2011-12-17

HEAD PHONES PRESIDENT & their paradoxical neighbors

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先日、MarzでのライブをもってHEAD PHONES PRESIDENTが年内の活動を締め括った。

締め括った、と言ってもHPPは来るべき新作に向けて曲作りの詰め作業を行っており、
またAnzaさんとHiroさんはクリスマス・イヴのライブ準備を控えているのだが、
バンドとして表立った動きは来年1月の名古屋公演以外しばらくなさそうである。


今年、わたしはインストア・イベントを含めてHPPのライブを17本ほど観た。
(Anzaさん、Hiroさんのソロ・ライブにイヴのライブを加えると21本。)

去年は14本だったし、今年はワンマン・ツアー4公演をすべて観たので充実していた。
毎度のように鬼気迫るライブを繰り広げてくれたHPPに最大限の敬意と感謝を捧げたい。

そんなに毎回観て飽きないのかと思われるかもしれないが、それはまったくない。
これまで何度も書いてきたように、HPPのライブほど他のバンドと隔絶したものはなく、
毎度の印象がどうこう言う以前に、観ているときに知覚するものの「絶対値」というか、
こちらの感覚が制圧されてしまう度合いが、HPPの場合は決定的に「違う」のである。


そのMarz公演の帰りすがらに、わたしが呟いたことを以下に抜粋しよう。
(4ツイートをつなげるとこうなる。一部、修正してある。)

HEAD PHONES PRESIDENTの年内最終ライブより帰宅中。毎度のことではあるが、鮮烈かつ強靭なパフォーマンスに感嘆する。ああいった特異なバンドをしてもなお単に「かっこいい」と言うこともできようが、そこまで単純化してしまうことに躊躇いを感じる。それほど「違う」のだ。その「違い」は必ずしも個人的な印象に帰するわけではなくて、例えば、メンバーの動きをプログラミングしてシミュレートしたものを視覚表象論や認知工学に転用してみれば、ある程度の客観性を期待できるほどの「違い」なのだ。要するに、その目で見(観)りゃあわかるのである。とは言え、そうした「違い」はパフォーマンス以前に音楽性それ自体に核なり根っこなりがあるのは当然だし、その音楽性にHPPを導いた「何か」こそがすべての母胎である、とそれらしく言うこともできる。ただ、これらの連環は直列的な論理関係ではなく円環的なそれであると思われる。かくして、あらゆる印象や思考は無謬の同語反復に陥ることで、なしくずしの帰結を迎えてしてしまう。「かっこよかった」でイイじゃねぇか、と思わないではないが、それではあの決定的な「違い」がなかったことになってしまう。ゆえに言いあぐね、またしてもの同語反復が始まるのだった。

「いいものはいい」「好きなものが好き」「嫌いなものは嫌い」「わたしはわたしだ」

同語反復(トートロジー)は論理的につねに「真」である。同語ないし同義語の繰り返しだからだ。
そして、これは何も言ってないに等しい。強調としての働きがあることはあるにしても、である。

ただ、ひとは言葉に詰まるとよくこうした同語反復を持ち出すし、
やや複雑だが、わたしの上記ツイートもそうした同語反復の一種だ。

つまるところ、「違うから違う」と言っているだけであり、言葉足らずである。
しかし、万言を費やし言葉を充実させたところで、ひとつの経験にも届かない。

ライブを直に観るに越したことはなく、言葉による再生は「かりそめの生」、
しかも、多大なる誤解・誤読の因子をその内に潜ませたものである。

ここで書くつもりだったライブレポは放棄し、いまは同語反復を避けよう。
また、「違い」に関する考察もやめておく。それは自ずとHPP私論となろう。


今回は同語反復的なそれではなく、逆説的なものを書いてみたい。

すなわち、「違うから似ている」「似ているから違う」という逆説について、である。


なにも音楽に限ったはなしではないが、こうゆう経験はないだろうか。

まったく違う二者のあいだに類似点や共通点といった関係性を見出したり、
逆に、ほとんど同様の二者のあいだに決定的な差異を見出す、というような経験だ。

わたしはよくある。というか、この逆説を使い始めたのは高校生のころにまで遡る。
ゆえに年季が入っており、逆説についてはチェスタトンはじめ手練を読んでもいるため、
あまりに血肉化したがゆえの「当たり前」感に、わざわざ説明する必要を感じないほどだ。

学生時代にこうした類の逆説をさも周知の事実のように披露すると、
決まって相手は「え?」と驚いたうえで「ああ、なるほど」と得心するのだったが、
わたしはなにも相手の意表を突きたくてわざとらしく逆説を持ち出したのではなく、
そう言った方が早いし自然だし正確だからと思って、そう言ったまでなのである。


これは、さほど難しいものではない。例を持ち出せばすんなりと首肯できよう。

たとえば、「似ているから(同じだから)違う」には以下の例があげられる。
(ただし、音楽的な「質」がほぼ同様、というのが前提条件である。)

・ある曲のカバーを聴いたら、オリジナルとの違いが際立って感じられた。
(おもにストレートなカバーのこと。リミックスをここに入れてもいい。)
・ほぼ同じ音楽性のバンドでときにメンバーも一部同じだけど、印象の違いが勝る。
(似た複数バンドで活動する者や、バンドとソロの差が少ない者にこの例が多い。)
・サブジャンル内の、ムーヴメント内の、大同小異バンド群なのに好悪が分かれる。
(音楽的な「狭さ」が却ってその差異を焙り出すため、そうした反応が出やすい。)


これだけでも、ある程度の感覚はつかめたのではなかろうか。

身近なところでは、家族や兄弟の見た目・能力・性格といったものがすぐに思い浮かぶ。
芸術だけでなく、日常生活にも敷衍し得る考え方だとお分かりいただけただろうか。


近さ、類似性、同質性が、かえってその遠さ、相違点、差異を強調する。

考えてみれば当然のはなしで、似ている(類似に気づく)からこそ比較できるのであって、
まったく違った二者(その認識は偏見をも含んでいるのだが)はそもそも比較できない。

意図的に中座させているビョークの『バイオフィリア』ブログで紹介した、
「アナロジーとアレゴリー」を思い出された方がどれだけいるか心もとないが、
類比・寓意・象徴といった思考形式と逆説は親和性が高いのだと思ってくれていい。
(その総本山がローマ・カトリックである。逆説家の多くがカトリックではないか!)


さて、ここからが本題である。
わたしは、HPPに「違うから似ている」バンドや楽曲を通して、何か書いてみたいのだ。

実は、現時点で結論がどこに着地するのか、書いているわたし自身もわからないのである。
とにかく、やってみよう。この場合、必要なのは類比思考と同様に「速さ」なのだから。


「似ているから違う」よりも、「違うから似ている」の方が難しいかもしれない。

この認識に至るにはそれ相応の「摂取量ないし経験値」が必要であるかもしれず、
また、「似ている」という言葉がすでにして誤解の元となっている可能性すらあり、
少々、気が引けなくもないのだけど、例示をした上で具体的な各論に入るとする。


たとえば、ある曲を聴いていたら、まったく違うバンド/ひとを思い浮かべることがある。
エルトン・ジョンのように女性でも歌いづらいほど高いキーを歌うヴォーカリストに多いが、
男性ヴォーカルなのに女性ヴォーカルを想起してしまう場合(逆もまた真)や、
そうしたカバーがその(気づきにくい)類似性を喚起する場合である。

カバーとは多分に批評的な行為で、見えなかった(見えにくかった)複数の他者との関係性や、
気づかずに通り過ぎていた「潜在的な音楽性」を顕在化させることを可能とするのだけど、
それゆえに高度な批評性、アレンジ能力、そしてセンスが問われるため、なかなかに難しい。
(最良の例として、いまはラナ・レーンとピーター・ガブリエルの名を出すに止めよう。)


この「違うから似ている」はもちろん、カバーに留まらない。
たとえば、アンソロジーやセレクションというものがある。

よく、音楽誌ではあるアーティストの特集に付随した小セレクションを組むことがある。
「□□が好きなら■■がお薦め」という、あれだ。必ずひとつふたつは異質なものを含む。

こうした編集行為も、遠さを近さに、相違を類似にする「違うから似ている」という、
逆説がもつ批評性を隠し味にした(ときにそれを前面に押し出すこともある)営為である。


人間には、「まったく関係ないと思われる二者をつなぎあわせる」という知的能力がある。
ここで、ロートレアモンのあの有名な一節を引用してもいいのだが少し遠ざかるのでやめて、
「見出された類似性は、表面的なそれよりも《強い》印象を残す」と言うことにしよう。

ただ、この「見出された類似性」には胡散臭さが伴うこともあらかじめ言っておきたい。
ひとによってはただの「牽強付会」「権威付け」「持ち上げ」と思うことも多いだろうし、
実際そうしたものもあるのだから、必ず納得できるわけではないのが特徴だとも言えよう。

そして、ときにほとんど「飛躍」としか思えないような突飛なつながりが指摘されたり、
またそうしたつながりを見出してしまう観念連鎖が起こってしまうことがあるのだが、
わたしが以下に示そうとしているものが、まさにそれなのである。


そもそもの発端は、HPPが四人編成となって初めてのライブとなった水戸公演に遡る。

いろいろと書いているけど、最も言いたかったのは「ヘヴィ・ロック」的質感と言うか、
メタル的なそれとは違った音楽性の再認識や、そうした認識への部分的回帰といったことだ。
メタル的な要素を増しつづけていたHPPがギター1本というよりシンプルなバンド編成となり、
そのシンプルさが生んだ「隙間」に、それまで気づかなかったものを見出すようになった。


以降、音楽の聴き方が少しだけ変わった。いや、より慎重に聴くようになったのだ。
とくに、ギター1本のバンドを聴くとき、何かを参照しようとしている自分に度々気づいた。

HPPについて考えている時間の多いわたしではあるが、
何でも彼らに結びつけようとしているわけではない。
ただ、引っ掛かりを覚えたバンドや曲が増えているのは事実だ。

HPPはそもそも似ているバンドがほとんどいない。

強いて言えばDEFTONESやKORNといったアメリカのヘヴィ・ロック勢なのだが、
共通項や相違点よりも、漠然とした印象が「でも違う」と告げるのである。
(DEFTONESならびに「ヘヴィ・ロック」についてはこちらですでに書いた。)


ならば、これからあげようとしているバンドこそが「似ている」のだろうか。
「違うから似ている」逆説そのままに、それが真実だと主張しようとしているのか。

それが、違うのである。

結論を先取りすると、HPPに限らず個性的なバンドはすべからく何者にも「似ていない」。
それゆえに「違うから似ている」という逆説が迂回路としてここに登場するのであって、
そこで指摘し得る類似性は、その音楽性の再解釈や潜在的可能性を導くためのものなのだ。


さて、前説だけでここまで来てしまった。それなりにお分かりいただけただろうか。

以下に、いくつかのバンド例をあげる。いずれもその類似性はわずかなものでしかない。
にもかかわらず/それゆえに、何らかの「汲み取るべきもの」を感じてしまうのだ。



まずはMANIC STREET PREACHERSだ。
Journal For Plague Lovers (2009)から、2曲ほど聴いてもらいたい。
オフィシャルではないのでバンドに申し訳ないが、ライブ版の"All Is Vanity"だ。


映像よりも曲に耳を傾けてほしい。


水戸公演の後、マニックスの新作Postcards From A Young Man (2010)を聴くついでに、
この前作収録曲を聴き返したら、Anzaさんが歌っているヴァージョンが「聞こえた」のだ。

説明の必要はないかもしれないが、マニックスはウェールズ出身の「オルタナ」バンドだ。
初期に活動の中心人物だったギタリストのリッチー・ジェームスを失踪で失っていて、
以降は練られた歌メロを押し出した作風となったが、元々は荒々しいバンドだった。

そのマニックスが、リッチーの遺稿(彼は作詞も担当していた)を元に作ったアルバム、
それが前作『ジャーナル~』であり、そのため久々に荒々しさが表面化したのだった。

つづいてこちらを聴いてもらおう。同作の1曲目を飾る"Peeled Apples"だ。同じくライブ版。




このアルバムはわたしにとってマニックスのフェイヴァリット・アルバムなのだけど、
HPP的な「ささくれ」を感じるのはこの2曲だけで、ゆえに「似ているバンド」とは言い難い。

しかし、"Peeled Apples"のベース・ラインの存在感やどことなくイーヴルな質感、
"All Is Vanity"のサビにおける飛翔感/開放感は、HPPの楽曲に通じるものがあると思う。
(わたし以外にも、HPPに「似ている」と驚いたように口にしたことのあるひとがいる。)



次はこれにしよう。今年初頭にデビューしたTIMES OF GRACEだ。
TIMES OF GRACEはKILLSWITCH ENGAGEのアダムがKsEの前任ヴォーカリスト、
ジェシー・リーチと組んだプロジェクトで、実質的に彼のソロ作と言える。

どの曲でもいいのだけど、オフィシャル映像のある"Live In Love"にしよう。


あまりかっこいいPVではないのだけど…。


3分を過ぎてからのコーラスがとてもエモーショナルかつ感動的で、
初めて聴いたときは不覚にも涙してしまったのだが、これの何が「似ている」のか。

これは「似ている」のではなく、その音楽性の根底に「近いもの」を感じたのである。
この場合それは怒り/祈り/愛なのだが、HPPはまだ「愛」までは表明(表現)していない。

ただ、ライブにおいては限りなく「愛」と呼びたくなるような瞬間に出くわすことがあり、
HPPがいつしかこうした曲をやらないとは限らないし、むしろその可能性は高いと思う。

とはいえ、「キャッチーな曲」をやることに心理的抵抗(圧迫)があるらしいことは、
Prodigium リリース時のBURRN!誌インタビュー(2009年11月号P.134)に窺えていた。

また、そうした音楽的な「キャッチーさ」と歌詞の問題は不可分であり、
ここで作詞術・詩論・言語哲学にまたがるAnza語の問題を取り扱うには、
あまりにもスペースが足りないのでそこまで捕捉するのはやめておく。

ここで言っておきたいのは、このTOG的「愛の表明」は5人編成でも辿りついたであろうこと、
また同時に、4人編成ならではの「隙間」が、それを引き寄せやすくした可能性があること、
そして、HPPは元々そうした方向性をも持っていたバンドであること、である。

愛を求める/祈りを捧げること、それらと怒り/痛み/哀しみはコインの表裏なのだから。



「痛み」という言葉が出たのでPAIN OF SALVATIONもあげておこう。

POSはDREAM THEATER型「プログレ・メタル」バンドとしてデビューしたが、
2006年のScarsick 以降の音楽的アプローチは、非常に興味深いものだ。

ヘヴィ・ロックにディスコ・サウンドやラップやサイケな要素を取り入れたかと思えば、
Road Salt One & Two (2010&2011)では70年代的な音作りという変貌を見せた。
それだけ大きく舵をとっても、不思議なことにPOSとしての個性はなぜか揺るがない。

さて、ヘヴィ・ロック的な方向性を打ち出したScarsickは音楽的にもHPPに近いものがある。
だが、ここで近いのはあくまでその世界観で、表現方法に関してはかなり「違う」のだ。

というのは、その音楽的構築術は極めて知的で(HPPがそうでないわけではない)、
毎回毎回、トータル・コンセプト作として作品を仕上げているのが最大の特徴だからだ。

だからこそ気になる、と言える。ライブ映像を見る限り、パフォーマンスも「近い」。

一応、そのScarsickのタイトル・トラックを貼っておこう。ライブ版。非公式もので申し訳ない。


民族音楽的かつ宗教音楽的なコーラスが異彩を放つ。


今後、両者はどこかで交差するかもしれない。それが何なのか、わたしもわからないけど。
ただ、POSは日本では不遇であり、もどかしい。B!誌ですら扱ってくれないのが現状だ。
彼ら(というか、首脳のダニエル・ギルデンロウ)が作品に込めた様々な謎、それを解くためには、
どうしてもインタビューを通してその言葉に触れねばならないのだけど…。残念である。



では、さらに毛色の違ったバンドにいこう。TALISMANである。

マルセル・ヤコブとジェフ・スコット・ソートという、
イングヴェイ・マルムスティーン脱退組が結成した「北欧メタル」バンドが、なぜHPPと?

ファンなら周知の通り、TALISMANが典型的な「北欧メタル」を聴かせたのは1stだけで、
2ndをそこに入れることもできるけど、実際はとても個性的なハードロック・バンドだった。

ビリー・シーンやスティーヴ・ハリスに匹敵する個性と作曲術とスター性を持った、
ほとんど唯一のベーシストと言えるマルセルの超強烈なグルーヴ、あれがヒントとなった。

彼のグルーヴが最も炸裂しているのは疑いの余地なく3rdのHumanimal (1994)である。
あまりのグルーヴ感に日本盤と欧州盤で内容を差し替えたPart1&2が出たほどだ。
(グルーヴ満載盤が欧州のPt.1、メロディアスなのが日本のPt.1とややこしい。)

わたしは日本盤Pt.1だけ聴いていたのだけど、先日リマスター盤を聴いて腰を抜かした。
(この二枚組リマスター盤はPart1&2を同梱していて、マルセルがライナーを書いている。)

圧倒的なグルーヴ感のため、メタルやハードロックというよりほとんどヘヴィ・ロックなのだ。
しかもそこにR&B/ソウル/ファンクの要素まで導入された、超個性的な傑作だったのである。

4thのLife (1995)以降はグルーヴを少々抑えてメロディアスな作風に安定したのだけど、
それゆえに国内で3rdの評価は割れていた。確かに、これは「日本人好み」の音ではない。

しかし、ここで開示されていたハードロックの、なんと豊饒で個性的なことか!
たいてい、グルーヴを強調するとメロディが死ぬ。その同居は難しく、成功作は少ない。
マルセルという天才が可能にした稀有な音楽性のバンド、それがTALISMANだったのだ。
(現OPETHのフレドリックのギターも見事だが、これもマルセルのインプットのようだ。)

そして、この「ベースの存在感」に、HPPとの親近性を感じたのだった。

ボゴボゴと轟きつづけるベースに恐れをなす"Humanimal""Fabricated War"がこれ。
亡きマルセルに申し訳ないのだが、ブート音源/映像を貼っておく。

"Humanimal" - audio only

JSSのステージングがかっこいい。2:50以降のコーラスも素晴らしい。


この作品に学ぶことはとても多い。ベースだけでなくギターも素晴らしい。
とくにこの強力なグルーヴ感は、ヘヴィ・ロック勢に参照してほしいと思う。
ここまで前面に出てくる必要もないだろうけど、これもひとつの手ではある。

その存在感がどんどん大きくなっているNarumiさんのスタイルとはまったく違うけど、
曲の前面(全面)にベースをフィーチュアした曲がもっと出てきてもおかしくはない。
それゆえの選出だけど、TALISMAN自体もっと別の語られ方があっていいとも思った。



最後に、変わり種的なFAIR TO MIDLANDをご紹介して終わりにしよう。

FTMは、SYSTEM OF A DOWNのサージが運営するレーベルが「拾った」ことで有名になった。
どうにも形容し難い音楽性のバンドで、民族音楽、プログレ、メタル、ヘヴィ・ロック、
その他もろもろの周辺ジャンルを呑み込んだバンドで、スクリーモ的な要素も大きい。

強いて類似バンドをあげるとCOHEED AND CAMBRIAやSAOSINといった名前が思い浮かぶ。
バンド編成はむしろC&Cらの方が近い。というのも、FTMには鍵盤奏者がいるからだ。

ただ、なぜだかは判然としないけれどC&CやSAOSINよりもFTMの方に「近さ」を感じる。
牽強付会かもしれないが、それでもこのスケール感には共振するものがありはしないか。

とりあえず、"Musical Chairs"のPVをご覧いただこう。これである。




もしかしたら、「何言ってやがる」と思われたかもしれない。でも、引っ掛かるのだ。
このバンドについては、宿題として自分にその分析を課しておこう。不思議なバンドだ。


これでだいたい「持ち球」は出尽くした。
それだけ音楽的隣人の少ないバンドがHPPだとも言える。
また、それはここにあげたバンドすべてにも当て嵌まる。

すでに結論を書いた通り、個性的なバンドはすべからく何者にも「似ていない」のだし、
だからこそ「何か」を媒介としてつながりが見出され、新たな地平が開けてくるのである。


HPPの新作がどのようなものになる(なろうとしている)のか、
すでにライブで披露されている3曲から安易に予想はできない。

新作がどんな作風であるにせよ、傑作でなければこちらの気は済まないのだが、
これまで通り、こちらの期待や予想を超えたものを提示してくれるだろう。

それまでは、HPPを聴いて過ごすのはもちろんのこと、
こうした「逆説的な隣人」でも探して、新作の発表まで待つことにするとしよう。


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2 件のコメント:

  1. A-ane

    なぜでしょう…Moonflowerさんの文字から愛と自信が送られてくるのは!
    HPPというバンドは骨まで愛してもらい進化していくことができるんでしょうね。素晴らしい事なんです。本当に素晴らしい事です。
    Moonflowerさんの残す言葉のファンである。
    今回も素晴らしい言葉をありがとう。

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  2. >A-aneさん

    これらの言葉はすべてHPPがあってのものです。
    HPPはその世界観をもっと大きく広く深くしていくでしょうし、
    わたしはそれについていく途中でこうした言葉をたびたび吐き出し、
    身軽になってまた着いていく、というわけです。

    読んでいただき、ありがとうございました。

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