2011-09-14

DREAM THEATER / A Dramatic Turn Of Events (2011)

      

『出来事の劇的なる転換』と題されたDREAM THEATERの新作を、
先週火曜の店頭入荷日に買いに行ってからというもの、毎日聴いている。



A Dramatic Turn Of Events (2011)

01. On The Backs Of Angels (8:42)
02. Build Me Up, Break Me Down (6:59)
03. Lost Not Forgotten (10:11)
04. This Is The Life (6:57)
05. Bridges In The Sky (11:01)
06. Outcry (11:24)
07. Far From Heaven (3:56)
08. Breaking All Illusions (12:25)
09. Beneath The Surface (5:26)



正直に言って、いい出来なのだけど「最高傑作」ではない。
むしろ、バンドの経歴からすると「中の上」くらいかもしれない。

それでも毎日聴いてしまう求心力がある、という点において、
近作(8th,9th,10th)とは決定的な差異があるように思う。

しばし、思ったことを綴っていきたい。


まずは、本作に至るまでの経緯から。

ほぼすべてのひとにとって「マイク・ポートノイの脱退」は青天の霹靂だった。
それは「ドラマーの脱退」という「よくある出来事」とはわけが違っていた。


わたしは去年のサマソニにおけるDTのツアー最終ライブを観ているけど、
ライブ終了後にポートノイが「The End!」と言ったかどうか、よく覚えていない。

伊藤政則氏は「ファンの間で憶測を呼んでいた」と書いているけど、
誰もがあれは長期に渡った2010年ツアーの「終了」と思ったのであり、
「終わった!」という達成感の表明と解釈する方が遥かに自然だった。
(そういえば、「おめでとう!」という感覚で拍手したかもしれない)

だから、バンド創設者のひとりであり、スポークスマンであり、
セットリストやカバーの選曲を決定し、全楽器のパートをも把握し、
ファンとのふれあいも含めバンドのあらゆる事象を記憶していた、
文字通りバンドの「頭脳」だったポートノイの脱退は信じられなかった。


ファンなら、ポートノイがかつてBURRN!誌のインタビューにおいて
「みんな(他のメンバー)適当なことを言っていただろうから、俺が真実を話すよ」
と言い放っていたことを覚えているだろう。彼は事実上「リーダー」だったのだ。
(もしくは、そう見えるように振る舞っていた、ということなのだろうか?)


脱退の発表と、その理由の公表、そしてバンド側の決定と事態は急展開した。
長期の休暇を要請するも他のメンバーに却下され、ポートノイはやむなく脱退するに至る。

ジョン・ペトルーシ、ジョン・マイアング、ジェイムズ・ラブリエ、ジョーダン・ルーデスは、
バンドの継続的な活動を選択し、新しいドラマーをオーディションすると発表、物議を醸した。

当初、ほとんどのファンがポートノイに同情的だった。少なくとも、わたしにはそう思えた。

休みたかった彼を、なぜバンド側は容認しなかったのか?そこまでして急ぐ必要があるのか?
本気でポートノイ抜きでやっていけると思っているのだろうか?すべてを仕切っていた男なしで?
彼の抜けた穴を埋められる者はいるのか?いたとしても、あの個性は失われてしまうではないか?

そうした意見が飛び交っていた。わたしもほぼ同意見だった。
そして、「DTはダメになってしまうかもしれない」とも思ったのだ。
ペトルーシとルーデスの弾きまくりばかりになったらどうしよう、と。
むろんそれはごく一部なのだが、気にかかる程度には「お約束」になりつつあった。


しかし、ドラマーのオーディションが公開され出したころから、むしろ状況は逆転してしまう。
オーディションに参加した有名無名のドラマーたちの超絶技巧が話題になり、期待が高まった。

結果、ドラマーは大方の予想通りマイク・マンジーニに決定した。

ハード・ロックからスラッシュ・メタルへと幅広く渡り歩いた「必殺仕事人」ドラマーであり、
スティーヴ・ヴァイやエディ・ジョブソンのような極めて厳しい耳を持った完璧主義者に認められた、
間違いなく当代随一の技術と適応力のある、超プロフェッショナルなイタリア系アメリカ人である。

個人的にはドラミングに「遊び心」のあるマルコ・ミンネマンがいるDTを観てみたかったけど、
陽気だが少し奇妙なところのあるドイツ人と一緒にいるのは難しいのかもしれないと納得した。


一方、ポートノイはAVENGED SEVENFOLDとのツアー終了と同時に迷走を始める。

「休みたかった」はずなのに活発にあちこちのミュージシャンと何かをやろうとし、
いずれもまだ形をなさないまま、どうにも「孤立」してしまった感は拭えない。

さらに、本作のリリースに伴うインタビューでバンドに戻ろうとしていたことまでが明らかにされ、
その上、彼なしでもいい作品が作れるどころか、その方がいい作品が作れてしまうとわかってしまった。

そうなると、ここぞとばかりに「アンチ・ポートノイ」言説が噴出してきた。
彼は窮地に立たされた。すべてが完全に「裏目に出た」のである。


それでは、肝心の新作は、どんな作風なのだろうか。

これが実は「いつものDT」で、新味はあまり、いやほとんどないのである。
逆に言うと、近作(とくに9th,10th)は「どこか違う」作風だったように思えるのだ。

10thでなされた軌道修正の延長線上にある作風でありながら、
90年代の作品にあった独特の幻想的雰囲気を、少し取り戻している。


ごく簡単に彼らの作風の経歴を振り返ると、
異様な光を放つ(RUSH的な)「新型プログレ・メタルの原石」だった1st (1989)、
(ヴォーカルがチャーリー・ドミニシからジェイムズ・ラブリエに交代)
歌メロ・高度なインスト・叙情メロディの理想郷を作りだした傑作2nd (1992)、
その三要素をそれぞれの楽曲で煮詰めるも、散漫になってしまった3rd (1994)、
(キーボードがケヴィン・ムーアからデレク・シェレニアンに交代)
オーガニックな音作りで三要素を再構築した、人間的暖かみのある4th (1997)、
(キーボードがシェレニアンからジョーダン・ルーデスに交代)
ストーリー・アルバムとして全要素を最大限に引き出した最高傑作5th (1999)、
持ち味を殺すことなく新たな実験性を開花させた斬新な6th (2002)、
ダークな世界観に叙情性とアグレッションを同居させた7th (2003)、
前作より明るい曲調のなか、すべてをコンセプト通りに統制した8th (2005)、
かつてなくダークでヘヴィかつプログレッシヴになった大作主義の9th (2007)、
歌メロや叙情メロディの揺り戻しのため前作より聴きやすくなった10th (2009)、
といったところであろうか。


個人的には、2ndと5thが問答無用の最高傑作であることを前提として、
(前者には未消化な冗長さが少しあるように思うが、それを補って余りある魅力がある)
「メタルっぽくない」音作りの4thが、過渡期的作品だとは認めるものの大好きでよく聴くし、
DTが「このバンドならでは」の本領を発揮したと信じてやまない6thと7thも傑作だと思っている。

あまり語られることのない「前史扱い」の1stも好きだし、
悪評がつきまとう3rdすら、いい曲もあるので好きだった。

ゆえに、わたしにとってずっと大切なバンドだったのだ。


しかし、2004年春の武道館公演でピークを迎えたわたしのDT熱は、以後下降していった。

「曲順にキーをF,G,A,B,C,D,E,Fで作曲する」というコンセプトありきの8thはピンと来なかった。
どうにも「余裕綽々」に思える安定感に、不満とまでは言わないが物足りなさを覚えたのだった。
音作りもどこか「鈍い」ものを感じたし、世評が高かった歌メロをそれほどいいとは思わなかった。

ヘヴィでダークでプログレッシヴな9thは、前作以上に「大物の横綱相撲」のように思えた。
物足りないのではなく、逆に過剰さを感じた。曲もかなり長くなって覚えにくく、聴くと疲れた。

10thは初めて、購入を踏みとどまってしまった。でもサマソニのライブで見直して聴いた。
9thほど聴きにくくはなかったけど、やはり釈然としない点があり、これまた聴くと疲れた。

そして、新作の登場となる。ペトルーシが舵を取り、バンドの得意なことに集中したという。
期待は高まり、それは裏切られることはなかった。久々に「生き生きした」DTが聴けたのだ。

前作と対をなすような作品なのだけど、軍配は明らかにこちらに上がる。
下降していたDT熱はようやく下げ止まり、あとはふたたび恢復していきそうである。

またうれしいことに、新作はオリコン総合チャートで1位を獲得した。慶賀すべき事態である。


これはわたしに限ったことではないようで、レビューやブログを読むと多くのファンに共通している。
「近作(8th~10th)はピンとこなかったけど、新作は飽きずに何回も聴ける」というのである。


みなが口をそろえて言うのは「新作の音作り・分離の良さ」で、これを「透明感」と呼んでいる。
この言葉は伊藤政則氏の解説やインタビューに拠るのだけど、たしかに新作は音がとてもいい。

特筆すべきはジョン・マイアングのベースが常によく聴こえる点で、この収穫は大きい。
これまでは驚異的なユニゾンやソロなど際立ったパート以外は聴きとりにくいこともあった。
マイアングが、楽曲に合った素晴らしいフレーズを紡いでいるところを容易に確認できる。
(ゆえに、ベーシスト必聴と言いたい。彼はムダにバカテクを使っているのではないのだ。)

また、歌メロやギターの叙情的なメロディがさらに増量されている点も「透明感」に寄与した。

歌メロ自体は近作も悪くなかった(とくに前作はよかった)のだけど、ペトルーシが強調するように、
「ラブリエに合った」作曲を心がけた結果、さらに生き生きしたヴォーカルが聴けることになった。
その上、ペトルーシが弾きまくりを抑えてメロディのあるソロを心がけたのだから、何をかいわんや。

新作の聴きやすさ、しっくりくる曲の感触はまさに「透明感」に拠ると言い切っていいだろう。


では、逆に考えてみよう。近作の「不透明感」とは何だったのだろうか?

いま8th・9th・10thを聴き返すと、悪いどころかこれらも佳作以上の出来栄えで感心さえする。
何がどうして「ピンとこない」のか、自分でも明確にできない点もあってもどかしさを覚える。


ただ、いくつか新作を「裏返す」ことで指摘できるところもある。

音作りで言うと、ドラムの音量の大きさや音質の特異さが、全体のバランスを悪くしていた。
ポートノイの独特な音作りはむかしから賛否が分かれていたけど、近作はとくにアクが強い。
それはライブにおいても同様(かそれ以上)で、ちょっと「前に出すぎ」だったかもしれない。
(ただ、いちばんドラムの音量が大きいのは2ndなのだ。これには別角度からの考察が必要。)

曲も長すぎた。15分以上の曲は、滅多なことでは成功しない。成功例は「例外」と言えるほどだ。
新作は最高でも13分以内に抑えたことが、功を奏した。12分くらいに「壁」があると思っていい。
8thから10thで挑戦した20分以上の曲において、水増しパートを生んでしまっていたきらいはある。
ペトルーシやルーデスの弾きまくりや高速ユニゾンなどに、形骸化した冗長性があったのは否めない。

歌メロや曲のキーを、ラブリエの特性を度外視して作っていたということもあるだろう。
8thがとくにそうで、コンセプトありきの曲作りでラブリエのヴォーカルを活かせなかった。
ヴォーカリストにはそれぞれ自分を活かせる得意なキーがある。それを無視してはいけない。


そして、これがファンをして「近作はどうにもピンとこない」と思わしめた最大の要因だと思うのだけど、
「ポートノイ主導のヘヴィネス」が、彼が期待していたほどにはバンドに合っていなかったのだと思う。


ポートノイは、6th以降の作品で自身のアルコール依存症に材を採った一連の楽曲に力を入れていた。
題材のシリアスな内容を受けて楽曲も必然的にヘヴィにならざるを得ず、毎回存在感を発揮していた。

当初はそれが新機軸のアグレッションとして機能していたが、8th以降はより複雑なヘヴィネスを醸造し出した。
同時に、ポートノイ主導と思しき曲にそのヘヴィネスが波及し出した。それがもっとも顕著なのが、9thだろう。


DTの歌詞世界は大きくふたつに分けられる。
ペトルーシ作の幻想的・寓意的・象徴的な歌詞と、ポートノイ作の現実的・批評的・私小説的な歌詞だ。
これにラブリエ作やマイアング作の歌詞が加わる。それは両者の中間か、乃至はやや現実寄り、である。

ポートノイ脱退をうけて、歌詞や作曲のほとんどを手掛けることになったペトルーシが、
リアリスティックな世界観からくるヘヴィネスを自然体で回避できたのは、当然と言える。

アートワークに端的に表現されているように、幻想的な世界観がふたたび戻ってきた。
人間的な醜悪さやもがき苦しむ過程を捉えていた「不透明感」から、クリアな「透明感」へ。


もしかしたら、DTは律義にも「不透明感」の表現において(も)成功し(かけ)ていたのかもしれない。
しかし、それはファンがバンドに求めているものではなく、またバンドが得意としているものでもなかった。

恐らくただひとり、ポートノイだけがそれを望んでいた。いや、望むようになっていった、と言うべきか。
それを証明するかのように、アルコール依存症シリーズは10thで終わり、燃え尽きた彼は脱退した。

皮肉なことに、『出来事の劇的な転換』を経験したのはバンドではなく、ポートノイだったのだ。


思えば、DTはペトルーシとポートノイの両輪で回っていた。曲作りも、大半は彼らが行っている。
ふたりともとても知的な人物で、やや「天然」の前者と少し毒のある後者でバランスが取れていた。
(「優しく包み込むお父さん」と「口やかましいお母さん」というイメージがわたしにはある。)


新作にも批判できる点は当然あるだろう。しかし、重箱の隅をつつく気にはならない。
「片輪」でこれほどまでにバランスを取り戻したペトルーシに、素直に敬意を表したい。


しかし、どうにも語り足りないところがある。
ペトルーシのギターについて、まったく触れられなかったし、
ポートノイも悪いところばかり書いて、申し訳ない気がする。

いずれ、他の作品を語ることで「両輪」の特質を再度検証したいものだ。


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4 件のコメント:

  1. 私の中でも№1は5th【Metropolis Part2】です!

    だからでしょうか?
    それ以降の作品にワクワクできないんですよね。

    一度、偏見を捨てて聴いてみます。

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  2. >kanaさん

    5thは出来が良すぎましたからね…。本人たちも言ってたけど。

    でも、つづく6thと7thは傑作だと思います。
    「こう来たか!」という驚きと喜びがありました。

    今回書いたように、その後は創造性において失速したように思います。
    ただ、近作も力作ですし、だいたいこのリリース速度はおかしい(笑)

    新作については、あまり具体的に書いてなくて申し訳ないです…。

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  3. 2th、5thが大傑作なのは言うまでもないですが、私は2th~8thすべて大好きです。
    ただ9thになって突然音がそこらのメタルバンドみたいになってしまったように思います。
    続く10thも9thとは路線が変わったもののやっぱり気に入りませんでした。
    新作の11thで少し良くなったなと思います。

    新ドラマーについては全く同意見で、たしかにマンジーニが一番あってる気がしますが、マルコミネマンに入ってほしかったです。

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    1. コメントありがとうございます。
      9thはやはり評判が芳しくありませんね…。

      それにしても、ドラマーがマルコだったらどうなってたんでしょうね~。

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