャンルと同様、「楽曲のアコースティック化」だろう。
(ちなみに、KISSはアコースティック化・シンフォ化・再録とすべてに手を出している稀有なバンドである。)


今回、あらためて紹介するHEAD PHONES PRESIDENTのセルフカヴァー作は、大きな枠で括るとしたらその「アコースティック化」枠の作品である。元々「歌もの志向」のハードロック系バンドはもちろんのこと、リフ・オリエンテッドなメタルや、グルーヴ重視のヘヴィロックといったバンドであっても、アコースティック・サウンドによるセルフカヴァーはその例を多々あげることができる。その中にあって、さらに異彩を放つ作品であるところの『Pobl Lliw』を語るに当たって、まずはその「アコースティック化」の内実について、整理しておきたい。

(なお、以下の「アコースティック・サウンド」とは基本的に電化された「セミ・アコースティック」であって、純粋な生楽器によるものを含めた上での、括弧つきの「アコースティック」であることは言うまでもない。「アコースティックって言ったって、電気通してるじゃん」みたいなムダな突っ込みは無用。)


いくつかの分類を施してみよう。大きく3つに分けることができる。
「カジュアル型」「衣裳チェンジ型」「モデルチェンジ型」の3つである。

原曲を「通常の着衣状態」と比喩的に定位した上で、そのアコースティック・ヴァージョンをそれぞれの度合いによって三つの型に振り分けるのだ。(もっと細かくできるだろうけど、これくらいで十分である。)

実例に沿って説明したほうが早い。順番にやっていこう。
なお、いつものようにHR/HMを中心に語っていく。


①「カジュアル型」

もっともシンプルかつストレートなもので、原曲のエレクトリック・ギターをアコースティックに置き換えただけ、と言ってよい。エレクトリック・サウンドのエッジやヘヴィネスが格段に弱まって音圧が小さくなり、音が軽くなる。重いレザージャケットやステージ衣裳を脱ぎ、普段着になった姿と比喩的に言えるので、「カジュアル型」である。

ボーナス・トラックなどで頻繁に耳にしてきた、それこそ「お手軽な」ものだ。ゆえに、原曲の質が厳しく問われると同時に、安易で気の抜けたものになりやすい危うさもある。もちろん、原曲がよければそうした骨組みの強度やメロディの美しさが際立つから、楽曲・歌唱・演奏が堅実であればあるほど、多くの労力を割かなくても質の高い「別ヴァージョン」の完成と相成るため、実力派バンドに好まれる手法でもある、と言えるだろう。
2011年のMR.BIGライブレポでも、わたしは同様のことを述べている。)

90年代中盤の、MTVを中心とした「アンプラグド」ブームを覚えているひとも多いと思う。バンドやソロ・アーティストが、MTVの番組内でアコースティック・ライブをやるというもので、録画・録音されたビデオ(当時)やCDが次々と大ヒットを記録していた。ジャズやカントリーが根っこにある、アメリカならではの音楽風景だったのだと、今となっては思いもする。(もっとも有名なのはやはり、NIRVANAの作品だろう。)

付言しておくと、アメリカのバンドのカジュアル型アコースティック化はカントリー/ブルーズ色(たまにジャズ色)が強いのに対して、ヨーロッパのバンドにおけるそれはクラシック/フォーク色が強いことを考えると、音楽の、出身地における「素朴さ」の位相に地域的偏差があることに気づかされもするだろう。

「カジュアル型」の代表的な名盤として、ALICE IN CHAINS『Unplugged』(1996)とGOTTHARD『D Frosted』(1997)を挙げておこう。(いずれもライブ盤)ごくシンプルに「そのままアコースティック化」しただけながら、質の高いオリジナルと比べても遜色ない出来に仕上がっている。また、音が軽くなった分、気楽に聴けて重宝する作品となっている。

他にも、多くのハードロック・バンドが90年代にこうしたカジュアル型のアコースティック作をものしている。FIREHOUSE、FAIR WARNING、HAREM SCAREM、HEARTLAND、MR.BIG、TESLAなどの作品はその典型的な例で、いずれも原曲のよさをそのまま活かした、とてもシンプルなものだ。
DOKKEN『One Live Night』だけは、アコースティックとエレクトリックを併存させた異色作。)

ちなみに、わたしがアコースティック作を好んで聴くようになったのは、1996年に当時の新作だったFIREHOUSEの『Good Acoustic』を聴いてから。いまでもよく聴く。いちばん好きなのは、HAREM SCAREMがあちこちに収録したアコースティック・ヴァージョンの数々。(後期のものはやや淡泊すぎるのだけど。)

われわれが通常「アコースティック・ヴァージョン」と聞いて思い浮かべるものの大半が、上記のようにエレクトリック・サウンドの重さや激しさを取っ払った、音も手法もシンプルな、この「カジュアル型」である。
(英語のCasualには「表面的な」「おざなりの」という意味があることも注記しておこう。)


②「衣裳チェンジ型」

やや複雑なもので、単に原曲のバッキングをアコースティックに置き換えただけではなく、そこからさらにアレンジを施して新たな印象を与えたもの、と言える。服を替えて新鮮な印象を与えることに似ているため、「衣裳チェンジ型」と呼びたい。

これは、HR/HMバンドには少なく、非HR/HMのアーティストやバンドの方が得意なようだ。前者は音楽的様式の定型化が徹底されていて、柔軟なアレンジが難しいのだろう。例えば、デスメタルのボサノヴァ化などは仮に成功したとしてもギャグにしかならない。(フラメンコ風にした「フラメタル」などという企画もあったが、やはりジョークとして流された。また、HR/HM系リスナーには、そうした高度なアレンジものが聴きたいというニーズがあまりないことも、作品例が少ない理由のひとつかもしれない。)

一方、後者はそこまで原曲の様式に囚われてはいないため、より冒険的なアレンジに望むことができる。アレンジ能力において他の追随を許さないスティングはこの手法の達人であり、自らがものした楽曲に様々な新味を持たせることに成功しつづけている。また、元IT BITESの神童、フランシス・ダナリー『There's Whole New World Out There』(2009)は半アコースティック作なので、ここに挙げるのは違うかもしれないけど、IT BITESファンには新たな発見のあるセルフカヴァー作の傑作だと断言しておく。

HR/HMにおける素晴らしい成功作として、SCORPIONS『Acoustica』(2001)を例に挙げよう。
シンプルなアコースティック化をベースとしながら、全編に渡ってスパニッシュ調のエキゾチシズム溢れるアレンジを施しており、原曲の正統派ハードロックの叙情性をラテン・フレイバーへと見事に換骨奪胎した逸品となっている。それでいて、原曲の同一性も保たれているのだから恐れ入る次第。
(実は本作を聴いて、わたしはセルフカヴァーの面白みを発見したのだった。)

他にも、アルバム単位ではないものの、ZIGGYが2002年に発表したふたつの"Heaven & Hell"はとても興味深い試みだったと思う。アルバムは夏に『Heaven & Hell』を、冬に『Heaven & Hell II』をリリース。そのタイトル曲はオリジナルの前者がハードロック、後者が「センチメンタル・ウィンター・ヴァージョン」(森重樹一 談)なのだが、これが装いを新たにした「衣裳チェンジ型」の傑作なのだ。なお、『II』には他にもZIGGY旧曲の「衣裳チェンジ型」セルフカヴァーが収録されていて、そちらも素晴らしい出来栄え。

①の「カジュアル型」よりもイメージしづらいかもしれないが、ポイントは「同じ曲なのに全然違うよさが出ていること」だ。いつも見ていた姿(オリジナル)もよかったけど、服(アレンジ)をかえるとここまで印象がかわるのか、というポジティヴで喜ばしい驚きがその核にある。これが「衣裳チェンジ型」である。


③「モデルチェンジ型」

かなり複雑なもので、アコースティック化による新たな印象づけどころか、もはや原曲から遠く離れ、独立した別の曲となっているもの。「同じ服を着ているけど赤の他人(タイトルは同じだけど違う曲)」と言っていいので、「モデルチェンジ型」である。

これは、全ジャンルを見渡しても作例が少ない。というか、わたしが知らない。(カヴァーならいくらかある。)
数少ない貴重な例として、ここではふたつだけ挙げることにしよう。

ひとつ目はHELLOWEEN『Unarmed』(2009)で、結成25周年を記念して作られた作品。当初伝えられていたアコースティック作の枠を超えて、シンフォ化やジャジーなアレンジなども加えた綜合的なセルフカヴァー作となっている。ただし、基本線はアコースティック・サウンドである。原曲を完膚なきまでに組み替えていて、ここまで原曲から離れるとわたしなどは却って痛快なくらいなのだが、そのために拒否反応も多々あったようだ。また、多数のゲストが参加していて、バンド外部からのインプットが多いことも特徴だろう。

ふたつ目は、PAIN OF SALVATION『12:5』(2004)だ。この作品が単なるアコースティック・ライブ作にとどまらないのは、その繊細を極めたアレンジの引出しの多さもさることながら、原曲のタイトル表示を大きくかえてまで全体を三部構成に編み直し、原曲が収録されていた作品(彼らはコンセプト作しか制作しない)の文脈から別のそれへと移行させるという、非常に高度で知的なアプローチが採られていることに拠る。そのため、曲がシンプルなカジュアル型アコースティック化であっても別の曲に聴こえてしまうという、音楽的アクロバットに成功しているのだ。カジュアル型や衣裳チェンジ型を内包しつつ、それでいて未だにヘヴィネスを醸し出し、かつ美しいという驚異的な傑作である。

①②と違い、楽曲の同一性が意図的になかば破棄されたもの、セルフカヴァーは口実であって、その実情は創作に他ならないもの。見せたい(聴かせたい)のは、変わったのは服(アレンジ)ではなく、ひと(曲)そのもの。これが「モデルチェンジ型」である。



以上が、わたしなりに「アコースティック化」の類型を分類したものである。もちろん、ある程度わたしの音楽遍歴による偏向があるし、その割り振りの多くは分析的である以前に感覚的なものであることを断わっておくが、それなりの説得力はあったのではないかと思う。
(ひとによっては蠍団の作品は②ではなく③だろうし、①ではなく②というものもあるだろう。)


さて、ここからが本題だ。HEAD PHONES PRESIDENT『Pobl Lliw』がどれだけ特異な作品であるのか、上記の概念を使用しつつ、詳述していくことにしよう。



Pobl Lliw (2010)

1. Hitotoiro
2. Fight Out
3. Labyrinth
4. Reset
5. Inside
6. Life Is Not Fair
7. Hang Veil
8. Sand
9. Hello
10. Col Delon
11. Pobl Lliw


HPPにとっては、これが初めてのアコースティック作ではない。2008年に2ndの『folie a deux』(2007)収録曲である"Chain"のアコースティック・ヴァージョンを、配信限定シングルとしてリリースしている。(→iTunes
(また、同年リリースの2nd DVD『Paralyzed Box』ではそのPVを観ることができる。)

原曲のインテンスなアグレッションがアコースティック化によって深い哀しみにかわっているだけでなく、長尺のギターソロを加えたことで劇的な要素が強まり、もはや別の曲と呼んで差し支えないところまで変貌を遂げている。③「モデルチェンジ型」の特長をすべて兼ね備えた曲なのだ。

ゆえに、「アコースティック・セルフカヴァー」と早い内から銘打たれていた『Pobl Lliw』は、発表前からそのクオリティを保証されていたと言ってよく、どんな手を使ってくるのか楽しみにしていた。そして、そうした”Chain (acoustic version)”から演繹される方法論が容易に予想できていたにもかかわらず、HPPはこちらの予想を大幅に上回るアレンジでもって本作を提示してきたのだった。それでは、1曲ずつ見ていこう。


1曲目の"Hitotoiro"はイントロ。都会の喧騒が聴こえてくると同時にギターの音が入り、Anzaが「Anza語」でたゆたうような歌声を響かせる。タイトルの「人と色」は、本作タイトル(ウェールズ語)の和訳である。短くも絶妙な、催眠効果のある導入である。

2曲目から本編となる。エフェクトをかけたAnzaのヴォーカル・ソロで始まる"Fight Out"(原曲は2003年の1stアルバム『Vary』収録曲)は、明るい日差しを浴びているかのような陽性の躍動感と、木漏れ日を受けながらやさしい微風を感じているときの、あの清涼感さえ湛えた曲として生まれ変わっている。

オリジナルで撒き散らしていた不穏な陰が完全に払拭されているばかりか、質的なネガポジを反転させるという荒技を、かくもエレガントにやってのけたかと驚かされた。初めて聴いたとき、わたしが快哉をあげたのは言うまでもない。

これにつづく"Labyrinth"(原曲は2007年の2ndアルバム『folie a deux』収録)は、明暗のコントラストを際立たせつつそれを融合させる、地中海音楽的なアレンジが施された曲となっている。躁的なフラメンコと穏やかなシエスタが交互に訪れる曲、とでも言おうか。(音楽的にフラメンコに近いのではなく、視覚的イメージとしてのフラメンコであると理解されたし。)ツインギターの高速ハーモニーにも驚かされた。

先述したように、わたしが先行試聴で度肝を抜かれた曲だ。"Fight Out"と同系統の躍動感・清涼感があるものの、より強い光と影の対比(及び融合)を感じる。日差しが強くなるとその影もまた濃くなるように、軽やかさのなかに凝集された闇が垣間見えるのだ。しかし、その闇は嫌悪を催させる類のものではなく、だれしも心に備えているような、ひとの原形質に触れる類のものに思える。

4曲目の"Reset"は新曲だ。当時のインタビューを読むと、当初の"Fight Out"新ヴァージョンから発展した曲らしい。トレイラーに使用されていた曲であり、また先行試聴で聴くことのできた曲だが、トレイラーではピンとこなかったのに試聴したらこの上なく気に入ったという覚えがある。

アコースティックとエレクトリックが併存するだけでなく、音作りの上でもかなり凝ったものとなっていて、以前のHPPでは考えられなかった(しかし、潜在的にもっていた)、アリーナ級のスケール感があるところに嬉しい驚きがあった。間接照明によって影がなくなった、不思議な明るさに充たされたSF的な空間を聴くたびに幻視する。そして、その空間は緑に覆い尽くされてもいて、無機的な感触よりも有機的なそれがはるかに優っているのだ。

わたしは、この曲が次作『Stand In The World』の布石であったように思えてならない。この不思議な明るさとスケール感を編み出したことが、それまでの密室性の踏破につながっていったのだ。
(HPPにおける「密室性」の変遷についてはここで述べた。)


ここまでの3曲(イントロは除外)が、わたしには一日の「昼」に相当するものに思えてならない。というのも、本作は朝~昼~夜という一日の流れに沿ったかのような展開を見せるからだ。イントロが朝、つづく3曲が昼、次の3曲が夕方、次の3曲が夜、そしてアウトロが夢、とでもいうような、三部構成(イントロとアウトロを入れると五部構成)として聴くことができる。コンセプトのないコンセプトアルバムというか、ある種の連続的なストーリー性のある作品というのが、本作に抱いているわたしの印象である。

5曲目の"Inside"(2005年発表の2ndミニアルバム『Vacancy』収録曲)からは光量がぐっと減り、薄暮がしずかにあたりを包みはじめる。原曲のおどろおどろしさはすっかり息を潜め、哀切な情感に浸されていく。

ここまで演奏面に触れずにきたが、本作を傑作たらしめているのが高度なアレンジを可能としたリズム隊の活躍にある。Narumiによるメロディアスで図太いベースラインは間違いなく本作の背骨として機能しているし、Batchの緩急自在なパーカッションが本作の多彩さを引き立てていることは、一聴してすぐに了とせられよう。とくに、「パーカッションができる(ロック)ドラマー」が実はあまりいないことを考慮に入れると、Batchの貢献度がいかに大きいかわかるだろう。上述したアコースティック化をものしたバンドのなかで、パーカッションを自ら叩くドラマーを擁したバンドは、ひとつもいないのだから。

6曲目の"Life Is Not Fair"(2001年発表の1stミニアルバム『id』収録曲)は逢魔時(おうまがとき)に当たるだろうか。ここでは原曲の禍々しさが、アコースティック化を経てもなお色濃く残されている。それと同時に、元々そこに込められていた鋭い哀しみが浮き彫りにされ、儚い叙情として楽曲を覆っているのだ。また、中間部の展開における、オリジナルの爆発的なまでに強烈なダイナミズムを、静謐なギターの独奏から素早いパッセージへの流れのなかに巧みに転化しているあたりなどは、感動的とさえ言える。本作におけるHiroの真骨頂ではないだろうか。

7曲目の"Hang Veil"『folie a deux』収録曲)だけはやや出自が違うのかもしれない。実は、この曲はHPPのアコースティック作で最初期に完成したものなのだ。おそらく"Chain"より早い。というのも、具体的な日時は忘れたが地方公演でこの曲のアコースティック・ヴァージョンを披露しているのである。
(YouTubeにその映像がある。)

映像を見る限り、この時点で大枠は完成していたように思われる。ギター・ソロやパーカッションなど、細かい異同はたくさんあるにせよ、他の曲と比べてかなりシンプルなものとなっているのはそうした制作時の事情によるのかもしれない。(それでも、①カジュアル型ではなく②衣裳チェンジ型であって、シンプルさの基準が違うことに気づかされるだろう。)いずれにせよ、落差の激しい原曲のヘヴィネスが深くうねるベースラインに託され、他のパートは切々とした感情の吐露を表現するのに専念している。


この中盤の3曲が、一日の「夕方」にあたるものだ。それも、ほとんど夜になろうとしている、空の奥や雲の下に光の残照を確認できるような、そんな時間帯だ。そして、ここから先は夜となる。

しかし、8曲目の"Sand"(2005年発表の4thシングル『WhitErRor』にエンハンスト映像として収録された、音源としては未発表曲)もまた、「夕方」の曲と言えそうな感触がある。3曲×3部というキリのいい構成を放棄して、そちらに編入してもいいだろう。残照の余韻を、紫色の空に認めることができるとでも言おうか。

原曲からして不思議な雰囲気の曲なのだ。歌詞はなく、Anza語であることもその謎めいた相貌に拍車をかけている。(Anza語に端を発した歌詞の分析はここで書いている。)この「謎」が無明としての「夜」を想起させているのかもしれない。中盤の3曲に通じる叙情性が色濃い導入に始まり、全パートの緊張感に満ちたアンサンブルが激情として迸る楽曲展開は、何度聴いてもぞくぞくさせられる。

9曲目の"Hello"と10曲目の"Col Delon"は新曲。ここに至って、空には星がうかがえるようになる。夜が来たのだ。それも、慈愛と諦念が交差しながら螺旋を描くような、どこか虚ろな「白さ」のある夜が。

この2曲は、ベースもパーカッションもフィーチュアされていない。モデルチェンジ型アコースティック化という高いハードルのクリアに最大の貢献を果たしていたリズム隊が引いたことで、本作は一気に違う様相を呈することとなった。"Hello"で開かれた空虚な白い夜は、茫洋たる宇宙を漂う"Col Delon"の母胎回帰的な闇へと接続され、一日の終わりが眠りのなかの夢であり、かつすべて(宇宙)は夢でもあるというヴィジョンへと至る。夢とは魂の彷徨であったかもしれない。

音楽的なことに言及しておくと、前者ではピアノが、後者ではシタールが効果的に使用されている。どちらにも驚かされたが、後者のシタールはインドを中心とする南アジア的なそれというよりは、本邦の琴に近い響きと旋律をもっていて、無国籍的かつ普遍的な郷愁をひそやかに掻き立ててくれている。

本作のアウトロである11曲目の"Pobl Lliw"は奇妙なものだ。それまでの展開とは切断された次元にある。つまり、ほとんど連続性がないアウトロなのだ。無表情にループされるフレーズ(Anza語)と、イントロの都会的な喧騒とは逆に森林浴でもしているような気分になる鳥の囀りや川のせせらぎの音が大勢を占める。"Reset"の音飾に通じるいくつかの電子音のみが、かろうじて連続性を保っているかもしれない。そして、あらためてイントロに戻ると、都会のノイズと森の声の間に奇妙な近似性を見出すのだった。


Hiroの驚異的なアレンジ能力と、バンドのアンサンブルが完璧に合致した傑作である。とくに、これほどまでに原曲を解体-再構築したHiroの手腕は、広汎なジャンルから称賛を受けて然るべきだろう。HPP五人編成時代最後の作品となってしまったが、Marのインプットも相当な貢献を果たしていただろうことは間違いない。できるだけ多くのひとに聴いてもらいたいと切に願う。

タワレコ以外では公式HPとライブ会場で購入できる。iTunesでもDLできるようになった。



以上がわたしなりの『Pobl Lliw』雑感である。3年前のものも、論旨自体はこのようなものであったはずだ。「イントロ+3曲×3部+アウトロ」というのは初めて聴いたときの感覚に基づいているのだけど、上述したようにいまでは"Sand"を「夕方」に入れるか、「夕方」と「夜」をつなぐ単独ポジションに置いたほうがいいように思っている。

なお、HPPは本作発表後にも意欲的にアコースティック化を図っていて、『WhitErRor』から"Crumbled"が、2004年発表の3rdシングル『de ja dub』から"Corroded"が、『folie a deux』からタイトル曲が、『Stand In The World』から"Stand In The World"、"My Name Is"、"Lost Place"が、ライブで披露されている。なかでも『Stand In The World』に原曲が収録されている後半3曲は①カジュアル型に近い、HPPにしてはかなりシンプルなものだが、もしレコーディングされることになるとしたら、また一段とアレンジされた姿となって再登場するだろう。
("Crumbled"のアコースティック・ヴァージョンは3rd DVD『DELIRIUM』に収録済み。)


ここまで、長いものを読んでいただいて感謝に堪えない。最後に、当時のフォトを貼っておこう。

2010年10月のアコースティック・ライブでは、開演前にスライドショーでたくさん未公開フォトを見ることができたものだったが、残念ながらその後あらためて公開されることはなく、それどころかMarの脱退に伴い、五人編成時代のフォトは公式HPやMySpaceから消えてしまった。またいつか見たいものだ。






なお、来週は2010年9月のツアーについて書かれた、マイスペ時代のブログを再掲する予定。



2013-07-11

貴婦人と一角獣 - The Lady and the Unicorn



国立新美術館にて開催されている「貴婦人と一角獣」展を観てきた。



期待に違わぬ、いやそれどころかそれを上回る素晴らしいものだった。
おそらく、この連作すべてが今世紀中に再来日することはないと思われる。
東京ないし大阪で見逃した方は、ぜひともパリのクリュニー中世美術館へ赴くがよろしい。


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わたしが、作者不詳のこの「貴婦人と一角獣」タピスリー連作を知ったのは、学生時代だった。大学図書館で画集を眺めていたら出てきたのだ。そのときの印象は、いかにもルネサンス前の中世欧州らしい、牧歌的な作品というものでしかなかった。

このタピスリー連作と真に出会ったのは、堀田善衛の『美(うるわ)しきもの見し人は』(1969)を読んだときと言える。古今東西の「美しきもの」を、「なるべく努力をしない、勉強をしない」ように「できるだけ、自分の自然を保って」語ったこの名著は、それまで専門的な美術研究書や美学関連の思想書ばかり読んでいたわたしにとって、目から鱗の一冊となったのだった。

その12章「美(うるわ)し、フランス LA DOUCE FRANCE」で、この「貴婦人と一角獣」タピスリー連作が、中部フランスの静かで優しい景観を表象するものとして紹介されているのだ。
(なお、タピスリー/tapisserieは仏語。一般に使われるタペストリー/tapestryは英語である。)

一角獣の優しげな表情がとりわけ微笑ましいこのタピスリーについて、(ボッティチェリの「妖」といった印象とは違うと断りつつ)「幾分の謎がのこるという心持に見る者を誘う」と堀田は書いている。わたしは一角獣やそのまわりの動植物のかわいらしさに魅せられていたため、この「謎」という言葉には不意をつかれた覚えがある。

そして、実際にタピスリーをこの目で見た今となっては、まさしく「謎」という言葉こそがこの「La Dame à la Licorne」連作にもっとも相応しいのだと思えてならない。


ところで、一角獣といえば「角のある馬」と思われているだろうが、実はもう少し複雑で、「頭部と胴は馬、後ろ脚はカモシカ、尻尾はライオン、髭はヤギ」という構成が一般的だ。(細かい異同や時代・地域による差もあって、例えば翼を生やしている場合もあるらしい。)色も白と相場は決まっているものの、茶色や黄褐色で描かれていた時期もけっこう長く、他の幻獣と同様にその受容ならびにイメージの変遷は、なかなかに手強い。
(もっとも簡潔な解説として、澁澤龍彦の「一角獣について」を挙げておこう。『記憶の遠近法』所収。)

一角獣(ユニコーン)に限らず、ペガサス、グリフォン、ドラゴン、スフィンクス、セイレーン、ケンタウロス、キマイラ、ケルベロスといった幻獣たちは、様々な動物の部分から成る合成獣としての禍々しさとはまた別に、どこかしらひとを惹きつけてやまない魅力を持っている。そのなかでも、わたしは幼少のころから一角獣への思い入れが妙に強かった。今回、この美術展を観ながら、そんなはるか昔のことをも思い出していたのだけど、それは置いておこう。以下に、連作を順番に語っていくことにする。
(画像をクリックすると大きく表示されます。)


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Le Toucher (Touch / 触覚)

連作は「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」と五感の距離順に、すなわち対象をそれと認知・感覚するに必要な距離が短い順に並べられている。それなら味覚がいちばん先になりそうだが、どうやらこの「触覚」が最初期に制作されたものと目されているため、これが「連作その一」だ。
(なお、聴覚と視覚の順も微妙なところだけど、ここは認識における視覚の優位のためだろう。)

他の作品との大きな異同は獅子の顔と貴婦人の髪型、そして貴婦人自らが旗を持っている点だ。この作品が最初のものとされている理由のひとつとして、その三点が挙げられる。裏を返すと、それ以外は多くの点において共通項があり、印象も近いものがあるということだ。

赤地に千花模様(ミル・フルール / Mille Fleur)のなか、円形の庭園が島のように浮かんでいて、そこの中央に貴婦人が、傍らに獅子と一角獣がいる。ル・ヴィスト家の紋章入り四角旗や楯が目をひく。四本の果樹と、様々な動植物が庭園を取り囲んでいる。といったことが大きな共通項だ。(もちろん、細かな異同が多々あって、そのことがこの連作をより魅力的にしている。)


この「触覚」で、貴婦人は一角獣の角に優しく触れている。掴んでいるのではない。掌をなかば広げたまま、親指と人差し指をそっと添えるような具合で、小指はどうやら角に触れているようだが、中指と薬指は角から離れたままに見える。一角獣は貴婦人(もしくは旗)を見つめ、貴婦人はあらぬ方向を向いている。人間のような顔をした獅子が「こちら」を見ている…。(その顔はかなり不気味だ。)

一目見て驚かされたのが、貴婦人のリアリスティックな描写だ。顔には皺も描かれていて、この婦人が決して若くはないことを容易に知らしめている。女君主とでも言おうか、威風堂々とした趣きがあって、その表情には狷介さもあらわれている。頂点に立つ者の孤独も感じさせる。しかし、だからこそ一角獣にそえられた左手が、重要性を帯びてくるのだ。

褪色の進んだ赤と違い(その「枯れた」色がまたいいのだが)、深みのある青が印象に強かった。庭園の草花ひとつひとつが、現実的な描写だけでなく現代的な意味における「デザイン」としても優れていて、いたく感心させられたのだった。

しかし、その「感心」は連作を見るにつれて、どこか「当惑」にも似た思いに変わっていくのだった。



Le Goût (Taste / 味覚)

「連作その二」は「味覚」だ。横長で他の連作よりも大きい。ここから侍女も登場する。
でも、大枠では同じだ。庭園、貴婦人、獅子と一角獣、紋章、動植物…。

貴婦人がオウムにえさを与えていて、猿がなにかの実を食べている。だから「味覚」とされる。

獅子と一角獣のデザインが、随分と違うことに気づかされる。獅子は横を向き、一角獣は「こちら」を(いや、少し正面からは逸れたところを)見ている。獅子は「触覚」とは打って変わって実物の獅子の顔に近づいているし、一角獣はほぼ「美しい白馬」と言って差し支えない。その表情からは、優しさよりも逞しさが窺える。

また、旗を支える両者のポーズはシンメトリーになっているため、図像的に緊密な構成となっている。ペットの犬(明らかに他の犬と種類が違う)と侍女もやはり、その視線と姿勢においてシンメトリーを形成しているのが興味深い。

若い貴婦人は堂々としていて、凛々しさがある。(20代後半だろうか。)「触覚」の貴婦人ほどの威圧するような貫録とは違った、しなやかさを感じさせる。侍女とペットは、そんなご主人に見惚れているように見えてくるほどだ。その装身具を見るにつけ、両者ともに貴婦人の寵愛を受けていることが察せられる。見惚れるのも当然だろう。

そう言えば、「触覚」の貴婦人と面立ちが似ているかもしれない。親子?親戚?それとも、同じ座を占めたがゆえの責務が、彼女たちの同質性を強めているのだろうか。

(庭園の内と外で、ウサギたちがひそひそ話を始めた…。)



L'Odorat (Smell / 嗅覚)

縦長ではなく、横が短い。そのため、庭園がやや窮屈に見える。
貴婦人は花輪を編んでいて、猿が花の匂いを嗅いでいる。これが「嗅覚」だ。

獅子の楯の紋章だけ「逆」になっているのが不可解である。その獅子は、顔がまた人間的になった。ただ、「触覚」の獅子のような不気味な印象はなく、まるで若い小姓のような美しさがある。ほとんど少年と言っていいくらいの…。一方の一角獣もまた、顔が人間的なものになっている。ただ、うっとりと細められた目と山羊髯のためか、好々爺にも見えてくる。

貴婦人は髪の毛をほとんど隠している。顔を見ると若い。20歳くらいだろうか。直立のようでいてほんの少しだけS字型のポーズになっているためか、少し東洋風に見えてくる。(例えば、アジャンター石窟寺院の菩薩像。)花に向けた目を、少し細めている。花輪作りに夢中になっているようだ。

逆に、その貴婦人を見る侍女の目ははっきりと見開かれており、ぶしつけなほど直截に貴婦人へと視線を向けている。表情は硬く、直立姿勢のまま、どこか若い貴婦人への「抵抗」を感じさせるほどに…。

この「嗅覚」もシンメトリーが多く、とくに庭園外の小動物たちがほぼ対照的に配置されているため、図像の安定感も高い。これでひとつの結界を形成しているかのようだ。庭園を守るための、小さきものたちから成る布陣。しかし、不穏分子は庭園内にこそいるのではないか…?

(ウサギたちは、どうもお互いに情報交換をしているようだ…。)



L'Ouïe (Hearing / 聴覚)

これまた縦長ではなく、横が短い作品。庭園の窮屈さをオルガンの存在感が打ち消している。
そのオルガンを貴婦人が弾いていて、獅子と一角獣が耳を傾けている。ゆえに「聴覚」。

「嗅覚」では庭園外に結界を作っていた小動物たちが、ここでは園内に潜り込んで布陣をしいている。しかし、すでにして脅威はなく、侍女は日々の疲れでやつれているようにさえ見える。「お嬢さま、まだお続けになるのですか?」とでも言わんばかりの顔をして、ふいごの取っ手を握っている。

そのお嬢さま、すなわち貴婦人はとても若く、まだ10代といったところ。とても凝った髪型をこしらえている。かたちのいい丸い額は、「嗅覚」の貴婦人とそっくりだ。姉妹なのだろう。ただし、この「お嬢さま」はどこかしら夢見がちな姉と違い、なにやら野心的な顔つきをしている。オルガンを弾くにあたり、なにか算段でもあるのだろうか?(やつれた侍女の疲れは、そこに端を発しているのではないか?)

獅子はふたたび、やや不気味な顔になっている。この秘密は口外できないとかたく口をつぐんだ、若き廷臣にも見える。一角獣はここでまた「白馬」となっているのだが、なぜか後ろ脚がオルガン(獅子と一角獣の飾りつき!)の陰に隠れている。その表情には、驚きすら窺えはしないか?(これはさしずめ、初めて秘密を悟った老宰相といったところか。)

そもそも、この獅子と一角獣はおかしいところだらけだ。支える旗のかたちが獅子と一角獣とで逆になっている上に、体の向きが貴婦人の方を向いていない。ほとんど背を向けているほどだ。これはどうしたことだろう。(慌てでもして間違えたとでも?)これが臣下の所業であろうか。それとも、何らかの突発的な感情のあらわれなのか?だとしたら、余程の事態を察してしまったのだろう。旗の陰に、無意識的に隠れようとしている…。

よくよく見てみると、侍女の装身具はシンプルながらも豪華だ。「姉」の侍女とはわけが違う。これは何を意味するのか?(口止め料?いや、年嵩の侍女なら持っていてもおかしくはない…。)

(ウサギが一匹、まっすぐ「こちら」を向いている。これは警戒か、それとも…?)



La Vue (Sight / 視覚)

この作品だけ、縦横の長さがほぼ同じくらいになっている。
侍女がいない。旗は一本。果樹も二本だけ。庭園のかたちもややいびつ。
鏡が登場する。貴婦人と一角獣が、小動物たちが見つめ合っている。「視覚」と呼ばれる所以だ。

獅子と一角獣は、「触覚」のそれにもっとも近い。獅子は人間のような顔をしていて、一角獣は優しげな表情を浮かべている。ただ、獅子はあらぬ方向を向いている。(なにか見つけたようにも、貴婦人と一角獣から目をそらしているようにも見える。彼もまた廷臣の一角なのだろうか。)柔和な顔をした一角獣は貴婦人のドレスをたくしあげ、庭園に座る貴婦人の膝の上にその前足をちょこんと置いている。無邪気なようにも、それを装っているようにも見える。

貴婦人は、明らかに若くない。一角獣に向けられている目には、どこか冷淡で無関心な色がある。しかも、寝不足のためか目蓋が腫れぼったい。(それでも、凝った髪型をこしらえさせるだけの気力はあったようだ。)一角獣を引き寄せているのか、それともかるく押し止めているのか判然としないが、左手は一角獣の体にかけられている。右手には鏡。鏡像には一角獣。(彼はこの像に気づいているのか?)

貴婦人は、戯れに鏡を向けたのだろうか。(鏡像を理解できる、知能の高い動物は限られる。)だとしたら、それは危険な行為だったかもしれない。その誇りの高さで有名な一角獣を怒らせてしまっては大変だ。しかし、そんな恐れはないのだろう。だとしたら、なぜ?この鏡の向け方は、まるで護符を差し出しているかのようだ。それでなにを退散させたいのだろうか。

一角獣は処女の膝枕に眠るという。しかし、この貴婦人がその適任にあるとは思えない。また、視線を交わしていながら(それも、鏡さえ動員して!)、「触覚」以上に触れあっているとは何事であろう。それに、こうも近づいていたら、お互いの匂いさえ分かろうというもの…。

この貴婦人もまた、どこかオリエンタルな肢体に通ずる「柔らかさ」がありはしないか。いや、むしろ「嗅覚」の若い貴婦人以上に、アジャンター石窟寺院の菩薩像に近い。官能的、煽情的とまではいかないものの、平面的な図像の裏側に、そうしたエロティックな水脈の気配がある。
(髪型は先の「姉妹」と同じ。彼女が教えたのだろうか。顔は似ていない。伯母か親戚?)

小動物たちもまた、意味ありげな視線を交わし合っている。
(庭園のウサギが一匹、やはり「こちら」をじっと見ている…。)



Mon seul désir (我が唯一の望み)

「味覚」同様、横長の作品。いちばん色鮮やかな、綺麗なタピスリーだ。
これだけ作品名がある。天幕の文字から採られた。曰く、「我が唯一の望み」。

構図の緊密さは一、二を争う出来だろう。そして、たいていのひとはこれを採る。それも頷ける。

貴婦人‐獅子‐一角獣の三角形を、貴婦人‐侍女‐ペットの犬の三角形と、天幕‐獅子‐一角獣の三角形が補強する。さらにダメ押しで、天幕のロープが明確な三角形を形作る。これらのピラミッドを、直立する果樹と旗竿が引き立てる。白い小動物の点描が、この構図にアクセントをつける。

これまでの「五感」の連作とは見た目の感触が異なる。登場人物に「動き」を感じないのだ。だから、「物語」も動かない。これは連作の「ゴール」であり、大団円のラストショットなのだ。すでに「物語」は終わっているのである。

貴婦人は「嗅覚」「聴覚」の姉妹に、少し似ている。でも、それほど強い結びつきは感じない。

獅子と一角獣はピタリと動きを止めている。獅子など、いかにも図式的な獅子の顔になっているし、一角獣もまるで紋章のような図式性に落ち着いている。

侍女の髪型がより大胆になっていること(前の貴婦人と同じ髪型!)、ペットの犬があらぬ方向を見やっていること、気がかりなのはそれくらいだろう。やはり、すでに「なにか」は終わっており、すべては平穏無事な地点へと着地したに違いない…。


このタピスリー連作は、結婚の引出物と想定されている。「我が唯一の望み」とは「あなた」、つまり求婚相手のことだ。一角獣はここでは、新婦の処女性や純潔を表象する象徴として機能している。
(ただし、一角獣の象徴は極めて多義的かつ重層的であり、内容も幅広い双極的な領域に及ぶ。)

しかし、この連作は中世の風俗絵巻的な「ただの工芸品」に収まる代物ではない。図像的な見事さもさることながら、ここに表現された内容は、そこはかとない物語性を否が応でも導き出す。それも、非常に謎めいた物語であり、連作の内部で様々な円環を形成していくそれは、最終的に「いったい、わたしは何を見ているのか?」という当惑へと見る者を連れ去っていく。

見れば見るほど、この登場人物たちが実在の人物と思えて仕方なくなる。獅子や一角獣はもちろんのこと、小動物たちもなんらかのモデルがあるのではないか。とはいえ、これらの登場人物たちは寓意的な人物像であり、もしくは寓意そのものであるとされている。(作者すら不明なのに、モデル探しなどできるわけがないという事情もあるにはあるだろう。)

それにしたって、と口を継ぎたくなるのは、あまりに彼らが生き生きとしているためだ。

ふつう、中世の図像は平面的かつ図式的なもので、(後世が言うところの)リアリズムの見地からするとナイーヴかつイノセントな表現に見えることがほとんどだ。(フラ・アンジェリコのような例外もいるけれども。)

しかし、この「貴婦人と一角獣」連作は、図式的な色合いは残しつつも、ほぼ全編に渡ってリアリズムに徹していると言っていい。しかも、同時代のタピスリーと比べて異質の物語性を持っている。幾重にも「例外」が積み重ねられている。

ニュー・ヨークのメトロポリタン美術館には、同時代の「一角獣狩り」タピスリー連作がある。明確な物語性を持ったこの連作は登場人物も多く、図像的により煩雑で(そこがいいのだが)、「貴婦人と一角獣」のような構図の簡潔さや、語りを生む「余白」がない。また、その描写はより図式的なもので、リアリズムは部分にとどまる。

ただ、だからと言ってリアリスティックな人物造型や、簡潔な構図といった特徴だけが、あのような「物語」を導き出しているのではないはずだ。端的に言って、ここには制作者のなんらかの意図があると思われる。いや、「意図」では意味が強すぎるかもしれない。「わかるひとにはわかる」仄めかし、くらいのものだろう。図像的な寓意表現と、内輪の貴族社会に向けた「目配せ」との、ダブル・ミーニングになっているのではないか。そうでもなければ、あれほど「物語」が動くとは思えないのだが…。
(トレイシー・シュヴァリエが小説『貴婦人と一角獣』で、おそらくこの「物語」をフル活用しているはずだ。未読ではあるものの、ご紹介しておく。)


一角獣をめぐる図像表現には、「宮廷内恋愛」という寓意もある。上述の「処女性」を筆頭とする象徴の多義性に拠るもので、当時の流行りとだけ簡単に思っていればいいだろう。それほど複雑な経緯はない。この連作に、そうした恋愛的な仄めかしがあることは、それとなく書き継いできた。「視覚」ではよりわかりやすく書いたほどだ。そして、それ自体は左程重要なことではない。「謎」という印象にとっては。

上述した物語性の実像が不透明なこと、それを「謎」と呼んでいるのではない。仮に、作者やモデルの詳細が文書などの発見によって完全に判明したとしても、この「謎」は消えはしない。というのは、この連作がすでにひとつの小宇宙であって、現実などいう「外部」を持たないからだ。

連作は、お互いのイメージの還流によってその内奥を充足させている。見れば見るほどその類似点・相違点の坩堝に巻きこまれ、あれこれと視線をさまよわせつづけた挙句、自分が目にしているものが何なのか、とうとうわからなくなってしまう。うっすらと全体を覆う物語性は、そのような意味の消失点へと離陸を促す補助線にすぎないのだ。

連作を見る‐図像を読む‐物語を引き出す、ここまではふつうの寓意画だが、ここではループが生じるため世界が内部で強化されつづける。その結果、「見る‐読む‐物語」ループから意味の消失ないし存在論的な混乱へと至る。このとき生じる漠然とした感覚を、「謎」と呼んだのだ。そこにはエロティックな、しかし透明なイノセンスがある…。

実に奇妙な感覚だった。「透明なエロティシズム」は字義的に矛盾でもあるだろうが、この連作はそう呼びたくなる「存在」だったのだ。寓意表現という象徴言語を脱した、作品そのものの存在の強度が開示する「謎」。

すべての真なる芸術作品は、「謎」を開示する「謎」である。

人間社会ではなく、世界いや宇宙に属するこの「謎」のはかり知れない深さ(存在の崩落点とでも言うか…)、これを垣間見れただけでもう十分だろう。

あとはただひたすらこの庭園のひとびとを眺め、心地よい訝しさのなかを漂っていたいものである。




2013-07-05

庚寅文月水戸日記



マイスペでは前篇と後篇に分けていた「水戸日記」を、ひとつにまとめなおした。
前回、復刻したHPPの水戸公演に前後する出来事を書いただけのものである。

このような条件反射的なブログを書けていたのは、マイスペが居心地のいいところだったからだろう。何かを書けばこたえてくれるだれかが、必ずいたのだから。

さして内容のない、他愛のないブログなのだが、記録として残しておきたかったので復刻する。

なお、一部は思うところがあって削除した。


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常磐線の鈍行で水戸へ向かうべく、上野へ。
ちょっと間に合わないかな、と次の電車を調べたら、
なんと出発は一時間後。アホか、である。

そこで、本を読んで待つことに。

半年以上、ずっと本が読めなくなってしまっていたのが、
こないだ掌編「琥珀」を書いたことで(まあ、失敗作なんだけど…)
なにか変化が訪れたらしく、最近また「読みたい」気持ちが復活、
「とりあえず」入れておいた小説を、成り行き上しかたなく読むことに。

しかしこれがベストタイミングだったようで、スラスラと読んでたら、もう電車が来てた。

ちなみに、読んでたのはマイケル・オンダーチェ『ビリー・ザ・キッド全仕事』である。
日本でこれ知ってるひとは2000人もいないだろうし、
読んでるひとなんて1000人もいないんじゃないだろうか・・・。別にいいけど。


電車に乗り込む。常磐線は乗るの初めて。

本を読んだり車窓の風景を眺めたりアレコレ考えたり。

iPodではひたすらHPPを聴いてた。年代順に。


変わり映えしない町が延々とつづいていたのが、
しばらくすると田んぼや森・林などの緑が多くなってきて、
いま自分が田舎を通過していることが妙にうれしくなる。

しかし、けっこうな距離を来た気がするのに「あと一時間」かかる、
とわかると「水戸、すげえ遠いじゃねぇか…」と独りごちることに(笑)

本は、速攻で読むのが惜しいほどの傑作だったので読むのはやめ、
以後、車内の情景と車窓の風景に集中。

目の前ではギョロ目のおっさんが真っ赤な目でこちら側の風景を見ている。
優先席では中学生がペンケースを窓枠において宿題をしていて、その後就寝。

外には川、橋、土手、森、林、水田など。ごくまれにひとが横切っていく。
フェンスに手をかけて電車をじっと見ていた少年や、写真を撮っている少女がいた。

その他、ぶつぶつと考えていたら水戸に到着。のどかで、都会という感じがしない。


旅の基本は地図、なので改札ヨコの観光局で2枚くらいもらっていく。


ミルクスタンドがあり、反射的に列に加わる。ブルーベリーシェイクをいただく。
ミルクとブルーベリーをミキサーにかけただけなのに、甘い。さすが常陸牛。


今日の宿、のつもりでネット検索したマンガ喫茶を即発見。坂を歩いて古本屋へ。


奇跡のような偶然により、石川淳『文学大概』(中公文庫)を150円で発掘。
ほとんど、これだけで水戸行きが報われたと言っていい(笑)
神保町で2000円で見かけたことはあったけど、ここ6年探していたモノが目の前にあると、
これが現実に起こっているとは思えないのだから、なんというか、めんどくさい(笑)
現実なんて簡単に幻想に接続してしまうもんなのである。
ついでにベンヤミンと三好達治さえ安価で購入、もはや言うことはなし。


駅に戻る。土産物をのぞくと「かりんとう饅頭」なるものに目がとまる。
こどもが試食用の饅頭を背伸びして取っていた。仲間に入れてもらう。
食べながらまわりを歩くつもりが、あまりにうまくて引き返して買うことに(笑)
外側がパリパリしたかりんとう、内側はしっとりしたあんこ、とかなりの糖度。
でも、うまいからなんの問題もないのだ。食べながら南口へ。


だだっ広い空間が開けていて、これが本当に県庁所在地かとさえ思う(笑)


事前に調べていた洋食屋をさがしに南下すると、川岸に大きな黒い鳥が。


動物が身近にいると近寄ってしまう、という幼稚な習性を遺憾なく発揮し、近寄る。
どうやら黒鳥である。初めて見た。かなりでかい。近寄っても逃げない。
手を伸ばせば届くところまで寄っても、逃げない。大切にされているのだな、と感心。


さらに、つがいのカルガモさえやってきて、セッションでもするかのように川を滑りだす。


この鳥たちとかりんとう饅頭だけで、水戸の株が急騰したのだった(笑)
水戸といえば水戸藩で、水戸藩と言えば幕末の狂信的原理主義テロリストども、なので、
わたしのなかではずっと水戸の印象が悪かったのである。
それが、「鳥と饅頭」であっという間に氷解したのだ。他愛もないことよ。

それにしても、駅からせいぜい200メートルしか離れてないというのに、
こうして黒鳥と戯れることができるとは…。水戸、おそるべし。


時間がなくなりそうだったので、また歩き出す。
洋食屋も見つけ、ライブハウスへ直行しようと思ったら、橋でまた黒鳥を発見。
千波湖行ったら仰山いるかも、とようやく気づいて(遅すぎ)、そちらへ。

そしたらまあ、いるわいるわ鳥どもが。
黒鳥なんぞ、溜まり場でトグロ巻いてる不良どもの如き様相さえ呈しており、
水戸市民が川にいた黒鳥をサラッと無視していたのも当然であった。
こんなにフツーにいるんじゃ、ありがたみ皆無だもの。


さらに、白鳥もたくさんいたのでそちらへフラフラと向かう。


おっちゃんがエサやりをしていて、一切の屈託なく群がる鳥ども、無防備極まりない。
触れるんじゃなかろうか、と思ってポカリと叩いてみたら、ポカリと叩けて驚いた(笑)
オマエら、野生動物としてそれじゃアカンだろ…。


鳥と戯れてすっかり気を良くし、「水戸はよいところだ」とさえ呟きつつ、会場へ。
途中、意図せず藤田東湖の像にブチ当たったり、
ねこを追いかけてみたり、
雨が降ってきたので傘を買ったり、
会場前の「黄門さんおしゃべりパーク」も撮ったり、


と、少々浮かれ気味なほどであった。


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この後、ライブハウス到着後の仲間たちとのやりとりなどが書かれているのだが、省略する。


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さて、ひとりになったわたしはマックへ。
店員が小声で重い話をしていたので(苦笑)やめて、当初の予定通りマンガ喫茶へ。

そしたらコレが、タバコくせぇのなんの…。すぐやめようとしたが行き場所がないので諦める。
実は、マンガ喫茶ってほとんど初めてで勝手がわからず、しばしウロウロゴソゴソ。
タンクの水がないので「かえて」と言ったら「ない」だと。そんなんで客商売すんなよ、と呆れる。
仕方なくキャラメルティーを飲む。(おかしなチョイスではあるな…)

寝ようとしたがタバコ臭さと空調の定期的な直撃による寒波でなかなか眠れず。
でも今日は幸せだったな・・・と一日を思い出してるうちに、寝ていた。


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ここまでが「水戸日記前篇」で、以下が「後篇」となる。


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一畳のマットに寝っ転がってタバコ臭と冷房に耐え、
熟睡はできなかったもののそれなりに体力を回復。

6時間コースをフルに使い切り、入店してから5時間58分後に外へ出る。

服にしみついたタバコ臭があまりにひどくて、落ち込む。
完全分煙化を徹底するか、いっそ国家ぐるみで禁煙にしてほしい…。

なんてことを思いつつ、昨日時間がなくてパスした東照宮へ。


とくに特徴があるわけでもなく、これといった魅力はないが、
高台になっていて、下るときに商店街アーケードの屋根が見えて、
昭和じみた汚さが「こどものころたくさんあった」的感興をもたらす。


テキトーにてくてく歩きつづける。


このマッサージ怪しすぎ。

牛。畜産会館にて。こだわりのディテールが、かえってイヤである。

うす曇りだけど、とにかく暑い。

おしゃべりパークに辿りつく。Light House外観はこれ。

その対岸では父子が遊びつつ移動中。

Dさんにより伝説のラーメン屋となったのはこちら。

対岸には芸術館のシンボルタワーが。

これは間近に見ねばならない、と接近していく。かなり大きい。

広場では何やら撮影中だった。見学者2名。和やかである。暑いけど。


メインの大通りを外れると、東照宮横商店街のような古い建物が目立ちだした。
そういった「昭和残照」(と、わたしは勝手に呼んでいる)がしばしつづく。



なにやら朽ち果てた石像。もともとはライオン?溶けすぎだろ。

ガラスは割れ、布は破れ、と散々。

雷神様に寄る。

カエル・・・。


千波湖へ到着。でもそのまま進んで偕楽園へ行く。

が、正直言って期待はずれもいいとこであった。
とくに見どころはなく、兼六園とは比べるべくもない。
梅の花が満開だったらさぞ美しいのだろうが、
今の季節は梅がボトボト落ちていて、その匂いが強烈なだけ。

単に道が整備されただけの庭園で、好文亭にも入らなかった。たぶんもう来ない(笑)

これは付属?の常盤神社。


千波湖へ引き返すと、白鳥が子連れで毛繕いをしていた。


湖を、鳥と戯れつつぐるっとまわる。



対岸にいろいろあったのだけど、すべてパス。
佐藤純弥監督作の『桜田門外の変』オープンセットがあったけど、パス。
でも、映画がどうなるかは見物。佐藤監督はアクションが巧いので。
当時の狂信的なテロリズムをどう描くのだろう・・・。


やっとのことで昨日の黒鳥スポットまで辿りついた。


ぐるっと見てわかったが、昨日、川で最初に出会った黒鳥はもっとも大きいほうで、
必ずしも出会えるたぐいのお方ではなかったようである。


何キロも歩いて、首に巻いていたタオルもびしゃびしゃ。
昨日リサーチしていた洋食屋へ。

オムライスをいただく。水、久しぶりに飲んだ気がした(笑)


ゆっくりしているはずが、常磐線の時刻表を見たらまたしてもニアミスしそうだったので、
ダッシュで駅まで戻る。せっかく引っ込んだ汗が噴き出てきて不愉快。
もうちと路線ダイヤなんとかしてくれんかね、と愚痴りながらも、
南口の納豆像を撮り、さらにかりんとう饅頭も買って、駅ホームへ。間に合った。



あっ、藁納豆買い忘れた、と気づくも遅し。ミルクスタンドでも何か買うはずだった。
それでも今日の水戸散歩に概ね満足していたので、あとはボサーっとするだけ。
iPodで何も聴かず。聴く気になれない。何を聴いたらいいのかわからない。


土浦で快速に乗り換え後は、乗客が多くて耳を塞ぐためにメアリー・ブラックを聴く。
エンヤと並び称される、アイルランドの国民的シンガー。
シンフォなエンヤと逆に、アコースティックなのがメアリー。


By The Time It Gets Dark (1987)


心地よく聴いていたら、当然のごとく寝ていた。幸せなことである。



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そう、わたしはほとんどなにもせず、ただ歩いていただけで幸せを感じていたのだ。

ありがたいことである。