2011-12-10

Rouse Garden, where innocence turns to black stone or white cloud

 

12日(月)に年内最後のライブを控えたRouse Gardenについて、あらためて書いておきたい。

あらためて、というのは、以前にも紹介ブログを書いているからだ。


簡単に要約すると、Rouse Garden(以下ラウズ)は女性ヴォーカルを擁する、
オルタナ以降のロックの影響下にある音楽性のロックバンドでありながら、
どこか他とは異なる個性を感じさせる興味深い「深み」を持ったバンドだ。

ポジティヴな「白」とネガティヴな「黒」を両輪とする世界観を歌う、
ヴォーカルのはるかが体現する「無垢で、美しく、儚ない」繊細さ、
ラウズはそれを核としたバンドで、微力ながら応援している次第である。


彼らを知ってはやくも2年近くなるのだが、その間、メンバー交代や新作の発表など、
動きがあるにはあったものの、その活動規模は残念ながら横ばい状態がつづいている。

もっとも大きな誌面紹介となったのが、Heavy Metal専門誌であるBURRN!というのも、
B!誌の影響力の大きさを考慮に入れてもなお、その音楽的な位相の違いに戸惑いはする。

ただ、前田氏による紹介はB!誌の方向性とは関係なしにラウズの本質を捉えたもので、
メンバーの方々も「言ってほしいことが書いてあった」とうれしそうに言っていたほど。
その内容は正鵠を射ており、実際、この記事が掲載されたあとに注文が相次いだという。


ラウズの音楽的な質と傾向からして他の音楽誌が注目して然るべきだと思うが、
いまのところは前田氏による紹介が、ほとんど唯一のものであるようだ。


以下にその紹介文を引用してみよう。まずは、2010年の4月号(P.107)である。

なお、半角括弧内の文はわたしによる捕捉で、もちろん原文にはない。
バンド名や""の使用法など、表記も多少変えた。原文の括弧も省いた。


HEAD PHONES PRESIDENTのライブ後にある人物からRouse Gardenを紹介され、
そのアルバムをもらった経緯について触れてから、氏はこう書いている。


(その人物は)「HPPが好きなら気に入るかも…」ということでRouse Gardenのアルバムをくれたわけだが、こちらは全然メタルではないし、明らかにJ-POPとかJ-ROCKと呼ばれるジャンルの中で語られるタイプのバンドだ。(これは「メタルでないからダメだ」という認識を指しているのではなく、少数ながらそうゆう反応を示しがちな読者に対してのエクスキューズとして書かれたものと思って間違いない。)基本的にはポップでコマーシャルだし、ハードなところもあるもののラフにギターのコードを掻き鳴らすことによって生まれるグランジーなハードさだったりするし…。だがしかし、確かに曲によっては痛みや哀しみや苦悩をインセインなやり方で表現しており、そういった点においてはHPPと共通する部分はある。美しくも暗く哀しいメロディには惹かれるものがある。個人的には『追憶の庭』の中では"消えない罪""鎖"、『不器用な愛』の中では"赤い靴""COUNTDOWN"がツボだった。


このように好意的な紹介となってはいるが「未完成で荒削りなところも多い」としている。
そして、「今後、もっと面白いものを聴かせてくれそうな予感がする」と結んだ通りに、
この時点では《まあまあ》だったと思しき評価が、1年後の2011年4月号では激賞に至った。
「お世辞抜きで想像を遥かに超える素晴らしさだった」というその紹介文を、引用しよう。


Rouse Gardenのショウを、去る2月12日にようやく観ることが出来た。イベント形式のショウでフルセットではなかったが、お世辞抜きで想像を遥かに超える素晴らしさだった。彼らがやっている音楽はメタルでは全くなく、大雑把に形容してしまえばポップ・ロックだと思うのだが、そこから伝わってくる痛み、哀しみ、苦悩、狂気といったものは僕の心を強く惹き付け、音楽性は異なるもののHEAD PHONES PRESIDENTに通じるものがあると感じた。はるかの声は甘くイノセントで伸びやかなのだが、しかし、そこには陰影があり、ライヴにおいてはそれが強調されていた。言葉がメロディに乗って、心にグサリグサリと突き刺さる。傷口に塩を擦り込まれているような気分になることもあった。ステージ上の彼女がまとっている、天界からこの汚れた人間界に誤って落ちてしまった天使を思わせるような儚げな、それでいて力強い空気もその音楽性を見事に体現していた。(中略)個人的には、そのポップなサウンドの「裏側にあるもの」に強く惹かれる。実はHPPのAnzaもこのショウで生のRouse Gardenを初体験したのだが、終演後に「根っこの部分は私達と同じだね」と言っていた。

また、この2月12日にリリースされた『そこにあるひかり』の紹介もしている。

ステージ上でのMCではるかは「今度のミニ・アルバムは自分の白の部分、ポジティヴな部分を表現したもの」というようなことを言っており、確かに朝の光が部屋に差し込んできた時のような眩しさと清々しさを感じることもあるのだが、それと同時に人が決して消すことの出来ない哀しい記憶を呼び起こすようなところもあり、個人的にはそこのところがまたも完璧にツボだった。

そして、ラウズを教えてくれた人物に向けて、
「こんなに素晴らしいバンドとの出会いの橋渡しをしてくれた友人のK君に感謝したい」と結んでいる。


わたしはB!誌を1995年12月号から今日に至るまで毎月購読しているのだけど、
「おすすめ」コーナーが始まって以来、氏がここまで激賞したバンドは少なく、
異例の事態であることに驚きと喜びを同時に覚え、かつ深い共感を抱いたのだった。
それだけの評価を得て然るべきバンドであり、いい音楽はジャンルを超えるのだから。


しかし、上述した通り、情報過多の時代にあってラウズはいまだに埋もれたままだ。
残念と言うほかないが、前田氏をしてそこまで言わしめたバンドのライブについて、
わたしなりに何がしかのことをまた書いてみたいと常々思っていたので、以下に書く。


それでラウズに興味を持ってくれたり、ライブに足を運んでくれたりしたら幸甚であるが、
元より読者の少ない、平均15アクセスもないこの零細ブログの役割は、
前田氏の紹介文の引用を済ませた時点で、もう終わっている。

よって、以下の雑文はオマケだから読まなくていい。書きたいから書いたまでのこと。


ちなみに、12日のライブはメンバーもいつにも増して気合いを入れているらしい。
ひとりでも多くの方に観てもらいたいものだ。予約はこちら。会場はここである。



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今年は毎月、ラウズのライブを観ている。セットリストとメモをあげてみよう。


0113(thu) at Zher The Zoo
1.呼吸/2.真夜中/3.新世界/4.スロウスリープ/5.この瞬間/6.かなしみの国
Encore -> 7.僕の神さま

既発表曲がセットリストに一曲もなかった。2、5は翌月発表の新作に収録されず。
とてもいい雰囲気のライブで、翌月に発表を控えていた新作への期待が高まった。

0212(sat) at Zher The Zoo
1.新世界/2.スロウスリープ/3.Honey/4.呼吸/5.僕の神さま/6.COUNTDOWN/7.かなしみの国
Encore -> 8.ゆりかご

レコ発ライブ。樹海との共同イベント。詳細は過去のブログ参照のこと。

0302(wed) at Club Phase
1.この瞬間/2.新世界/3.呼吸/4.スロウスリープ/5.僕の神さま/6.かなしみの国

新作から漏れた曲で始めるあたりがラウズらしいと言うか何と言うか。

0314(mon) at Zher The Zoo
1.呼吸/2.かなしみの国/3.daisy/4.ゆりかご/5.真夜中

アコースティック・セットで演奏された。詳細は過去のブログ参照のこと。

0401(fri) at Deseo
1.僕の神さま/2.スロウスリープ/3.呼吸/4.新世界/5.COUNTDOWN/6.かなしみの国

0509(mon) at Zher The Zoo
1.スロウスリープ/2.僕の神さま/3.金盞花/4.呼吸/5.新世界/6.かなしみの国

ただならぬ壊れ方を晒した「黒はるか」の日。

0515(sun) at Orebako
1.新世界/2.スロウスリープ/3.ゆりかご/4.僕の神さま/5.COUNTDOWN/6.真夜中

「黒」ライブからわずか6日ということで心配していたが、穏やかさを取り戻していた。
ただ、終盤、とくに最後の"真夜中"にあってはふたたび「黒」がチラついたのだったが。

0608(wed) at Club Phase
1.呼吸/2.新世界/3.スロウスリープ/4.ミスターロンリー/5.僕の神さま/6.かなしみの国
Encore -> 7.真夜中

4はこの日が初演の新曲。表記法は不明。ポップで明るい「白ラウズ」である。
書くべきことではないかもしれないが、この日はお客の入りが寂しかった。
もっと、届くべきひとにラウズのことが知ってもらえたら…と思った。

0719(tue) at Zher The Zoo
1.新世界/2.スロウスリープ/3.届かない手/4.僕の神さま/5.スケープゴート/6.呼吸/7.かなしみの国

5はこの日が初演の新曲。表記法は不明。黒より白、という明るくなりきれない曲。
この日、同行した方に感想を訊ねたところ、「幼い」との答えだけが返って来た。
それが、音楽/演奏/パフォーマンス/MCのどれを指してのことなのか判然としない。
おそらく、はるかのMCから受け取った人間像ないし世界観を指してのことと思われる。
詳しくは後述しよう。

0814(sun) at O-Crest
1.新世界/2.呼吸/3.スケープゴート/4.COUNTDOWN/5.真夜中

会場内で出演者の一部が屋台的な出店をやっている、という珍妙なイベント出演だった。
めずらしく演奏に粗があった。が、久々に観たあるひとは「よくなった」と評していた。

0925(sun) at Zher The Zoo
1.新世界/2.僕の神さま/3.金盞花/4.届かない手/5.この世界の果て/6.COUNTDOWN/7.真夜中

この日のライブから、永高義従のギターがより存在感を増したように思う。
具体的にどこがどう変わったかは言い難いが、よくなったのは間違いない。

1020(thu) at Zher The Zoo
1.スロウスリープ/2.僕の神さま/3.ゆりかご/4.この世界の果て/5.COUNTDOWN/6.真夜中

1122(tue) at Shuffle
1.新世界/2.スロウスリープ/3.Honey/4.金盞花/5.届かない手/6.赤い靴/7.呼吸/8.真夜中

"赤い靴"は本当に久しぶりで、わたしが観たのは2010年4月20日が最初にして最後。
この曲はPVになってはいるけど、ラウズの楽曲群からすると異質な曲かもしれない。



さて、「幼さ」について、どこから書いていこうか。


わたしは2月のブログで「倫理的な葛藤は《こども》において最適な表象を得る」と書いた。
その一端について簡単に触れることで、「幼さ」という言葉がなぜ選ばれたか考えてみよう。


そう口にした方は言葉を濁すだけで「幼い、という言葉しか思いつかない」と言い、
わたしはそれを受けて「たしかに、MCには《無防備》なところがある」と言った。

この日、新曲"スケープゴート"を前にしたMCで「好きなひとを犠牲にしている」云々、
といった内容を話していた覚えがあるのだけど、おそらく「幼さ」はこれに起因する。

様々な経験を掻い潜ってきたひとにとって、それは「甘さ」として映り得るだろうし、
そうしたことを言い得る恵まれた人生を歩んできた「豊かさ」への認識不足や、
そこに共感を(意識的無意識的とを問わず)求めること、それらへの反発や違和感が、
「幼い」という言葉に結実したように感じたのだったが、実際は定かではない。


ただ、これだけは言える。はるかのMCは毎回、基本的に「倫理的な」ものだと。

超簡略化して定義しておくが、社会規範に根差す判断基準を道徳的、
より個人的な決断に関わってくるそれを倫理的、とした上での「倫理的」だ。
(この道徳/倫理を英訳すると話は一気に難解になるので、割愛する。)

「殺すことは許されない」と教え諭すものが社会的な道徳であり、
「殺したいほど許し難い」と憤らせるものが個人的な倫理である。

これは極端な例だが、社会的存在である人間の葛藤の根元はここら辺にある。

こうした個人的な葛藤は近代以降の社会において自我を形成したすべての成員に当て嵌まる。
この点に関しては西欧と日本における自我の在り方の歴史を踏まえたうえで語るべきだが、
さすがにそこまで語る気はないから、要点だけ押さえておくとする。


われわれは、幼少のころからあらゆる道筋を辿って「正しさ」を教えられ、
それに共感し(させられ)、自らの内に道徳と倫理を築きあげ、それをこころの核とする。

しかし、年を取るにつれ、その綻びや抜け道に気づき、それに慣れる。
すると、まだしも「正しさ」を口にする者が「幼く」感じられるようになる。

近年吹き荒れる「中二病」なる《罵倒/称賛》はまさにこれである。
ゆえに、「《こども》において最適な表象を得る」と書いたのだし、
あらゆる少年マンガが「倫理的」なのは、こうした理由に拠る。
(一方の少女マンガが「難解」なのは、近代から逸脱があるからだ)


はるかは、MCにおいて自然体でこうした「正しさ」について語ることが多い。
ただ、オフの彼女はステージ上ほどには浮世離れしてない「ふつうの常識人」であり、
(ときとしてかなりすっぽ抜けたところを見せるけど、それもまた愛嬌のうちである)
そうした「正しさ」に感じるところは多くとも、普段はそう「幼い」わけではないはずだ。


ラウズが、というよりはるかが「黒/白」の両極にぶれてしまうのは、
倫理的な問い/実生活/音楽活動などのバランスに狂いが生じるため、ではなかろうか。

5月9日のライブは本当に異様なもので、彼女の表情も非常に危ういものを感じさせた。

一方で、安定しているときは実に表情豊かなものをこちらに届けてくれる。

たとえば、9月25日のライブでは、はるかは珍しく髪をアップに束ねての登場となったが、
元よりヴィクトリア朝期のラファエル前派や、アール・ヌーボー、アール・デコ的な、
植物相に強い親近感を抱く芸術運動下の作品群に近いものを彼女に感じていたため、
ゆったりとバレエの動きをしつつ歌うその姿にあらためて見惚れたものだった。


無垢が冷たい黒い石にも柔らかな白い雲にもなるところ、それがラウズの庭園なのである。


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書いておきたいことはいくらでもあるのだけど、今回はここまでにしておこう。
ちぐはぐな構成となってしまったが、前田氏の引用が目的だったので、これでよしとする。


ところで、Rouse Gardenとは「目覚めさせる庭園」程度の意味である。

覚醒の庭園、とはまたヴィクトリア朝的なモチーフと言えなくもないが、
庭園、植物相を隠喩の舞台とした散文は、いずれまたお届けすることにする。

意外にも、初めて観たラウズについて書いた自分のライブレポに、
いまでも汲み取るべき印象が書かれてあることに我ながら驚いた。

最後に、その自分のブログから引用して、終わりにしよう。


不意にあらわれる笑顔にはハッとさせられるものがあった。こみ上げてくる喜びに従順な純粋さと、その笑顔自体に窺える脆さ、繊細さが、とても無防備なものに感じられたからだろうか。ヴォーカリストとしての(意識的な)パフォーマンス、というより、(MCもそうなのだけど)思いを伝える手段としての言葉‐歌詞‐歌に(なかば無意識的に)自らを明け渡している、といった印象。たぶん、安定する/していること(強引に「世間力」とでも呼ぼうか?)への本能的な違和感があるのだろう。そこから、弱い/小さい/儚いものへの包容力のある優しさや、逆に、弱い/小さい/儚いがゆえの痛み/悲しみと、そこから抜け出すことへの憧れ、といった世界観を表現する音楽に行き着いたのでは、と思った。

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2 件のコメント:

  1. 『鎖』が好きです。詩の世界観に妙に共感できます。
    もうちょっと活動環境が整ってくれれば・・・と願うばかりです。

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  2. >kanaさん

    ラウズはなかなか遠征できないので、
    ライブを観てもらうのはちょっと難しそうですね。

    わたしも"鎖"好きです。
    でも、ライブで観たことはないので、是非観たいところです。

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