2011-02-11

HEAD PHONES PRESIDENT at Shibuya Club Quattro on 4th Feb (Pt.1)

.

やっと、HEAD PHONES PRESIDENT(以下HPP)のライヴレポをお届けできる。


昨年11月にMarさん(g)の脱退によって四人組として活動をつづけることを選択したHPPが、
翌12月のrowtheとのツーマン・ライヴまでの短い間に急ピッチで新体制でのライヴを仕上げ、
素晴らしいパフォーマンスを披露してくれたことはすでにブログでご紹介した。

その後、年が明けてからHPPは金沢(8日)、大阪(23日)、名古屋(29日)とワンマン・ツアーを開始、
わたしも後を追って全公演を観てきたこともまた、ブログでご紹介した。

肝心のライヴの内容についてほとんど触れずにいたのは、
ひとえにまだ観ていない方の驚きと楽しみを奪うことが躊躇われたからであり、
また、その充実したライヴを体験しさえすれば、たとえ四人編成となったことへ懐疑的な方であっても、
間違いなくHPPの選択に得心し、今後の活躍にいっそうの期待を募らせるであろうと確信していたからだ。

ゆえに、ワンマン・ツアー千秋楽となる渋谷クアトロ公演の終了までは、
その詳細については触れまいとあえて避けていた。それだけ変更点も多く、語るべき点は多かった。


しかし、と呟かずにいられないのは、クアトロ公演は撮影され、晩春にはDVDリリースが予告されていることだ。
近いうちに、ほぼ完全なかたちで映像が視聴可能になる公演について、果たしてレポートが必要であろうか?
記憶の齟齬と改変と捏造を無残に晒すだけになりはしないだろうか?と思わずにいられなかった。

むろん、リリースまではドキュメントとしての価値は暫定的に保証されるのだし、
これは義務でも商売でもないのだから、そんなことを気にするほうがどうかしているのではあるが、
これまでのような、再現的なライヴレポをあげることに違和感があった。


そこで、今回はクアトロ公演のライヴレポとしてお届けする一方で、
金沢・大阪・名古屋で観たライヴの記憶もオーヴァーラップさせつつ、
HPPというバンドの特異性やライヴ・パフォーマンスについての考察も付加することにした。

そのため、かなりの長文となることをお断りしておく。時間があるときに、じっくり読んでいただきたい。


それでは、HPPがいかなるバンドであり、かつまた新生したのか、
クアトロ公演を軸に語っていくことにしよう。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *






開演時間から15分ほど経ったころだろうか、水戸公演から使われている「鐘」のSEが聞こえてきた。
場内はまだ客電が点灯していたので、戸惑った。すぐに消えると思ったのに、なかなか暗転しない。

いつもならメンバーが登場して楽器を鳴らしだし、Anzaさんがヴォーカルを重ねだしてライヴは始まっていた。
そのタイミングがのびたことに違和感があり、戸惑ったのだった。そしてようやくの暗転。

ステージ中央のピンスポットにBatchさんが歩み出て拳法家のような一礼をし、
つづいてHiroさんも一礼。下手のNarumiさんだけはライトを浴びずに、いつも通りに定位置についた。

この間、「鐘」のSEは各楽器やヴォーカルを載せたものに変わっていった。
どうやらすでに録音していたようだ。それでいつもとタイミングが違っていたのだと納得する。
(ゆえに、前回ブログにあげたセットリストでは1曲目の表記を"intro"と"SE"に変えている)

そして、黒キャミに白いニットの長袖(丈は胸下まで)、白スカートを身に着けたAnzaさんが登場、
しずしずと中央までゆっくりと歩いてきてから一礼をすると、歓声をあげていたオーディエンスは静まった。




ライヴのオープニングで毎回味わうあの緊張感を、どう伝えたらいいのか。
過去に書いたものでは、7月の水戸9月のClub Asiaが比較的よく書けている方なのだが、
あの独特な雰囲気の中核をなしているのは、言うまでもなくAnzaという存在そのものだ。

彼女が登場すると、われわれは異質な存在の出現に否応もなく気づかされ、息をのむ。
むろん、その「異質さ」の幾許かは彼女の美しさに起因してはいるのだが、
オーディエンスは、その容姿の表面上の美しさにだけ反応しているのではなく、
もっと微妙で曖昧で繊細なものを読み取り、ほぼ条件反射的に「固まる」のだ。

その存在が全身でもって開示しているのは「精神状態が常人と違う人間」を感じさせる「危うさ・脆さ」であり、
意識的な主体であるようには見えない、無意識的な本能に身を委ねた者のみが示し得る「強度」である。
(一方で、ステージとフロアの状況を見定める冷静さを技術的に習得してもいる「プロ」でもあるのだが。)

われわれが思わずたじろいでしまうのは、理性から離れることのできない人間の常として当然ではある。
「何かが決定的に違う人間」を前にしてどのように振る舞ったらいいのか、われわれはまだよくわかっていない。
そのような当惑の源泉がAnzaのように「美」を体現する存在であるとき、理知の空白は「視線」に占拠される。

あとはただ、視線が吸い寄せられるままに刻一刻と変化するステージに見入るだけであり、
会場がHPPの世界観に染め上げられる短い時間が、その短さゆえに凝縮された緊張としてわれわれを包む。

緊張状態のなか、同時に、その身がやわらかなものに包まれているようにも感じるのは、
わたしが異質な存在のなかに「救い」に似たものを(意識的無意識的を問わず)見出しているからだろうか。


なお、急いでつけ加えておくが、
わたしはなにも、ステージに美しい女性が立てばそうなると言いたいのではないし、そうは言っていない。

また、やや話が逸れるが、Anzaのイメージには常に「ダブル(分身)」がある、という点を指摘しておこう。
これは、HPPのPVを見たことがあるひとなら、容易に理解できるだろう。
必ず「黒Anzaと白Anza」か「大人と少女」が登場するのだ。
それが彼女の異質性を重層化し、さらにはその経歴をも巻き込んで、事象をより複雑なものとしている。

また、脆い内面を感じさせる表情に、彼女の俳優としてのスキルを読み込む向きもあるかもしれないが、
あれは「演技」ではないし、そう断言するだけの理由もある。それは後ほど語られよう。


水戸公演から数えて5回目となる、Hiroさんが奏でる"Hang Veil"のイントロは、
初演のとき感じた硬質なものから、Marさんが奏でていたときと同様の柔らかさを幾分か増したように思った。

ドラムが入りリフが響き渡り、いつものように激しく動きだすNarumiさん。
(左側即頭部だけ刈り上げられていたのが印象的だった)
フロアからも大きな歓声と多くのメロイック・サインが掲げられ、
「幕は切って落とされた」とでもいうような、半ば関係者じみた緊張さえ感じもしたのだった。


つづく"Reality"は、金沢公演で観たのが久々だった。(その時だけは音が悪かったが、後に改善された)
東京では、まだ2009年のワンマン(O-West公演)でしかプレイされたことはない。これでやっと2回目だ。

HPPにとって「例外的な曲」と言っていいかもしれないほどメタル寄りの曲だ。
(それでも、激烈なリフにのびやかなヴォーカルがのるという珍しいスタイルだが)
個人的に思い入れのある曲なので、ワンマン・ツアーで毎回観れたのがとてもうれしかった。

Hiroさんによるリフの刻みっぷりが実に痛快で、Narumiさんも前列の柵に乗り出して激しくフロアを煽る。
また、中間部でステップを踏みつつクルクル廻るAnzaさんの姿が強く印象に残っている。
(クアトロ公演ではやらなかったかもしれない。ツアーの間に沁み込んだ印象の総計と思ってほしい)

オリジナルは高速ギター・ハーモニーが「目玉」なのだけど、もうそれはできない。
かわりに、Narumiさんの蛮声とAnzaさんの透明なスキャットがギターをフォローする。

息のピッタリあったエンディングに歓声が上がると、Hiroさんが新曲のリフを刻みだし、
すでにツアーで聴いたことのある一部の聴衆は曲に合わせてヘッドバンギングに興じる。


ポップな、というと語弊があるかもしれない、とわたしは水戸公演のブログに書いた。
もう少し、丁寧に説明しよう。これは、あなたがHPPを「メタル」と思うか否かにかかっている。

簡潔に言うと、HPPがやっている音楽はメタルではなく(90年代以降の)ヘヴィ・ロックである。

その違いについてはDEFTONESのライヴレポでも述べるつもりなのでここでは簡略化しておくが、
ヘヴィ・ロックが80年代型HM/HRへの「カウンター(抵抗・反発)」として始まった、
という経緯を思い出さねばならない。(それだけでないことは重々承知している。)

メタルは、音楽としてのフォーム(様式)がカッチリとまとまっているため、
リフ、歌メロ、ソロなどパーツごとの精度の高さと、それらを統合する際の構築性に曲の「命」がある。
だから、その「部分と全体」の完成度が高ければ高いほど素晴らしいものとなるのだけど、
一方で、ある程度「規格」に縛られざるを得なくなり、楽曲の自由度や表現の幅が狭まってしまうことがある。


90年代に出てきた、80年代型主流メタル勢から「オルタナ」と呼ばれ蔑まれた一派が活路を見出したのは、
そのような自由度・表現の幅だった。そして同時に、明瞭な歌メロ・リフ・ソロは排することとしたのである。

だから、80年代贔屓は「オルタナはどれも曲がつまらん」と言ってちゃんと聴こうともしないし、
反対に、90年代贔屓は「メタルなんてどれも同じでダセぇ」と言ってやはりちゃんと聴こうとはしない。

どちらにもその文脈に応じたクオリティというものがあって、
聴き手はそれに合わせることで初めてその曲の素晴らしさを最大限に味わうことができる。
わたしはそれを「(認識の)チューニング」と呼んでいる。それは、享受しかできない者として最低限守りたいことだ。(もちろん、美術や映画や小説なども同様であり、むしろそちらの方が例としてわかりやすいと言えるだろう。)


わたしは一度、HPPのライヴ会場で「曲にフックがねえンだよ」と批判しているひとがいるのに気づいたことがある。話しかけられた側は同意してないのか曖昧に受け応えていたが、そのひとが「メタル好き」なのは姿で知れた。彼が求めているのは「ヘヴィ・ロック」独特の感情表現ではなく、「メタル」の「聴き慣れたフォーム」なのだろう。それは、HPPがメタルであるという前提に立ってこそ生じ得る「誤解」であり、聴き手が聴く音楽の「チューニング」を誤ったことを示している。
(言い方が粗雑だったので、それ以前の問題かもしれないが。)

わたしにはそれが残念だった。同様の誤解をしているひとがほかにもたくさんいるのだろうと思って。


新曲でもHiroさんのファストでトリッキーなソロが華々しく炸裂し、
サビで声を張り上げるAnzaさんの絶唱が、曲に曰く言い難い不穏さを懐胎させる。


曲が終わって、やはり不穏な"Desecrate"のリフがゆっくりと刻まれ、
HPP随一の獰猛さを誇るパートへ突入、AnzaさんとNarumiさんはもの凄い勢いでヘッドバンギングをし、
フロアも負けじと盛り上がる。前方の下手側では、モッシュではないが激しい動きが感じ取れた。
(わたしは前方の中央やや上手側にいたので、よくは見ていない。ステージに集中しているので)

Hiroさんのソロを挟んで(ツアーの間にどんどん長くなって、名古屋ではAnzaさんが一瞬動きを止めたほど)
"Labyrinth"のリフが刻まれ、三文ライターなら「場内はさらにヒートアップ」と書きたくなるだろう状況に。


しかし、先程の"Desecrate"もそうであるように、HPPのなかで最も「メタル寄り」なこの2曲でさえも、
ひたすら攻撃に終始する曲とはなっていない点が、彼らの音楽がメタルではなくヘヴィ・ロックであることを、
逆説的かつ端的に示している。メタルのようでいて、やはりHPP独特の「ヘヴィ・ロック」なのである。


曲終盤の爆走パートをこれまた気合いの入ったヘッドバンギングで切り抜けると、
それまでの騒ぎが嘘のように静まり、ステージ上では音楽が新たなフェイズに移行していた。

Narumiさんがベースで哀切なフレーズを奏で出し、
Batchさんの細やかなシンバル・ワークやパーカッシヴなドラミングにつづいて、
Hiroさんの叙情的なソロとAnzaさんの悲しげなヴォーカルが音楽をより大きな「なにか」に高める。

重ねられた音が徐々にほどかれて、ふたたびベースに戻ってくる。
一瞬の静寂のあとに、"Light to Die"のコードが奏でられだした。
それも、Hiroさんのギターではなく、Narumiさんのベースから。

このアレンジは金沢が初演だ。初めて観たとき、新鮮な驚きと納得の出来栄えに感嘆しきって茫然とした。
驚かずにいられないのは、CDのオリジナルを何百回も聴いているのに、違和感が一切ないことだ。

しかし、そんな驚きもパフォーマンスの見事さと、曲の美しさを前にしてどうでもよくなってしまう。
音数が減った分、HiroさんのギターとBatchさんのドラミングの絶妙さがさらにクリアになった感さえある。


このような曲は、おそらくまだHPPしか書いてはいないだろう。
透明感と天に昇るような感覚を備え、かつ激情が迸る「美しい」ヘヴィ・ロックというものは。

強いて例を挙げるならDEFTONESにそんな曲がありそうだが、ああゆう強烈な肉感的グルーヴよりも、
繊細さ、儚さ、哀しみなどとイコールなメロディやサウンドHPPは拘っているため、似ているようには感じない。
さらに、(あえて言えば)メタル的にカッチリとまとまったパート(とくにギター)をHPPが得意としていることも、
彼らを特異にして唯一無二のヘヴィ・ロック・バンドとしている点であるだろう。類例はほとんど見当たらない。


Hiroさんのファストにしてエモーショナルなソロが毎度のように見事に決まり、
エンディングではNarumiさんが激しくベースの弦を叩きながら暴れまわる。

金沢公演だけはここでスラッピングによる短いベースソロが挟まれたのだが以降は姿を消し、
オリジナルの序盤はカットして、ドラムのカウントから始まる"What's"へ。
毎回そうなのだけど、こどものように楽しげな表情を浮かべてスラッピングをするNarumiさんがたいそう印象的。

これまた音数が減ったせいか、それともこちらが感知しえないレベルでの細かいアレンジの賜物なのか、
Hiroさんの浮遊感あるギターが前面に押し出されるかたちとなったため、よりクリアでタイトな感触を得た。


2002年の時点でこのような曲を発表していたことに改めて瞠目せねばなるまい。
基本線は90年代型ヘヴィ・ロックなのに、ヴァースのギターや中間部の静かなパートなど、
同路線の楽曲群を解体・再構築した手腕には驚きを禁じ得ない。
それでいて複雑にはならず、ロックのストレートさを保っている。


弾けるようなグルーヴにひとしきり会場を沸かせたあと、"Nowhere"のイントロがつま弾かれる。

オリジナルのギター・ハーモニーがあまりに印象的であるため、
ギターが一本になってのこの曲に違和感を覚えたひとがいても仕方ないとは思う。
実際、わたしも水戸で初めて観たときはそう感じた。それはメンバーも同じだったのかもしれない。
金沢、大阪、名古屋とアレンジが何回も変わったのがこの曲だった。
水戸でやっていた新しいリフのセクションを外したのが金沢、
ヴァース~ブリッジの「I'm nowhere, Im nowhere, I'm nowhere」のパートを変えたのが大阪と名古屋で、
このクアトロ公演では、元に戻して金沢公演と同様にほぼオリジナル通りとなった。

だが、何回か観ているうちに「慣れた」と言うよりは「四人版」として聴ける/観れるようになった。
それに、ギターが単音となってもこの曲の威力に揺るぎはない。その哀しみと激しさにこころを奪われる。


ここで短いセッションに。Anzaさんが、スキャットにつづいて
「パ、パ、パ、パパパパパパパパペット」と歌い出す。

曲はもちろん"puppet"だ。Batchさんのドラミングが激しさを増し、頂点に達したところで刹那のブレイク。
オリジナルよりさらに凶暴になったリフが轟音とともに掻き鳴らされ、Anzaさんも人形のような動きを見せる。

ヴァースの部分では毎回違った「パペット」の動きを見せてくれるのが個人的に楽しみである。
足の動きを感じさせずにクルクル廻ったり、同様に奥から前方に寄り目をしながら移動したり、
東南アジアの人形のような手の動き(タイの仏像のような、と言えば少しは伝わるだろうか?)をしたり、
元気よく行進する小学生のような足踏みを見せたり、と様々である。
今回は、足踏みをしつつ左手をナナメ上方にあげたりおろしたり、というもの。

ファニーなようでいて、それでも「異質な存在」としての雰囲気を纏ってもいるため、ユーモラスな感触はない。
いや、むしろひとによっては「恐い」との印象が勝るかもしれない。演技でないならばいったい何なのか、と。

水戸公演以来、ギターソロではAnzaさんがスキャットすることで音の薄さを感じさせないようにしているが、
ヴォーカルがなくても十分なほど音圧はあるように感じている。それだけ、バンドはタイトにまとまっている。


音楽への集中、という点でもHPPは特異な存在だ。入り込みすぎるほど曲に入り込む。
だからその表現は常にダイレクトであり、誤魔化しも「素になる」という事態も起こらない。
HPPのライヴが濃密で、観る側にもある程度の集中を求められるのは、当然ではあるのだ。
彼らの魂を削るかのような本気のパフォーマンスに、どうしようもなく共振させられてしまう。
(そして、ただ享受するだけでは申し訳ない気がしてくる。だからわたしは書き始めたのだ。)


"Cray Life"が一糸乱れぬアンサンブルで始まる。
このギター・ハーモニーもまた、Anzaさんのスキャットで補強が為されていて違和感を軽減している。
バンドの緊密なアンサンブルが、悲痛で劇的な曲を盛りたてる。


完全にHPPの独壇場である、哀しみと怒りを強く感じさせる「美しい」ヘヴィ・ロックだ。
どう表現したらいいのか悩まずにいられないのだが、HPPはその独自性ゆえに「枠」からはみ出してしまう。

独自の美意識に貫かれたヘヴィ・ロックであり、メタル的な部分も多分に持ち合わせており、
ワールド・ミュージック的なアレンジに長けていて、その上、ヴォーカルが女性。
それも、ただの女性ヴォーカルではなく、バンド以前に「経歴」のある女性。
これほど、紐解かねばならない因数のあるバンドも珍しい。語ることはいくらでもある。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



随分と省略したつもりだが、それでも長くなってしまった。
ここまでを前半として、残りは後半にまわすことにしよう。
あした(土曜)は所用が重なっていて手がつけられないので、日曜に後半をお届けする。


.

0 件のコメント:

コメントを投稿